2015.11.23更新
印が主な更新個所です。)

■組織神学A

0.事 典

東京神学大学神学会編、『キリスト教組織神学事典』増補版、教文館、1983、463頁、3600円
104項目。教理的な基本用語、教義学の重要概念、現代神学の諸問題、主要な現代神学者、各国の現代神学の状況など。人名索引、事項索引あり。巻末に、1982年2月までに発行された主要文献目録があり、教義学入門、聖書論、神論、創造論、予定論・・・などと分類されているので、とても見やすい。ちなみに初版は1972年で、91項目、文献目録はない。2002.4に新装版が出たが、内容に変更はない。

組織神学事典としては、古いものでは、マービン・ハルバーソン編(野呂芳男訳)『キリスト教神学辞典』(日本基督教団出版部、1960(1958)、382頁)が有名。101項目を掲載。ほんとに古いけど、「エキュメニズム」の項はヴィッサー・トーフト、「エロースとアガペー」の項はニーグレン、「カイロス」の項はティリッヒ、「自己」や「自由」の項はラインホールド・ニーバーなど、興味深い。新しいところとして、A.リチャードソン、J.ボウデン編(古屋安雄監修、佐柳文男訳)『キリスト教神学事典』(教文館、1995(1983))があるので図書館でチェック。最新のものとしては、アリスター・E.マクグラス編『現代キリスト教神学思想事典』(熊沢義宣、高柳俊一日本語訳監修、新教出版社、2001(1993)、760頁、12600円)がとても良い。カタログによると315項目。しかし持っていない。まあ、高価なので図書館で利用する。

1.教義学

1.1 教義学全般など

日本人による教義学

佐藤敏夫、『キリスト教神学概論』(第2版)、新教出版社、1996、16+343+14頁、5150円。
教義学のほぼ全般を概論的に1冊で取り扱っている。途中に付論が挟まっている。「キリスト教と諸宗教」、「律法と福音」、「日本のプロテスタント神学を振り返って(教義学を中心に)」の三つ。第二版は、補遺として、三位一体について、受肉について、十字架について、復活についての全9ページが付加された。
桑田秀延、『基督教神学概論』(桑田秀延全集1)、キリスト新聞社、1976、4800円。
これも、教義学のほぼ全般を概論的に1冊で取り扱っているが、どちらかというと佐藤のものよりこちらの方が論理の運び方が好みに合う。
熊野義孝、『教義学』、新教出版社、全3冊。
全集では第7巻8巻の上下2冊。

雨宮栄一、村上伸編、『教義学とは何か』(日本基督教団出版局、1987、288頁)は、『聖書と教会』誌に連載された「現代教義学の諸問題」をまとめたもの。1.教義学序説(大崎節郎)、2.神論(小川圭治)、3.創造論(上田光正)、4.キリスト論(寺園喜基)、5.救済論(村上伸)、6.教会論(雨宮栄一)、7.終末論(野呂芳男)。巻末に参考文献表あり。

牧田吉和、市川康則(袴田康裕編)、『改革派教義学』全7巻、発行:神戸改革派神学校、発売:一麦出版社、2012〜2015(予定)。第1巻 序論(牧田吉和)、第2巻 神論(牧田吉和)、第3巻 人間論(市川康則)、第4巻 キリスト論(牧田吉和)、第5巻 救済論(牧田吉和)、第6巻 教会論(市川康則)、第7巻 終末論(牧田吉和)。

教義学の大著

カルヴァン『キリスト教綱要』、トマス・アクイナス『神学大全』、カール・バルト『教会教義学』の分量の比は、1:4:9だと言われる(ファングマイアー『神学者カール・バルト』、日本基督教団出版局、p.60)

