バルト研究書 その2

2015.11.23更新(印が主な更新個所です。)

6.戦後のバルト研究書(1)――バルトを中心に論じた書

日本での出版年順。重要な著作や割と参考になりそうな著作は太字。

近藤定次、『バルト神学における神と人間』、新教出版社、1950。
旧活字印刷。「神の像に」とか「神に似せて」とはいったいどういう意味かという問題について、バルトとブルンナーの神学に肉迫しようとしたもの。
村上俊、『ルッテルとバルト研究』、比叡書房、1950。
旧活字印刷。11論文集。ルター関連4本、バルト関連3本、他に、「神学の学問性について」、「神学の実証性と合理性」、「啓示と理性」など。
『福音と世界』1956.5、新教出版社。
特集「バルト生誕七十年記念」。バルト(井上良雄訳)「日本の友へ」、バルト(井上良雄訳)「汝らの救われしは恵みによれり」(エペソ2:5)(1955.8.14バーゼル刑務所での説教)、熊野義孝「バルトの教理史的位置」、鈴木正久「神学的倫理の展開」、飯坂良明「バルト神学の政治的決断」、W.コーラ−(岩永達郎訳)「教会の状況に対する「然り」と「否」――バルトにおける今日の教会の課題」、中川秀恭「バルトとブルトマン――聖書解釈の問題をめぐって」、吉永善夫「日本的心性とバルト神学」、倉松功「バルトの神学と日本の教会――バルトはどう受け容れられたか」。
「バルトとの邂逅」として1頁ほどの文章を次の4名が記している:菅円吉「神学的思惟の独自性」、善野碩之助「教義学公園の散歩」、山本和「高倉徳太郎からバルトへ」、桑田秀延「バルト神学の生命力」。「私とバルト」と題した23名のアンケート(雨宮栄一、小林信雄、赤岩栄、由木康、関根正雄、船水衛司など)。
小平尚道「バーゼルとバルト」、ウジェヌ・ポルレ(波木居齋二訳)「自由とユーモアの人――バルトの打解けた談話」、前田護郎「バルトとの会遇の思い出――戦争から平和への間」、滝沢克己「バルト先生の人と神学」(これは「7月号へ続く」とある)、トゥルナイゼン(菅円吉訳)「カール・バルト――七十歳誕生に当って」
なお、たまたま見つけたものとして、『福音と世界』(1958.6)に永井春子「カール・バルト教授の下で」がある。
ジョン・H・ヨーダー(訳者不明)、『カール・バルトとキリスト教平和主義』、日本メノナイト文書協会、1958(原著年不明)。
訳者は匿名にされているが、『神学』58号206頁によれば、熊澤義宣。古典的にキリスト教の流れの中にあって戦争を擁護しようとしている考えを、バルトがどのように反駁しているかを示している。
菅円吉、『カール・バルト研究』、教文館、1968、208頁。
過去の著作の中の代表的な論文も含めた6論文集。「バルト神学の構え――神学の学問的性格」、「神学と哲学の境――神学的認識の問題」、「バルト神学における中心的なもの」、「バルト神学と芸術」、「バルト神学における聖書解釈の問題」、「バルトとブルンナーの『神の像』論争のゆくえ」。最後にあとがきのような形で「バルトと私」。「バルト神学の理解についての基礎的な論文ばかりで、バルトを理解するためにはぜひ知っておいて欲しいと考えられる諸問題を扱ったもの」(まえがき)。この本に収録の6論文はすべて菅支那編『菅円吉論文集 バルト神学研究』に再録されている。
M.マコヴェック(堀光男訳)、『マルクス主義からの問い――マルクス主義とバルト神学の対決』、新教出版社、1970(1961チェコ語版、1965ドイツ語訳)。
「彼はキリスト教信仰を単純に押しのけずに、それを真の、すなわち、ヒューマニスティックなマルクス主義によって止揚しようとする」。「宗教は現実をゆがめて反映し神秘化するものであるから、あくまでもしりぞけられなければならないが、しかし宗教を神学においてのみならず現実においても否定することができるのは、現実の正しい反映であるマルクス主義的無神論以外にはない」(訳者のあとがき)。
吉永正義、『バルト神学とその特質』、新教出版社、1972、458頁。
第一部「バルト神学の研究方法について」では、バルト神学の「即事的」な研究方法について。その後がすべて第二部で「バルト神学の特質」。「第1章 キリスト論的基礎づけ」では、「神学的人間論の方法」と「キリスト論的基礎づけ」の二つの節。「第2章 啓示認識」では、「神学の学問性」、「神学の対象」、「四つの特徴」(祈りの中の思惟、多角的な螺旋形状の描写、具体的なものから一般的なものに進む思惟の方向付け、活動的見方(Actualism))、「神学的倫理」、「バルト研究の特殊性」。「第3章 三位一体論的基礎づけ」では、「キリスト論的基礎付けは三位一体論的に基礎づけられている」。「第4章 三位一体論」は、KDT/1, S.311-514を「わたしが理解したまま」述べる。巻末に参考文献表あり。
山本和、『政治と宗教――カール・バルトはどう闘ったか』、教文館、1974。
香柏書房1947年初版の内表紙に書かれている副題は「キリスト者バルトはどう闘ったか」。第一部「キリスト者バルトはどう闘ったか――政治対宗教の現代的局面」、第二部「キリスト教と政治」。さらに教文館版で、<付録>として飯坂良明との対談「国家と宗教」が加えられた。「≪政治と宗教≫の内的・必然的関連の追求は、どんな時代にも避けられぬ、永遠の課題である」(「改版序」の3頁)。
浜辺達男、『滝沢克己とバルト神学』、新教出版社、1974、190頁。
「滝沢がバルト神学に対峙して捨象せざるをえなかった部分は私たちにも受容困難な部分である」(10頁)として、滝沢哲学におけるバルト神学の受容と捨象を通して日本人の思惟を探る。
寺園喜基、『カール・バルトのキリスト論研究』、創文社、1974、254頁。
「第一部 カール・バルトにおけるキリスト論」、「第二部 滝沢克己におけるキリスト論とバルト理解」、「第三部 キリスト論における歴史理解と神認識の問題」。「バルトの神認識は、アナロギア・フィデイであるといえる。これは神を認識するための手段ではなく、神認識そのものを意味する」(212頁)。
小川圭治、『主体と超越――キルケゴールからバルトへ』、創文社、1975、466頁。
戦後日本の思想において、真の主体性を確立するための徹底した自己否定が、自己絶対化による自己肯定に倒錯してしまった。第一部で、ヨーロッパ思想におけるこの主体性確立の問題の背景を明らかにし、第二部で、キルケゴールの思想を手がかりに論じる。第三部で、若きバルトの神学思想の形成を解明することで、主体性の確立の問題を考察する。
T.F.トーランス(吉田信夫(しのぶ)訳)、『バルト初期神学の展開 1910-1931年』(現代神学双書64)、新教出版社、1977(1962)、420頁。
バルトが初期に神学的方法を形成していった過程を明らかにする。第一部「カール・バルト――その人とその事業」の後、第二部「バルト神学の発展」で「新しい出発点」、「弁証法的思考から教義学的思考へ」、「『教会教義学』への移行」の三つの段階を特徴づける。第三部「現代神学におけるバルトの位置」では「バルト神学のもたらした転換」。トーランスはスコットランドの代表的バルティアンで、アメリカのプロミレーと共にKDを英訳した。トーランスのバルト解釈は、バルトが神学の対象を発見し、バルトにおいて神学的科学が成立したと主張する点で、客観主義的(大木英夫『バルト』、講談社、1984、378頁)。
上田光正、『カール・バルトの人間論』、日本基督教団出版局、1977、382頁。
ゲッチンゲン大学での博士論文をもとにした著作。KDV/2を中心に研究。「人間論の基礎づけのキリスト論的原理」、「人間論の展開のキリスト論的原理」、「人間論の批判のキリスト論的原理」が中心的主題。
菅円吉(菅支那編)、『菅円吉論文集 バルト神学研究』、新教出版社、1979、534頁。
編者は円吉の妻。バルトの写真あり。「第一部 歴史」として「転換期のキリスト教」と「弁証法神学の発生と発達」、「第二部 本質」として「バルと神学の構え――神学の学問的性格」「バルト神学における中心的なもの」「バルト神学における聖書解釈の問題」「終末論に関する一考察」「啓示と理性」、「第三部 展開」として「バルト神学における『隣人』の問題」「神学と哲学の境――神学的認識の問題」「バルト神学と芸術」「バルトにおける神学的倫理学の位置――教義学と倫理学の関係」、第四部は「理性と啓示」と「バルトとブルンナーの『神の像』論争のゆくえ」。巻末に、菅支那「菅円吉の生涯と思想」、吉永正義の解説、略歴とバルト関連主要著作目録。この本で主要論文を網羅している。これらのうち「啓示と理性」は『教義学講座2』(日本基督教団出版局、1972)所収。
エバハルト・ユンゲル(大木英夫、佐藤司郎訳)、『神の存在――バルト神学研究』、ヨルダン社、1984(19763)、286頁、3200円。
「『教会教義学』の思想過程を解釈しつつそれをパラフレーズすることを意図した」(11頁)著作。ゴルヴィツァー批判をきっかけにして、「バルトをルター的な『十字架の神学』の性格において解釈し」(訳者あとがき)、神の存在を存在論的に位置づける。「バルト神学の内的構造が分かる」(大木英夫『バルト』講談社、1984、379頁)。
『日本のキリスト教とバルト――生誕100年をむかえて』(新教コイノーニア3)、新教出版社、1986、104頁。
45人のバルトの影響と評価。すべて見開き2頁ずつ。「T バルトと私」8人、「U バルト神学に学ぶ」13人、「V バルト神学の地平」12人、「Wバルト神学と日本」12人。森野善右衛門のは『告白と抵抗――ボンヘッファーの十字架の神学』(新教出版社、2005)に収録。
『福音と世界』1986.5、新教出版社。
特集「バルト神学の地平」。
『聖書と教会』1986.5、日本基督教団出版局。
特集「バルト神学と現代」。
大崎節郎、『カール・バルトのローマ書研究』、新教出版社、1987、530頁、7004円。
