気まぐれレビュー
- Killer Angel(手塚さとみ)
- 私がこの曲を好きな理由は手塚さとみの歌唱の危うさにある。
この曲は典型的なユーミンの曲で、「皮のブーツで小石を蹴って」の最後の「って」のところで急に音階が
上がるのである。こういうときユーミンならば声を潰したようにして高い声を出すのだが、手塚はそれが
出来ていないのである。ユーミン以外の人がそれをやると音程が安定しないのだ。その手塚の不安定感が
投げやりのように聞こえて面白い。ユーミンのセルフカバーでも聞いてみたい。
- マイアミ午前5時(松田聖子)
- 森進一3部作「冬のリヴィエラ」(81,12)「紐育物語」(83,4)「モロッコ」(83,10)を知っている人は
多いと思うが実はこの3部作には変調がある。つまり「冬のリヴィエラ」の「アメリカの貨物船」で
紐育へ行き、そこからマイアミ行きのバスに乗ってマイアミに行くのである。だから「紐育物語」の次は
「マイアミ午前5時」なのである。「マイアミ午前5時」の入っている「ユートピア」が83年6月だから
スケジュール的にもこの説は正しい。実際ある人が松本氏本人から聞いたと言うから間違いない。
- わがままな片想い(松田聖子)
- 聖子はどんな歌でも歌いこなすがこの曲に関しては過剰なアレンジに押され気味である。
何処から聞いてもYMO。
- ティア・ドロップ探偵団(イモ欽トリオ)
- 探偵の縁語オンパレード。「ルーペ片手に尾行する」「何よりの証拠さ」「愛の迷路で行方不明さ」
「NAZO NAZO あやかし」「可愛い笑顔 指名手配さ」。こういうまとめ方の曲って好きです。
それになんといっても「あやかし」がまた歌詞として聞けるのがファンとしてはうれしい。
もちろん「はっぴいえんど」の「あやか市のどうぶつえん」。阿久悠にはピンクレディーやフィンガー5と
いったワンダーランドものがあるので松本にも、もっとこの世界で活躍して欲しいものである。
イモ欽トリオにもっと売れ続けて欲しかった。
- 白いパラソル(松田聖子)
- 「心は砂時計」というのが全然わからなかった。というのは、松本の場合、隠喩を使ったらそのあとで
何故そうなのかを詞に書いてある場合がほとんどだからである。このあとにどういう言葉をつなげて
いいのかわからなかったのだ。池上季実子「やさしさ下さい」の中で「二人の愛は 砂時計なの 私から
あなたへと こぼれて行くわ」というフレーズを最近見つけた。これだな。
- ふられてBANZAI(近藤真彦)
- 「BANZAI」というのは楽譜で言えば二つの音。ここにバ・ン・ザ・イという4つの音を入れる所が
テクニックでしょう。例の「BABY」、あとの「ホレたぜ!乾杯」なんかもこの類です。
歌が引き締まるわけです。これは松本が語っていることですが、マッチというのは日活
(ひらがなじゃないからね)の赤木圭一郎のイメージがあるそうです。
マッチの歌詞によくある「〜ぜ」なんていうのは確かに日活アクション映画の言葉づかい。
「錆びた愛を 砂に埋めて」も映画「錆びたナイフ」からの連想か。
「Ah イカしたおまえにお手あげ」の「お手あげ」は「BANZAI」だから。
- 忘れ雪(オフコース)
- 小田和正は売れていなくてまだ自分で曲を作らせてもらえなかったこのころの曲が嫌いであるようだ。
オフコースにとっても異色のこの作品は松本にとっても異色である。松本は初期において歌謡曲の物まねを
意図してしたと自分でも語っているが、この曲などフォークを物まねしようとしてできたものだろう。
「雨」では湿っぽすぎるから少し乾いた所で「雪」にしようと言うのはフォークの発想である。(なごり雪)
詞、メロディーともに私はつい「さだまさし」を連想してしまう。「ふたり訪ねた山あいの宿」のところなんか
