松 永 希 久 夫

(まつなが きくお)
1933.5.11 - 2005.10.11

『神学』63号(2001)にその時点までの著書、訳書、主要論文目録あり。ただし、細かな間違いが多い。

ペディラヴィウム会『通信』編集委員会編『松永希久夫兄記念文集』(ペディラヴィウム会、63号、2006)に詳細な目録あり。

★印は、ペディラヴィウム会の『松永希久夫兄記念文集』の目録に記されていないもの。

『歴史の中のイエス像』(NHKブックス572)の中の「聖書と聖書研究」の中で、「史的イエス」の問題に関わる著者の立場を明確にしている。1.いかなる伝承も解釈を含んでいる。2.教会の解釈こそ、史的イエスの言動に対する正鵠を射た解釈である。復活後のイエス解釈の真理性は、生前のイエスの言動によって裏書きされている。3.神といった超越的な存在やその歴史世界内への介入といった事柄について“神話”性を保持しつつ非神話化する。4.福音書は、過去・現在・未来のイエスを同時的に描き出している。これは礼拝の特質を引き継いでいる。

「私のやってきたことは、1.史的イエスとケリュグマのキリスト、2.ヨハネ福音書研究、3.新約聖書の教会論の三つである。」「キリストの十字架と栄光」(東神大『紀要』5、p.47)

著 書

『史的イエス像考察』(東神大パンフレット16)、東京神学大学出版委員会、1978。
『歴史の中のイエス像』(NHKブックス572)、日本放送出版協会、1987。
「人間の力の限界を超えたところに、あるいは、人間の可能性を超えたところに神の可能性を見る」(p.22f)。イエスの癒しは、「主の日」つまり神の支配が実現する日の到来のしるしであった(p.36f)。「癒しは救いのしるしであり、神の国の人間への呼びかけ」であった。「それにどう応えるか・・・歴史の背後、人生の背後に厳然といます神を認めて、神との交わりにみずからを見出すのか、その決断が求められている」(p.57)。「イエスの譬え話は、聞く側だけではなく、語り手にも主体的な決断を迫るものであった(p.146)。「十字架は、人間の罪の姿を凝縮してみせるだけでなく、どこに罪の解決、すなわち罪の赦しがあるかをも示している。・・・そこに神の意志があるのだ。そのことを分からせるために、イエスは十字架についたのだ。そのイエスこそ神の子、神の自己啓示であるという信仰が、そこから出発したのだ」(p.178)。
これの書評として、橋本滋男「論評 松永希久夫著『歴史の中のイエス像』」(『新約学研究』18号、1990)がある。
『ひとり子なるイエス――ヨハネ福音書新解T』、ヨルダン社、1987。
1〜6章まで。『形成』誌に連載記事が元。
『神の民の信仰 新約篇』、教文館、1996。
単立松本日本基督教会での教会の信仰についての学び4講。
『イエスの生と死――聖書の語りかけるもの』(NHKライブラリー143)、日本放送出版協会、2001。
元は、NHKテレビ「こころの時代」のテキストで、『聖書の語りかけるもの――イエスの生と死』(上、下)、日本放送出版協会、2000。
『新約聖書における教会形成』、教文館、2007。★
1994.4-1995.3に日本基督教団中渋谷教会で毎月行われた全10回の講演録。中渋谷教会牧師及川信による「はじめに」によれば大住雄一監修とのこと。
『松永希久夫著作集』(全三巻)、一麦出版社、2010-2011。★

訳 書

S.ディートリッシュ、『マタイ福音書』(聖書講解全書16)、日本基督教団出版局、1966。
「訳者あとがき」などの松永の文章はない。
「エジャトン・パピルス2」、「エビオン人福音書」 (日本聖書学研究所編『聖書外典偽典6 新約外典1』、教文館)、1976。
N.ペリン、『編集史とは何か』、ヨルダン社、1984。
「訳者あとがき」で編集史という方法論の問題点を論じている。その内容は、『「史的イエス」像考察』(東神大パンフレット、1984)と重なっているとのこと。
S.ブラウン(勝田英嗣と共訳)、『キリスト教の起源――新約聖書概論』(オックスフォード聖書概説シリーズ)、ヨルダン社、1987。
W.D.デーヴィス(三永旨従、鈴木真也、小池磨理子、野田美由紀と共訳)、『イエスの山上の説教』(聖書の研究シリーズ35)、教文館、1991。
G.N.スタントン(石渡浩二、北川美奈子、渡辺善忠と共訳)、『福音書とイエス』(オックスフォード聖書概説シリーズ)、ヨルダン社、1998。
D.M.スミス、『ヨハネ福音書の神学』(叢書・新約聖書神学3)、新教出版社、2002。

