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2000.3.7更新 戻 る | |
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■牧師と神父ってどう違うの? | |
プロテスタントが牧師、カトリックが神父です。覚えてね。 また、司祭という言葉は、カトリックでも、ギリシア正教やロシア正教などでも使われます。司教という言葉もあります。通常、カトリックの司祭や司教のことを一般の信徒が神父と呼ぶようです。 プロテスタントでは、一般的に、既婚者も牧師になれるし、牧師が結婚することもできます。しかし、カトリックでは、既婚者が神父になることはできないし、すでに神父となったものが結婚することは許されません。 | |
■プロテスタントとカトリックって何が違うの? | |
カトリックでは、司祭や神父といった聖職が、ローマ法王を頂点とし、司教、司祭、信徒というピラミッド型階層構造になっています。そのため、聖書と並んでローマ法王の教えなどにも権威をおき、古くからの言い伝えや習慣などを重んじます。例えば、マリヤ崇拝やいろいろな聖人崇拝などがプロテスタントにはないカトリックの特徴です。洗礼を受けたときにクリスチャンネームをつけるのも、プロテスタントではあまり見られない習慣です。修道院があるのもカトリックだけです。 一方、プロテスタントは「聖書のみ」に従います。そのため、ローマ法王のような権威は認めず、階層構造を持つ組織もありません。このことが一因となって、プロテスタント内にさまざまな宗派(教派)を生み出しています。プロテスタントには、教理のどの面を強調するかとか、どういう方法で洗礼をするかなどで、多くの教派が存在します。でも、互いに認めあっています。 もっと簡単には、十字架を見たときに、イエス・キリストがはりつけにされているのがカトリック、ただの十字架がプロテスタントです。それから、「アーメン」と言うときに十字を切るのがカトリックです。また、カトリックでは「ミサ」ですが、プロテスタントでは「礼拝」です。 | |
■旧約聖書がカトリックで、新約聖書がプロテスタントでしょ? | |
いいえ。カトリックでもプロテスタントでも、旧約聖書と新約聖書あわせてひとつの聖書です。ただし、カトリックでは旧約聖書続編というのも聖書に含める場合がありますが、プロテスタントでは旧約聖書続編は聖書と認めていません。
旧約聖書にはイエス・キリストの誕生前のことが書かれ、新約聖書にはイエス・キリストの誕生後のことが書かれています。旧約聖書と新約聖書をあわせた全体として、聖書はイエス・キリストが救い主であることを私たちに語りかけています。 | |
■ミサと礼拝ってどう違うの? | |
カトリックがミサでプロテスタントが礼拝です。どちらも、その内容は、祈りや讃美歌、聖書朗読、説教などです。しかし、カトリックのミサではその順序がしっかり決められているのに対し、プロテスタントでは教会ごとに様々で、雰囲気も厳粛なところからにぎやかなところまでいろいろあります。カトリックでは、神父(司祭)が煙が出る玉を振り歩いたり、仰々しくパンをちぎったりと、プロテスタントよりも儀式的に感じることが多いかもしれません。一方プロテスタントでは、聖書の御言葉を聞くことが大切にされるので、説教に重きがおかれています。 | |
■クリスチャンになったらお酒とか飲んじゃいけないの? | |
「お酒を飲んだらクリスチャンではなくなる」とか、「クリスチャンになるためには酒を断たなければならない」などという規律はありません。救いは人間の行為によるのではありません。また、救いに至るのに、人間の生活態度や信念が条件となるのでもありません。 じゃあ全く自由に酒を飲んでいいかというと、そういうわけでもありません。酒の常習や深酒や酒乱は常識的にも好ましくないのですから、クリスチャンとしてふさわしくないのも当然でしょう。常識的な社会生活を乱すようなことは信仰生活の妨げにもなります。 しかし、常識である以上に、クリスチャンは、自発的に自主的に、酒の常習や酒酔いを避けるように心がけるべきです。それは、酒への欲求や依存によって、神に従う生活が壊されるからです。酒への欲求や依存は、神を求めずお酒を求めていることになります。 神を賛美し祈ることにあふれた生活をしていれば、自然と飲酒を必要とすることがなくなるでしょう。常に神を賛美し祈ることはなかなかできませんが、そのことをも神さまに願い信じて、自制していくのがクリスチャンの生活です。 そして、飲酒を避ける自制や心がけも、神さまが与え、支えてくださいます。だから、禁酒を心がけているからと言って酒を断てない人よりも優れているとはいえず、そのことで高ぶってはならないのです。クリスチャンに対してもクリスチャンでない人に対しても、イエス・キリストが悪い習慣を断ってくださり、問題を解決してくださるというのが聖書のメッセージです。 | |
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