「主題」、「宗教批判」、「倫理学の拠点」、「倫理学の構造」、「倫理学の限界」の5部からなる。宮田光雄によれば「『ローマ書』の本格的なモノグラフィー」。宮田光雄『平和のハトとリヴァイアサン』岩波書店、1988、p.192。
寺園喜基、『バルト神学の射程』、ヨルダン社、1987、301頁、2900円。
1974年の『カール・バルトのキリスト論研究』以降の16論文集。三つに区分している。「T 日本におけるバルト神学」では、「バルト神学受容の一断面」、「原関係と契約――滝沢克己とカール・バルトにおける神・人の関わりの性格について」。「U バルト神学の諸問題」では、「神学の課題としての『神を語ること』」、「聖書解釈の問題――『ローマ書』を手がかりにして」、「神の行為」、「『信仰』の理解」(G.ネラン編『信じること』(真生シリーズ4)新教出版社1974初出)、「復活と顕現」、「福音と律法――「ルターとバルト」理解のために」(山本和編『歴史の神学シンポジウム』創文社1984年初出)、「聖霊論の位置」、「洗礼論の問題」。「V 現代の神学的状況」で、「イエス・キリストの死の理解」(「現代の神学的状況」という題で山本和編『キリスト教の将来』創文社1980年初出)、「十字架のイエス・キリストの復活――現代神学における復活理解をめぐって」、「三一論の一側面――バルトとモルトマンにおける三一論の起点 ・ 付論 ユンゲルにおける三一論のキリスト論的基礎づけ」、「「十字架の神学」としてのバルト神学」(『滝沢克己 人と思想』新教出版社1986年に初出)、「キリスト論的集中の基調音」、「「和解」の言葉 ・ 付論 苦しむ能力」。
吉永正義、『神の言葉の神学――バルト神学とその特質』、新教出版社、1988、748頁、8500円。
『バルト神学とその特質』の改訂第二版として計画されたもの。第1部と第2部はKDの要約と解説。第3部は『バルト神学とその特質』の第4章をほとんどそのまま再録。第4部で4論文を収録。「知解ヲ求メル信仰――アンセルムスとバルト」は著作集8所収の「知解を求める信仰」の解説(ただし、最後の段落が変更されている)。「説教と神学――認識論における恵みのみ」は『神学』41号(1979)に加筆。そのほか、「キリスト論的基礎づけ――三位一体論的に基礎づけられたキリスト論的集中」、「祈りの中の思惟と活動的見方――『教会教義学』の神学的思惟と記述の特徴」。
小川圭治編、『カール・バルトと現代――ひとつの出会い――E.ブッシュ教授をむかえて』(新教コイノーニア8、新教出版社、1990、180頁、1400円。
「T ブッシュ教授の講演と説教」でブッシュの講演4本「カール・バルトの現代的意義」「カール・バルトにおける教会と国家」「成人した信仰共同体としての教会――バルトの教会論が目指すもの」「カール・バルトの思い出」と説教4本。「U 日本の神学からの応答」で小川圭治「バルトと現代日本の教会――ブッシュ教授を囲む天城研修会報告」、蓮見和男「バルトへの問いと答え――ブッシュ教授を囲む仙台研修会報告」、水垣渉「『センペル・クワエレンス』(つねに求める者)――E.ブッシュ著『カール・バルトの生涯』を通して見たバルトの教義史的意義」、畠山保男「バルト神学の理解の在り方をめぐって――戦時下日本の神学の反省」、雨宮栄一「政治的具体性と神学的抽象性――E.ブッシュ著『カール・バルトの生涯』をめぐって」、座談会「ブッシュの日本滞在をふりかえって」。「V 課題と展望」でブッシュの「日本のキリスト者との出会い――その神学的状況について」、小川圭治「バルト神学の状況関連性――1991年国際バルト研究会議へのテーゼ」。
田部郁彦、『カール・バルトにおける神認識の特徴』(大森講座Y)、日本基督教会大森教会(発売:新教出版社)、1991、82頁。
「第一部 『知解を求める信仰』における神認識」と「第二部 『教会教義学』における神認識」。
ヴィルフリート・グロール(西谷幸介訳)、『トレルチとバルト――対立における連続』、教文館、1991(1976)、272頁、3000円。
トレルチとバルトの神学史的関連を、それが歴史神学的にも組織神学的にも同時に構成されるような仕方で引き出す。具体的には、バルトのトレルチからの引用を分析しつつ、両者には「対立における連続」という関連があるとする。
芳賀力、『自然、歴史、そして神義論――カール・バルトを巡って』、日本基督教団出版局、1991、460頁、5900円。
ハイデルベルク大学での博士論文に多少手を加えたもの。あとがきによれば次のような感じ。前半でドイツ観念論における神義論を詳細に論じた後、後半で、そのような思弁としての神義論に対するバルトの啓示としての神義論を描く。その際、「バルトを十字架の神学から捉えるというユンゲル以来の流れに対し、バルト自身が触れあっていた古改革派の契約思想の神学的水脈に今一度注目し」て、「契約神学の流れを<関係の神学>という立場から捉え直し」ている。読み応えがある相当重厚な論文。
吉永正義、『受肉と聖霊の注ぎ――バルト神学とその特質U』、新教出版社、1992、675+18頁、9800円。
KDの前の二つの教義学講義『キリスト教宗教の綱要』と『キリスト教教義学』はKDの最良の解説書であるという視点を終始語りながら、『教会教義学』T/2の前半(§14〜18、邦訳だと『神の言葉』U/1と2)にある、受肉と啓示の問題、啓示の時(あるいは啓示と歴史の問題)、啓示(言葉の受肉)の秘義性について(「クリスマスの奇跡」も)、また、「聖霊の注ぎ」として、啓示の主観的実在としての聖霊と信仰、啓示と宗教の問題、キリスト者の生き方としての信仰と服従という神学的倫理学の基本のところについて、それぞれ、『キリスト教宗教の綱要』、『キリスト教教義学』、『教会教義学』のそれぞれの該当部分を大きく抜き出して紹介しつつ比較している。
大崎節郎、『恩寵と類比――バルト神学の諸問題』(現代神学双書76)、新教出版社、1992、337頁。
論文集。「バルト神学」(『教義学講座』第三巻、日本基督教団出版局、1974所収)、「神学史におけるローマ書」、「神の言葉の神学の出発点」、「初期バルトにおける理論と実践」、「初期バルトにおける戦争と平和」、「『プロ・メ』の問題」、「予定論の刷新」、「バルト神学における契約と法」、「カール・バルトの人間論――『体』の概念をめぐって」。
加藤常昭、『説教者カール・バルト――バルトと私』、日本基督教団出版局、1995、122頁、1200円。
説教選集の付録としての位置づけで出た、研究書というよりは随想だが、1961年8月6日のバーゼル刑務所での説教の分析もある。巻末に説教選集に収録された説教の聖書箇所一覧あり。
寺園喜基編、『バルト=ボンヘッファーの線で――クラッパート教授来日特集』、新教コイノーニア15、新教出版社、1996、153頁。
講演三本「時代の現実との関連における神学――K・バルトとD・ボンヘッファー」、「もはや、何事も起こらなかったかのように神学することはできない――1945年と1967年のバルトの罪責告白」、「神の啓示と人間の経験――K・バルト、W・パネンベルク、滝沢克己」。あとは説教と様々な人の寄稿集。
小樋井滋、『バルト神学と宗教教育』、ヨルダン社、1996、272頁。
バルト神学からのキリスト教教育の可能性を論証。この中の佐藤敏夫の解説によると、山内一郎の『神学とキリスト教教育』(神学双書6、日本基督教団出版局、1973)の方が「よくまとまっておりそつがない」ということだが、一方、朴憲郁は、小樋井がKD,W/3の中に「教会と聖書の外の諸思想への相対的肯定の主張を発見し、・・・そこから公教育を基礎づけようと試みた」ことは、「学校教育における諸宗教教育の意義をキリスト教教育の立場で再考する場合にも、極めて有益な示唆を与えてくれる」と評価する(朴憲郁「多宗教社会におけるキリスト教教育学の課題」(倉松功、近藤勝彦編『福音の神学と文化の神学――佐藤敏夫先生献呈論文集』教文館、1997))
細川道弘、『コンテクストの中の神学――バルト神学の原点と展開』、新教出版社、1997、275頁。
「序章 現代神学における『宗教』概念――K・バルトからG・タイセンまで」、「1 バルト神学におけるザーフェンヴィル」、「2 バルト神学におけるバルメン」、「3 神学の課題としての倫理学――初期のバルトの『倫理学講義』から」、「4 バルト神学における自由」、「5 カール・バルトの聖霊論――『啓示の主観的実在』ということについて」、「6 カール・バルトの洗礼論――倫理としての洗礼」、「7 カール・バルトの神学とキリスト教平和運動」、「8 <信仰告白ノ事態>とは何か?――ベートゲの所論に拠りつつ」、「9 ユダヤ教とキリスト教の対話――アウシュヴィッツ以後の問題として」、「終章 神学における『自律性』と『近代』」。
計良祐時(けら・ゆうじ)、『カール・バルトのキリスト論研究――伝統概念の超克としての歴史概念によるキリスト論』、日本基督教団出版局、1998、230頁、4000円。
『教会教義学』の中心となっているキリスト論は、バルトの<歴史概念>が伝統的な<本性概念>を凌駕し超克している点で、伝統的なキリスト論と異なることを論証。目次は、序、第一部「イエス・キリストにおける神の歴史」、第二部「イエス・キリストにおける人間存在」、第三部「組織的考察」。付録に、「日本におけるバルト研究・評価についての若干の見解」として滝沢克己と北森嘉蔵のバルト理解に関する小論。著者は同志社大学神学部から上智大学大学院に進み、ゲッティンゲン大学に留学、フランクフルト大学で博士号取得。本書はその学位論文。
五十嵐喜和編、『キリストに捕らえられて――現代に呼びかけるカール・バルトの神学』、教文館、2000、402頁、4000円。
