すのはらの「春原主義」
読書録というよりエッセンスを(第1巻)
1997.8.8更新
●佐々木正人/アフォーダンス−新しい認知の理論
(記1996.7.29)
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重要なのは、変化しないことではなく、変化することによって、対象の不変な性質が明らかになることである。
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情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にある
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知覚は情報を直接手に入れる活動であり、脳の中で情報を間接的につくり出すことではない。わたしたちが認識のためにしていることは、自身を包囲している環境に情報を「探索する」ことなのである。環境は、加工されなければ意味を持たない「刺激」のあるところではなく、それ自体で意味を持つ「情報」の存在するところである。
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動物は情報に「反応」するのではなく、情報を環境に「探索」し、ピックアップしている。
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アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。それは「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは知覚者の主観が構成するものでもない。それは環境の中に実在する、知覚者にとって価値のある情報である。
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「学習」とは、環境に多様に存在する情報を特定できるように、(知覚の)システムの動作を不断に豊かにしていく過程、システムの「分化」の過程なのである。・・・知識を「蓄える」のではなく、「身体」のふるまいをより複雑に洗練されたものにしてゆくことが、発達することの意味である。
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「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべきだ。
岩波科学ライブラリー、1994年、¥1,000
●リチャード・ワーマン/理解の秘密
(記1996.7.20)
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毎日の生活は、インストラクションの受けわたしで成りたっている。・・・地球規模のコミュニケーション・ネットワークが存在する時代では、インストラクション技術が生活の中でますます主要な役割を演じるようになる。
・インストラクションはコミュニケーションの主要素である。
・インストラクションはコミュニケーションの駆動力である。
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情報をベースにした経済では、より高度なコミュニケーションが求められる・・・情報はいまやわれわれの経済の基盤となっており、それとともにコミュニケーションの需要が高まっている。人びとすなわち、顧客、クライアント、セールスマン、同僚などどうまくやっていくには、流れ作業で働くよりも知的に高度な技能が必要なのである。・・・情報はインストラクションを通じて利用される。想像力豊かなインストラクションの送り手や受け手となるためには、読み書き能力は必要不可欠なものだ。・・・インストラクションを伝達するには言語能力が求められる。
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(人・もの・金)・・・「人的資源」という呼び名について考えてみよう。・・・働く人たちは人間ではなく、鉱物やお金と同じ資源のひとつにされてしまった。
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不安に思っている人はあえて能力の限界までやろうとはしません。不安だったりおびえている人たちは進んで危険をおかすようなことはしないのです。しかし、愛で人を動かすなら、つまり、尊敬と信頼の気持ちを示せば、人々はめいっぱいがんばろうとします。なぜなら、そういった雰囲気なら、あえて危険をおかすこともできるし、ミスだってできるからです。
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聴く力をもっと身につけよう。・・・世の中は聞き手ではなく話し手を評価し、消極性ではなく積極性を評価する。(たいていの人は。受け身に回るのは劣った立場に立つことだと決めつけて避けようとする。)・・・しかし、価値あるコミュニケーションにとって、消極的とされる聞く要素は、積極的な話す要素と同じくらい重要だ。話している限り聞くことはできないのだ。(聞くことが不得手の人は、前進も進歩も成長もできない。まさに、自分からは何も学ぶことはできないのだ。われわれは自分以外の人からのみ学ぶことができる。したがって学ぶためには、ほかの人に耳を傾けなければならない。)
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他人の調子に自分を合わせると、その波長でコミュニケーションが前よりも上手になるだろう。
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絵による情報は理解の速さの面で有利だが、活字による情報も正確を期すためには欠かせない。
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ジョン・ケージは、音楽を構成するものについての合意を破った。大胆な代案は、ルールを守らないことから生まれるのだ。
NTT出版、1993年、¥2,800
●瀬戸賢一/レトリックの知
(記1996.6.22)
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(「希望と不安」のように反対の意味のことばが組み合わさってできた)対義結合は、狭い伝統的な修辞の殻を打ち破り、表現の世界から、さらに、わたしたちの認識・行動の広い世界へと一歩を踏み出す。つまり、人間の文化一般を見渡す高台に立とうとするのである。
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世界とは、もはや、おのおのが独立した個の寄せ集めではない、世界は構成されたものにすぎない、そこで重要なのは、実体ではなく、意味を生成する関係であるのだ。
新曜社、1988年、¥2,266
●ノーバート・ウィーナー(鎮目恭夫[訳])/発明
(記1996.3.23)
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一つの新しい発見方法の発見というものは、すでに発された問いに答えるだけの価値しか持たないことは滅多にないような、大きな発明なのである。
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高速の翻訳機械に釣り合わすためには、機会を助け舟に出さなければならない翻訳者を使うのではなく、異常に高い能力をもつ翻訳者を使わねばならない。従って、知的作業におけるこの種の機械の効果は、必要な第一級の頭脳の数を減らし、それらの頭脳に課する要求を大いに増やすことであろう。
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(保険会社が成り立つのは、それが統計的に計算できるリスクの範囲しか扱わないからである。天災などの不可抗力による非常事態のように統計的に計算できないリスクに対しては、適用されない。非常事態の犠牲者を世話するのは、教会や我々の慈善的感情によってどんな企業よりも長続きをしてきた、資本主義のシステムの外にある機関や慣習なのである。つまり、)我々が実際に支持している資本主義的な拘束力とフィードバックシステムは、慈善的、宗教的、およびその他の営利が主な動機ではない社会的な機関や慣習が同時に存在することによって、深く修飾され緩和されているシステムである。
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真に新しい発明は計算できないリスクの重要な諸要素を常に呼び出す
みすず書房、1994年、¥2,500
●村上陽一郎/文明のなかの科学
(記1996.1.29)