編集・監修

竹森満佐一編、『ハイデルベルク信仰問答講解説教』、新教出版社、1971。
竹森満佐一、加藤常昭、平出亨、森田武夫と共編。この中の第4聖日(問9-11)、第13聖日(問33-34)、第27聖日(問72-74)を執筆。
岡野昌雄と共編、『西洋精神の源流と展開――神田盾夫博士喜寿祝賀論文集』、みすず書房、1975。
「あとがき」を岡野と連名で執筆しているらしい。
川田殖と共編、『神田盾夫著作集』全5巻、みすず書房、1975-81。
『ペディラヴィウム』第1号〜51号、ペディラヴィウム会、1979-2000。
左近淑、大住雄一と共監修、「オックスフォード聖書概説シリーズ」、ヨルダン社、。
竹森満佐一先生竹森トヨ先生吉祥寺教会牧会40年記念刊行会編、『ガラテヤ書講解説教』、ヨルダン社、1980。
加藤常昭、森田武夫、平出亨らと刊行委員会を構成。この中で松永の筆は、2:6-10、5:1。
竹森満佐一編、『講解説教 イエス伝――マルコ福音書によって』、新教出版社、1990。
後付、表紙で「竹森満佐一編」とあるのを確認済。編集後記の中で、加藤常昭、平出亨、森田武夫、松永希久夫の4名が編集委員を担ったことが記されている。松永の執筆は、1:21-39、6:30-44、6:53-56、12:28-34、13:24-31、16:19-20、編集後記、追記。
東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、『新約聖書神学事典』、教文館、1991。
森田武夫と共編、『講解説教 ガラテヤの信徒への手紙』(竹森満佐一選集)、新教出版社、1991。
森田武夫と共編、『講解説教 降誕・復活』(竹森満佐一選集)、新教出版社、1992。
J.L.メイズ編、『ハーパー聖書注解』、教文館、1996。
荒井章三、並木浩一、橋本滋男、山内一郎、和田幹夫と共に、日本語版編集者の一人。また、翻訳者の一人として、「序論」の中のJ.バートン「聖書の読みと解釈」の翻訳。

辞事典の執筆項目

共同執筆の注解書

山岡健との共著、「ヨハネによる福音書」高橋虔、B.シュナイダー監修、『新共同訳新約聖書注解T』、日本基督教団出版局、1991。
1-12、20-21章。(13-19章は山岡健の執筆)
「ヨハネの手紙一、二、三」高橋虔、B.シュナイダー監修、『新共同訳新約聖書注解T』、日本基督教団出版局、1991。
「ヨハネによる福音書」山内眞監修、『新共同訳新約聖書略解』、日本基督教団出版局、2000。

事典項目

『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989)の執筆者・翻訳者・閲読者。
『新約聖書神学事典』 (東京神学大学新約聖書神学事典編集委員会編、教文館)の執筆項目、1991。
「悪魔」、「偽りの教師」、「共観福音書」、「共観福音書問題」、「キリスト論」、「クムラン教団、クムラン文書」、「死」、「終末」、「終末論」、「召命」、「神殿」、「新約学」、「救い主」、「聖霊」、「助け主」、「中間時の論理」、「罪」、「反キリスト」、「愛弟子」、「恵み」、「黙示文学」、「モーセ」、「預言者」、「ヨハネによる福音書」、「ヨハネの第一、第二、第三の手紙」、「黄泉(よみ)」、「霊力」。
The Anchor Bible Dictionary (David Noel Freedman, ed., The Anchor Bible Dictionary, (New York: Doubleday, 1992) の"Biblical Scholarship, Japanese"の項の中の"NT Scholarship"、Vol.1, pp.738-740
『比較思想事典』(中村元監修、峰島旭雄責任編集、東京書籍、2000)の「キリスト教とユダヤ教」の項(pp.125-128)執筆。
ペディラヴィウム会の『松永希久夫兄記念文集』の中の目録には記載に誤りあり。

論 文

東京神学大学神学会編、『神学』の論文

初登場:36号、最後は63号
ヨハネ福音書における“神”キリスト論36,37号、1975。
神の小羊――第四福音書の贖罪論モティーフについての予備的考察38号、1976。
‘The Holy Spirit'か‘holy spirit'か――第四福音書における「霊」の一考察39号、1977。
使徒行伝における「おそれ」(1)41号、1979。
使徒行伝における「おそれ」(2)42号、1980。
イエスの十字架――ヨハネの第一の手紙とヨハネ福音書の関係から50号、1988。
マルコ福音書にける供食の記事に関する一考察――特に聖餐モチーフとの関連において59号、1997。
福音と派遣――ヨハネ20:19-23を中心として63号、2001。

