「東神大パンフレット」

東京神学大学出版委員会発行の「東神大パンフレット」のシリーズの一覧。

既にほとんどが重刷されているが、その多くで、ただ重刷されただけと思われるものも「版」として記されており、また、第一版の発行年も記されていない。たとえば、第3刷と思われるものが第3版と書かれており、しかも第1版の年が書かれていない。そこで、このリストは図書館で初版を確認して作成した。

番号spacerタ イ ト ル著   者初版年

1イエスとキリスト竹森満佐一、平野保1971

竹森の史的イエスとケリュグマのキリストの問題を扱った「イエスとキリスト」と、平野の「イエスは政治的メシヤ(キリスト)であったか?」。

2教会とは何か加藤常昭1971

「われは教会を信ず」「教会の外に救いはない」「教会は神の言葉を語る」「教会は伝統によって生きる」「聖なる教会」の5章。『教義学講座 第一巻 教義学要綱』(日本基督教団出版局、1970)の中の「教会論」を併読せよとのこと。

3信仰と社会科学佐藤敏夫1972

「信仰と社会科学」、「科学とイデオロギー」の2論。

4礼拝――その意味と守り方竹森満佐一1972

吉祥寺教会で実践された礼拝の守り方とその根拠となる礼拝の基本的な意味について。必読。ベルリンの教会で礼拝前にうずくまるようにして祈っていたのがゴルヴィッツァーだったという逸話から始まる。

5信仰は幻想か――救の確さについて赤木善光1972

著者によるとこの本は、「信者から難解だという批判があり、自分でも不満を覚えるようになったので、絶版にした」(『神学』59号、1997、9頁)。

6伝道的教義学入門熊沢義宣1973

『信徒の友』1972.4-1973.3連載。タイトルは、「一般信徒が伝道の働きに参加する場合に当面するような諸問題を教義学的に解明する手引き」という意味らしい。

7十字架と復活熊沢義宣1973

教会の修養会で語られた講演録。9章に分けられていて読みやすい。「罪とは何か」、「十字架の意味」、「十字架と復活」など。途中に付論で、統一原理の十字架の理解について簡単に触れられている。「復活物語の意味」は、復活の出来事は第三者として語ることはできないものと捉えていて、とてもよい。「復活をめぐる二、三の問題」の中の、「信仰を持たないで死んだ人のこと」もよい。

8教会論入門――信徒のために桑田秀延1974

『信徒の友』連載の9講。

9正しい信仰――使徒信条によって竹森満佐一1974

『信徒の友』連載をもとにした使徒信条の講解13講。最も簡潔な使徒信条の講解書だと思う。

10主の祈り竹森満佐一1975

『宣教』連載をもとにした主の祈りの講解12講。

11聖化赤木善光1975
12聖霊の信仰熊沢義宣1976
13山上の説教山内眞1976

『宣教』連載をもとにしたもの。第一部が成立過程、文学様式、内容、第二部が注解。

14新約聖書の贖罪論平野保1976

イエス、原始教会、ヘレニズム教会、パウロ、ヨハネの贖罪論。「犠牲説を、現代の神学者の中で強調した代表者の一人は新約学者V.テーラーである。これまで刑罰代償説の伝統の強かった日本のキリスト教界において、平野保氏によってテーラーが取り上げられ、論じられたことは画期的なことであった」(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』、新教出版社、19962、p.200。)。

15キリストの再臨平野保、大木英夫1977

平野の「新約聖書における再臨信仰」と大木の「現代における再臨信仰」。いずれも1976年の東京神学大学神学セミナーにおける発題。平野は、新約聖書における再臨信仰の記述を洗い出し、そこから再臨信仰の起源を探る様々な新約学者の説を紹介する。大木は、十字架のイエスがキリストであるという信仰は再臨信仰なしには虚妄と化するとし、このキリストによって、社会問題さえも究極的に解決されることを指摘する。

16「史的イエス像」考察松永希久夫1978

副題は、「荒井献著『イエスとその時代」(岩波新書)批判の試み」。『形成』に連載された「『史的イエス』像考察」全7講と、『日本の神学』16号(1977)に掲載された「原始キリスト教をどう捉えるか−−荒井献著「イエスとその時代」を手がかりとして」。長く品切れ中。