読書会でバルトの「和解論」を読んだという日本キリスト教会豊中中央教会での、9人のゲストの説教と講演録。講演題のみ挙げると、井上良雄「バルトと私」、大崎節郎「福音の再発見」、小川圭治「和解の福音――カール・バルトにおける神概念の転換」、寺園喜基「キリストに背負われた私の十字架」、加藤常昭「カール・バルトの説教について」、高森昭「宗教、自然をめぐって――バルト神学の特色」、永井春子「バルト神学の意義」、武田武長「教会の信仰告白に仕えるバルト神学」、芳賀力「神義論としての大いなる物語――バルトのヨブ記解釈をめぐって」
佐々木徹、『三位一体の神――カール・バルトの神学研究』、新教出版社、2000、292頁。
「第1章 『教会教義学』へ」、「第2章 『教会教義学』の三位一体論」、「第3章 現代神学諸家との討論」としてパネンベルク、ラーナー、ユンゲル、モルトマンとの対話、「第4章 『教会教義学』の神論」。著者は茨城キリスト教学園シオン短期大学教養学科教授。
浜辺達男、『バルト神学の出発』、東洋英和女学院出版部(東京聖文舎発売)、2001、269頁。
第一次世界大戦勃発の1914年から終戦の1918年までのカール・バルトの周辺の人間関係を、主として手紙を元に記述。
雨宮栄一、『主を覚え、死を忘れるな――カール・バルトの死の理解』、新教出版社、2002、276頁、2600円。
バルト自身の病、老い、死と神学。第一部で日本人の死生観やボンヘッファーの死、宗教改革者の死生観、第二部でバルトの老いと病と死、第三部で、死の理解についてバルトとハイデッガーを比較。KDV/2の第47節、V/4の第55,56節を中心に言及している。
田村宏之、『カール・バルト「和解論」における復活』(大森講座17)、日本キリスト教会大森教会、2002、72頁、1000円。
『和解論』の構造を示し、その中で、キリスト論と人間論をつなぐ「過渡的考察」の部分を、『和解論』を読み解く鍵として注目する。その部分のうち、復活について語る59節第3分節「父の判決」と69節第4分節「御霊の約束」を取り上げて解説する。なお、途中で、「パネンベルクの復活の神学」を付論としてはさむ。
エーバーハルト・ブッシュ(雨宮栄一、泉治典、小川圭治、佐藤司郎、畠山保男訳)、『カール・バルトと反ナチ闘争 1933-1945年 ユダヤ人問題を中心に』(上、下)、新教出版社、2002(1996)、上:370頁、下:392頁、各6500円。
バルトは、キリスト者とユダヤ人の関係を明確にしなければならない課題に答える試みを提起している。神の選び給うた共同体は一つのみで、その一つの共同体がイスラエルとキリスト教会という二つの形態をとる。ユダヤ教とキリスト教は、異なった対立する宗教ではなく、一つの軌道によって結ばれている。(『本のひろば』2003.1の著者と小川圭治の対談から)
大島末男、『カール・バルトにおける神学と歴史』(麗澤大学経済学会叢書)、麗澤大学出版会、2003、212頁、3400円。
フラー神学大学でジェフリー・ブロムリ(『教会教義学』の英訳者)の指導の下で書いた学位論文を半分の長さに書き改めたもの。著者は清水書院の「人と思想」のシリーズの『カール・バルト』の筆者。『教会教義学』の全体を貫いている「神学」の本質は、「神の歴史(救済史)を世界史の中に実現するキリストの出来事(歴史)を叙述すること」(p.15)であるという観点に立って、『教会教義学』の予定論、人間論、和解論、キリスト論などを読み解く。選びと和解という神の行為による神と人間との「交わり」(我々と共なる神)が、「歴史」を形成している。キリストの出来事こそ、神と人間との間に展開する歴史と交わりである根源的歴史(Urgeschichte)である。「それゆえバルトは、神学各論を・・・キリストの出来事すなわち・・・神と人間の交わりの各局面として論議する」(p.22)。全体的に文章は論理的でなく自身の見解を述べている感じであり、『教会教義学』の文言を直接引用しながら論じるという形式ではないので説得力がない。他の神学者のバルト理解への言及もつっこんだ吟味をしていない。
佐々木徹、『バルト神学の行程』、新教出版社、2003、218頁、2500円。
論文集。『三位一体の神−−カール・バルトの神学研究』に継ぐ2作目。著者はカトリックの平信徒とのこと。序章「バルト神学の行程」の後、「カール・バルトの『ロマ書』(第1版)における「信仰」」、「カール・バルトの『ロマ書』(第2版)における「信仰」」、「初期バルト神学におけるExtra Calvinisticum」、「初期バルト神学に対するローマ・カトリック側からの批判について」、「初期ブルトマン神学における弁証法」、「責任に関する神学的考察」、「神的非−存在をめぐって」、「カール・バルトの『教会教義学』における神の遍在」。
富岡幸一郎、『悦ばしき神学――カール・バルト『ローマ書講解』を読む』、五月書房、2004、319頁、3000円+税。
無教会研修所での講義。
小川圭治、寺園喜基編、『カール・バルトとユダヤ人問題――再びE・ブッシュ教授を迎えて』(新教コイノーニア20)、新教出版社、2004、149頁、1600円。
2002年の第二回目のE.ブッシュ来日の記録(第一回目は新教コイノーニア8)。E.ブッシュ『カール・バルトと反ナチ闘争』(上、下)(新教出版社、2002)への導入の解説ともなっている。説教2本、講演5本、応答4本(小川圭治、武田武長、鈴木正三と2002.10.16「天城神学宣言」)、資料5本。
印南眞人、『和解論に於けるバルトのキリスト論』、新教出版社、2007、80頁、1260円。
1972年の日本聖書神学校の卒業論文そのままだそうだ。
『福音と世界』(63巻9号)、2008.9、新教出版社。
特集「バルト没後40年――どう読み継ぐか」。
バルト神学受容史研究会編、『日本におけるカール・バルト――敗戦までの受容史の諸断面』、新教出版社、2009、497頁、4935円。
執筆者は、雨宮栄一、平林孝裕、佐藤司郎「第二章 日本神学校におけるバルト受容――桑田秀延と熊野義孝の場合」、森岡巌、武田武長、柳父圀近、寺園喜基、小川圭治、須賀誠二、村上伸。巻末に、戦前期日本におけるバルト関連邦語文献表あり。
エーバハルト・ブッシュ(佐藤司郎訳)、『バルト神学入門』、新教出版社、2009、191頁、2100円。
宮田光雄、『カール・バルトとその時代』(宮田光雄思想史論集4)、創文社、2011、452頁、8400円。
1 カール・バルトの政治思想として、「カール・バルト――政治的・神学的評伝」、「“政治的人間”としてのカール・バルト――二つの公開書簡論争」、「バルト『和解論』の政治倫理――『教会教義学』遺稿を読む」。2 同時代史の中から――ナチ・ドイツの時代として、「ナチズムの意義」、「パウル・ティリッヒの政治的思惟」、「エルンスト・カッシーラーとナチズム――カッシーラー『国家の神話』を読む」、「南原繁とカール・バルト」。3 同時代史の中から――アデナウアーの時代として、「西ドイツの政治と経済」、「西ドイツの宗教と政治」、「アデナウアー時代の終焉」、「ネオ・ナチ政党の台頭と基盤――ドイツ国家民主党の思考と行動」、「神の愉快なパルティザン――マルティン・ニーメラーとカール・バルト」。
豊田忠義、『カール・バルト――全キリスト教、最後の宗教改革者』、キリスト新聞社、2013、256頁、1050円。
どうやら、すべての神学者・牧師・文芸評論家などは根本的なところでバルトを曲解しているということを一生懸命、解明しているらしい。
福嶋揚、『カール・バルト 破局のなかの希望』、ぷねうま舎、2015、364頁、6400円+税。
ぷねうま舎の紹介ページに目次や著者紹介等あり。
喜田川信、『バルト神学の真髄』、教文館、2015、172頁、1600円+税。
「バルトは観念的で社会性を持ち得ないか」、「ポール・リクールとカール・バルト――その決定的な相違」、「カール・バルトの旧約観と福音理解」、「私たちはどのように生きており、また生きるべきか」。
佐藤司郎、『カール・バルトの教会論――旅する神の民』、新教出版社、2015、416頁、5500円+税。
『ロマ書』における教会理解からKDの和解論における教会論まで、バルトの各時代における教会論を明らかにする全5章と終章「旅する神の民」。
ウィリアム・ウィリモン(宇野元訳)、『翼をもつ言葉――説教をめぐるバルトとの対話』、新教出版社、2015、460頁、5500円+税。
八谷俊久、『逆説から歴史へ――バルト神学におけるキリスト論的思惟の変貌』、新教出版社、2015、363頁、3600円+税。
「逆説」としての神の啓示の出来事、バルト神学の転換、神と人間の和解の歴史としてのイエス・キリスト。付論として「キェルケゴールとバルト」。

7.戦後のバルト研究書(2)――バルトについての論述がある書

バルトを中心に扱った研究書ではないが、特にバルトについての項目が立てられているものを取り上げる。日本での出版年順。

山本和、『キリスト教に於ける実存と社会』、講談社、1948。
第4章が「ニヒリズムの克服−−ニイチェからバルトへ」。
社会思想研究会編、『現代社会思想十講』、社会思想研究会出版部、1949。
この中に、阿部行蔵「バルトとプロテスタンティズム」あり。この本は後に、上下巻に分けられて、現代教養文庫、1953。阿部行蔵のは下巻に収録。
北森嘉蔵、『今日の神学――近代から現代へ』(アテネ文庫14)、弘文堂、1950、187頁。
第5,6章が「現代神学における事態−−カール・バルト」。後に、日本之薔薇出版社1984で、著者自身による解説が追加されている。
阿部志郎、『キリスト教と社会思想』(現代キリスト教シリーズ12)、日本基督教青年会同盟、1955、180頁。
阿部志郎著となっているが、数名による共著。「第一部 歴史的背景」、「第二部 歴史的発展」の二部構成。第二部の第二章が佐藤敏夫「宗教的社会主義からカール・バルトへ」。
山本和編、『今日の宣教叢書』1〜11、創文社、1955-1984。
バルトに関する論文以外にも主要な研究者の論文を挙げる。
