証 し

生まれてすぐ幼児洗礼を受けた。高校生の時、親に言われるまま信仰告白をした。大学に入り一人住まいを始めると、全く教会に行かなくなった。しかし、いつしか、自分の両親が牧師であるという事実からは逃げられないことに気づいていた。大学院に進んだ頃、近くの教会に通いはじめた。ある夜、教会へ行ってみると祈祷会の真っ最中だった。真剣に祈る人たちの姿を見て、涙が出た。

修士課程を終え就職すると、会社の寮から交通の便のいいところに教会を探した。電話帳でいくつかの教会を調べた。桜新町教会を初めて訪ねた礼拝後、老婦人から厚い歓迎を受け、他の教会へは行けなくなった。

社会人3年目の頃に失恋したとき、「祈祷会へ行かなきゃ」と体が動かされた。生まれて初めて祈祷会で祈った。

それからしばらくして、その時の仕事を自分の職業としていくことに強い不安を感じた。また、仕事の進め方をめぐって上司と衝突し、大喧嘩をした。そこで、自分の歩む道を見つめ直したつもりで、牧師に「神学校へ行きたい」と言った。ところが、牧師の慎重な返答を聞いて即座に、自分の思いが「逃げ」であることに気づかされた。しかし、それからじわじわと「いつでも神さまの声があれば従います」という思いが湧き出し、数年後には、願いとまではいかないが、確かな決意に固まっていた。

社会人9年目の春、ふと気がつくと、神さまに「時が来た。行け」と強烈に言われていた。私を覆う空気がその言葉そのものだった。いつの間にか、開く聖書箇所全てが、聞く説教全てが、「牧者として献身せよ」と私に語る言葉に変わっていた。「従います」という兼ねてからの決意など、迫る神さまの強力な言葉に吹き飛ばされていた。私にはその決心も何もなかったが、神さまに明確な決心、計画、摂理があることがわかった。盛夏の頃には、主の召しに応える喜びが与えられていた。

(1999.1.14 800字)