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では、一体ガリレオの当時、科学と宗教は分離していたのであろうか。そもそも宗教的体系から分離した「科学」などというものが、当時に存在したのであろうか。・・・ガリレオ事件が、宗教と科学の間の混同によって引き起こされた不幸な事件である、という解釈は、少なくとも歴史的感覚から言えば、正当とは思われない・・・ガリレオやデカルト、あるいはニュートンものもにしても、いずれも、われわれの考えるような「科学的」理論ではなく、宗教的、神学的な全体知識体系のなかの有機的な一部であった
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確かに現代には、科学は宗教とは関わりなく独立しており、両者は相互に自分の領域を守っているかのように見える。しかし、そうだからと言って、その分離が起こっていない時代に、それが起こっていないことを反省しなければならないとすれば、要するに、過去は現在から見てすべて反省の材料になってしまわざるを得ないのである。
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ある他文化、あるいは異文化において行われる行為の理解というものは、・・・その行為を内包する文化の全体的な理解なしには成立しない・・・行ってはならないことは、異文化のなかに観察される行為の意味や価値を、観察者自らの文化的文脈のなかに置いてしまうことである。
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他者の理解が成り立ち、自己の変革が成り立つことは、・・・価値判断の場面でこそ、最も重要な人間の証であるし、それが可能でないはずがない。・・・二つの価値体系の間を、相互に往来することができる能力・・・その能力を保証されて、初めて、人間は、一つの行為が、ある状況と別の状況とで、別様に判断され評価されることを知ることができるし、・・・主体者としてそう行動することもできるようになる。そのダイナミズムの結果として現れるもの、それが「寛容」という徳として理解できる
青土社、1994年、¥2,200
●松岡正剛/フラジャイル
(記1996.1.21)
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弱さは強さの欠如ではない。…それは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。
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脆いこと、ここにこそフラジリティの中心がある。…フラジリティが「はかない消息」を背景にひそませている…われわれが「堅い私」にとらわれているかぎり、これら「はかない消息」のいっさいは閉じられたままである。それゆえ、われわれは「弱い私」をどこかでどこかに放電させなければならない
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「私」をフラジャイルな状態にしておくこと、それがさまざまな延長の自由を可能にする。
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ほんとうに劇的な変化は弱々しい微妙な変化にこそひそむ。
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われわれはいつかどこかで「強さ」の神話を刷りこまれすぎた
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弱さは意外な多様性をもっている…そして欠如や喪失や挫折こそが歴史をつくってきた
筑摩書房、1995年、¥3,200
●佐藤信夫/レトリック感覚
(記1995.12.26)
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人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく、わたしたちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だった
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類似性にもとづいて直喩が成立するのではなく、逆に、直喩によって類似性が成立する…常識によってはじめから認められている類似性にもとづく比較表現はあくまで平叙文であり、意外な類似性を提案する比較表現が直喩だ…すなわち、レトリックの直喩とは、発見的認識である。
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否定表現は…虚の像をえがき出す。「うれしい」と言うとき、人はたんにうれしいのであろう。それに対して、「かなしくはない」と言う表現は、うれしさのかたわらに、存在しないかなしみの映像を成立させる。
講談社、1983年、¥980
●マーチン・ガードナー/自然界における左と右
(記1995.12.4,改1995.12.16)
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鏡が、ものの左右を逆にするだけで、上下は逆にしないのはなぜだろうか。…鏡は左右を逆転してはいない。ほんとうは前後を逆転しているのである。
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右とか左とかは、われわれがそれぞれ意味を与えるのであって、それ自体に意味があるのではない。…非対称でないものが二つ同じ空間に同時に存在していて、そのどちらかに左とか右とかの呼称がつけられたときにはじめて、もう一方の呼称が任意でなくなるのである。
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n次元にある非対称な図形を鏡像にするには(n+1)次元の空間を使ってその図形を回転させればよい。…あらゆる空間の左右像が実はすべて合同で、互いに重なり合うことができる
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右と左の区別はどの銀河系にいる知的存在にも、パルス状の信号で伝えられる。われわれの宇宙のニュートリノは三つとも永久に左回りである。左の意味を別の銀河にいる知性に伝えるには、パリティを保存しない実験を記述するだけでよい。
紀伊国屋書店、1992年、¥3,500
●小林康夫、船曳建夫[編]/知の論理
(記1995.12.4)
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われわれが対象を認識するのは言わば言語が作り出す関係の網を通してなのですから、むしろ、関係が対象をあらかじめ規定していることになります。…ということは、…主体の意志を超えて、言語や関係の論理が主体を拘束しているという事態をわれわれはわれわれの自己理解や他者理解の中に組み込まなければならないのです。
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他者に自分の認識を伝えるということは、同時に、自分の認識が問い直され、その論理の限界が指摘され…るということ…主体が、あるいは自分の確信を揺るがせられるかもしれない局面に自らをさらすということ…です。
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われわれの誰もが心のなかに抱えている無意識が表象されるときには、その表象は、多かれ少なかれ他人には理解できない形をとる
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理解しようとするものは、自己がすでに抱いていた見解や立場を変える、あるいは、放棄すらもする可能性を排除してはならない。
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<他者>像を構築することと<自己>像を構築することとは相互に補完的なプロセスである
東京大学出版会、1995年、¥1,545
●シェル・シルヴァスタイン(倉橋由美子[訳])/ビッグ・オーとの出会い
(記1995.12.4)
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どこへ行くかはわからないけれど、ちっともかまわない。
ぼくはころがってるんだ!
講談社、1982年、¥1,500
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