1『アジアにおけるキリスト教』(1955)
山本和、H.R.ファックスの共編(茨城キリスト教大学研究室)。
2『宗教と実存』(1956)
山本和「歴史と実存」にバルトとブルトマンの歴史解釈の問題を扱う節あり。
3『神と悪魔』(1957)
山本和「神と悪魔――荒野の誘惑と『楢山節考』」の中でバルトの悪魔論を論じる。
4『現代とプロテスタント倫理』(1959)
山本和「終末と倫理――現代プロテスタント倫理構築」の中でバルトとティリッヒのカイロス概念を比較。
5『生けるキリスト』(1961)
古屋安雄「勝利者イエス」はバルトは罪や悪魔の力を軽視していると指摘。山本和「現代神学におけるキリスト論」は史的イエスの問題とバルト。
6『西欧世界の形成とキリスト教』(1966)
山本和「現代における教会と世界」でKDW/3-2,§72を中心に言及多し。佐藤敏夫「プロテスタンティズムと近代世界――トレルチのテーゼについて」は、後に『プロテスタンティズムと現代』に収録。
7『終末論――その起源・構造・展開』(1975)
山本和「終末論の基礎構造」でKDW/3-2,S.192ffに言及するくらいしかない。
8『死と終末論』(1977)
死に焦点が当てられている。山本和「メメント・モリ」の注にKDV/4,S.678、W/2,§68が挙げられている。
9『現代における神の問題』(1978)
左近淑「イスラエルの神ヤーウェ――本来的性格とその展開」は後に『左近淑著作集2』に収録、山本和「神概念の変転」。
10『キリスト教の将来』(1980)
中川秀恭、古屋安雄ら。山本和「日本のキリスト教 その過去と未来」。寺園喜基の論文は後に「イエス・キリストの死の理解」として『バルト神学の射程』に収録。古屋安雄の論文は後に『現代キリスト教と将来』(新地書房、1984)に収録。
11『歴史の神学 シンポジウム』(1984)
5部からなるうち、「U ルターとバルト」で岸千年、寺園喜基、喜田川信ら。寺園喜基のは後に『バルト神学の射程』に収録、「V シュライエルマッハーとバルト」。「W ティリッヒとバルト」の中に、古屋安雄「ティリッヒのキリスト教思想史的バルト解釈」、近藤勝彦「P・ティリッヒとK・バルトにおける『現実化』の問題」は後に『現代神学との対話』(ヨルダン社、1985)に収録。
中川秀恭、『近代的人間とキリスト教』(キリスト教教養新書)、日本YMCA同盟、1956。
奥付ではキリスト教教養選書となっている。「バルト神学の形成」という論文がある。これは、『神学』3号(1951)初出。
中川秀恭、『現代に於けるキリスト教信仰』(教養新書)、日本YMCA同盟出版部、1960、135頁。
「バルトとブルトマン」という小論あり。『福音と世界』1956.5初出。
岩村信二、『キリスト教の結婚観』、日本基督教団出版部、1960、220頁。
第五章「現代神学者の結婚観」として、ラインホールド・ニーバー、ブルンナーと並んでバルトの結婚観を、鈴木正久編『キリスト教倫理U』に沿って、12頁ほどで紹介。
山本和、『弁証法神学の倫理思想』、新教出版社、1961、362頁。
「W 現代の神学革新」の中に「現代神学の諸体系−−バルト、ティリッヒ、ニーバー」、「Z 歴史と実存」の中に、「歴史解釈の問題−−バルトとブルトマン」、「現代史参与の自由−−ロマドカとバルト」あり。
佐藤敏夫、『近代の神学』、新教出版社、1964初版1967再版。
「終章 十九世紀神学の克服の試み――四人の神学者の場合」でバルトをまず取り上げる。
佐藤敏夫、『キリスト教と近代文化――近代プロテスタント思想史』(新教新書88)、新教出版社、19641,19682、158頁。
ピューリタニズムから弁証法的神学まで、全12章。「12 弁証法的神学」の中でバルトに言及。
クピッシュ(雨宮栄一訳)、『ドイツ教会闘争への道――近代ドイツ教会史1815ー1945年』、新教出版社、1967(19603)、337+15頁。
ドイツ教会闘争関連は他に、M.ガイガー(佐々木悟史、魚住昌良訳)『ドイツ教会闘争』(日本基督教団出版局、1971)。
金子武蔵編、『キリスト教』、理想社、1968、284頁。
編者肩書きとして「日本倫理学会」と記されている。論文集。猪城博之「バルト神学における三位一体論」がある。その他、大木英夫「ピューリタン――「ピューリタニズムは宗教改革の完成であるか」という問題をめぐって」は、『ピューリタニズムの倫理思想』(新教出版社、1966)に対する佐藤敏夫の論評(『聖書雑誌』1967.4初出、『プロテスタンティズムと現代――文化神学序説』新教出版社1970に収録)に対する応答。
酒枝義旗、山本和編、『キリスト論の研究−−小田切信男博士感謝記念論文集』、創文社、1968。
山本和「バルトのキリスト論――教会教義学における基礎と展開」あり。内容は、「一 古代的キリスト論の優越性」、「二 近代的キリスト論の無力化」、「三 受肉論の基本構造」、「四 教義学とキリスト論――キリスト教諸教義はどこまでキリスト論的でありうるか」。
斎藤正彦、『わたしをだれと言うか−−キリストの人格』(現代キリスト教選書1)、創元社、1968、185頁。
教会の歴史を追ってキリスト論を概説。第6章「現代人のためのイエス・キリスト−−ブルトマンとバルトをめぐって」という章あり。
ヴィングレン(折田良三訳)、『現代神学序説――ニュグレン、バルト、ブルトマン』、聖文舎、1969、260頁。
「第1部 人間学的前提について」と「第2部 解釈学的前提について」。「忠実なルター主義者」(あとがき)によるバルト批判。
日本版コンキリウム編集局編訳、『対話 キリスト者の今日の務め』(コンキリウム叢書4)、南窓社、1969、316頁。
東神大図書館にない。論文集。B.A.ヴィレムス「エキュメニカル運動に対するカール・バルトの貢献」。
赤岩栄、『赤岩栄著作集6』、教文館、1970。
この中に「バルトとモーツァルト」という小文あり(pp.299-307)。『礼拝と音楽』1957年7月号初出。赤岩は、バルトの『モーツァルト』を読んだことを機に、傾倒していたバルトから離れることになった。それは、バルトがモーツァルトに「恋」をしていたことが明らかになって、自分もバルトに「恋」をしていたことがわかったからだ。
M. マコヴェック(堀光男訳)、『マルクス主義からの問い−−マルクス主義とバルト神学との対決』、新教出版社、1970(1965)。
「弁証法神学の理論的基盤−−カール・バルト」、「バルトの後継者たち(ロマドカ、ボンヘッファー)」という節がある。
佐藤敏夫、『プロテスタンティズムと現代――文化神学序説』(今日のキリスト教双書9)、新教出版社、1970、225頁。
10論文。5が「キリスト教的ヨーロッパの運命――バルトとティリッヒの場合」。初出は、山本和編『西欧世界の形成とキリスト教』(今日の宣教叢書6、創文社、1966)所収。
野呂芳男、『実存論的神学と倫理』、創文社、1970、276頁。
「第1章 実存論的神学の展開方向」でバルトとキルケゴール、ゴーガルテン、ブルンナー、バルトの神認識、史的イエスと信仰のキリストの問題についてのバルトを論じる。「第3章 神学と倫理」でバルトの倫理を扱う。この本の前半は、日本キリスト論研究会編『キリスト論の研究−−小田切信男博士感謝記念論文集』(創文社、1968)の中の論文がもとになっているとのこと。
佐藤敏夫、高尾利数編(熊野義孝、松村克己監修)、『教義学講座』全3巻、日本基督教団出版局、1970-1974。
「第一巻 教義学要綱」1970、「第二巻 教義学の諸問題」1972、「第三巻 現代の教義学」(第3巻は佐藤敏夫のみの編)1974。第2巻に松村克己「信仰の論理――アナロギア」、第3巻に、石井裕二「教義学と歴史批評学」、大崎節郎「バルト神学」(後に『恩寵と類比――バルト神学の諸問題』新教出版社1992所収)など。
渡辺信夫、ジョン・ヘッセリンク編、『教会改革の伝統継承――藤田治芽牧師伝道五十年記念献呈論文集』、改革社、1972。
この中の265-286頁の論文、池永倫明「イスラエルの選びと使命――カール・バルト著『教会教義学U/2』にふれて」が、KDU/2(『神論U/1〜3』)からイスラエルの選びと使命について聴き取り、バルトの予定論とカルヴァンの予定論の関連性に触れる。
森田雄三郎、『キリスト教の近代性――神学的思惟における歴史の自覚』、創文社、1972、560頁。
第6章「神の言の弁証法としての歴史性――弁証法神学の出発点と方向づけ」、第7章「『信仰の類比』の救済史――バルト神学への反省」。
日本聖書学研究所編、『聖書の思想・歴史・言語――関根正雄教授還暦記念論文集』(聖書学論集9)、山本書店、1972。
この中に、泉治典「創造信仰と自然神学――バルトとモルトマン」がある。泉治典は無教会。
渡辺善太米寿記念文集刊行委員会編、『渡辺善太――その人と神学』、キリスト新聞社、1972。
新名サノ「渡辺先生とバルト」。
山内一郎、『神学とキリスト教教育』(神学双書6)、日本基督教団出版局、1973。
「第二部 弁証法神学以降の教育思想」の中の第1章が「恩恵の元における教育――K.バルトの『ロマ書』(第二版)の理解を中心に」。第2章以降は、ブルンナー、ティリッヒ、ブルトマン、ニーバー。
桑田秀延、『桑田秀延全集 第5巻 神学とともに五十年』、キリスト新聞社、1974、422頁。
「第三部 わたしの神学とこの時代の神学を語る」の中の「第二章 この時代の神学者たち」の第三節が「カール・バルト」。日本の教会に対するバルト神学の貢献として、桑田は、(1)神学を人間中心的傾向から神中心的傾向へ移行せしめた、(2)神学者たちを哲学や科学からの圧迫から神学の持つ威厳と力へ導いた、(3)牧師たちが、聖書の歴史研究の結果を越えて存在する聖書の啓示への確信を学び取った、(4)聖書的な説教の重要性を教えた、の4点を挙げる(p.341f)。また「第三章 この時代の神学問題」の中には「カール・バルトの神学的釈義」という項もある。
