反射炉??う〜ん何でしょうか(笑)。
いつも通り、そこにあった説明の看板の内容を書いて見ます。
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洋学への関心と必要性が高まり、幕末期には幕府(伊豆、常陸)はもとより新しい時代への変革を予測した各藩(水戸・鍋島・島津・毛利)が競ってこの溶鉱炉を設置し、また民間経営の反射路も大分県安心院、鳥取県六尾、岡山県大多羅に建造されている。
その中で今日まで現存しているのは、幕府直轄であった静岡県韮山と萩藩の反射炉の2カ所だけであり、わが国の産業技術上貴重な遺跡である。
萩藩ではこれに先だって好生館に西洋学問所を設け、また長崎に藩士を派遣し西洋兵学に力を注ぎ、兵制改革、軍備拡充につとめた。
安政三年(1856年)には、眼下の前小畑に造船所を設立し、最初の洋式軍艦丙辰巳丸を建造した。
着弾距離の長い鉄製の大砲鋳造の必要が生じた安政五年(1858年)、この地に反射炉が建造されるに至る。
現在のこっている反射炉の遺構は、炉の煙突にあたる部分である。
高さ11メートルの玄武岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.45メートル、側面3.8メートル、上に向かって幅を狭める長方形で、上方は二またにわかれ、下方に2個のアーチ型の煙孔があいている。
昭和53年からの発掘作業では、前面に2本の煙道に対応して2機の反射炉があったことが確認されている。
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復元予想図です。 詳細が気になる方は、溶鉱炉って書いてある付近を クリックしてみて下さい。 |
炉の上部の構造は忠実に復元することが出来ないが、流線型の天井に反射して増幅される熱を利用した鉄や銅の溶解が行われたことは、韮山に残る反射炉によって知ることが出来る。
なお、前方の広場には、反射炉を管理する役所や、資材(鉄・銅・薪・石炭)置き場、人足小屋などの建物や囲・堀が発掘されており、これらの位置は低い土壌で表示し、柱の位置に玉拓殖を植えている。