特に。「足をくじいたきみを背負い」何て言うのも「さだ」っぽい。「泣きぼくろ」という語はほかで
見たことがない。「雪どけ水のさやめき」の「さやめき」という言葉は松本のほかの詞では柳田ヒロ
「ねえ静かだね」,太田裕美の「水鏡」に見られるが,辞書を調べて見ても「さやめく」なる語は載っていない。
「ざやめく」からの連想と思われる.ちなみに「忘れ雪」も辞典に載っていない言葉で松本の造語と思われる。
- Japanese(藤井尚之)
- 社会批判モノという松本にとっては異色の作品。「はっぴいえんど」には「はいからはくち」という
日本人の卑屈なまでの外国崇拝を批判した名曲があるが、それ以来ではないかと思う。外国で起きている
戦争に無関心な平和ぼけする日本人。環境問題に無関心な日本人。バブル景気に酔い痴れる日本人。
それらの狂態を描き出した後「明日は知らないけどね」と突き放す。本人はインタビューなんか聞くと
反体制らしい。
- 21世紀まで愛して(水谷麻里)
- テーマは”21世紀=電脳社会”ということなのだが、14年前にそれを見越しているようで
興味深い。そこで、電気、コンピューター関連の言葉のオンパレードとなる。「カラフル・ビーム」
「ハートの回路」「頭の電源」「ラジコン・ロボット」「ワープロの文字」「ショートしそうよ」
「デジタルばっかじゃつまらない」「アナログでKissして」「タイム・マシン」「電撃ウィンク」
ラジコンロボットにラブレターを渡させる男もすごいが、「アナログでKissして」とねだる女の子も
すごい。そしてもう少しで21世紀である。(98,11,9記す)
- 赤いハイヒール(太田裕美)
- 「木綿のハンカチーフ」で発明した対話形式をとっているが、両者には大きな技法上の違いがある。
それは小道具の使い方である。「木綿」の方では2番で「指輪」、3番で「口紅、写真」、4番で「ハンカチーフ」
と変化していっているのに対して、「赤いハイヒール」の方では「ハイヒール」の形容を変えることで、主人公が
経た時の流れを表そうとしている。焦点は同じにして回りの情景だけを変えて物語を進めていくのだ。
これは映像にもある表現方法の一つだろうと思う。場面の転換のときに必ずある決まった一つのものを映すのだ。
そうすることによって構成が整ってくる。聞いていて安心感があり、物語を
理解しやすい。太田裕美中期では「茶色の鞄」や「マニキュアの小壜」などもこの手の手法が使われている。
この2つはB面ですよ。B面でも手を抜かないんですね。また、題名になっていないが
「恋人たちの100の偽り」における”ゼラニウム”もこの役割をしているといってよい。
太田裕美以外では「ルビーの指環」もこの手法が使われている。
cf 小道具
- 第一印象(五十嵐夕紀)
- 歌は5番まであって、1番で「第一印象」、2番で「第二印象」と言うように物語と共に数字が進んでいき、
5番では「現在印象」となって話が終わる凝った構成。初めは気障な人だと思っていたのが、段々と素の顔が
見えてきてそこに惹かれていく、という話である。他にもこの手の構成の詞がある。「ああ、青春」のような
数え歌は数字がひとつずつ増えていくのは当たり前だとして、「3つの銅貨」「三枚の写真」「四季絵巻」
「サードレディー」「FUNx4」「七つの願いごと」など題名に数字が入ったものに多い。題名に数字が入っていない
ものとしては「ハートブレイクマンション」「アネモネ詩集」がある。これらは数え歌とは違うので、自分では
”数学的帰納法シリーズ”と呼ぶことにしている。
- 真夜中列車第2便(桑名正博)
- 「真夜中列車」を直訳すると「ミッドナイト・トレイン」。そうスリーディグリーズの「ミッドナイト・トレイン」
だ。第2便というのはこれから数えてと言うこと。「片道切符が二枚 一枚はボクの もうひとつは君の
