2008年、当センターはNPO法人設立10周年を迎えます

法人設立10年目を迎えて


 理事長 工藤 定次

タメ塾という私塾、すなわち「ワタクシ」からNPO法人という「オオヤケ」への移行。私物(シブツ)から公器(コウキ)へ。主宰者たる私にとって当然の帰結であり、特別の行動としてあったわけではない。ただ、感情的にはタメ塾は上昇、それも急上昇期にあり、その上昇が結果として個の利益を上昇させるという結果をもたらし、その収益の上昇に嫌悪の感情というか、苛立ちというか、なんとも不愉快な感情と共に“怖れ”に似た感情が生じていたのは確か。
タメ塾という活動は、私にとって“遊びの場”であり、メシを喰う道具であってはならない、という『初心』があった。この精神を喪失することは己の足跡を否定することであるがゆえに収益の上昇は“恐怖”であり、この“恐怖”からの開放は“オオヤケ”のものとして、その存在を転化する以外に方法がなかったのである。
しかし、その選択も“二通り”があった。“安定”を望むのであれば、社会福祉法人という既成の組織へ。だが、既成の組織は、きわめて活動が規制され、なおかつ、安定がそれなりに保障されるがゆえに、墜落も容易であろうということ、と共にタメ塾の初志でもある“遊び場”から遠くなり、かつ“最先端”的活動はでき得ないであろう、という想いがあった。
その点NPO法人は“非営利”でありさえすれば何でも成しえる、という利点があった。しかもNPO法人は“オオヤケ”でもある。また更に規制というものがほとんどないゆえに、活動に自由性が保障されているのである。“遊び”ができる“公器”ということ。(ちなみに理事長と専務理事のヒメさんと二人は無給とした。また、理事会は外部有識者と利用者代表が三分の二を占め、理事長解任をし易くした)
気が楽になった。NPO法人とはいえ、工藤という個の手から離れたことによって己の活動は“オオヤケ”のものになったのである。己の“利”を拡大しない活動ほど楽なものはない。“胸を張って”活動できるのだ。私は生涯“ガキ”だろうが“我飢”であってはならない、と思って生きてきた。それゆえ、法人化は既定路線。
その通りに活動していると面白いもので、私の考えていたことが厚生労働省の施策の根幹となり、ヤング・ジョブ・スポット、自立塾、地域若者サポートステーションといった拠点が出来上がり、なおかつ『アウトリーチ』すなわち『家庭訪問』という究極の個人サービス手段が“閣議決定”され、実施されようとしている。また、高知県にあっては、高知県教育委員会が前述の施策に全面的に参加を表明してくださり、協働で活動することとなった。このことにより、弱者たる青少年たちの“早期発見”“早期対応”が実現することになったのである。
様々なことがあったが、既に過去のことであり、振り返ることに意味があるとは思わない。未来にこそ、過去は意味があるのであって、それ以上、それ以下ではない。
NPO法人設立十年目。節目ではある。もう工藤という個人は無用に近いものとなっても良い時期だ。淡々とその任を後任にふさわしい“若者たち”に託してゆこうと思っている。いつまでも“同じ場所”に同じ者が存在していては、更なる飛躍はありえない。未来は“若者たち”のものである。
老いるのは自然だし、悲しむべきものでもない。ただ、老いに執着し、老害になるのだけはひたすら避けたい。老いたら老いたで何か別な道はあろうというもの。 悲観的に以上のことを思い語っているのではなく、事実が進行していることを語っているに過ぎないのだ。
とにかく、タメ塾以来、三十三年が経過した。“遊び場”は“遊び場”として存在し続けてきた。他者の思惑、政治の思惑、その他の要らざる助言…
ソンナノカンケーネェー