J.カルヴァン、『キリスト教綱要』、1559年第5版(最終版)(渡辺信夫訳)
"Institutio Christianae Religionis"。1536初版、15392、15433,15504,15595
渡辺信夫訳『キリスト教綱要 改訳版』全3巻、新教出版社、2007-2009。。1559年ラテン語最終版のみを底本とし、ラテン語原文における一文が訳文でもできるだけ一文になるように訳された、全面改訳。注は前訳よりも減っている。旧版にあった各節の要旨はない。第1巻(2007、583頁、4725円)は第1編と第2編を収録。第2巻(2008、527頁、4725円)は第3編を収録。第3巻(2009、608頁、4725円)は第4編と「訳者あとがき」聖句索引。
「『綱要』原典は版によって句読点が違います。以前は一番読みやすいテキスト、つまり区切りが短いものを選んだのです。ところが、あとになって読むと、しっくりこない。文をブツブツと切っているせいだと気づきました。それが改訳の動機の一つです」(『朝日新聞』2010.1.16夕刊)。目の不自由な方のために、点字本とともに音訳を提供しなければならないと考え、訳文がほぼでき上がった段階で朗読奉仕の方々に読んでもらい、読みにくいところ、読む人自身の理解の困難なところを指摘してもらって、原稿に手を入れた。(「訳者あとがき」による)。
従来の渡辺信夫訳は新教出版社、1962-1965、全4巻6冊+別巻。1559年のラテン語最終版だけでなく、その自由訳であるフランス語版(1560)も底本としていた。別巻は索引と文献。旧版ではラテン語版とフランス語版の違いが分かるようにされていたが、改訂版では必要な箇所でのみフランス語版での記述が記されている。渡辺訳以前は、中山昌樹訳『基督教綱要』(新生堂、後に新教出版社)だった。ちなみに英訳名は"Institutes of the Christian Religion"。
1536初版も重要。久米あつみ訳『キリスト教綱要(1536版)』(教文館、2000、416頁、4500円)。これは普及版で、元は『宗教改革著作集9 カルヴァンとその周辺T』(教文館、1986)。巻末に解題と文献表あり。
執筆目的としては、教義の体系化というよりも、"institutio"であるから、教育を意図して書かれた。渡辺信夫によれば、「綱要」と訳されているinstitutioという語は、当時、カテキズムと同義語であった(渡辺信夫『カルヴァンの「キリスト教綱要」について』、1991、p.10)。特に、1536年の「綱要初版の構成は、カテキズムそのもの」であった(p.13)。また、「最終版は、ほぼ使徒信条の構成に準じて論述」されている。「これは三一論的に体系付けられたと言っても良いであろう」(p.30)
「カルヴァンの『綱要』は、極めて人格的な本である。著者は読者に直接に語りかける。カルヴァンは、読者がキリスト信者であることを前提にし、ほとんどいつも読者と自分を一つに結びつけている。カルバンのアプローチは、教科書執筆者のそれではなく、個人的な相談者(カウンセラー)であるキリスト者の兄弟のそれである。だから彼は、典型的に、「われわれ」はキリストを通して益[恩典](ベネフィット)を受けている、とか、キリストは[われわれ]のために死なれた、と語る。このような直接的で魅力的な文体が、長年にわたり『綱要』が力を発揮し、人を引きつけるのに大きく貢献してきたことは確かである。しかし、そのために、正確さ、厳密さに欠けるので、時々その代価を払うことになる。」 (ポール・ヘルム(松谷好明訳)『カルヴァンとカルヴァン主義者たち』、聖学院大学出版会、2003、p.45)
『キリスト教綱要』の重要箇所を抜粋して約十分の一にした英語訳からの重訳H.カー編『キリスト教綱要抄』(竹森満佐一訳、新教セミナーブック3、新教出版社、19581,1994復刊(1939)、337+16頁、3800円)もある。とりあえず「綱要」に親しむのによい。また、ヘンリー・ヴァンアンデル編(吉岡繁訳)『キリスト者の生活綱要』(つのぶえ社、1983改訂初版、108頁、550円)は、『綱要』最終版の第3編第6〜10章(V/6/1〜V/10/6)を英語で要約したものの翻訳。原題は『真のキリスト者生活の黄金律』。
渡辺信夫『カルヴァンの「キリスト教綱要」について』(カルヴァンとカルヴィニズム研究双書シリーズ1、神戸改革派神学校、1998、171頁、1500円)という本がある。これは綱要を包括的に解説した授業の原稿を元にしたもの。全6講で、第1が「キリスト教綱要の体系化」、第2が「カルヴァンの精神世界」、その後、綱要を1編ずつ4回にわたって解説。最後に四つの質疑応答。意外とおもしろい。さて後に出た『カルヴァンの『キリスト教綱要』を読む』(新教出版社、2007、257頁、2205円)はその新版か?
フォード・ルイス・バトルズ(金田幸男、高崎毅志訳)『「キリスト教綱要」を読む人のために――7行で読むカルヴァン』(一麦出版社、2009、400頁、3800円+税)はどうだろうか?
カール・バルト、『教会教義学』(井上良雄、吉永正義、菅円吉 訳、新教出版社、全36冊)。
英訳名は"Church Dogmatics"。吉永正義(1925.1.25 - 2008.11.18)の訳は、「神の言葉」、「神論」、「創造論」(ただしUのみ菅円吉との共訳)。「和解論」は井上良雄訳。
エミール・ブルンナー、『教義学』(第1巻:1964、第2巻:1950,第3巻:1960)
熊澤、芳賀、佐藤、近藤、大村訳、『ブルンナー著作集』第2巻〜第5巻、教文館、全4冊。
第2巻(教義学T)(熊澤義宣、芳賀力訳):
「序説 教義学の根拠と課題」、「第一部 神の自己伝達の永遠の基礎」として「第一分節 神の本質と、その固有な性質」、「第二分節 神の意志」。巻末の熊沢義宣による解説でブルンナーの神学の歩みと諸著作をごく簡単に紹介している。
第3巻(教義学U)(佐藤敏夫訳):
「第二部 神の自己伝達の歴史的実現」として、「第1章 創造者とその創造」、「第2章 創造された人間」、「第3章 罪人としての人間」、「第4章 罪の結果」、「第5章 天使的諸力とサタン」、「第6章 神の摂理、世界保持と世界統治」、「第7章 歴史と救済史」、「第8章 律法」、「第9章 時が満ちる」、「第10章 キリスト信仰の基礎づけ」、「第11章 イエス・キリストにおける神の救済の業」、「第12章 イエス・キリストの人格」。
J. モルトマン、『組織神学論叢』全5巻。
日本語訳は新教出版社から。1:「三位一体と神の国≪神論≫」(土屋清訳、1990、原著1980)、2:「創造における神≪生態論的創造論≫」(沖野政弘訳、1991、原著1985)、3:「イエス・キリストの道≪メシア的次元におけるキリスト論≫」(蓮見和男訳、1992、原著1988)、4:「いのちの御霊≪総体的聖霊論≫」(蓮見和男、沖野政弘訳、1994、原著1991)、5:「神の到来≪キリスト教的終末論≫」(蓮見和男訳、1996、原著1995)。