使わなかった切符」というところなど英語詞ときれいに対応している
- バチェラー・ガール(稲垣潤一)
- bachelor girlとは、自立して生活している未婚女性という意味。この歌では、傘
という小道具を用いて、自立する女性を象徴的に表現している。
「二人には小さすぎたぼくの傘 どしゃ降りに消えて行く君の強い背中 きっときっと忘れるさ」
これは最後の部分だが、彼女が彼の庇護のもとで生きることを拒否して、自ら厳しい
社会に出て行ったことを意味している。また、傘が小さいということで、彼には彼女
を受け入れるだけの度量の大きさがなかったことを象徴している。そういう男のもと
で窮屈に生きるより、むしろ自立して一人で強く生きて行こうとする女性。単に男が
ふられる歌なら珍しくもないが、恋人をほかの男に取られるというようなふられ方で
はなく、「自立する女性」を前面に出してきたことが、当時新鮮に感じられた。女性
に対する応援歌と解釈することもできよう。
この歌が発表されたのは1985年だが、その翌年、86年に男女雇用機会均等法
が施行された。また、社会党を中心に女性国会議員が数多く誕生し、マドンナ旋風な
どといわれたのも86年、DINKSという言葉が流行ったのは87年頃。このよう
な時代背景のもと、世間で女性の生き方が問い直され、「女性の自立」が盛んに言わ
れるようになるのに一歩先んじて、こういう詩を書いているのである。そこに先見性
が感じられる。ただ、もう少し後にこの歌を出していれば、完全に時代とシンクロし
て、歌がもっとヒットし、バチェラー・ガ−ルという言葉も世間に浸透したかも知れ
ない、と思うとちょっと惜しい気もする。(H)
- 街灯(五木ひろし)
- 主人公の女性が、自分を裏切った不倫相手に対する嫌がらせの意味を込めて、彼の
家の前に止めた車の中で、服毒自殺するというストーリー。薬で朦朧とした脳裏に、
彼への恨みつらみや、子供の頃の思い出が渦巻く様子が描写されている。同じアルバ
ム「五木」の中には、もう一つ自殺が関わっている曲「終着駅」があるが、こちら
は、株で失敗した男(こんな設定も他では見たことがない。バブル崩壊という社会情
勢を意識したのでしょう。)が、死に場所を求めて北の終着駅まで来たが、結局死ね
ずに、別人としてこれからもがんばって生きて行こう、という前向きな歌である。そ
れに対し、「街灯」の救いの無い結末は何とも凄い。(H)
- 過激な淑女(YMO)
- 松本の場合、詞で描く情景は具体的な登場人物がいる場合が多いのだが、この詞においては
「時代は過激な淑女」「都会は過激な淑女」といっていることから判断しても、抽象的なイメージを
重ね合わせている詞の構成と捉えた方が良いだろう。手法的には絵画でいうところのコラージュである。
題名で「過激」と「淑女」という背反するイメージをもつ言葉を重ねることで、表面的には機械的で整然とし
ている”都市空間”が、その裏に”都会”という人間的で官能的な面を合わせ持っているということを
表現している。詞の方では、都会の男女の間で繰り広げられる情景を描きながら、都会が持つ享楽と退廃に
迫っていると言えよう。歌詞カードを見ると「囁く」「視線(め)」「黒い(歌詞カードに黒へんに幼という字が使ってある)」「罌粟(けし)」「曲線(ライン)」「寝台(ベッド)」
「蒼い」「背徳(うしろ)めたい」「凭れて」「短刀(ナイフ)」「敷布(シーツ)」「迷宮(ラビリント)
」「浴室(バスルーム)」「幻覚(まぼろし)」という難しい漢字やカタカナのルビを振っている。
「罌粟」や「黒い」などは易しい漢字もあるわけで、敢て難しい漢字を使うのは
はっぴいえんどの歌詞カードを見ているようである。字面からも耽美的な匂いがしてくる。