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法人設立10周年を迎えて

  河野 久忠

新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
法人設立10周年を迎えたということで、私的にはもう10年も経つのかというのが正直な感想です。ひたすら日々の課題に追われあっという間な感じがしています。言い換えると毎日が過渡期という感じでした。それも今に思えばそれだけ社会の変化に合わせて若者の心の問題が日々変化しているということで、それは現在も一緒です。
私がこの仕事に足を踏み込んでからは、15年近い歳月が流れました。その当時を思い起こしてみると、よもや今のような形態となるとは想像もつきませんでした。しかし、当時の工藤理事長の言葉を一言思い起こしてみると確実に今を予測しそれに向けてひたすら布石を打ってきたことが実感として持てます。
この仕事に踏み込むきっかけとなったのは19歳のころでした。学業のあいまに理事長の運転手のようなことをしていました。免許を取ったばかりでお金もない私にとっては全国を車で旅ができる貴重な体験でした。その時は、本当に運転手であって理事長の話していることなど全く理解できず、ひきこもっている青年の家庭訪問について行っても傍らでお茶を飲み菓子を食べているだけでした。
そんな中で、中学3年生の女の子の家庭訪問に同行していました。行けば女の子はひたすら押し黙り、様々な問いかけや提案に答えるそぶりも見せませんでした。ご両親もほとほと困惑した状況でした。しかし、粘り強く半年以上訪問を続けた受験シーズンが近づいたある日、高校を受験してみたらとの問いに初めて「はい」と返事をしました。もう本当にこの子は変わんないのかなと思っていたときのその返事に雷に打たれたような感じと共に何ともいえぬ喜びが湧き上がるのをおぼえました。そして「人って変わるんだな〜」 「ひとりぼっちできっかけがないと動けないこともあるんだな〜」 「自分もそんな時があったな〜」など思いながら車にある受験資料を走って取りにいったことが昨日の様に思い起こされます。その3年後職員として働き始めました。
タメ塾時代から、今で言うニート・ひきこもり問題に取り組んできました。お勉強だけではなんとも難しい若者も多数出てきました。また、不登校などからきっかけから動きづらくなった年齢の高い若者が蓄積するような形で増加してきたのもこの時期だったと思います。必然的にその彼らに必要なことは何かと考えた際に、就労支援ということが中心にならざるをえなかったのです。
周辺は、心の問題ばかりに着目して現実どのように生きる力を獲得させていくということには目を向けていなかったのが現実でした。しかしながら、理事長以下、そこは一貫して就労支援を柱に活動してきました。それは何より当事者の若者たちは何とか自立したいとの想いが根底にあったからです。ただ孤立した状態で、「何をどのように展開してよいのか?」「いまさらもう無理なんではないか?」と言ったあきらめの気持ちをもってしまっている若者に希望の光を見出してもらいたかったからです。
様々な若者接する中で、今必要なこととは何か常に考え形を変えてきたのが私たちの場です。法人化にしたのも、一個人の看板では対応しきれないニーズとまた社会的な大きな責任を感じていたのも確かだと思います。その後、一年ごとに周辺の問題意識も変化しYSCとなってからは行政から様々な若者支援の委託を受けるようになったり、提言をするようになり見た目は大きく様変わりしました。
しかし、活動の根底にあるのは「人は変わっていける」と言う想いです。YSCの活動中心は変わらぬその想いがあります。これは今後も変わらないでしょう。私たちも時代とともに多くを学びながら変化を続けていきます。そしてYSCが必要とされなくなるまで時代が要求してくる若者の問題にできる限りの努力をしていきます。みなさまにおかれましたては今後ともご支援ご鞭撻の程よろしくお願いいたします