東京神学大学総合研究所編、『紀要』の論文

『紀要』すべてcheck済。
日本伝道研究所派遣報告 沖縄地区訪問記(左近淑と共著)1号、1990。
信仰告白――伝道と教団再建の基盤として2号、1999。
第8回日本伝道協議会主題講演(1997)
合同教会の中での教派的伝統について、「キリストの体としての一致を保つためには教派的伝統を乗り越える、そのためには自らの伝統の主張にも一定の抑制が期待されることを承認しているはず」/ 主イエスが共に乗り込んでおられ、波や風を鎮めて向こう岸に着くならば、各自の立場は絶対化されなくてもそれでよいとの信仰を持って漕ぎ出すか、否かである。/議論や会議に時間を浪費するとき、襲ってくる空しさ、非人間化が生命体としての教会共同体を疲弊させる」/ 真に信仰告白が惹き起こされるような主体を回復するためには、キリストの現臨が真に礼拝を惹き起こすような共同体を準備すること・・・。そのためには正しく「罪の赦し」が宣言告知される説教と、これを裏付ける聖礼典の執行が必要・・・。
キリストの十字架と栄光――イエスを求めて5号、2002。
2002.1.18の最終講義。
ヨハネ福音書の丹念な釈義によって、福音書記者の技巧が、自分の家の庭のように何処に何があって、何がどうなっているか、と手に取るようにわかるようになってきた。/ 主イエスは真っ直ぐに歩いておられる。私たちが“自分の道”を歩み続けるならば、イエスの道を横切るだけである。自分の軌道を捨て、自分の道を外れて主イエスの歩む道に共に居り、同行する生活でなければならない。私たちの歩む道の同伴者がイエスなのではなく、主イエスの十字架への道に私たちが同伴するのである。

その他の論文等

ヨハネ福音書におけるイスカリオテのユダについての一考察日本聖書学研究所、『聖書の思想、歴史、言語――関根正雄教授還暦記念論文集』(聖書学論集9)、山本書店、1972。
新約聖書における死と葬儀日本基督教団信仰職制委員会編、『死と葬儀』、日本基督教団出版局、1974。
ヨハネの世界――第四福音書におけるイエスの敵対者像『西洋精神の源流と展開――神田盾夫博士喜寿祝賀論文集』、みすず書房、1975。
関根正雄、八木誠一、並木浩一との座談会 聖書学関係この五年間の研究業績概観『日本の神学』No.15、日本基督教学会、1976。
ヨハネによる福音書序説『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局、1991。
ヨハネ福音書の研究動向を示しつつ、注解書を紹介したもの。
キリスト教の自己確認――十八祝祷第一二祷とヨハネ福音書との関係についての一考察H.W.アートリッジ、秦剛平共編、『キリスト教の正統と異端』(エウセビオス研究第2巻)、リトン、1992。
これの英文が、'Christian Self-Identification and the Twelfth Benediction' in H.W. Attridge and G.Hata ed., "Eusebius, Christianity and Judaism," Wayne State University Press, 1992.
ヨハネによる福音書の愛弟子とはだれか『ヨーロッパ精神とドイツ――出会いと変容 小塩節先生還暦祝賀論文集』、郁文堂、1992。
<合同教会はいかにあるべきか> その1『季刊 教会』、30号(1998春号)、1998。
説教と神の言のはざまにて――説教学演習Vへの覚書山口隆康、芳賀力編、『説教と言葉――新しい時代の教会と説教−−加藤常昭先生献呈論文集』、教文館、1999。
説教には、人間のなすことであるゆえに芸術性という要素があるのを免れ得ない。しかし、説教を量る基準は宗教的真理の伝達でしかない。/ 牧師は、キリストの代理者として礼拝を主宰する。そこにプロテスタントの教職観がある。/ 礼拝を主宰するとは、礼拝の儀式を主宰するのみならず、教会員が真に礼拝を捧げることができるように共同体を育てることも含んでいる。これが牧会であり、教会形成である。/ 礼拝のクライマックスは、説教ではなく祝祷である。祝祷が真に三位一体の神からの祝福として聴衆に届かなかったら、礼拝ではない。/ 説教は、この世に対する罪の告知として伝道であり、教会員への霊の糧の提供として牧会である。/ よく分からなかったと思う説教を一週間考えつつ生活する。分かったと思った説教も、生涯のある時点に至って、より深い真意に気づくこともある。/ 主日礼拝のための準備は、礼拝共同体が日曜に受け取った恵みを週日の生活の中で十分に発揮しているか否かを見届け、指導し、充足せしめることでもある。/ 信徒は自分たちと異なる倫理的要求を教職に負わせてはならないし、教職に期待する倫理は自分たちも遂行する責任がある。/ カルヴァンは、神と聴衆との間に説教者が邪魔となることを最も恐れた。/破れ提灯の方が、内にあるキリストがよく見えて良い。なまじ破れのない提灯であれば、人々の目は提灯に向けられ、内なる光によってのみ明るくされているという事実が見失われる。
Theological Education in Japanin Jean S. Stoner ed., "Preparing for Witness in Context: 1998 Cook Theological Seminar; Papers Presented in Seminars in China, India, and Japan," Presbyterian Church (USA), 1999, pp.295-311.
この299ページで、日本の信仰平均寿命は2.8年だったという調査結果が記されている。
マグダラのマリア――わたしは主を見ました小塩節監修、『聖書を彩る女性たち――その文化への反映』、毎日新聞社、2002。
「特別寄稿」として収録されている。