マクグラスは、「20世紀において特別な関心を払うべき神学者としてよく選び出されるのは」、カール・バルト(1886-1968)とカール・ラーナー(1904-1984)であると語っている。(マクグラス『神学のよろこび』、p.17) カール・ラーナーの著作として『神学論叢』("Schriften zur Theologie," 英訳名"Theological Investigations")を挙げている。

その他、最近のもの

H.G.ペールマン(蓮見和男訳)、『現代教義学総説 新版』、新教出版社、2008(20026)、536頁、6000円。
1982年邦訳の新版。

組織神学の根本問題

2010.10.20全面的に更新
近藤勝彦、『啓示と三位一体――組織神学の根本問題』、教文館、2007、310頁、5775円。
教文館によれば、「バルト、パネンベルク、トレルチ、ティリッヒ、ブルンナー、モルトマンらを検証しつつ、「啓示論」「聖書論」「神論」「創造論」を展開」とのこと。
ここでの主要な対話の相手はバルトとパネンベルクである。大雑把な言い方をお許し頂くなら、著者のバルトへの不満は、つまるところ、キリストにおける啓示の性格が持つ問題、とりわけ聖霊論の不十分さと歴史の次元の欠如(これと絡み合って、さらに被造物の相対的意義の低さ)に向けられている。他方、パネンベルクに対しては、歴史さらには終末への集中からくる問題、キリストにおける啓示の相対化に主に批判の目が向けられている。(神代真砂実の書評、『本のひろば』2007.5)
近藤勝彦、『贖罪論とその周辺――組織神学の根本問題2』、教文館、2014、372頁、5500円+税。
W. パネンベルク(近藤勝彦、芳賀力訳)、『組織神学の根本問題』、日本基督教団出版局、1984(1967)、336頁、4300円。
原著の中から主要な論文7編の翻訳。「歴史の神学」の「出発と形成を伝える好個の論文集」(「序にかえて」より)とのこと。「聖書原理の危機」、「救済の出来事と歴史」、「解釈学と普遍史」、「信仰と理性」、「哲学的神概念の受容――初期キリスト教神学の教義学的問題として」、「無神論の諸類型とその神学的意義」、「神についての問い」。