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NPO法人とYSC そして自分

  滝川 修三

NPO法人になって10年目を迎え、改めてタメ塾時代からのことを振り返ってみた。 
一スタッフとして北海道から東京に出てきたのが16年前。「やれることは何でもやろう」と、自分なりに腹をくくってタメ塾へ。3年たった頃には転職も頭をよぎったが、あるスタッフから「何言ってるの。まだ、たった3年じゃない」と言われ、また特にやめる理由もないなと思い、スタッフを続けていた。
1999年、タメ塾を改めNPO法人青少年自立援助センター(YSC)へ。法人設立当初、NPO法人になるということはどんなことなのか、自分なりに考えてみた。
個人から法人へ。つまり個人で運営していると、その中心人物がいなくなればその時点で運営団体は解散・消滅。法人で運営していると、一人が欠けても運営は継続される。働いている者の心構えとしては、一人一人が好きに仕事するのではなく、互いの役割を認識し共有することが必要になる。また、社会的には何となくそれまでとは違う意味・意義が生まれるのかと期待も少々あった。
しかし、目の前にいるスタッフや子ども達はなんら変わらない。自分の役割や仕事の内容にも大きな変化はない。外部の関係者も何も変わらない。すぐには何も変化がなかったのである。
法人化して5年目、北海道に寮を構えようということで、しもかわ寮の開設。福生の在籍生を連れ何度となく北海道を行き来した。また、研修を終えた在籍生を迎えにも行った。開設当初目指していた、田舎でチーズ職人や農業従事者を育て北海道に若者が定着するといった、理想の姿はかなえられず3年余りをもって閉鎖。ただ救われたのは、道外出身の一人の若者が2年余りで自立を果たし北海道に定着したことである。
最後に設立3年目になる障害者グループホームの開設。初めて自分が中心になって運営を始めた場である。設立数年前、あるベテランスタッフと車で移動中によくこんな話をしていた。「いろんな家庭でひきこもりの問題が起きているが、その中には発達障害らしき青少年が結構いるなぁ。なんとかYSCでそんな青少年達の生活の場ができないかなぁ。」
当時、YSC理事長も似たようなことを言っていた。そんな中、ある日そのベテランスタッフが新聞を持ってきて「これについて詳しく調べてみたら」という提案があり、ヒントを得た。自分なりに情報を集め東京都庁に何度も足を運び、また他のスタッフにも協力を得て、何とか開設にたどり着いた。
今3年目を迎え入居する人も徐々に増え何となく生活寮らしくなってきた。運営を続けていると、他団体へ行く機会や他団体の方と会う機会がグンと増えてくる。おのずとYSC以外の場所や人を知ることになり大いに社会勉強になる。法人化した意味・意義がようやく見えてきた感がある。
ここまで自分なりにこの10年間を振り返ってみたが、様々な青少年の自立支援事業が必要と言われる現代社会において、今後もNOP法人が果たす社会的役割は重要だと思われる。また東京都内では遅れているといわれる多摩地域においてはさらに重要になってくる。現在実施している事業を継続しつつ、今後もNPO法人として何ができるのか、情報を集め知恵を絞り、これぞという事業が出てくれば、前線スタッフとして行動していきたいと思う。

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あだち若者サポートステーションから

  石井 正宏

センターで働き始めたのが法人化して2年目の2001年だった。8年前の面接の日「あなたがあなたのままここに居てくれればそれで仕事になる。決してお手本になる必要はない。見本でいい」と理事長が言った。面白いオヤジ。面白そうな仕事。それがひきこもりという言葉も知らなかった私が理事長とセンターに対して抱いた第一印象だった。
寮生を中心としたおおらかな時の流れ方は今も変わらずセンターに流れているが、あの当時のセンターは輪をかけて牧歌的だった。今思うと当時のスタッフはいい意味でも悪い意味でも仕事をしていなかった。住み込んでいたスタッフが多かったせいもあるのだろうけど、彼らは寮生と共に“生活”をしていたのだと思う。
右も左もわからぬ畑違いの新人だった私は、とにかく彼らの動きを観察し、吸収しようと必死だった。そのせいか自分の支援者としてのアイデンティティには少なからず彼らからの影響が残っている(様な気がする)。
彼らは私が入職した早々に次々と退職してしまった。私は旧世代と新世代の交代劇の狭間に立った格好になった。今思えば、この入れ替えが本質的な「法人化」だったのではないかと思う。働く人が変わり、働き方が変わり始めたのだ。
数ヶ月しか変わらないのだが、ひきこもりを支援したいと働き始めた新世代スタッフと、何も知らない「あなたがあなたのまま」いた自分の間に価値観の相違があり、当時副センター長をしていた私は結構苦しんだ。寮生の指導方針が割れるのである。私は現場リーダーだったので現場スタッフはみんな葛藤を抱えながら仕事していた。
ちなみに「あなたがあなたのまま」の立場を守るために五年は業界の本を読むのを止めようと誓い、6年ぐらい読まなかった。だから、進歩的なスタッフとはますます波長が合わなくなったのかもしれない。
あの当時、支援の在り方について、毎晩スタッフの誰かがどこかで議論を交わし、宿直をしていると終電を逃したスタッフが酔っ払って遊游館に戻ってきたりしていた(そこからまた議論したりして)。何をあそこまで熱くなって議論したのかは今となっては覚えていないが喧嘩もした。何せ熱かった。きっと不安もあったんだろう。正解の無い仕事を情熱だけで立ち向かっていたのだから。
私の苦しみは、これまでのタメ塾からの理念(と呼ぶほど大げさだったのかは定かではないが)であった「みんな同じじゃん」というところにあった。どこか普遍的な理念ではあるが同時に違和感をも内包してしまう、実は強烈なメッセージを持つ理念。どこかで現実に目をつぶるような道徳的なひっくるめもある。と、当時の未熟な私は思ったりしていた。
あの当時の苦しみを漠然と振り返ると、「変わってはいけない」という継承する思いと「変わらなければ変えられない」という支援者としての葛藤をスタッフ全員が持っていた時期だったんだと思う。
そんな中、「ひきこもり」という言葉は「社会的ひきこもり」になり、支援の現場で「発達障害」という言葉が頻繁に使われるようになり、そしてその後すぐ「ニート」という言葉が「ひきこもり」という言葉に打って変わり爆発的に使われるようになった。社会的にも様々な面で整備が始まり、我々スタッフの頭の中も整理された。
センター内で完結していた仕事が委託事業を受けるようになり若者自立塾やサポートステーションなど、特に私は外へ出ることが急激に増えた。その間、厚労省から発達障害者が自立塾利用者に2割という発表があった。現在、私は足立区の生活保護世帯の家庭訪問を担当している。8年前、まさか自分がこんな仕事をしているなんて夢にも思わなかったような仕事に日々取り組んでいる。
当時の現場(私だけ?)で混乱を生んだ「みんな同じじゃん」というキーワードはノーマライゼーションという社会福祉現場の当然の理念であると今は自覚している。それを踏まえた上で、一人ひとりが固有の困難を抱えている事実を出来るだけ明確に見立て支援をする。ネットワークも当時より広がり、わからないことがあったら他団体や行政機関に聞く。出来ないことがあったら協力を要請する。そんなネットワークも整い始めている。私のいたこの8年は、法人にとっても、ひきこもり、ニートの支援業界にとってもまさに激動だったように思う。
若者はいつの時代も自立を望んでいる。このままでいいなんて若者は一人もいない。自分の不安や怒りを理解してもらえた若者の笑顔。出来ないと思い込んでいたものが出来たときの笑顔。若者が自分に見合ったゴールを見つけ時、みんないい笑顔をする。そんな笑顔を見ると、やっぱり「みんな同じじゃん」と思う。
これからも「変わってはいけない」という思いと「変わらなければ変えられない」という思いの狭間で、スタッフは、そして法人は日々成長を続けていくんだろう。