それにしても最後の「蛇口から幻覚(まぼろし)が漏れてる」という締めは決まってるなあ。
- 哀しみの種(薬師丸ひろ子)
- この曲の作曲者は井上陽水である。陽水と言えば「傘がない」が有名である。陽水の詞で特徴的なのは
”否定形”である。この他に題名で「あかずの踏切」「感謝知らずの女」「ワカンナイ」「帰れない二人」
「飾りじゃないのよ涙は」「ダンスはうまく踊れない」。「ネガティブ」というアルバムもある。
それに呼応するかのようにこの詞では「私はいらないの」「雨の日 帰りを待つ窓はなく
風の日 迎えに行く道もない」「雨の日 宛名のない手紙書くき 風の日 日付のない日記書く」とある。
日記については陽水の方で「それとも今日から日記をやめると書いているのかな」(アルバム「氷の世界」
の「FUN」より)という詞句がある。
詩魂は共鳴するのか。
- 雨のスタジアム(少年隊)
- 松本の作品の中には、スポーツを題材にしたものがいくつかある。たとえば、野球の歌とし
ては、「恋のナックルボール」(大滝詠一)、「二死満塁の青春」(野口五郎)、「青春」
(斉藤由貴)、「ティーンエイジ・イーグルス」(イモ欽トリオ)など。これらの詩の中に
は、野球の専門用語がちりばめられていて、それらに関わる比喩も見られる。たとえば、「恋
のナックルボール」では、決して有名とはいえない「ナックルボール」という不規則に落ちる
変化球を、男が女を口説くときの態度に重ね合わせていて、そのような回りくどいやり方を反
省した主人公が、「ストレートに愛してると言えば良かったのさ」と歌っている。「ストレー
ト」を、変化球に対する直球の意味に掛けているわけである。で、本題の「雨のスタジアム」
だが、これはサッカーの歌である。本人のホームページを読むと、最近非常にサッカーに凝っ
ているらしい。しかし、この歌が出た頃(1987年)はそれほどでもなかったらしく、使わ
れているサッカー用語は「ゴール」、「ボール」、「シュート」など、初歩的なものばかり
で、サッカーが歌のストーリーにそれほど深く関わっているわけでもない。「恋のナックル
ボール」とは対照的である。もし、今の松本隆がサッカーの詩を書いたら、多大な思い入れが
込められ、高度な比喩を含んだ、専門用語満載の作品ができるに違いない。(H)
- 続・赤いスイートピー(松田聖子)
- 「赤いスイートピー」の続編。両者には当然ながら対応関係がある。「赤いスイートピー」
では、「心の岸辺に咲いた赤いスイートピー」ではあっても「線路の脇のつぼみは赤いスイー
トピー」、つまり心では咲いていても、現実にはまだつぼみである、ということで、この男女
はまだ恋愛の初期の段階にあって、最盛期はこれからということが暗示されている。それに対
して6年後のアルバムに収録されている「続」の方では、スイートピーは既に「アルバムの最
後の色あせた押し花」になってしまっていて、恋愛が、取り戻し得ない過去の想い出になって
しまっていることを表している。小物シリーズの連続物という感じである。(H)
- 空中庭園(南佳孝)
- 「砂時計から零れた時が都会を埋めて砂浜に変える」という詞句から始まるこの歌は抽象度が
高いのだけれど絵画的イメージが広がっていくという独特の味わいがある。「マルグリットのポス
ターの前 君の笑顔が夕暮れてしまう」
という詞句で明かしているように、論理的には飛躍のあるものを並べて画面を構成するという
シュルレアリズム絵画の構成方法を詞に応用したものと思われる。「詩的」には近代の前衛、北川冬彦、安西
冬衛といった雰囲気がある。絵心がある人が聞けば、きっと何枚ものシュルレアリズムの絵が描けるだろう。
私の好きな1曲である。ちなみに詞集3部作の1つ「空中庭園」はここから題名を取っていると思われる。
