神学のよくある言い回し

2003.4.30開始

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神学の分野でよく耳にする表現で気になるものを紹介します。ここに書かれていないことをご存知の方は、何でも教えてください。メールアドレスはトップページに記してあります。
■立ちもし倒れもする
たとえば、
「キリスト教は説教によって立ちもすれば倒れもする」

フォーサイス(楠本史郎訳、大宮溥監修)『フォーサイスの説教論』ヨルダン社、1997、p.7。

カール・バルトもよく用いている。


神学史上重要なのは、義認論と教会との関係について、義認論が「教会ノ立チモシ、マタ倒レモスル条項」(articulus stantis et cadentis ecclesiae)と言われることである。特に、ルター派の義認の教理の特色として語られる。
佐藤敏夫『キリスト教神学概論』新教出版社、19962、p.228。


カール・バルトによると、義認論が「教会ノ立チマタ倒レル条項」であるという有名な表現は、「ルター自身の言葉ではないようであるが、しかし、実際に彼の考えであったものを、正確に語っている」。
カール・バルト(井上良雄訳)『和解論T/3』新教出版社、1960、p.297。


芳賀力によると、この言い回しを最初に用いたのはルター派正統主義者のValentin Ernst Löscherである。しかしその考え方はルターに遡ることができるとする。ルターは詩編130:4について、「この条項が立つ時教会も立ち、この条項が倒れる時教会もまた倒れる」と語っているという。
芳賀力『救済の物語』日本基督教団出版局、1997、p.14。


聖書には、ロマ14:4に「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人による」という言葉がある。

■たとえあす終末が来ようとも、きょう私はりんごの木を植える
一般に、「ルターの作であると言われているが、言われているだけで確証がなく、後にルターに帰せられるとされた言い方である」とされている。しかしそのことを記述した書物を見たことがない。多くは、説教集などの中で、「正確なところはわからないのですが、ルターが言ったとされています・・・」などと引用されているのを見かけるだけ。

開高健が飲み屋に置いていったサインにこの言葉が書かれているらしい。石原都知事がある挨拶の中で、紹介している。

2003.2.18、フジテレビ系火曜夜10時のドラマ『僕の生きる道』で、癌の告知と余命1年の宣告を受けた青年教師(スマップの草g君)に主治医がかける言葉が、「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、きょう私はりんごの木を植える」だったらしい。


日本ルーテル神学大学ルター研究所編『ルターと宗教改革事典』(教文館、1995)には載っていない。『キリスト教名句名言事典』(教文館、1999)にも載っていない。ヘレン・エクスレイ編(中村妙子訳)『希望のことば−−手のひらのことば』(偕成社、1999、800円)に掲載されているらしい。


インターネットで検索すると、マーチン・ルーサー・キング・Jrが言ったとする説もあるが信憑性はない。ルターの作と言われていたのが、どこかでルーサー・キングの作に取り違えられたのだろう。


よりもっともらしい説は、C.V.ゲオルギウ(Virgil Gheorghiu)が『二十五時』という小説?でこの表現を使っているらしい。未確認。それゆえ、ゲオルギウが言った言葉だとされている場合も多い。しかし実は、ゲオルギウは、ルターの修道院入り前までの伝記を物語として書いている。浜崎史朗訳、『若きルターとその時代』、聖文舎、1972(原著年は調べ忘れた)。それゆえ、ルターに関わるものとしてこの言葉を知っていた可能性は高い。
■AなきBは空虚であり、BなきAは盲目である
「神学なき体験は盲目であり、体験なき神学は空虚である。」(渡邊善太『渡邊善太全集1』、キリスト新聞社、1965、p.893)

「宣教なき神学は空虚であり、神学なき宣教は盲目である」(エーベリンクGerhard Ebeling, "Theologie und Verkündigung, 1962, S.9、大木英夫が『偶然性と宗教−−現代の運命とキリスト教』(ヨルダン社、1981)の152頁で紹介)

「教会なき神学は空虚であり、神学なき教会は盲目である。」とは誰が言ったのか?


似たようなものでより知られているのは、アインシュタインの"Religion without science is blind. Science without religion is lame."「科学なき宗教は盲目であり、宗教なき科学は不具である。」

そこで、インターネットで調べてみると、いろいろ出てくる。
「実践なき理論は空虚であり、理論なき実践は盲目である。」
「勉強のない批判は空虚であり、批判のない勉強は盲目である。」
「技術史なき技術論は空虚であり、技術論なき技術史は盲目である。」
「権力なき真理は空虚であり、真理なき権力は盲目である。」

しかし、AとBとの対応が成立していずレトリックとして不完全なものもあって、おもしろい。
「理論なき技術は盲目、応用なき理論は空虚である。」
「経験なき理論は空虚であるが、理論なき実践は盲目である。」
「理念なき政策は盲目である。実践なき政策は空虚である。」
「知識なき実践は盲目で危険ですが、知識のみで実践はそれ以上に空虚で危険です。」

また、淡野安太郎『哲学思想史』(勁草書房、1949)に次のような言葉が冒頭に掲げられているのを発見した。
「思索なき生活は盲目である。生活なき思索は空虚である。」