17愛――コリント人への第一の手紙十三章講解竹森満佐一1978

第一コリント13章の一節ごとの講解。『宣教』連載がもと。「愛は語るだけでは空しい。したがって、愛について語ることはおそろしいことである」(あとがきより)。

18イエスとパウロ、原始キリスト教山谷省吾1978

戦争中に書かれた論文2本。現在東神大パンフのラインナップにないので絶版か? 「イエスとパウロ」は、ヴェレーデの「イエスかパウロか」という二者択一的な問いの問題性を論じる。

19シンポジウム 教会論土屋、高橋、八代、
徳善、榊原、泉
1979

「教会論」をテーマにした「教職セミナー」での講演と質疑応答。カトリック:土屋吉正、正教会:高橋保行、聖公会:八代崇、ルター派:徳善義和、改革派:榊原康夫、無教会:泉治典。なかなかおもしろい。土屋は、第二バチカン以降のカトリックの教会論の傾向を紹介。高橋は、正教会は生活の中での体験を重視しており、また西方のようなスコラ哲学、ルネサンスの影響、宗教改革などを経験していないため、アカデミックに体系化された教会論は無いとしつつ、個人的な見解として正教会の教会観を披露。八代は、聖公会綱憲の四項目から聖公会の教会観を解説。徳善はアウグスブルク信仰告白の第7条を教会の機能規定と捉えて、「教会は目に見えないものであって、同時に目に見える」とする。榊原は改革派・長老派の特徴のみならず、改革派と長老派の違いを語る。泉は無教会には教会がないので歴史がない問題を提起。

20シンポジウム 礼拝論竹森、土屋、高橋、
徳善、吉岡
1981

1980年の東京神学大学教職セミナーでの講演集。竹森満佐一の主題講演の後、カトリック:土屋吉正、正教会:高橋保行、ルター派:徳善義和、改革派:吉岡繁。

21聖書の人間理解と今日の教育――特に人間の価値をめぐって熊沢義宣1983

第21回全国私立中学高等学校道徳宗教教育研修会の講演で語られたもの。聖書における人間理解について特にその価値観の観点で語っている。

22講解・ピリピ人への手紙竹森満佐一1984
23ローマ書の信仰竹森満佐一1985

雑誌「サインズ・オブ・ザ・タイムス」の1982年の連載に加筆したもの。主要な成句を取り上げてやさしく解説。

24教会と長老竹森満佐一1986

諸教会の長老を聴衆にして語られた三回の講演録。「キリストのからだである教会」、「教会の生活」、「長老の任務」。

25新約聖書における信仰告白平野保1986

『神学』44号(1982)に収められている「新約聖書における信仰告白断片」という論文がもとになっている模様。

26ガラテヤ人への手紙竹森満佐一1987

ガラテヤ書の講解。27に分け、各8ページ弱にまとめられている。ちと簡単過ぎか?

27アブラハムと実践神学――聖書的<実践的神学>入門山口隆康1988

創世記12章以下のアブラハムの物語の解釈を通して、実践神学的な思考を学ぶ。付論として「説教学の動向について−−留学先からのたより」は1985年に書かれたもの。

28キリスト教とは何か――中島重氏の社会的キリスト教との対話において佐藤敏夫1989

宗教的社会主義における「神の国」理解の問題点。付論として「マタイ福音書におけるプラーウスについて」を収録。

29神学的死生学試論熊澤義宣1995

死生学(サナトロジー)を、ルターの「詩篇90編の講解」に見られる死生観からはじめて神学的に定義づける試み。体外受精や尊厳死など具体的な倫理的問題も取り上げる。最後に、牧会者の務めとしてのターミナルケアを語る。参考文献表あり。

30教会的キリスト教赤木善光1996

もとは自由が丘教会文庫。第一部が信徒向けの文章で「現臨のキリスト」「教会」「伝統」「礼拝」「聖餐」の5章にまとめられている。第二部は論文2編「聖化の崩壊とその再建の土台」「空洞としての信仰と形成としての信仰」および、それぞれをめぐる大木英夫らとの座談会。

「赤木善光先生の「聖化」〔「聖化の崩壊とその再建の土台」のこと〕を読みまして、「聖化」こそキリスト教の中心の問題ではないかと思えてきました。」(片桐千代、『み国に入る日まで』、コイノニア社、2005、p.27)

別冊東神大紛争記録教授会1974

第一部「紛争記録」として全容を記述、第二部「関係文書」は各氏の回顧録(大木英夫、金澤勤、小淵康而、近藤勝彦、鷲山林蔵)、第三部「資料」では、教授会側、七〇人会側、全共闘側の声明、見解文書など。全共闘側の記録『死せる言葉の終焉−−東神大闘争の記録』(1970)に収録されていない資料が中心。