松本の中でも重要な位置づけとなる作品であろう。
- 秘密のオルゴール(川田あつ子)
- この頃は松田聖子の全盛期で川田あつ子もいわゆる「聖子ちゃんカット」でデビューするのだが、
この歌を歌いこなし切れずに歌から離れることになる。曲はいいのだけれど歌手に恵まれずに売れなか
った曲の典型がこの歌ではないだろうか。詞的には、「風走る海辺の街を 子猫抱きながら歩いています」
という情景を折り込む冒頭や「秘密」「心の五線紙」「愛の意味」という詞句、小物シリーズなど松本色を堪能できる唄の
作りになっている。また、「Sixteen Sixteen Bos・sa・no・va」のはめ込み方など絶妙である。「Rememmber」
の松本特集のインタビューで松本が、「ボビーに片想い(手塚さとみ)」がいい曲だから誰かカバーし
ないか」と言っていたら、後に新田恵利がカバーしたという事実がある。世の見識あるプロデューサーの皆様、
この名曲を歌える歌手を探してカバーしてください。
- メビウスの輪(大橋純子)
- テープを使って輪を作るとき、一回ひねってつなげると表裏のないテープになることが観察できる。
これを、研究した数学者の名前にちなんで”メビウスの輪”という。(実験してみよう)数学でいう
位相幾何学の分野のトピックスである。この唄はこの現象が元になっているので、
「ひとひねり折って紙の輪をつくる」「裏切り」「裏表」「網の目の都会にひねくれたハイウェイ
メビウスの輪に似て悲しい」というフレーズが出てくる。時々とてつもない教養を詞が要求してくること
があるので要注意である。
- アジャンタ(佐藤隆)
- インドを舞台にした、仏教的な雰囲気を感じさせる異色のロック。「アジャンタ(遺跡
の名)」、「カルカッタ(都市名)」、「サリー(女性用民族衣装)」などインドに関
する語や、「輪廻(生死を重ね、次々に生まれ変わること)」などという仏教用語はな
かなか他の詩ではお目にかかれない。佐藤隆には他にも「北京で朝食を」、「メ・ソ・
ポ・タ・ミ・ア」、「霧のスカンジナビア」、「アマゾンの月」など世界各地(しかも
あまり歌に取り上げられないような場所)を舞台にした詩を書いている。(H)
- 夜霧のハイウェイ(南佳孝)
- はっぴいえんど解散後、間もなくプロデュースした南佳孝のファースト・アルバム「摩
天楼のヒロイン」に収録されている曲。男女のデュエット曲ではなく、最初から最後ま
で南佳孝が一人で歌うのだが、詞の内容を見てみると、ハイウェイを女の元へ急ぐ男の
立場と、それを待っている女の立場が交互に入れ替わっている。対話シリーズともいえ
るこの手法は、後に一連の太田裕美作品(「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」
「失恋魔術師」「さらばシベリア鉄道」「わかれの会話」「ピッツア・ハウス22時」
「スカーレットの毛布」)や「外は白い雪の夜」(吉田拓郎)、「ガラスのブローチ」
(石川秀美)等に用いられて有名となる。(H)
- 「ハートブレイク太陽族」他4曲(スターボー)
- スターボーは女性3人組。しかしこれらの歌は、全部男性が主人公で、男言葉で歌われ
ている。アルバムの全曲がこのパターンで統一されているような例はほかに知らないが、
女性歌手(特にアイドル)が歌の中で男性(少年の場合が多い)を演じるケースは、探し
てみれば結構ある。例えば、「五線紙(竹内まりや)」、「マリオネットの涙(松田聖
子)」、「Miracle Kiss(山瀬まみ)」、「しあわせ未満(太田裕美)」、「ブルー・ベ
イビー・ブルー(同)」、「振り向けばイエスタデイ(同)」、「ゆ・れ・て湘南(石川
秀美)」、「レースのカーディガン(坂上香織)」、「マギーへの手紙(中原理恵)」、