日本基督教団信仰職制委員会編、『幼児洗礼』、日本基督教団出版局、1975。
川村輝典「新約および初代教会における幼児洗礼の問題」、岸本羊一「宣教の教会と幼児洗礼」、赤木善光「幼児洗礼論――その歴史的展開」の3本とも、バルトに言及。川村は「バルトの幼児洗礼否定論」と「クルマンの反論」で、赤木は「現代の幼児洗礼否定論」と「現代の幼児洗礼擁護論」でバルトを中心に概説。
H.ツァールント(新教セミナー訳、井上良雄監修)、『20世紀のプロテスタント神学』(上、下)、新教セミナーブック、新教出版社、上:1975、下:1978。
第1章がバルトによる神学の「大いなる方向転換」、第二章の中でバルトとブルンナー、第4章で『教会教義学』について、など。「著者は基本的にティリッヒの立場に同調しており、その角度からバルトを見ている」(大木英夫、『バルト』講談社、1984、378頁)。
石井裕二、『現代キリスト教の成立――近代ドイツ・プロテスタンティズムとその克服』日本基督教団出版局、1975、196頁。
第9章「第一次大戦とキリスト教――カール・バルトの出現の状況」と第10章「近代ドイツ・プロテスタンティズムの終末――バルト『ロマ書』(初版)」。日本がこれまで受け入れてきた欧米キリスト教について、「それが本来有していた社会関係を見直す」(まえがき)。
雨宮栄一、『バルメン宣言研究――ドイツ教会闘争史序説』、日本基督教団出版局、1975。
雨宮栄一の三部作はこれと、『ドイツ教会闘争の展開』(1980)、『ドイツ教会闘争の挫折』(1991)いずれも日本基督教団出版局。他に、『ユダヤ人虐殺とドイツの教会』(教文館、1987)。
宮田光雄、『政治と宗教倫理−−現代プロテスタンティズム研究』、岩波書店、1975、540頁。
『ローマ書』の政治倫理、バルト神学のキリスト論的特質などあり。
桑田秀延(明治学院大学キリスト教研究所編)、『日本の神学思想に現れた神学の問題と人物』、賀川豊彦記念講座第5集、キリスト新聞社、1976。
日本神学史上の三大問題として、新神学の問題、バルト神学の問題(バルトとブルンナーの相違について)、教会と状況との問題(この中で、バルトとニーバーの論争を取り上げる)を挙げる。『桑田秀延全集』には収録されていない。
滝沢克己、『宗教を問う』、三一書房、1976、308頁。
論文集。バルト関連は、「何を、いかに、私はカール・バルトのもとで学んだか」、「カール・バルトの「キリスト論」理解について――寺園喜基の滝沢批判に答える」の二つなど。後者は寺園の『カール・バルトのキリスト論研究』(創文社、1974)の批評と反論。
斎藤正彦、『イエス・キリストと教会』、日本基督教団出版局、1977、334頁。
「第一部 教会の成立根拠としてのイエス・キリストの出来事」の「第1章 イエス・キリストの歴史と教会」の第3節が「「カール・バルトにおけるイエスの歴史」。第二部では、「福音主義教会の成立根拠としてのイエス・キリストの出来事」としてカルヴァンにそってキリスト論と教会論を語りつつも、要所でバルトを引用して論述を補強している。
酒枝義旗、野呂芳男編、『神観の研究――小田切信男博士感謝記念論文集』、創文社、1978。
吉永正義「バルト神学における神観」。他に、熊澤義宣「神観の将来」など。
ハインリヒ・ボルンカム(谷口茂訳)、『ドイツ精神史とルター』、聖文舎、1978(1969)、684頁。
第15章が「フリートリヒ・ゴーガルテン、カール・バルト、パウル・ティリヒにおけるルター像」。バルトのルター像はわずか5頁ほどの記述。
小川圭治、「カール・バルトと説教」(『説教者のための聖書講解−−釈義から説教へ』No.22、日本基督教団出版局、1978)。
バルトが説教に対してどのような基本姿勢をもっていたかを示す二、三のエピソードと、説教論の二、三の側面。後に合本『説教の課題と現実』(日本基督教団出版局、1987)に収録。
小林公一編著、『キリスト教教育の背景』、ヨルダン社、1979。
『教会教育』、『聖書教育』、『教師の友』などの連載をまとめたもの。「神学と教育――キリスト教教育の背景としての神学」と「キリスト教教育史」の2部立て。「神学と教育」の中で、シュライエルマッハーからニーバーまでだいたい一人ずつ挙げて、彼らの神学と教育との関係を探る。
野呂芳男、『神と希望』、日本基督教団出版局、1980、478頁。
「第一部 現代の神学的状況−−神認識と悪をめぐって」の中の第3章が「悪の存在と存在論−−ティリッヒ神学とバルト神学をめぐって」。
滝沢克己、『バルトとマルクス――新しき世界』、三一書房、1981、346頁。
「第一部 貨幣とキリスト――現在および将来の国家と宗教」、「第二部 カール・バルトにおける宗教および宗教批判――特に社会問題ならびに世界教会運動との関連において」、マルクース・バルトやゴルヴィッツァーとの手紙を収録した「第三部 往復書簡(1977-1980)」の三部立て。第二部でKDT/2の第17節とKDW/1、W/3第69節の2をもとにバルトの宗教論をかなり独自のスタイルで読み解く。
大崎節郎、『神の権威と自由』、日本基督教団出版局、1982、376頁。
教団紛争を背景に書かれた、教義学と聖書、信仰告白との関わりについての論文集。第一部「教義学の根本問題」、第二部「聖書と伝統」。第二部第一章第三節の一「キリスト論的解釈」は、『聖書学方法論』(日本基督教団出版局、1979)に初出。第二部第二章第一節「信仰告白の本質」は、『福音を恥とせず――聖書・信仰告白・戦責告白』(福田正俊、雨宮栄一編、日本基督教団出版局、1973)初出。大崎が教義学について論じたものは他に、雨宮栄一、村上伸編『教義学とは何か』(日本基督教団出版局、1987)の「第一章 信仰の思惟――教義学序説」。
井上良雄、『神の国の証人ブルームハルト父子――待ちつつ急ぎつつ』、新教出版社、1982、470頁。
「序に代えて」の副題が「カール・バルトにとってブルームハルト父子とは誰であったか」。バルトは、『教会教義学』の講義の終わり近くで、ブルームハルト父子への感謝の言葉を語る。
今井晋、『ルター』(人類の知的遺産26)、講談社、1982。
「W ルターと現代」の「2 現代神学におけるルター」の中にカール・バルトの項あり。
小田垣雅也、『哲学的神学』、創文社、1983、226頁。
全7章で、第1章が「神学と哲学」、第2章が「現象学、解釈学、神学」。「バルトやブルンナーが言う絶対他者なる神と人間との二元論も、バルトないしブルンナーという人間によって主張されていることは間違いないのであり、その限り、弁証法的神学が主張する絶対他者なる神は絶対他者ではありえない」(23頁)だって。ほんとうかねえ。これ以前のいくつかの著作がベースになっているようだ。『解釈学的神学――哲学的神学への試み』(創文社、1975)は、史的イエスの探求の問題から、弁証法神学には閉鎖性があるとして、解釈学的キリスト論を提起。『知られざる神に――現代神学の展望と課題』(創文社、1980)は、「第3章 現代神学の問題」の中でバルト、ブルトマン、ティリッヒとバルト後時代を語る。
古屋安雄、『現代キリスト教と将来』、新地書房、1984、328頁。
古屋の第三論文集。「T キリスト者の評論」の中に「ボンヘッファーとバルト」、「バルトとティリッヒ」あり。
近藤勝彦、『現代神学との対話』、ヨルダン社、1985、366頁、3300円。
12論文集。「P・ティリッヒとK・バルトにおける「現実化」の問題」、「倫理学の神学的基礎づけ――E・トレルチ、K・バルト、P・ティリッヒ、W・パネンベルク」など。
D.シェロング(尾形隆文訳)、『バルトと近代市民社会』、教文館、1986、373頁、3500円。
「近代の神学者としてのカール・バルト」(原著1973)と「市民階級とキリスト教宗教――シュライエルマッハー以降の神学の適応の問題」(原著19751,19842)の2論文。いずれも「今日の神学的実存」叢書の小冊子として出版されたもの。ちなみに「訳者解説・あとがき」で訳者は東新大批判と大木英夫批判をしている。
熊野義孝記念論文集編集委員編、『熊野義孝の神学 記念論文集』、新教出版社、1986、323頁、3900円。
この中に、大木英夫「バルト神学と熊野神学――永遠と時間の関係」あり。
宮田光雄編、『ドイツ教会闘争の研究』、創文社、1986、373+5頁、5500円。
宮田光雄「序章 バルメン宣言の現代的意義」は、バルメン宣言の特に第五テーゼについて政治学的に分析して論じている。以下6論文。第二章が笹川紀勝「カール・バルト事件――ドイツ教会闘争と宣誓問題」。
宮田光雄のドイツ教会闘争関連の著作は他に、『政治と宗教倫理――現代プロテスタンティズム研究』(岩波書店、1975)、『平和のハトとリヴァイアサン――聖書的象徴と現代政治』(岩波書店、1988)、『ナチ・ドイツの精神構造』(岩波書店、1991)、宮田光雄『十字架とハーケンクロイツ――反ナチ教会闘争の思想史的研究』(新教出版社、2000、467+7頁)。
佐藤敏夫、『神と世界の回復』、ヨルダン社、1986、240頁。
12論文集。『近代の神学』の系列。三部に分かれていて、第二部がバルト関連5論文。「バルトとの対話の中で――回顧と展望」、「バルトのアナロギア概念をめぐる二、三の論議」(『神学』30号初出)、「バルトとカトリック神学者」、「バルトの聖書観」、「信仰告白としての政治的決断――バルトへの検討をめぐって」。
喜田川信、『歴史を導く神――バルトとモルトマン』、ヨルダン社、1986、240頁。