その他(目に留まったもの)

伝道者としてのブルンナー中沢洽樹、川田殖編、『日本におけるブルンナー――講演と思い出』、新教出版社、1974。
「〔文献表〕教会論参考文献案内」の中の〔新約関係〕の部分『神学』40号、1978。
歴史と信仰――召命の根拠として『日本基督教団福音主義教会連合』機関紙、78号、1983.12。
『現代にとって救いとは』(伝道説教集第10号)、日本基督教団金沢教会、1988、105頁、500円。
1987.10.31-11.1に行われた金沢教会の特別伝道集会における説教3扁。 創世記11:1-9「対話の回復――イエスと現代人」、エゼキエル37:1-14、ローマ8:11「生かされて生きる――現代に<生きる>とは」、ヨブ23:8-9,ヨハネ8:1-11「虚無とイエス――現代にとって救いとは」
竹森満佐一牧師葬儀説教葬儀説教集編集委員会編『葬儀説教集 天国への旅人』聖恵授産所出版部、1994。
伊吹雄『ヨハネ福音書と新約思想』(創文社、1994)の書評日本基督教学会編、『日本の神学』34号、1995。
まことに神はあなたがたのうちにおられます鎌倉雪ノ下教会伝道パンフレット第10号所収、1995。
コリントの信徒への手紙一 14:24-25の説教。
第28回日本伝道の幻を語る会 講演「神の宮としての教会」、「キリストの体としての教会」『日本をキリストへ』No.274-275号、日本キリスト伝道会、1996.11〜12。
1996年9月9-11日の「日本伝道の幻を語る会」講演録。
徹夜して祈るイエス東京神学大学教授会編『献身の喜び』、東京神学大学募集委員会、1996。
序にかえて田島惠三、『天国への凱旋門――死刑囚からの手紙』教文館、1997。
イエスはどこまでが神の子で、どこまでが人間か『「新約聖書」がわかる』(AERAMook、No.40、朝日新聞社)、1998。
伝道者・竹森満佐一『吉祥寺教会の歩み』編集委員会編、『吉祥寺教会の歩み』、日本基督教団吉祥寺教会、1999。
土戸 清『初期キリスト教とユダヤ教――ヨハネ福音書研究の諸問題』の書評日本基督教学会編、『日本の神学』38号、1999。
呼吸のできる隙間が日本基督教団福音主義教会連合『教会学校教案』、2000.4(第255号)の巻頭言。
日本基督教団福音主義教会連合『教会学校教案』の2000年度(第255〜267号)の「テキスト研究」。
マタイ。
クリスマスが今の時代に問うもの婦人之友社編、『聖書 呼びかける言葉』婦人之友社、2002。
週に一時間の『愛』などは、ない日本基督教団福音主義教会連合『教会学校教案』、2005.2(第314号)の巻頭言。
なぜユダはイエスを裏切ったのか?荒地出版社編、『聖書の謎百科』、荒地出版社、2006、pp.209-216。
イエスの復活は何を意味するか?荒地出版社編、『聖書の謎百科』、荒地出版社、2006、pp.209-216。
以上二つは、『別冊歴史読本 総集編・聖書の謎百科』(新人物往来社、1992)に初出。もしかしたら加筆修正等されているかも。
主イエス・キリスト――弟子たちの視点からFEBCのカセット、全12話、14時間、70分テープ13本。

記念出版物

ペディラヴィウム会『通信』編集委員会編、『松永希久夫兄記念文集』、ペディラヴィウム会、2006。
この中に収められている松永の文章は、「創刊の辞 ペディラヴィウム――ヘブライズムとヘレニズム研究」(1979)、「講演 洗足――私達の会の名称として」(1974)、「説教 御自分の僕の平和を望む方を」(2004)。その他、葬儀の式次第と及川信「松永希久夫葬儀説教」も収められている。