教義学と伝統

A. E. マクグラス(神代真砂実訳)『キリスト教神学入門』のpp.254-262。
佐藤敏夫『キリスト教神学概論』の「教義学序説」の第二章「教義学と伝統」(pp.18-27)。
カール・バルト「われ信ず」(『カール・バルト著作集8』所収)の付録「質問と答え」の中の「教義学と伝統」。
熊野義孝「キリスト教概論」(『熊野義孝全集 第6巻』所収)。
熊野義孝「伝統」(『熊野義孝全集 第5巻』所収)。
初出は、山本和、福田正俊編『教会――その形成への課題』(新教出版社、1948)。
「『キリスト教概論』においてその組織的基礎概念として用いられた「伝統」概念を集約的に解説し、その観点から教団を教会として形成する課題と取り組んだすぐれた論文である。」(大木英夫「解説」、『熊野義孝全集 第5巻』、p.605)
「わが国のプロテスタント神学において、伝統の問題を真正面から取り上げたのは、この論文が初めてではないだろうか。」(赤木善光「『基督教概論』をはじめて読んだ頃」、『熊野義孝全集 付録3』、1978.7、新教出版社、pp.5-6)
野呂芳男「伝統論」(『熊野義孝の神学』所収)。
石黒美種編、『プロテスタンティズムと伝統――逢坂・熊野の貢献』、新教出版社、1988。
この中の、赤木善光「我が国プロテスタンティズムにおける伝統の自覚」。これに付されている「付論三 教会と教理――教理発展論の根本問題」は、『神学』40号(1978)初出。

「熊野義孝の伝統論は「伝統」と題する論文においてまとまった形で論述されているが、私見によれば、やはり代表作『基督教概論』(1947年)において、よりいっそういきいきとした論述がなされ、かつ著者の情熱も強く感じとられる。」 (赤木善光「我が国プロテスタンティズムにおける伝統の自覚」、石黒美種編『プロテスタンティズムと伝統――逢坂・熊野の貢献』(新教出版社、1988)、p.47)

1.3 教義学各論いろいろ

芳賀力、『自然、歴史そして神義論――カール・バルトを巡って』、日本基督教団出版局、1991、460頁、5728円。
関川泰寛、「創造と神義論」(『東北学院大学キリスト教研究所 紀要』、第3号、東北学院大学キリスト教研究所、1985.3)。
G.アウレン(佐藤敏夫、内海革訳)、『勝利者キリスト――贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究』、教文館、1982、201頁。
Gustaf Emanuel Hildebrand Aulén, "Christus Victor: An historical study of the three main types of the idea of the atonement"。ちなみに、アウレンの著作の邦訳には、岸千年訳『教会・律法・社会』(基督教論叢14)、新教出版社、1953(1948)、125頁という古いのもあるが、全然耳にしない。
ティリッヒ(谷口美智雄訳)、『信仰の本質と動態』(新教新書56)、新教出版社、1961(1957)。
原題は"Dynamics of Faith"。信仰とは何であるか、信仰とは何でないか、信仰の象徴、類型、真理、生活、最後に結論として、信仰の可能性とその現代における意味。
大崎節郎、『神の権威と自由』、日本基督教団出版局、1982。
教団紛争を背景に書かれた、教義学と聖書、信仰告白との関わりについての論文集。第一部「教義学の根本問題」、第二部「聖書と伝統」。第二部第一章第三節の一「キリスト論的解釈」は、『聖書学方法論』(日本基督教団出版局、1979)に初出。第二部第二章第一節「信仰告白の本質」は、『福音を恥とせず??聖書・信仰告白・戦責告白』(福田正俊、雨宮栄一編、日本基督教団出版局、1973)に初出。
北森嘉蔵、『神の痛みの神学』、教文館、2009、356頁、3360円。
新教出版社から1946初版、1958第5版。講談社から1972、1981。講談社学術文庫743、1986。「講談社学術文庫版への序」までの序と、巻末に、著者自身による解説と、倉松功「『神の痛みの神学』の歴史的意義」あり。さらに、教文館版で、1938年に書かれた『キリストに於ける神の認識』も収録。解説は、倉松功と高柳俊一。
宮本威『神の痛みの神学を読む』(キリスト新聞社、1993、474頁、5000円)の巻末に1993.7までの北森の著作リストあり。