10論文集。「神学の潮流――哲学と神学」は『教会教育ハンドブック』(日本聖書神学校、1981)所載。これと「近代神学から現代神学への展開」は代表的神学者の神学の紹介。「神の不変性と可変性」はカルヴァン、ルター、バルト、ブルンナー、パネンベルク、モルトマンを順に取り上げる。「三位一体論の一考察」は『現代における神の問題』(今日の宣教叢書9、創文社、1978)所載。「ルターとバルト――十字架と復活理解をめぐって」は『歴史の神学シンポジウム』(今日の宣教叢書11、創文社、1984)所載。その他、「教会と神の国」、「黙示思想と現代神学」など。
トゥルナイゼン、『トゥルナイゼン著作集6』、新教出版社、1987、296頁、2200円。
収録4作品中2本がバルト関連。「カール・バルトにおける<神学と社会主義>――彼の初期書簡に見る」(原著1973、武田武長訳)は、1913年から1921年にかけてのバルトとトゥルナイゼンの教会の状況と神学。「カール・バルトとは誰か――七十歳誕生にあたって」(原著1955、武田武長訳)は、『教会教義学』の神学をごく簡単に紹介(上の「伝記、評伝」に掲載)。この本には他に、「ドストエフスキー」と「ブルームハルト」。
H-J.クラウス(蓮見和男訳)、『改革神学の展望――バルト・反核・平和・説教』、新教出版社、1987、229頁、1800円。
日本基督教会神学校植村正久記念講座第4回のクラウスの日本講演集(講演6、説教1)。第2章が「カール・バルト――神学における転換点」で、これによれば、「危機の神学」は政治や社会を「神の真理の危機にさらし、到来する神の国に直面させる」ものらしい(p.57)。第3章が「カール・バルト以後の神学的状況」として、ブルトマンの解釈学、パネンベルクの歴史としての啓示、政治的神学などに言及。
雨宮栄一、森岡巌編、『罪責を担う教会の使命』、新教出版社、1987、370頁。
井上良雄の満80歳を覚えての論文集。この中に、大崎節郎「初期バルトにおける戦争と平和」、小川圭治「バルトのルター理解−−カール・バルトにおけるイエスの歴史」あり。
「シンポジウム 主題『バルトとティリッヒ』」、『日本の神学』、No.26、1987。
3論文。大島末男「バルトとティリッヒにおける神学と哲学」(pp.140-152)、細川道弘「バルトとティリッヒ−−宗教社会主義の問題」(pp.153-162)、近藤勝彦「バルトとティリッヒ−−神的肯定をめぐって」(pp.163-174)。近藤の論文は後に『歴史の神学の行方――ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』(教文館、1993)に収録。
日本基督教団宣教研究所編、『聖餐』、日本基督教団出版局、1987119943、278頁。
尾形隆文執筆の第3章「現代神学における聖餐の問題――特にK.バルトのサクラメント理解を中心に」がある。しかしこの章の結論で、著者はバルトのサクラメント理解を、戦責告白をなした日本基督教団にとって「重要な方向指示である」と勝手に確信している。
宮田光雄、『平和のハトとリヴァイアサン――聖書的象徴と現代政治』、岩波書店、1988、335頁、2200円。
雑誌に発表されたものに大幅に加筆された五つの論文集。この中の「カール・バルト――政治的・神学的評伝」が、バルトの政治との関わりに注目した評伝。『ローマ書』、『神学的実存』、『バルメン宣言』、スコットランド信条の第24条の講義、『義認と法』、『キリスト教共同体と市民共同体』、『東と西の間にある教会』『神の人間性』などをたどる。
他の論文は、「平和のハト――平和のシンボルの精神史」、「リヴァイアサンとビヒモス――聖書的シンボルの政治学」、「ボンヘッファーと日本――政治宗教としての天皇制ファシズム」、「福音と平和――≪山上の説教≫の問いかけるもの」。
倉松功、『ルターとバルト』、ヨルダン社、1988、227頁、2400円。
第5章「ルターとバルト――バルトはルターを理解していたか」で、KDの中でのルターへの言及を取り上げ、特に義認論におけるバルトのルターに対する誤解と共通点を明らかにする。第6章「バルメン宣言の意義――特にその提題U・Xを中心にして」では、ルター神学から見たバルメン宣言理解。
藤倉恒雄、『ティリッヒの「組織神学」研究』、新教出版社、1988、248頁。
第1章「思想形成過程における課題の設定」の中に「4 バルト神学との対決」あり。著者は聖公会司祭。
千葉眞、『現代プロテスタンティズムの政治思想−−R.ニーバーとJ.モルトマンの比較研究』、新教出版社、1988、446頁。
付論として「カール・バルトの政治倫理」あり。第1節「キリスト論と政治倫理」、第2節「終末論と政治倫理」。
村上伸、森岡巌、森野善右衛門、『ボンヘッファーと日本――E.ベートゲ80歳祝賀論文集』、新教出版社、1989、378頁。
日本ボンヘッファー研究会の研究論文集。大崎節郎「バルトから見たボンヘッファー」あり。KDの中でのボンヘッファーの評価と、ボンヘッファーの行動についてのバルトの評価、晩年のボンヘッファーに対するバルトの沈黙の意味。
大川和彦、『三一神論――モルトマンとユンゲルをめぐって』、ヨルダン社、1989、354頁。
喜田川信の序文によれば、著者は大島末男と同じく「福音派の中から、福音派のわくを越える神学者たち」の一人とされている。随所にバルトとの比較、バルトの再評価、批判がある。
富坂キリスト教センター編、『天皇制の神学的批判』、新教出版社、1990、342頁、2500円。
“日本のキリスト教にとって天皇制は神学的課題である”とする10人の神学者の論考。雨宮栄一による「絶対天皇制下のバルト神学受容」あり。
日本組織神学会編、『身体性の神学』(現代神学双書)、新教出版社、1990、260頁。
この中に、大崎節郎「カール・バルトの『教会教義学』における人間論」あり。
佐藤敏夫、『永遠回帰の神話と終末論――人間は歴史に耐えうるか』、新教出版社、1991、221頁。
カール・バルトの終末論は、エリアーデ的に言えば、歴史の廃棄と時間の再生を説く終末論である。その意味で本書は、エリアーデからバルトを見た書とも言うことができる。第七章が「カール・バルトの終末論――エリアーデに触れながら」。
清水正、『神学の方法と内容』、新教出版社、1991、202頁。
大木英夫の「序」、「第1章 神学的思惟の本質」、「第2章 キリストの存在について」、「第3章 聖霊の御業について」、「第4章 三位一体の神」。この第4章の中の第2節が「バルトの三位一体論」。三位一体は啓示の主体の形式ではなく内容である。それゆえ、バルトのように三位一体論を神学の序説に置くことは、論理的に誤りであるとする。
宮本武之助、『宮本武之助著作集 下巻』、新教出版社、1992、530頁。
この中の「キリスト教と文化」の第一部「二十世紀プロテスタント神学者の文化論」で、波多野精一、ティリッヒ、ブルンナーに続いて第四章で「バルトの神学的人間論と文化論」。この章は三つの節から成り、「一 人間とその生」、「二 文化的営為の本質・意味・規準・限界」、「三 神の召しと文化的営為」。
小塩節、編集委員会編、『ヨーロッパ精神とドイツ――出会いと変容』、郁文堂、1992、433頁、5000円。
小塩節の還暦記念論文集。この中に、久米あつみ「カルヴァンとバルト」がある。他に、松永希久夫「ヨハネによる福音書の「愛弟子」とはだれか」など。
ベルトルート・クラッパート(寺園喜基編)、『和解と希望――告白教会の伝統と現在における神学』、新教出版社、1993、534頁。
論文集。4部からなり、第一部がバルト関連4論文。「現代のキリスト論への問いとしてのK・バルトのキリスト論」(寺園訳)、「現代における神論の諸傾向」(小川圭治訳)、「ルターとバルトにおける律法と福音」(片山寛訳)、「メシア的人間と解放の約束――カール・バルトのエキュメニカルな遺言」(片山寛訳)。
近藤勝彦、『歴史神学の行方――ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』、教文館、1993、320頁、5000円。
14論文集。その中で、「バルトとティリッヒ――神的肯定をめぐって」(『日本の神学』26号、1978年初出)、「カール・バルトと幼児洗礼」(『神学』47号、1985年初出)、「バルトをめぐるトレルチ的問題」(『日本のキリスト教とバルト――生誕100年をむかえて』、新教出版社コイノニア3、1986年)。他でもバルトに言及。
古屋安雄、『大学の神学――明日の大学をめざして』、ヨルダン社、1993。308頁。
第三章「現代大学の根本問題」の中に「ナチスと告白教会――バルト」という節あり。
井上良雄、『戦後教会史と共に 1950-1989』、新教出版社、1995、392頁、3600円。
41編の短論集。この中に「バルト先生との対面」(1964)、「バルト先生への感謝」(1969)、「明るく自由なバルトの晩年の世界」(1974)あり。
東方敬信、『物語の神学とキリスト教倫理』、教文館、1995、299頁、3000円。
11論文集。バルト関連は、「カール・バルトの『ローマ書』における客観的関係論――H・リチャード・ニーバーの視座から」(初出:『キリスト教と文化』4号、青山学院大学、1989)、「神学的倫理の課題――バルトとニーバー兄弟」(初出:『日本の神学』28号、日本基督教学会、1989)、「変革的主体の成立をめぐって――K・バルトとH・R・ニーバー」(初出:『論集』26号、青山学院大学、1985)の三本。
熊澤義宣、野呂芳男編、『総説 現代神学』、日本基督教団出版局、1995。
熊澤義宣「弁証法神学の展開と第二次世界大戦」(「T 現代神学の潮流」の第1章)あり。掛川富康「ドイツ語圏の神学者」(「T 現代神学の潮流」の第3章「現代の組織神学(2)――1965年以降」のA)で、バルトとそれ以降を語る。寺園喜基「キリスト教の絶対性をめぐって」(「U キリスト教と諸宗教」の第1章)この中に「バルトにおける啓示と宗教」という項あり。この論文は後に、寺園喜基『途上のキリスト論――「バルト=ボンヘッファー」の今日的意味』(新教出版社、1999)に収録。
