退職と献身に関するFAQ


どうして、合格が決まる前に辞めるって会社に言っちゃったの?
確かに、普通の転職の場合は、密かに転職活動して、転職先が決まってから会社に伝えるのではないかと思います。しかし、わたしの場合は、牧師になるということ、そのために神学校へ通うということは、「合格したら」とか「人間的にもう少し成長してから」とか「必要な学費が貯まったら」などという条件付きの行動ではなく、今このときにそうしなければならない必然的絶対的な決意なのです。
そして、そのような決意を隠してはおけず、それを明らかにせずにはいられなかったのです。
実際的影響として、仕事の計画や引き継ぎに差し支えがあるという判断もありました。現に、このような早い時期に上司に伝えておいたため、適切な後任者が配置されました。


退職日が4月5日という中途半端なのはなぜ?
この時期なら通常は、年度末でも月末でもある3月31日に退職するケースが多いと思います。しかし、私の場合、3月26日サービスインの業務を担当していたため、ぎりぎりまで仕事をしていました。・・・っという理由のほかに、裏の理由もあります。私は1989年4月3日入社なので、4月4日以降の退職なら、勤続10年ということになり、退職金などが(ちょっとだけ)よくなるのでした。ところが、4月6日が入学式なので、退職日は4月5日と自動的に決まったのです。


これからは収入があるの?
東京神学大学は牧師養成を目的とした専門教育を行う大学です。特定の職業につく人材を育成する学校には防衛大学校のように有給の学校もありますが、それとは異なり、通常の大学ですので、学費を払わなければなりません。学生の間は、これまでの蓄えとアルバイトと親のすねをかじってしのぐつもりです。養ってくれる伴侶を見つけるという方法ももちろん捨ててはいません(^^;。


神父になるんでしょ?
よくこう言われますが、「神父」ではありません。「牧師」です。神父はカトリックで、プロテスタントでは「牧師」と言います。


ずっと、「いつかは牧師になろう」っと思っていたの?
いいえ。牧師である両親の苦労などを見てきて、牧師にだけはなるまいと思っていました。しかし、聖書を読んでいるうちに、自分が歩んでいる人生の道が牧師へと向かっていることに気づいたのです。
したがって、よく、「夢を実現するために決心をされてすばらしいですね」とか、「目標に向かって進み出したのですね」と言われますが、それほど大それたことではなく、いつの間にか心境が変わり、人生観がかわり、「俺の人生はこうなっていたのか」と、当然のように感じるようになったのです。


どうして牧師になろうと決意したの?
たとえば、子供の頃に大きな病気をしたことがきっかけで医者になろうと決意する人がいます。牧師にも、自分がイエスさまを受け入れて人生が変えられた喜びを多くの人に伝えたいと願い、牧師を志す人がいます。しかし、私にはそのような立派な決意はありません。ただ、「牧師になって人のために尽くそうと決心した」と言うよりも、「牧師になって神のために尽くそうと覚悟を決めた」と言う方が適当でしょう。「人のため」の仕事だったら、何も宗教でなくてもいくらでもできます。しかし、「神のために」働くことは人生の究極の目的です。そして、私は、直接、神のために働く役目を与えられたのです。神のために働くことは、現実を無視することではなく、結果として世のため人のためになります。


それって神の啓示?
啓示というと大げさかもしれませんが、自らの決心や決意以上に、神さまの導きです。ただ、それが本当に神さまの導きかは、人間には証明できません。証明は不可能だけれども、しかし、そういう確信が与えられます。その確信は、独りよがりや個人的判断のものではありません。神さまの導きだということを決して主観的ではなく確信せざるを得ない体験があり、そして、教会での礼拝を通して、また日々の祈りを通して、常に、問い、省み、願っていくことを繰り返しながら、その確信はより確かなものとされてゆきます。その確信は、自分の内側から出たものではなく、外から、すなわち神から与えられてゆくものです。

神からお告げを受けたというと、オカルトっぽい感じで胡散臭いですね。キリスト教では啓示という言葉の意味をかなり限定しています。啓示は、秘密のお告げがあったり、恍惚状態の中で教えが伝授されたりといったものではありません。啓示は、神が自らご自身が主であることを人間に知らしめることです。それゆえ、この啓示を「神の自己啓示」と言います。まあ、いずれにしても、神からの啓示がない宗教は、人間が考え出したものということになりますから、宗教とは言えないでしょう。


っということは「神の声」を聞いたの?
まあ、耳に聞こえるような声は聞いてませんが、心に響く声、たましいに響く声として聖書の言葉がガーンと迫ってきました。それは、神秘的な体験をしたのではなく、ただ感情的に感動しただけでもありません。一時的ではなく永続的であり、感覚的でありながら理性的でもあり、主観的でありながら客観的なものです。そう、「はじめ人間ギャートルズ」で、山の向こうからの叫び声が巨大な石になって頭にゴツーンとやってくる感じかな(笑)(例になっていないか)。


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