インマヌエル・カント『純粋理性批判』(Immanuel Kant, "Kritik der reinen Vernunft")(第1版1781年、第2版1787年)に次のような言葉がある。「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である。」
この言葉は、「超越的原理論」の「第二部門 超越的論理学」の「序論 超越的論理学の理念」に出てくる(この見出しの訳は原佑訳)。第1版ではp.51、第2版ではp.75である。他の邦訳では、
「内容を欠く思想は空虚であり、概念を欠く直観は盲目である。」(原佑訳『カント全集第4巻 純粋理性批判(上)』理想社、1966、p.153)
「内容なき思考は空虚である、概念なき直観は盲目である。」(天野貞祐訳『カント純粋理性批判 上巻』岩波書店、1921、p.153)
となっていて、思惟、思考、思想が異なるだけである。しかしいずれにしても、このカントの言葉では、AとBの対応のレトリックはない。


論語に次のような有名な言葉がある。「学んで思わされば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

では、旧約聖書には似たような言い方の例はないのだろうか。詩編や箴言などでの並行法という技法に相当しそうだが、ぴったり当てはまるものはなさそうである。
■なおひとつ欠く
マルコ10:21他「なんじ尚一つを欠く」(文語訳)が出典。

用例は、たとえば、G.D.レーマン、「『現代の礼拝はなお一つ欠く』――プロテスタント礼拝の起源と展開に学ぶ」(『神学』59号、1997、pp.147-163。
■区別されるが分離されない
カルケドン信条
■常に改革され続ける教会
Ecclesia Semper Reformanda. 改革教会の標語。
■聖書の解釈者は聖書自身である。
Sacra Scriptura sui ipsuis interpres.  直訳すれば、「聖書はそれ自身の解釈者である」。プロテスタンティズムの聖書解釈原理として、「聖書は聖書によって解釈される」とも言われる。


大木英夫『組織神学序説−−プロレゴーメナとしての聖書論』(教文館、2003)p.582によると、さまざまな類似の表現があるらしい。Scriptura ex Scriptura explicandam esse, Scriptura seipsam interpretatur, Scriptura Scripturam interpretaturなど。その他に、Scriptura Scripturae interpres. (グラント『聖書解釈の歴史』新教新書99、p.160)。上田光正は、「聖書は聖書から」という標語を紹介している。上田光正『聖書論』(日本基督教団出版局、1992)、p.300。

「ウエストミンスター信仰告白」の第1章「聖書について」の第9項には、「聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身である」とある。『ウエストミンスター信仰基準』(新教新書240、1994)。


「聖書はそれ自身の解釈者である」とは、マルティン・ルターが言ったとされることが多い。しかし上田は、アウグスティヌスなど古代教会から知られていたという(『聖書論』、300頁)。上田はこの記述に何も注を付けていないが、これは渡邊善太の指摘によったものだろう。『聖書論 第二巻 聖書解釈論』新教出版社、1954)100頁。渡邊はそこで注として、Farrar, "History of Interpretation," p.332ff. を記している。渡邊はさらに、この原則がルターの「聖書のみ」の立場において力強く語られたと語り、W.A.Z, S.97, 21ff.を記している。
■神の言葉の説教が、すなわち神の言葉である。
松田真二によれば、第二スイス信仰告白の「第1章の4条の表題で、“神のみ言葉の説教は神のみ言葉である”と率直に語り」
松田真二、『改革主義信仰告白と説教』(大森講座X)、新教出版社、1990、p.10。

山口隆康によれば、「これはハインリッヒ・ブリンガーが、1562年に起草したと言われる「第二スイス信条」第1章第4項につけられた表題である。」
山口隆康、「正典論と説教聴聞」(『説教塾』No.6、1991)、p.18。

関川泰寛によれば、第二スイス信仰告白の「第1章の欄外に著者のブリンガーが内容を分かりやすくするため加えた文」。
関川泰寛、『ニカイア信条講解』、教文館、1995、p.25,191。

第二スイス信仰告白(1566)に由来していることは確かなようだが、「欄外」だったり「表題」だったり。どうやらそういうわけで、『信條集 後篇』(國安敬二訳)には、この言葉はない。

なお、レイモンド・アバ『礼拝』(日本基督教団出版局、19611,1996)のp.81では、ルターが言ったとされているが、これは何かの勘違いであろう。


『宗教改革著作集』(第14巻、教文館、1994)(渡辺信夫訳)を見ると、括弧書きで記されて、その下(縦書きだから)からすぐに文章が始まっている。

「(神の言葉の説教が神の言葉である) したがって、今日神の言葉が、教会において・・・」

これが翻訳の底本としているW. Niesel hrsg., "Die Bekenntnisschriften und Kirchenordnungen der nach Gottes Wort reformierten Kirche" を見ると、なるほど、イタリックでかつ括弧書きで記されていて、その右(横書きだから)からすぐ文章が始まっている。

(Praedicatio verbi Dei est verbum Dei.) Proinde cum hodie hoc Dei〜

『信条集 後篇』の國安訳の底本については「主として、シャフの信條集及び仏訳によった」とある(p.331)。





松田も、関川も、アバも、下に引用した山口も皆、ラテン語での表記:Praedicatio verbi Dei est verbum Dei. を合わせて記している。

これは、「ブリンガーの定式」と呼ばれているらしい。

「『説教とは何か』という深遠なる問いに対して・・・最も簡潔明快で美しい説教理解は、『ブリンガーの定式』と呼ばれる説教理解だろう。『神の言葉の説教は、すなわち神の言葉である。』」
山口隆康、「正典論と説教聴聞」(『説教塾』No.6、1991)、p.18。

では、誰がこれに着目して「ブリンガーの定式」と言い始めたのだろうか?
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