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高知若者自立塾から

  三宅 正則

僕がYSCで働き始めたのが28歳の時だったので、約7年間ココでお世話になっています。その頃は今の様な立派なセンターではなく、遊游館と呼ばれる木造2階建ての建物でした。奈良から上京してきた僕は、福生が自分のイメージしていた東京とは違い、少し戸惑ったことを憶えています。(当時は「ニート」と呼ばれる言葉はなく)ココは“「ひきこもり」と呼ばれる人達を社会参加させる場所”というのは聞いていましたが、いざ、仕事となると、何をすれば良いのか・・・寮生にどう話しかければ良いのか・・・初めは全く分からず、どうしようかと考えてしまいました。
当時、僕はラ・ネージュという寮生も住む3LDKの一室に住んでいました。「町中どこにでもいる若者達と特に変わらないなぁ〜」というのが彼らを見た第一印象でした。それから寮生達と寝食を共にした3年間は、本当にいろんなことがありました。色々あり過ぎてよく憶えていませんが(笑)、とにかくみんなでよく遊びました。毎日が楽しかった。ボーリングをしたことがないといえばボーリング場へ、釣りをしたことがないといえば釣りへ、スポーツ観戦、競馬場、キャンプ、カラオケ・・・と、こんなに遊んでばっかりで良いのかなと思うくらい彼らとは本当によく遊びました。入寮したばかりの彼らは、人の輪に入ることが苦手でした。が、時間を共有していく中で、少しずつ人と場所に慣れてゆき、笑顔が全く見られなかった彼らが、満面の笑みで大声を出しながら笑っている姿を見た時は、「あぁ、この仕事の醍醐味ってココにあるんだなぁ」と実感しました。
僕は仕事をする中でYSC以外の利用者とも多く関わる機会に恵まれました。家庭訪問、足立若者サポートステーション、東京しごとセンターでのワークスタート、福生若者自立塾と。それぞれ場所によって利用者も違えば、抱えている問題も違いますが、大概の若者が“働きたいという思いを持ってはいるけれど、各々何かしらの思いや問題があって、一歩を踏み出せずにいる”ことを知り、驚きを隠せない思いと同時に、社会問題化している彼らと携わっているこの仕事、をする上での自分自身の在り方を考えさせられました。
僕自身、何か特別な資格を持っているわけでもなく、高学歴でもなく、職歴といえば多数のアルバイト経験と、トラック運転手の7年間しかありません。が、彼らの悩みも様々なら、生き方も様々であって良いはずです。多様な人間が彼らと関わることによって、その中で彼ら自身が模索し、悩み、葛藤する・・・そこに何気なく寄り添ってあげることが、僕の仕事であり、そこに尽きると思っています。僕が積み重ねてきた社会経験が、彼らにどう反映するのか分かりませんが、「三宅さんでも一人前に働けるなら、ボクでも何とかなるかなぁ・・・」くらいに感じてくれたら、それでいいと思っています。これからも胸を張って彼らに遊びを(も)伝えていこうと思っています(笑)
そんな僕は現在、豊か過ぎる程の自然に囲まれた、クジラの見える高知県幡多郡黒潮町で若者自立塾の塾長をしています。昨年7月末に東京から移り住み、5ヶ月が過ぎました。10月にオープンした自立塾には3名が在籍し、僕を含め5名のスタッフ+犬1匹と共に、日々頑張っています。カリキュラムは援農(農業体験)とパソコンがメインですが、地域ボランティアを通して、地元の方々とふれあいながら、都会では味わえない人の温もりに僕自身も癒されています(笑)地域の特性やコミュニティを活かした、ココならではの活動もどんどん取り入れていきたいと思っています。美しい海・山・川・・・に育まれた自然の恵みがココにはたくさんあります。
是非、一度遊びに来て下さい。