最近のもの

蓮見和男、『神への問い』(「希望と十字架――新しい組織神学の試み」第1巻)、新教出版社、2001、408頁、5250円。
S.T. デイヴィス(本多峰子訳)、『神は悪の問題に答えられるか――神義論をめぐる五つの答え』、教文館、2002、430頁、3675円。
蓮見和男、『対話する神――三位一体論』(「希望と十字架――新しい組織神学の試み」第2巻)、新教出版社、2004、384頁、4725円。
芳賀力、『歴史と伝承――続・物語る教会の神学』、教文館、2008、432頁、4725円。
芳賀力、『神学の小径T 啓示への問い』、キリスト新聞社、2008、353頁、3675円。
芳賀力、『神学の小径U 神への問い』、キリスト新聞社、2012、440頁、4725円。
教皇ベネディクト16世(ヨゼフ・ラッツィンガー)(里野泰昭訳)、『イエス・キリストの神――三位一体の神についての省察』、春秋社、2011、213頁、3150円。

1.4 聖書論・正典論

聖書解釈学のページも見ること。

宗教改革期の信仰告白で、聖書に関する条項を含むものは、第一スイス、スコットランド、フランス、ベルギー、第二スイス、ウェストミンスター。

全 般

笠井恵二、『二十世紀の聖書理解』、新教出版社、1997年、222頁、3200円。
教科書的概説。「二十世紀」と言いつつ、第一部は聖書論の歴史として、旧新約文書の成立、古代のキリスト教(教父らの聖書解釈)、宗教改革を取り上げる。第二部で二十世紀のキリスト教における聖書として、バルト、ブルトマン、ティリッヒ、モルトマン、パネンベルク、さらには、内村鑑三、北森嘉蔵、渡辺善太、第二バチカン公会議。笠井の類書に『二十世紀神学の形成者たち』(新教出版社、1993)、『二十世紀キリスト教の歴史観』(新教出版社、1995)。

体系的なもの

古くは、C.H.ドッド(神田盾夫訳)『聖書――その今日における意義』(新教出版社、19531,19688(1947)。これは、かつては必読の名著だったらしい。「聖書とは何であるか」「聖書研究の方法」「旧約聖書」「新約聖書」「啓示としての歴史」「聖書と現代の歴史的問題」「歴史と個人」の7章。

カルヴァン綱要、バルト、ブルンナー。桑田秀延『基督教神学概論』、佐藤敏夫『キリスト教神学概論』

渡辺善太、『聖書論』(全三巻)、新教出版社。
わたなべ・ぜんだ。『聖書正典論』(19491,1959再版)、『聖書解釈論』(1954)、『聖書神学論』(1963)からなる。後に1冊に纏められて『渡辺善太全集第6巻』(キリスト新聞社、1966)。
さらに、ヨベルからヨベル新書(2012〜)。『聖書論――聖書正典論1/T』(渡辺善太著作選3)(ヨベル新書11)、ヨベル、2012、288頁、1890円。『聖書論――聖書正典論2/T』(渡辺善太著作選4)(ヨベル新書16)、ヨベル、2013、256頁、1890円。この中に関田寛雄「正典的聖書解釈と説教」や小林和夫「渡辺善太における現象学的態度」などが収録されているようだ。
「渡辺正典論と意見を異にしても、まずこれを正しく理解するためには、聖書的説教の経験を持っていなければならない。1968年、『聖書的説教とは』(日本基督教団出版局)を発表されたが、これもまた渡辺善太の秘密を垣間見せる好著であった。復刊が望まれる」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.43)
上田光正、『聖書論』、日本基督教団出版局、1992。
大木英夫、『組織神学序説――プロレゴメーナとしての聖書論』、教文館、2003、560頁、5250円。