「Don't Cry(前田愛・前田亜季)」、「ワル!(五十嵐夕紀)」、「センチメンタル海
岸(浅野ゆう子)」、「セシールの雨傘(飯島真理)」、「まどろみの朝(小室みつ
子)」、「Angel Walk(同)」、ほかの作詞家の作品でも、「セーラー服と機関銃(薬師
丸ひろ子)」(来生えつこ作詞)、「砂の果実(中谷美紀)」(売野雅勇作詞)、「君と
歩いた青春(太田裕美)」(伊勢正三作詞)等がある。
概して、これらの歌の主人公は、いわゆる男っぽいタイプではなく、それは、言葉遣
い、特に人称代名詞に現れる。「俺/お前」は女性に歌わせるとキツくなりすぎるのでま
ず使われない。「あなた」は男女ともに用いられる言葉なので、女性の口から「あなた」
という言葉が発せられても、男性を演じていることが明らかにならないので、これも避け
られる。結局、ほとんど「ぼく/君」が使われることになる。上に挙げた、スターボー以
外の曲を調べてみると、「マギーへの手紙」で「俺」が、「センチメンタル海岸」に「お
前」が使われているという例外はあるが、それ以外は、一人称は「ぼく」(ひらがな表記
が多いが、「僕」「ボク」もある)、二人称はすべて「君」である。太田裕美の対話シ
リーズ(「夜霧のハイウェイ」のレビュー参照)の男性パートでも同様である。
ところが、スターボーの歌にはこの法則が成り立たない。5曲中、「火星のプリンセ
ス」のみ「ぼく/君」だが、それ以外の4曲には「俺/お前」が使われている。さらに、
これら4曲には「・・・だぜ」という表現が用いられているが、これは他には「Angel
Walk」でしか見られない。スターボーにあえてこのような言葉遣いの詩を書いた(そうい
う男を演じさせた)ことは、冒険あるいは実験であったのだろうが、結果として、本人の
言葉を借りれば「壮絶にコケ」て、「松本オタクの必須アイテム」となってしまったらし
い。いろんな中古レコード屋で探しているが、アルバムの方は未だに見つけることはでき
ず、本人のホームページで初めて歌詞を知ることができた。(H)
- 「リボンをほどいて」(Johnny)(山瀬まみ)
- Johnnyバージョンの主人公は男だが、その詩の中の「俺/お前」を「私/あなた」に変
えたり、語尾を「・・・だね」から「・・・だわ」というように、男言葉を女言葉に変え
て、ほぼ同じストーリーのままで女の歌にしたのが、山瀬まみバージョン。同じ出来事
を、男女それぞれの視点から同じ曲に乗せて歌う手法(「メイン・テーマ(薬師丸ひろ
子)」&「スタンダード・ナンバー(南佳孝)」、「ウィンク・キラー(小泉今日子バー
ジョン&野村宏伸バージョン)」)もあるが、「リボンをほどいて」はそれらとは違って
主人公の性のみを変えている。ちなみに、Johnnyバージョンの作曲はJohnnyだが、山瀬
バージョンは浅沼正人作曲と表示されている。彼の本名であろう。(H)
- 「ハーブの香り」(太田裕美)
- この曲は本当は"What's new"のコーナーに書くべきかもしれない曲である。いや、
実際アルバム「魂のピリオド」の他の2曲とともにそうするはずであった。しかし、当初は
どうしてもこの曲には自分なりのうまい解説というのがつけられなかったのだ。
このミニアルバムに収められている3曲の題名はすべて「○○の○○」という形をしている。
これは偶然でも何でもなく松本の作詞技法の特徴を如実に表している。ことを阿久悠と比較してみるとわかりやすい。
松本の歌の題名にはこの「○○の○○」という題名が多い。
「はだしの冒険」「涙のコンチェルト」「真珠のピリオド」「恋のハーフムーン」「青春の坂道」「青空のかけら」
「太陽のツイスト」「イチゴの誘惑」「硝子のキッス」「水晶の頃」「ピンクのモーツァルト」「ささやきのステップ」