近藤勝彦、『トレルチ研究 下』、教文館、1996、262頁。
「第三部 トレルチにおける「文化総合」とデモクラシーの問題」の第五章が「トレルチとバルト――ワイマール共和国の運命をめぐって」。初出は倉松功、近藤勝彦編『人類・文明の救済とキリスト教――市川恭二先生喜寿献呈論文集』(聖文舎、1987)。
喜田川信、『神・キリスト・悪』(現代神学双書79)、新教出版社、1996、252頁。
「第一部 現代神学の問題点」で4論文。この中の「バルト神学とその問題点」で、バルトとブルンナーの神観の相違から、三一論、キリスト論的集中、神の永遠の原決断、虚無的なものの問題について。「第二部 ポール・リクールの思想とその問題点」で、「ポール・リクールの思想」、「リクールのキリスト教理解とその問題点」、「リクールの聖書解釈とその問題点」、「第三部 イエス・キリストとは誰か」。
芳賀力、『物語る教会の神学』、教文館、1997、346頁、3900円。
「第3章 物語る教会と赦罪の伝統」の「第2節 赦罪の伝統とキリスト論(2)−−まことの神」に「4 バルトによる預言者職の復権」あり。最初のところで、KDの和解論の構成を、キリストの三職論との対応からきわめて簡潔かつ明確にまとめている。また「第3節 赦罪の伝統と三位一体論」では、人間の言葉が果たしてどのようにして神の言葉として語られ聴かれ、キリストを現前させるかを、バルトに学んでいる。「第4章 聖書の民と大いなる物語」の「第1節 物語を担う民」では、ジョン・ヒックの宗教的多元主義に対して、バルトの「不信仰」としての“宗教的な宗教批判”を紹介する。
赤星進、『若きキリスト者の熱情』、キリスト新聞社、1998、226頁。
付録に「カール・バルトと私」という短文あり。わずか11頁の、バルトとの出会いと訪問記。
R.ボーレン(加藤常昭訳)、『憧れと福音』、教文館、1998、250頁、2500円。
日本での説教と講演。「カール・バルト――人間的教師」という文章がある。
宮田光雄、『御言葉はわたしの道の光――ローズンゲン物語』(新教新書253)、新教出版社、1998、165頁、1000円。
前半は「ローズンゲン」の成立と歴史。pp.9-11で、ナチスの支配下であった中でバルトはローズンゲンの朗読と讃美歌で講義を始めていたことが紹介されている。後半は著者の随筆。pp.99-103でバルトに言及しつつ、神の恵みによる解放と笑い、ユーモアとの関わりについて語っている。
組織神学研究所編、『ユルゲン・モルトマン研究』(組織神学研究 第1号)、聖学院大学出版会、1998、120頁、2100円。
タイトルにバルトと出てくる論文は、大木英夫「バルトとモルトマン――三位一体論、とくに聖霊論の対比」、佐藤司郎「死者の居場所をめぐって――バルトとモルトマン」。
寺園喜基、『途上のキリスト論――「バルト=ボンヘッファー」の今日的意味』、新教出版社、1999、238頁、2600円。
論文集12編。「信仰について」「復活使信の神学的コンテキスト」「十字架理解の諸相」「生の光」「線と方向としてのバルト=ボンヘッファー」などと、バルト神学からのオウム事件、天皇制問題について。その他、「キリスト論的倫理学の視点」は『中川秀恭八五歳記念論文集 なぜキリスト教か』初出、「キリスト教の絶対性をめぐって」は『総説 現代神学』初出。
佐藤司郎、『生ける主に従う――教会の神学を求めて』、新教出版社、1999、195頁、2000円。
論文、小論集。バルトに関するものは、「現代における内在的三位一体論と経綸的三位一体論――K.ラーナー、J.モルトマン、K.バルトの場合」は東神大修士論文。「若きバルトと信仰の教育」、「死者の居場所をめぐって――バルトとモルトマン」(この中で『創造論U/3』を取り上げている)、「義認の信仰」(この中で『和解論T/3』に言及)。
宮谷宣史編、『性の意味――キリスト教の視点から』、新教出版社、1999、404頁、3150円。
この中に、掛川富康「カール・バルトにおける性−−キリスト教神学と<啓蒙>の可能性の問題として」あり。
富坂キリスト教センター編、『科学技術とキリスト教』、新教出版社、1999、200頁、2600円。
科学技術の問題を信仰の問題として捉えた7編。富坂キリスト教センターの「自然・科学技術・人間U」研究会シリーズの第二作。「第7章 被造物の理解−−神学と自然科学の対話を目指して」が細川道弘、古谷圭一による「カール・バルト「教会教義学」和解論を中心として」。
組織神学研究所編、『パウル・ティリッヒ研究』、聖学院大学出版会、1999、296頁、3990円。
聖学院大学総合研究所の組織神学研究所の論文集。序文は大木英夫。朴憲郁の論文もある。バルト関連は、森本あんり「神の存在と創造の神的根拠の理解をめぐって――ティリッヒ・バルト・モルトマン・トマス・エドワーズ」。
山口隆康、芳賀力編、『説教と言葉 新しい時代の教会と説教――加藤常昭先生献呈論文集』、教文館、1999。
ルドルフ・ボーレンの「弟子であり続けること−−加藤常昭君のために」は、「決して神の非人間性ではなく−−カール・バルトの今日における意味」という講演。第一部は、バルトを教師とした者の一人アイヒホルツに、一つの弟子の姿を見る。神学を学ぶ弟子は、本来聖書を釈義する者である。第二部では、『教会教義学』の第7章「学としての教義学」を取り上げ、バルトの神学の学問性の取り扱いを批判する。第三部では、神学は神の日を待つこととこれを早める作業であることを語る。「カール・バルトと、その神学の弟子たちに、わたしが学んできたのは、聖書を愛するということでありました」。
加藤常昭、『愛の手紙・説教――今改めて説教を問う』、教文館、2000。
「終末論的出来事の言葉・説教」の中で、カール・バルトを手がかりに、説教者における終末信仰を論じる。「キリスト教宣教の困窮と約束」、「神学の課題としての神の言葉」などを取り上げている。
蓮見和男、『神への問い』(希望と十字架――新しい組織神学的試み 第一巻)、新教出版社、2001、396頁、5000円。
全6巻を構想し、バルトやモルトマンと対話しつつ、近代哲学への弁証的問いを立てながら、教義学を独自の仕方で記述する。随所でバルトが出てくるが、特に第9章が「バルト・虚無的なもの」。
千葉眞、『二十一世紀と福音信仰』、教文館、2001、202頁。
第3章が「ポストモダンとバルト」。著者はクリスチャン政治学者。
深井智朗、『ハルナックとその時代』、キリスト新聞社、2002、182頁。
2001年がハルナック生誕150年であったことを意識してなされたハルナックに関する講演集を元にしたもの。ハルナックはカール・バルトに消された神学者かという問いを立てている。「カール・バルトに消された神学者?」はキリスト新聞に掲載されたものに若干加筆。ハルナックとバルトの往復書簡再考もある。森鴎外のハルナック論なども異色。
近藤勝彦、『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』、教文館、2002、322頁、3600円。
「第一部 二十一世紀の日本の伝道と神学」と「第二部 組織神学としての伝道の神学」。この第二部の第4章が「カール・バルトにおける伝道理解――その意味と限界」。これは『神学』63号(2001)初出。従来の神学では、とりわけ教義学において「伝道」は、「世界的に言って、ほとんど忘却されてきた神学的主題の一つである」(「はじめに」p.4)。
大木英夫、『組織神学序説――プロレゴーメナとしての聖書論』、教文館、2003、592+10頁、5000円。
第3章「プロレゴーメナとしての聖書論」の中に「啓示論としてのプロレゴーメナ−−バルトの方法の批判的検討」あり。しかし、全体としてバルトを意識し、随所で引用されている。「バルトは「啓示」の出来事に注目し、「啓示の三様態」と言う議論を持ってプロレゴーメナを展開し、そこから教義学の構築を企てました。われわれは、バルトと異なり、啓示の<出来事>だけに注目するのではなく、その啓示が証人としての使徒たちにたいしてもつ<原関係>においてその証言がゲシュタルト化されていることに注目し、それを分析する」(p.316)。
水垣渉(みずがき・わたる)、小高毅(おだか・たけし)編、『キリスト論論争史』、日本基督教団出版局、2003、583頁、9240円。
安酸敏眞(やすかた・としまさ)による「第6章 近代プロテスタントのキリスト論」の「第7節 二十世紀神学におけるキリスト論の復権の試み」に「1 K・バルト」。4ページ弱の記述。バルトのキリスト論を紹介すると言うよりは、バルトの「キリスト論的集中」(christologische Konzentration)への歩みを述べただけ。全体的に、キリスト論として重要な教父・神学者に着目してその論を読み解くというよりも、キリスト論に関わった教父・神学者を少しでも多く紹介する本である。ちなみに、他の著者は、「総説」とニカイアまで(第1章)が水垣渉、「ニカイア以降」(第2章)が小高毅、「カロリング朝時代から宗教改革前夜まで」(第3章)がハンス ユーゲン・マルクス、「宗教改革」(第4章)は徳善義和、近現代のカトリック(第5章)がペトロ・ネメシェギ、最後の「第7章 現代思想とキリスト論」は芦名定道。注のあるなしとか文献表のあるなしとかが、執筆者によってバラバラ。
春名純人、『恩恵の光と自然の光――キリスト教文化論集』(聖恵・神学シリーズ38)、聖恵授産所出版部、2003。
この中に、「ブルンナーとバルトの自然神学論争の現代的意義」という論文あり。
ヨハネス・ラウ(加藤常昭訳)、『大統領が語るキリスト者人間像』、教文館、2004、272頁、1995円。
2004.6まで5年間ドイツ大統領だったヨハネス・ラウの講演集。政治家として、また改革派の信徒として、宗教改革者、詩人、思想家、政治家、神学者、牧師などを取り上げて語る。バルトについて語っている章あり。他には、ルター、メランヒトン、ニコライ、ツィンツェンドルフ、コルチャック、ボンヘッファーなど。
