中国古典にみる作業標準化 孫子編

2000年 7月1日Sat.作成

孫子はもっとも有名な兵書である。
孫子の作者は春秋時代の呉王のコウロに仕えた孫武とも戦国時代の斉の将軍孫賓だともいわれている。
その書13篇の特色は以下のようなものがある。

・戦争の上策としては敵国と交戦せずに降伏させるのが最善であるなど兵書にしては非好戦的な内容であること。(第三 謀攻篇)

・規模の相対比較による柔軟な戦術変更

「用兵のやり方として敵の10倍なら敵を包囲し、5倍なら攻撃し、2倍なら敵を分裂させ、同数であれば上手く戦い、少なければ退却し、力がまったく及ばなければ隠れる」(第三 謀攻篇 三)

・数値分析の重視

兵法は、一に曰く度(ものさしで測る)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称(くらべはかる)、五に曰く勝(勝敗)。(第四 形篇 四)

・間謀の積極的利用など情報収集活動の重視

(第一三 用間篇)

旧日本軍の上層部も孫子を読んでいたかどうかは知らないが、無謀な太平洋戦争突入の一要因としてアメリカの工業力、軍事力の比較についてよく考えなかったのであろう。
数量によって現状を客観的に分析する。情報を重視し収集するなどといったことは現代の企業活動における商品開発や事業計画の策定に通じるところがある。


以下は孫子伝(「史記」巻六十五)「孫氏 金谷治 訳注 岩波文庫」の引用である。

孫子、その名を武という者は、斉の人である。兵法によって呉の国の王たるコウロにお目見えした。
コウロ「そちの書いた十三篇は、わしもすっかり読んだが、ちょっとためしに軍隊を指揮して見せてくれるかな。」
答えて「よろしゅうございます。」というと、
コウロ「女どもでためせるかな。」
「よろしゅうございます。」
そこで、特に許可を与えて宮中の美女を呼び出し、百八十人が集まった。孫子はそれを左右二隊に分けると、王の愛姫二人をそれぞれの隊長とならせ、一同に矛を待たせると、さて命令を下した。
「お前たち、自分の胸と左右の手と背中を知っておろう。」
婦人たちが「知っております。」というと、
孫子「前の合図をしたときは胸を見よ。左の合図をしたときは左手を見よ。右の合図をしたときは右手を見よ。後の合図をしたときは背中を見よ。」
婦人たち「かしこまりました。」
太鼓の合図の取り決めがいいわたされると、そこで兵士を統率するしるしとして王から賜った鉞斧をならべ、再三訓令して何度も申し伝えたうえで、はじめて右の合図の太鼓をうったが、婦人たちはどっと笑った。
孫子「取り決めが徹底せず、申し伝えた命令がゆきとどかないのは、将軍たる私の罪だ。」
またくりかえして再三訓令し何度も申し伝えたうえで、左の合図の太鼓をうったが、婦人たちはまたどっと笑った。
孫子「取り決めが徹底せず、申し伝えた命令がゆきとどかないのは、将軍の罪だが、すっかり徹底しているのにきまりのとおりにしないのは、監督の役人の罪だ。」
そこで左の隊長と右の隊長とを斬り殺そうとした。呉王は高台の上から観ていたが、自分の愛姫が殺されそうになったのでびっくり仰天、あわてて使いの者をやって伝えさせた。
「将軍が立派に軍隊を指揮できることは、わしにはもうよく分かった。わしはこの二人の女がいなければ、ものを食べてもうまくない。どうか殺さないでほしい。」
孫子「わたくし今や御命令をうけて将軍となっております。将軍が軍中にあるときは、君主の御命令とておききできないことがあるものです。」
ついに二人の隊長を斬り殺して見せしめにすると、その次の者を隊長とならせた。こうしてまた太鼓をうつと、こんどは婦人たちも左右前後から膝まつき立ち上りまで、みな定めどおりに整然として声をたてるものもなかった。
そこで、孫子は使いをやって王に報告させた。
「軍はすっかり整備されました。王さま、ためしに下りてきて御覧下さい。王さまのお望みどおりに動かせます。水火の中に行かせることでも、できましょう。」
呉王は愛姫を殺されたので心がはれず、「将軍は休息をとって宿舎に帰られたい。わしは下りていって観る気はしない。」
孫子「王さまはただ兵法のことばづらを好まれるだけで、兵法の実際の運用はおできにならないのですね」
こうして、コウロは孫子が軍隊の指揮にすぐれていることを知ったので、ついに彼を将軍とならせた。呉の西の方では強い楚の国を撃破してその都のエイに攻めこみ、北の方では斉や晋の国に勢威を示して、諸侯のあいだで有名になったのも、孫子の働きによるところが大であった。

この逸話は実際にあった史実に基づいているのかどうか不明であるが、この時代にはすでに行軍に際して決められた太鼓の音で前進、停止など定められていたようである。これは仕事のやり方が定められていた。標準化されていたことを意味しており、小生が調べた文献の中では作業の標準化に関する具体的な記述としては最古のものである。
また、たとえ王の懇願であっても場合によっては拒否するなど将軍という職務権限と責任についての具体的な記述がすでにみられ驚かされる。
呉王の愛姫たちは、軍隊ごっこか、お遊びのつもりで参加していたのだろう。彼女たちは太鼓による合図に従わなかったため隊長二人が斬られるという悲劇に巻き込まれてしまう。

孫子のとった行動を要約すると以下のようになる。
・百八十一人を二隊に分ける。すなわち規格化された100人単位で一つの隊に分ける。
・統率を図るため隊には一人のリーダーを定める。
・やり方を標準化する。
標準化された作業の教育訓練を徹底させる。
・それぞれの職務権限、責任を明確にする。
・賞罰を徹底させる。

書物としての孫子には難解で抽象的な内容も含まれている。しかし、理論の上だけでなく実際に兵法の運用も行っていた孫子の行動は実に具体的であって、実用的である。
こういったことが中国春秋時代にすでに確立し、現代でも十分通用するのである。やり方、手法というものは数え切れないほどたくさんあっても実際に実用的でよいやり方というのはシンプルで時代を超えて共通性を持つということではないだろうか。


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