「メロンのためいき」など。もちろん松本にも”文章や連用形”の題名があったりするが、
「俺たちに明日はない」「お熱いのはお好き?」「いちご畑でつかまえて」など引用したものの場合が多い。
一方、阿久は「笑って許して」「ざんげの値打ちい」
「さらば涙と言おう」「さだめのように川は流れる」「どうにもとまらない」「立ちどまるな ふりむくな」
「時の過ぎゆくままに」「あなたに今夜はワインをふりかけ」「地平を駈ける獅子を見た」(あまり知られていないのも
数えればまだまだある)というように文章であったり、連用形で止めたりという題名を多く見ることができる。
阿久にも「真夏のあらし」「こころの叫び」「はじめての出来事」「十七の夏」など「○○の○○」という題名が
あるが、前の句と後ろの句が自然に結びついている、いってみれば当たり前な運用の仕方が多い。
阿久がタイガースに「色つきの女でいてくれよ」という詞を提供しているが、これなども松本が題名をつければ
「天然色の美少女」とでもなるわけである。阿久が動的イメージで語るのに対して、松本は静的イメージで語るのである。
これを語法的に言えば、阿久は動詞中心、松本は名詞中心ということになる。よく処女作に作家のすべてがあらわれていると
言われるが、阿久は「朝までまてない」松本は「ポケットいっぱいの秘密」
このように松本の題名の特徴のひとつは「○○の○○」で、前の句と後ろの句にあまり関係の無いものを並べるというところで
あろう。阿久の、ズバリ動詞で核心を突いていて、主題が誰でもわかりやすいのに対して、松本の題名は文学的であり、主題を
理解をするのに受け手側の想像力に頼っていると言って良いだろう。「魂のピリオド」「水彩画の日々」は両方ともこのような
題名の典型なのである。ところで「ハーブの香り」はどうだろうか。そのままじゃないか。詞のなかには「くの字にひざを抱いて眠る」
という細かい描写の表現や、「無声映画の午後」という松本らしい隠喩もあるが。そこで私はレビューが書けなくなってしまっ
たのである。しかしもう一度「ハーブの香り」のテーマは何かと考えれば、解決の糸口は見えてくる。キーワードは「癒し」で
あろう。ハーブはその香りを嗅ぐことで気持ちがリラックスできるという。近頃はやりのアロマセラピーである。緊張感を取り
払いできるだけ自然な気持ちと体でいることで健康になっていく。それがテーマであろう。とすれば題名において、2つの関係
ない名詞を組み合わせることで、いたずらに緊張感を与えるのはどうだろうか。こう考えると、この題名は松本らしくはないの
だがこの曲において相当効果をあげているといえるだろう。
- 「制服」(松田聖子)「卒業」(斉藤由貴)
- これら2曲はともに卒業をテーマにした歌で、発売時期も近い。卒業後に男は東京に出てゆ
き(2曲とも具体的に「東京」という地名が出てくる)、女はその土地に残るという形での
別離、という状況も共通。そして「制服」の歌い出しの部分は「卒業証書抱いた傘の波にま
ぎれながら」であり、「卒業」の方は「制服の胸のボタンを下級生たちにねだられ」であ
る。つまり、「制服」は「卒業」で始まり、「卒業」は「制服」で始まるのだ。これは偶然
ではなく、意図的に組み込まれた「仕掛け」ととらえるのは考えすぎだろうか。(H)
- 「雨のウエンズデイ」大滝詠一
- 雨降る水曜日にワーゲンに乗って恋人と海へ行く歌だが、後に書かれた小説「微熱少年」の
中に同じシーンがある(単行本175〜184ページ)。自身をモデルとした主人公の「ぼ
く」と恋人のエリーが海に行くのだが、そのとき使うスバル360という車は、ちょうど
フォルクスワーゲン・ビートルを小さくしたような形をしている。また、歌と小説で共通に