その他

岡村民子、『正典としての聖書』、日本基督教団出版局、1958。
後に『岡村民子著作集2』(新教出版社、2001年)に収録。ほかに、『聖書解釈試論――聖書正典の形態的解釈原論』(新教出版社、1964)(後に『岡村民子著作集3』、2001所収)など。
J.バー(宇都宮秀和訳)、『聖なる書物』(聖書の研究シリーズ37)、教文館、1992。
芳賀力、『物語る教会の神学』、教文館、1997。
C.E.ブラーテン、R.W.ジェンソン(芳賀力訳)、『聖書を取り戻す――教会における聖書の権威と解釈の危機』、教文館、1998。
左近淑、「正典としての聖書」(『左近淑著作集 第5巻 講演とエッセイ』、教文館、1993)。
フィルソン(茂泉昭男訳)、『聖書正典の研究――その歴史的・現代的理解』、日本基督教団出版局、1969(1957)、244頁。
原題は"Which Books Belong in The Bible? : A Study of the Canon"。カノンという言葉の意味や正典の機能と権威、キリスト教会にとっての旧約聖書、外典の問題、新約聖書の使徒的証言について、聖書と伝統の関係。
和田幹男、『私たちにとって聖書は何なのか――現代カトリック聖書霊感論序説』、女子パウロ会、1986、269頁、1200円+税。
第二バチカンの『神の啓示に関する教義憲章』の第1章から第3章11項までを解説。

クリュゼマン、タイスマン(大住雄一訳)『キリスト教とユダヤ教』(教文館、2000)に、「なぜキリスト者は旧約聖書を保持するか」というわずか5頁の文章あり。

1.5 キリスト論

キリスト論史を扱った最近のもの

水垣渉、小高毅編、『キリスト論論争史』、日本基督教団出版局、2003、583頁、9240円。
アリスター・E.マクグラス(柳田洋夫訳)、『歴史のイエスと信仰のキリスト――近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成』、キリスト新聞社、2011(20052)、380頁、4725円。
啓蒙主義の影響を受けた神学とそれを乗り越えようとする神学を概説。シュライエルマッハー、ヘーゲル学派、リッチュルからハルナック、ヴァイスからトレルチ、弁証法的キリスト論(バルトとブルンナー)、ブルトマンとティリッヒ、エーベリングからパネンベルク、そして、啓蒙主義の終焉としてモルトマンとユンゲルを取り上げる。原著第2版(2005年)からの翻訳。

最近のもの

H.J.イーヴァント(鈴木和男訳)、『キリスト論 序説――人間の人間性への転換』、日本基督教団出版局、2008、344頁、8190円。
H.J.イーヴァント(鈴木和男訳)、『キリスト論 人間の人間性への転換 T 神が人となりたもうこと U 死と復活』、日本基督教団出版局、2011、392頁、8610円。
トーマス・F. トーランス(芳賀力、岩本龍弘訳)、『キリストの仲保』、キリスト新聞社、2011、266頁、2940円。
原著"The Mediation of Christ"。

1.6 聖霊論

聖霊論の基本は次の三つ。これらの他、モルトマンの『三位一体と神の国――神論』(土屋清訳、J.モルトマン組織神学論叢1、新教出版社、1990)、『いのちの御霊――総体的聖霊論』(蓮見和男、沖野政弘訳、J.モルトマン組織神学論叢4、新教出版社、1994)や『いのちの泉――聖霊といのちの神学』(蓮見幸恵訳、新教出版社、1999)。

