日本への引き揚げ

父は土地を持っていました。それがカナダに来た理由でした。 送金して土地を守り抜くことに責任を感じていました。父は自分の代で土地を 少しも失いたくありませんでした。 結局父は死んでしまい、母は特にする事がなかったので、私に日本語を 教えるようになりました。 松下家もレモンクリークにいましたので、リリー松下も日本語を習いに来てました。 レモンクリークにはコミュニティーが出来て、ちょっとした文化活動が行われていまして、華道、裁縫に奥さん達は集まって来てました。 私はそれまでこんなに多くの日本人を見たことがなかったので、 この環境が気に入ってました。 みんな同じ人種なんだ、でもその時は戦前にバークイトラムにいた回りの人達との違和感はありませんでした。
ポテトやひまわりの種を売りに来た多くのバークィトラムの人達 (訳注 ロシア人のバークィトラム教の人達が売りに来ていたらしい) の回りでふざけているのが好きでした。

戦前の両親の考えは、私をカナダに残し農園を自分でやらすことでした。
カナダで生まれ育っているので、「博ちゃんの考えは変えられないよ」 と言ってました。 博史を残して帰国することになるだろうが、農園は継ぐことがなかったにしても ニューウェストミニスターあたりに行って、パン屋か何かやっていけるだろう。 カナダでの私のことがすべて片づいたら、両親は日本に帰るつもりでいました。 父は平均的な日本人で、当時の平凡な日本人でした。 他の日本人との違いはありませんでした。 父はとても正直で、実直でした。多分、戦争に行けと言われたら行ったかも知れません。 当時、私は行けと言われても戦争には行きたくありませんでした。 母も平凡な女性でした。私のことをとても心配してくれて、小さい頃から 日本語を教えてくれて、私も漢字をよく勉強しました。 実は、戦後戻ってきてからのことは、あまりよく覚えていません。 母は、本当の先生ではなく、浅水にある書道に熱心な農家で育っています。

日本に帰らなければなりませんでしたというよりも日本に帰るしかありませんでした。 母は、日本に残してきた初子とトミエのことを心配していました。 私は、15歳か16歳で実は日本語がほとんど話せなく日本には行きたくありませんでした。 日本語の勉強はしていましたが、会話をするには十分ではありませんでした。 心の中では、日本は戦争に負けたので、いったい何が起こるのか分からないと知っていました。日本には食べ物がないことを聞いたり読んだりしてたし、ここに戻って来てアメリカ人と付き合うならまだしも、日本人と付き合うのは苦手でした。 同じ人間だとは分かっていましたが、今、アメリカ人達と付き合っているように 日本人と仲良くやっていくやり方を知りませんでした。でも、多分今のカナダ人とよりうまくやっていけるだろう、ただそうするには努力が必要でした。

我々日系カナダ人たちは戦争に負けた日本に戻るような気がしていました。でもこの場合ほとんどの 日系人は戻るべきではない、カナダに居続けるべきだと感じていました。 多くの人が収容出来なかったかも知れませんが、私はジェネラルM.C.メイグスに 乗船出来ました。 戦前この船は指揮艦で、ほとんどの日系カナダ人はM.C.メイグスで帰国してます。 我々と同じ船には、敗戦で爆撃された日本の観光するためにアメリカ人が乗船するためのデラックスなファーストクラス客室がありました。 彼らは上のデッキから船の左側の我々を引き揚げ者として眺めてました。 横浜の南にある全ての船が到着する浦賀についたのは暑い日でした。 浦賀はコモドー・マッシュー・C・ペリーが1853年に来船したのと同じ場所です。 東京や横浜にはたくさんの潜水艦が沈んでいたため大きい船は寄港できないので、 我々は浦賀に到着しました。
船が港に入るとアメリカ海軍のモーターボートが船を検査するために乗船して来ました。 何人かの日系二世はデッキで 「あっ、アメリカ人が来た。日本は本当に戦争に負けたんだ。」と言いました。 その時まで多くの人たちは日本が本当に戦争に負けたとは信じていませんでした。
その後、いろいろなタグボートが積み荷を降ろしに来て、そちらには中国かどこかから引き揚げてきた日本陸軍の男達が一杯に詰まれていました。彼らは積み荷を降ろすのに慣れていましたが、とても貧相に見えました。 船でシートや毛布にくるまれ、中にはトイレットペーパーさえ巻き付けている人さえいました、彼らはトイレットペーパーも何も持たないで帰って来たようで、それはひどい状態でした。人々を先導して他の回りの軍人に命令している何人かの将校は少しずる賢そうに見えました。
ほったて小屋に着くまで我々はなにも食べませんでした。 みんな何も食べていなかったので、缶詰のごはんと具のはいっていない味噌汁を 配給され、蚊帳の中で眠りました。 2週間後に我々は日本の管轄下となり行けるところか行きたいところへ 引き揚げ者として送られることになりました。 私たちの場合は田舎の上沼に行かなければなりませんでしたが連絡が取れず、一本の電話も出来ませんでした。 とても混んでいたため汽車に乗ることが出来なかったり、時間通りに動かなかったり で、2週間もの間、いったいいつ仙台に戻れるのか分かりませんでした。 九州には何千もの日系二世がいましたし、東京は廃墟でした。
我々は今でも米軍の軍港があり日本の海上自衛隊の基地としても使われている横須賀から 汽車に乗って確か新橋駅あたりの所まで行って、上野駅までの各駅停車に乗りました。有楽町を通り過ぎる時、東京はただの平野で赤いブリキの屋根の小屋だけしかない所だと分かりました。 東京の一方から他の場所を見ると広大な平たい屋根の土地だと分かるでしょう。 道はまだ残っていて、たまに米軍のM.P.のジープが多くの人たちか往来している有楽町方面を通るのが見えました。 有楽町は歓楽街で人々はストリップショーによく行っていました。 米軍の兵士が回りにいるとかいまだに戦争の雰囲気が残っているとかそんなことが全てショックでした。
日本を占領するためアメリカ人はここにいるのに、日本人は誰も戦ってこないと言ってました。 日本人は「ヤンキーが来た」と言ってましたが、それは複雑な気持ちでした。 カナダ人は違いました。その時、日本に来たと言う気持ちの中に、心の底では日本人ではあるが戦争に勝った国のカナダから来たことが分かってました。 その時、多くの日系二世は日本に来てこんな風に優越感を感じていたと思います。 私は東京の上野駅で午後の11時まで待って汽車に乗ると空席がなかったことを 覚えています。 遅い時間でしたが、多くの人々が立っていたり、床で眠ったりでいろいろでした。 仙台を汽車が過ぎたとき、この町も平坦な町でした。 ついに上沼に到着した時、母の心配通り駅には誰もいませんでした。 結局義理の兄が姿を現し、我々は家に歩きました。

私は、ここで本当に歓迎されているのかどうか分かりませんでした。 姉達とは3歳か4歳に逢って以来でしたし忙しそうでした。 その当時は食べ物なんかの物資が不足していて、今日食べていくことを考えることが何より重要でした。 一般的にはたとえ自分の家族だとしても新しく来た人を歓迎するほど気前良くありませんでした。
Next page      Previous page      home page