出てくるキーワードとして、「菫(すみれ)色の雨」、「水曜日」、「濡れたTシャツ」、
「傷つけあう」、「(数が多いことのたとえとして)波の数」、「クスッと笑う」がある。
小説では、帰りの車の中で「ぼく」は「将来詩を書きたい」とエリーに言い、彼女は「今日
の私のことを書いて」と頼む。これが実話に基づいたシーンなのか、それとも「雨のウエン
ズデイ」に合わせて創作されたものなのかは不明だが(多分後者だろうが)、いずれにして
も『当時の「ぼく」が後に作詞家になり、彼女との約束通り「雨のウエンズデイ」の詩を書
いた』という、小説と現実にまたがるストーリーが構成されている。(H)
- 「糸と針」山田パンダ
- 歌詞を読んで思った、これって「木綿のハンカチーフ」だ、と。歌の中で男性の視点
から歌われる部分と女性の視点から歌われる部分が交互に出てくるという構成や、時間
が経過して恋が終わるというストーリー展開が共通である。具体的に見れば、「木綿」
では、都会に出ていった男が楽しい都会生活を送るうちに「君を忘れて変わってくぼく
を許して」と歌い、「糸と針」では、デザイナーとして成功した女が「忙しい日々に追
われるそのうちにあなた忘れた私許して」と歌う。その表現まで似ている。また、女性
パートの最初が、「淋しい人よ」という呼びかけで統一されているのは、「木綿」の男
性パートがすべて「恋人よ」で始まることを思わせる。さらに、タイトルが歌詞の一番
最後の部分「一度破れた心をぬえる『糸と針』などこの世にはない」から来ているの
は、タイトルの付け方としては異色だが、これも「木綿」と共通である。(「木綿」の
最後は「涙拭く『木綿のハンカチーフ』下さい」)さらにさらに、タイトル自体も共に
繊維製品に関係がある。見れば見るほど「木綿」に似ていることがわかる。
この歌の発売は「木綿」のすぐ後の76年9月であり、柳の下の二匹目のドジョウを
ねらったものなのか、それとも元々似た詩があって、一旦ボツにした方を流用したの
か、その辺の真相は知る由も無いが、「木綿」と何らかの関わりはあると思われる。(H)
- 水族館の夜(中谷美紀),水中メガネ(Chappie)
- 「硝子越し」というのは松本語のひとつで、「微熱少年」(評論集)の中で本人が語っているように、一種の胎内願望を表現したものである。松本の詞は「硝子越し」というフレーズはなくても、独特の風景の描写から客体との距離感というものそこはかとなくにじみ出ていてそこが詞の魅力の一つになっている。ただ「硝子越し」というフレーズは視覚にのみ焦点を絞った表現であった。しかしこれらの曲ではもう一歩踏み込んで「水の中にいる」と言及しているので、受け手は体表感覚や聴覚からイメージを膨らませることができ、より強力な印象を受けることになる。ここで視覚によって演出された“胎内”から、五感全体に迫ってくる“胎内”を体験することになる。これらの曲に出てくる水とは“羊水”のことなのである。
ところで、これらの曲のように水についてのイメージを詞の中で使うようになったのは裕木奈江の「水の精」からか。「水の精」はセールス的には成功しなかったようで、「風街図鑑」のノートによれば本人もそれについて気にしているみたいだ。しかし「水の精」でのイメージの膨らませ方があったから「水中メガネ」「水族館の夜」という佳作が生まれたことを考えると「水の精」が有意義であったことがわかる。「水の精」の「すっぴん」と「サーブ・アンド・ボレー」の代わりにこの2曲をいれたらよいかもなどと勝手なことを考えた。水づくしにもなり、薬師丸の「花図鑑」に対抗できる。まあいずれにしても「水の精」は必聴。
「水族館の夜」最後のフレーズで題名にもっていくあたりが好きだ。
「水中メガネ」この小道具でよくこんなうまく詞が作れるものだなあ。