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青少年自立援助センター本部から

  菅野 周平

「NPO法人ってなんですか?」この仕事に携わっているとよく聞かれる質問です。
福生育ちで理事長の長男と同級生である私は、前身であるタメ塾時代からだいたい何をしている所なのかということは知っていましたが、NPO法人になったと言われても「公的機関になったのかな?」「ボランティア団体?」くらいの認識でした。
前述の縁で理事長と呑む機会を得ることができた際、社会に出辛い若者に対しての具体的なアイデアを熱く語り、二十歳そこそこの若造である私に対しても気さくに率直な意見を求めてくる姿を見てこの人はプロとしてこれを生業にしているのだと直感的に分かりましたが、今までの私の“仕事”観からはかけ離れていて、理解し難い部分もありながらも何となく“自分の理念に基づいて好きなことをやる。それを実現するための資金を稼ぐ。”という仕事の在り方を羨ましくも思いました。
そんな経緯もあり、2002年、私が25歳の時、理事長から「働いてみないか?」と誘って頂いた時には迷わず飛び込みました。ただ、実際に働き出してからは、地元のNPOで働くということには興味があったが若者の問題に大して関心が無く、予備知識もろくな社会経験も無い私が在籍生に対して何をすればいいのか、何が出来るのか。最初の数ヶ月は驚きと戸惑いの連続で何も出来ずにいました。
突破口を開いた出来事は、毎晩のように寮で酒を呑んでいる在籍生に「どの居酒屋が好きなの?」と何気なく質問したところ、実は生まれてこの方居酒屋には行った事がないことが判明。じゃ皆で行ってみようよと有志を募ったところ意外や意外、10名もの在籍生が集まり大盛り上がり。皆で呑みに行きたかったけど誘えなかった、言い出しっぺがいなかったという理由でくすぶっていたとのことで“呑み部”を結成。部員同士、目が合ったら必ず「(呑みに)行きますか?」と誘わなくてはいけないという厳しい(?)掟を作り、ちょっとしたブームになりました。普段ほとんど喋らない在籍生も楽しそうに皆とワイワイやっている姿を見て、普通の若者が普通にやっていることを一緒にやっていけばいいのだと肩の力が抜けました。
そしていつからか「いろいろあるけど、頑張って自分で稼いだお金で楽しく呑みに行こうよ。」なんてもっともらしい事も言えるようになりました。一人の社会人として、同世代として、友人として、一緒に遊び、ご飯を食べ、仕事の訓練をし、時には喧嘩をし、その時々によっていろいろな付き合いがありますが、つまりは菅野周平という一人の人間として様々な環境・境遇、様々な経歴・気質をもった若者達と付き合える。それがそのまま元気ではなかった人が元気になり、働く自信が無かった人が働けるようになる手助けになったりする。そんな所に魅力を感じています・・・と言うと美し過ぎるような気もしますが、正直な想いです。
そんな私も勤続6年目。今までやってきたことをベースに、より面白そうなことかつ自分らしいことを追求して、実現していこうと思います。