深井智朗、『超越と認識――20世紀神学史における神認識の問題』、創文社、2004、376頁、6600円。
第2章でバルトとブルンナーの自然神学論争を再考している。創文社によれば、「カール・バルトが『ローマ書注解』を刊行した1919年からユルゲン・モルトマンが『体系』を完成させた1999年までを20世紀神学と捉え、“人間は神や超越の次元を認識しうるのか”という命題と取り組んだ時代として描き出す。この時代状況と向き合った数々の言説を整理・分析して三類型を抽出、ブルンナー、バルト、ティリッヒ、バーガー、パネンベルク、モルトマンの議論を参照しつつ、人間学を基礎学とする神学の再構築を新たな可能性として力強く論じる。」とのこと。『創文』No.466(2004.07)で「神学とはいかなる科学(wissenschaft)なのか」と題して、著者自身が紹介している。
富岡幸一郎、『非戦論』、NTT出版、2004、2205円。
内村鑑三とバルトの思想を継承して、聖書の終末論を読み解き、21世紀の非戦論を構築する。
蓮見和男、『対話する神』(希望と十字架――新しい組織神学的試み 第二巻)、新教出版社、2004、384頁、4500円。
随所でバルトに言及している。特に、第1章「対話する神」の4が「カール・バルト」、第三章「三位一体の跡(類比の問題)の1が「アウグスチヌスとバルト」。
G.ザウター(深井智朗、徳田信訳)、『終末論入門』、教文館、2005、377頁、3675円。
バルトの終末論についてある程度の記事あり。
小川圭治、『神をめぐる対話――新しい神概念を求めて』、新教出版社、2006、368頁、5670円。
『主体と超越――キルケゴールからバルトへ』(創文社、1975、466頁)の続編といえる論文集。目次としては、「第三部 新しい神概念から見た世界と人間」の中に「第二章 カール・バルトのルター理解」がある。その他でもバルトが多く取り上げられているようだ。
雨宮栄一、小川圭治、森岡巌編、『井上良雄研究――「世のための教会」を求めて』(新教コイノーニア23)、新教出版社、2006、161+44頁、1900円。
井上良雄は1907-2003。佐藤司郎「井上良雄におけるバルトとブルームハルト」あり。そのほかにも、小川圭治「無くてならぬただ一つのものを追い求める人――井上良雄における神学の形成と展開」では『教会教義学』の翻訳の裏話?も。巻末に詳細な井上良雄著作目録あり。
古屋安雄、倉松功、近藤勝彦、阿久戸光晴編、『歴史と神学――大木英夫教授喜寿記念献呈論文集 上巻』、聖学院大学出版会、2005。
この中に、佐藤司郎「『ローマ書講解』におけるカール・バルトの教会理解」あり。
松見俊、『三位一体論的神学の可能性――あるべき『社会』のモデルとしての三一神』、新教出版社、2007、270頁、4620円。
「第1章 神の自己啓示の解釈としての三位一体論」の第2節が「カール・バルトの三位一体論」、第3節が「バルトの三位一体論理解の評価」。他に、パネンベルク、モルトマン、そしてレオナルド・ボフを取り上げている。
平林孝裕編著(関西学院大学共同研究「愛の研究」プロジェクト編)、『愛を考える――キリスト教の視点から』、関西学院大学出版会、2007、240頁、2100円。
第9章に「《神への愛》と《隣人愛》 カール・バルトにおける《自己愛》をめぐって」というのがある。
横手征彦、『バーゼル――ライン河畔に息づく死と生の文化』、新教出版社、2007、342頁、3150円。
第3章の3が「カール・バルト」。特に、バーゼル宣教会との関わりについて語られているらしい。
喜田川信、『新しい共同体と日本』、教文館、2007、284頁、2625円。
論文集。前半「ポストモダンの方向――新しい共同体の建設」の中の第二部が「ルツの新観点――トレルチの完成者としてのバルト」。
近藤勝彦、『啓示と三位一体――組織神学の根本問題』、教文館、2007。
論文集。バルトとパネンベルクを頻繁に検討しながら論を進めている。第1章「歴史的啓示の考察」の中で、カール・バルトにおける「原歴史」と「神思想」の先行性。第二章「啓示認識における歴史と信仰」の中で、カール・バルトにおける啓示の主観性の神的規定。第4章「旧約聖書の意義」の中でバルトの「神の言葉の神学」における啓示と聖書の関係について。第5章ではバルトにおける内在的三位一体と経綸的三位一体。第7章「神の永遠の意志決定について」ではバルトの神の選びの教説を中心に取り上げる。第10章ではバルトの説教論についての論述あり。
H.J.イーヴァント(鈴木和男訳)、『キリスト論 序説――人間の人間性への転換』、日本基督教団出版局、2008、344頁、8190円。
1953-54年のボン大学での講義。第3章「ヘーゲル以後のキリスト論的思惟の道」の「3. 20世紀におけるキリスト論の新しい開始」で、ゴーガルテン、ブルンナー、フォーゲル、バルトに言及する。イーヴァントはバルトから「私以上のものを持っている」と言われた。
『福音と世界』2008年9月号、新教出版社。
「特集 バルト没後40年 どう読み継ぐか」として、佐藤司郎「前進命令としての和解――没後四十年を迎えて」、天野有「バルト受容としての翻訳の問題」、川本良明「日本基督教団の過去・現在・未来」、福嶋揚「バルト神学の死生観・終末論への貢献」。また、この号から佐藤優「神学の履歴書 1 カール・バルトの読み方」の連載が開始されている。
加藤常昭、『文学としての説教』、日本基督教団出版局、2008。
バルトの他、ボーレン、植村正久、竹森満佐一らが文学について触れている文章との対話を通して、説教学に新たな視点を投じるとのこと。
出村彰、『ツヴィングリ――改革派教会の遺産と負債』(宗教改革論集2)、新教出版社、2010、432頁、5250円。
この中に、「バルトの見たツヴィングリ」という章あり。
喜田川信、『現代ヨーロッパ神学の根本問題』、教文館、2011、200頁、1995円。
「バルト神学の根幹と全体像――素描」で初期バルトの問題、創造論、選びなどを取り扱う。また、「ヘーゲル、ボンヘッファー、バルト」もある。
アリスター・E.マクグラス(柳田洋夫訳)、『歴史のイエスと信仰のキリスト――近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成』、キリスト新聞社、2011、380頁、4725円。
第6章が「弁証法的キリスト論――バルトとブルンナー」。
近藤勝彦、『二十世紀の主要な神学者たち――私は彼らからどのように学び、何を批判しているか』、教文館、2011、196頁、1995円。
第1章で「私の辿った神学の歩み」、そして第2章で「カール・バルトとの出会いと格闘」を語る。その他、ニーバー、ティリッヒ、ブルンナー、モルトマン、パネンベルク、トレルチ、ファン・リューラーを取り上げている。
深井智朗、『思想としての編集者――現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』、新教出版社、2011、250頁、2499円。
著作を世に送り出す編集者はもう一人の著者であり、思想家である。トレルチ、バルト、ゴーガルテン、ティリッヒなどにまつわるエピソードが紹介されている。
宮田光雄、「<政治的人間>としてのカール・バルト」(上、下)、『福音と世界』2011年7〜8月号、新教出版社。
大宮溥編、『フォーサイス神学概論――十字架の神学』、教文館、2011、482頁、3800円+税。
この中に、ジョン・トムソン「フォーサイスは本当にバルト以前のバルト主義者であったか」あり。
J・L・フロマートカ(平野清美訳、佐藤優監訳)、『神学入門――プロテスタント神学の転換点』、新教出版社、2012、268頁、1800円+税。
この中の最終章が「一九二一年以降のバルトの道の概要」。
R.A.クライン、C.ポルケ、M.ヴェンテ編(佐々木勝彦、佐々木悠、濱崎雅孝訳)、『キリスト教神学の主要著作――オリゲネスからモルトマンまで』、教文館、2013、444頁、4000円+税。
18人の神学者の古典的名著を紹介。その中にバルトの『教会教義学』あり。
川端純四郎、『3・11後を生きるキリスト教――ブルトマン、マルクス、バッハから学んだこと』、新教出版社、2013、94頁、1100円+税。
この中に「バルトとブルトマン」あり。
寺園喜基、「カール・バルト『教会教義学』の世界」、『福音と世界』2014年1月号〜、新教出版社。
近藤勝彦、『贖罪論とその周辺――組織神学の根本問題2』、教文館、2014、372頁、5500円+税。
この中に「カール・バルトの「和解論」における贖罪論」あり。
宮田光雄、『私の聖書物語――イースター黙想』、新教出版社、2014。
この中に、「『マタイ受難曲』とカール・バルト」あり。
F. W. グラーフ編(安酸敏眞監訳)、『キリスト教の主要神学者 下――リシャール・シモンからカール・ラーナーまで』、教文館、2014、416頁、4200円+税。
この下巻では、正統主義の時代から20世紀に至るまでの17名の神学者を紹介。
ハンス・キュンク(片山寛訳)、『キリスト教思想の形成者たち――パウロからカール・バルトまで』、新教出版社、2014年、350頁、2900円+税。
パウロ、オリゲネス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、マルチン・ルター、フリードリヒ・シュライエルマッハー、そしてカール・バルトを見出しに取り上げている。
クリスティアン・メラー(小泉健訳)、『魂への配慮としての説教――12の自伝的・神学的出会い』、教文館、2014、336頁、2600円+税。
メラーの自伝的説教論。第7章が「カール・バルト――もしくは、囚われている人々に解放を」。