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V トイレの水と蒸留水

 トイレの水は汚くない。特殊な設備を施したところは別にして、日本ではトイレに飲料水を流している。だから、立派に飲めるし、料理にも使える。一本の水道管から分岐しているのだから当たり前のことだが、場所が場所だけに、日本的な感覚で汚いと思い込んでしまうだけのことである。ただし、欧米人にはそんな感情はないようだ。西洋式のホテルでは、トイレだけの個室というのはまずお目にかかれない。風呂や洗面所と同じ、体をきれいにする設備の一つなのである。

原子吸光分析装置  昔、アルミサッシ工場に勤めていたころ、水は何本かある井戸から汲み上げた地下水で賄っていた。古い工場で、配管がさびているため、朝は鉄さびで水が赤っぽくなる。特に連休明けの月曜日などは真っ赤になり、鉄臭くて飲めたものではない。それでも、蛇口をひねって15分ほど出しっ放しにしておくと飲めるようになる。色とにおいは完全には消えないが、インスタントコーヒーならさほど気にならなかった。

 そのうち、研究に必要な蒸留水製造装置購入の稟議が下りた。水に溶けている塩分を粟粒状のイオン交換樹脂で除去した後、石英ガラス製のヒーターで蒸留する機械である。水蒸気は原水で冷やされるから、省エネルギーになる。

 取り扱いはわりと簡単だった。タンクがいっぱいになると自動的に電気が切れる。どれくらい純粋になったかを示すメーターも付いていて、樹脂の寿命が来たらひと目で分かる。今考えてもなかなかよくできた装置だった。赤々と熱せられたヒーターで水が定常的に沸騰するさまは幻想的でもあり、不思議と目を奪われたものである。

コーヒータイム  採れた蒸留水はすばらしく純粋だった。それまでは、工業用の大型イオン交換設備がある場所までポリ容器を引っ提げて採取に行っていたのだが、そんな手間も要らない。毎日のわたしの仕事はこの装置を作動させることから始まった。あるとき、だれとはなく
「この蒸留水を飲んでみては」
と言いだした。

 同僚の一人に原さんという人がいて、
「あまりにも純粋な水を飲むと体に悪いと聞いたことがある」
とちゅうちょする。そう聞くと皆そのまま飲む気にはなれず、コーヒー用にやかんで煮沸して使おうということになった。湯冷ましを飲んでみると味もそっけもないが、鉄臭い水よりはずっといい。

 しばらくすると、
「体に悪いのでは」
と、ためらっていた原さんも飲み始めた。そのうち彼は自分から率先して、真っ先に飲むようになった。蒸留水はわたしが造り、お湯は彼が沸かしてくれた。それ以来、何年間も蒸留水を飲んだが、別段体の具合を悪くする者もいなかった。


(C) 1991 k-tsuji
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