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NPOの扉を開けて見えてきた世界

  工藤 姫子

この10年のYSCの歩みを簡潔に言えば、前人未到の原野を疾風の如く分け入ってゆく理事長の後から、スタッフと一緒にひたすら路を作り続けてきた年月でした。
理事長だけに見えていた未来に何が起こるのか、ワクワク、ドキドキしながら過ごした楽しい10年でもありました。
10年前、毎日何十人分もの食事作りが仕事だった私の知らないうちに、理事長、税理士である監事、会社経営経験のある職員がそろって、NPO法人の設立準備を進めていました。顔ぶれを見れば、NPO法人に欠かせない専門家がそろっています。詳しいことは分かりませんでしたが、NPO法人とは、かねてから理事長が標榜していた経営スタイルであり「こんなに都合の良い話があるんだぁ」と他人事のように喜んでいました。
ところが、設立後しばらくして、中心核であった職員が退職してしまいました。全ての業務が私に任されました。在籍生の食事の仕度どころではありません。会計のかの字も知らないズブの素人が、簿記入門書を片手に会計ソフトと格闘する日々が始まりました。それに加えて職員の給料、社会保険、雇用保険などの手続きもする必要があります。自慢ですが、生まれてこの方社員と名の付く立場になったことがなく、まったく無縁の世界です。
毎年の決算があり、事業報告書があり、法務局の登記があり、職業安定所の手続きがあり、NPOにならなければ絶対に足を踏み入れることのない世界の中で、まったくモガクという言葉がうってつけの日々でした。監事の助言にも助けられ、これまた生まれて初めてこれほど勉強した期間もなかったように思います。
経理というものは、本当におもしろいものです。散々悩んでBSの一円が一致した時の喜びは経験したものでなければ分かりません。と同時に事業を運営するための経理の重要性も思い知らされました。「どんぶり勘定」を当たり前のように考えていた個人経営とは別の次元でした。委託事業を受けるようになると更に経理の厳密性が問われることになりました。財務省、会計検査院という国のお財布を監視している方々の前で本当に恥ずかしい思いもしました。ついでに税金を使う国の考えも分かりました。「なるほど、そういう構造になっているのネ」なんて具合に。
そのような経験を積んでどんどん知識が深まってきました。事業の予算を考え、それが実施され、成果を上げ、決算に結びつく。この作業がおもしろくてたまりません。
この10年で多くの職員が関ってくれました。皆が一緒に路なき路を作り上げてくれたのだと感謝しています。毎月の給料計算。何とかやりくりして昇給、賞与と労力に見合うだけのものを返すことができればどんなに良いか。昇給をした月、PC画面に出てくる給料明細の画面を見て最初にため息をつくのは誰あろうこの私でした。所得税減税されたものの、社会保険料改定、住民税改定…次から次へと控除額が増え、精一杯昇給しても手取りに反映されるのはわずか。下手に昇給すると料率が上がって火に油を注ぐようなもの。「皆どうやって生活しているんだろう」ニートならずとも、正社員でもこの有様です。「これからの日本はどうなってしまうんだろう。」と一人ほほ杖を付いて考え込んでしまうことも度々です。
理事長の推す事業に付随して、様々な事業も行ってきました。片っ端から助成金財団に申請書を送り、寝ても覚めても「先駆的」という言葉が離れませんでした。様々な財団から助成金をいただきました。いろいろな事業も行わせていただきました。ここでも事業報告書の書き方に大いに悩まされました。それまで、われわれが使っていた文章とは違い、財団に提出する報告書は、研究結果を報告するものであり、それなりのスタイルが必要だということを学ばせてもらいました。つくづく世間は広いと思わずにいられません。
三年前、空から降ってきたような話が舞い込んできました。新施設の建設です。「この世に針刺す土地も持たない」貧乏人を自称していただけに、まるで他人事のようでした。あれよあれよという間に話が進み、立派な施設が建ちました。何億円もの借金をして建てたものですが、相変わらず他人事のように思えてなりません。これで最低あと15年は働かなくてはいけない羽目に陥りましたが、唯一の救いは、これが工藤個人の財産ではないということ。
二年経った今でも、車で帰る道すがら三階建ての白い施設が見えると「へぇ立派だなぁ」と感心している自分がいます。
私の夢…現役を引退したらYSCにお掃除伯母さんとして雇ってもらい、一日中寮内をピカピカに磨き歩くこと。
皆様、これからもYSCにお力添え、よろしくお願いいたします。

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