ヘンドリクス・ベルコフ(松村克己、藤本治祥訳)、『聖霊の教理』、日本基督教団出版局、1967(1964)。
オランダ改革派の神学者。「第一章 聖霊とキリスト」、「第二章 聖霊と伝道」、「第三章 聖霊と教会」、「第四章 聖霊と個人」、「第五章 聖霊・世・救いの完成」、「第六章 聖霊と三一の神」。訳者のひとり松村克己は、1991.2.16没。
アレスデア・ヘロン(関川泰寛訳)、『聖霊――旧約聖書から現代神学まで』、ヨルダン社、1991(1983)、338頁、2913円。
「第一部 聖書における霊」、「第二部 聖霊論の諸型」として教父から宗教改革まで、「第三部 現代の問題」としてペンテコステ運動やティリッヒ、バルト。文献表あり。
ジョージ・スチュアート・ヘンドリー(栗田英昭訳)、『聖霊論』、一麦出版社、1996(1965改訂版)、212頁、4200円。
「第一章 聖霊とキリスト」、「第二章 聖霊と神」、「第三章 聖霊と教会」、「第四章 聖霊とみ言葉」、「第五章 聖霊と人間の霊」、「第六章 いのちと一致とを与えるかたである聖霊」、「第七章 主なる聖霊」。文献表はないが、訳者後書きが現代の聖霊論全般に渡っていて良い。訳者後書きによれば、ベルコフは聖霊論を論理的順序に従って考察するのに対し、ヘンドリーは歴史的順序を採用している。
ルーカス・フィッシャー編(沖野政弘、関川泰寛、中野正勝、野村信、芳賀繁浩、H.マルクス、久松英二、松島雄一、宮本憲、森紀旦、安村仁志 訳)、『神の霊 キリストの霊――「フィリオクェ」論争についてのエキュメニカルな省察』、一麦出版社、1998(1981)、300頁、4800円。
フィリオクエ問題は、エキュメニカルな信条への関心から、興味のある問題。これは、WCC信仰職制委員会の1978-79年の研究部会の成果。「第T部メモランダム」が研究会の結論として重要。その他11論文。巻末に用語対照表と年表。これに対する評価として、関川泰寛、「三位一体における聖霊」(『神学』45号、東京神学大学神学会、1984年)と、関川泰寛、「聖霊の発出論の現代的展開」(『東北学院大学キリスト教研究所紀要』、第2号、1984年)がある。
M.ヴェルカー(片柳榮一、大石祐一訳)、『聖霊の神学』、教文館、2007、512頁、4830円。
「そもそも神の霊自身が自己主張の霊ではなく、他の被造物のために喜んで自己を退かせる「自己撤収」(344頁)の霊である。この聖霊の無私性を理解しなければ、今も世界で働く霊の現臨を理解することはできない。」(芳賀力の書評、『本のひろば』2007.9号)

1.7 教会論

W.ニーゼル(渡辺信夫訳)、『教会の改革と形成』(新教新書156)、1970改訂新版。
原題は「改革されたとは何を意味するか」であって、ドイツの改革派の教会観を解説したものであるが、一・公・聖、可視性と不可視性、教会の指標としての説教と聖礼典、戒規、礼拝の本質、教会の秩序など、教会理解として重要。
加藤常昭、「教会論」(熊野義孝・松村克己監修、佐藤敏夫・高尾利数編集、『教義学講座T 教義学要綱』、日本基督教団出版局、1970、pp.309-354)。
熊野義孝「教会について」(『熊野義孝全集 第5巻』所収、初出は、岸千年らと共著『教会とサクラメント』聖文舎、1973。
「熊野神学の基礎概念としての「伝統」概念の平明な解説を含み、一般信徒を対象としたものながら、本論文は老熟の神学者のほとんど最終的と言える教会論のアウトラインを鮮明にえがき出している」(『熊野義孝全集 第5巻』の大木英夫「解説」、p.605)
渡辺信夫、『カルヴァンの教会論』増補改訂版、一麦出版社、2009、361頁、4410円。
改革社、1976。
石居正己、『教会とはだれか――ルターにおける教会』、リトン、2005、311頁、3150円。
論文集。ルターの教会論、礼拝論、説教論、洗礼と聖餐、かぎの権威と罪の赦し、職務、伝道論、奉仕、教育とカテキズム。
ハンス・キュンク(石脇慶總(いしわき・よしふさ)、里野泰昭訳)、『教会論 上』(真生シリーズ5)、新教出版社、1976、456頁。
ハンス・キュンク(石脇慶總、角田信三郎訳)、『教会論 下』(真生シリーズ6)、新教出版社、1977、408頁。
Hans Küng, "Die Kirche," 1967. スイス生まれのカトリック神学者。第二バチカンでは公式の顧問として活躍したが、後に教皇不可謬説やキリストの処女降誕などに議論を提起して、1979年に教皇庁から神学教授としての資格を剥奪された。1993年以降、「地球倫理」を提唱し、諸宗教の対話に関心を寄せている。
斎藤正彦、『イエス・キリストと教会』、日本基督教団出版局、1977、334頁。
関田寛雄、『教会』(キリスト教入門4)、日本基督教団出版局、1978、142頁。
入門にしては、信徒が簡単に読める文章ではない。全3章。第1章は、旧約聖書と新約聖書の証言にあたりながら「神の民」として教会を捉えていて、なかなかよい。第2章は「教会の権威」で、第一に「イエス・キリストの現実」があることを指摘し、第二のこととして正典、信条、職制を取り上げていて悪くない。しかし第3章「教会の宣教」では、宣教のとらえ方が書かれた時代を反映していて古い。巻末に参考文献豊富だが、今や古い。
J.モルトマン(喜田川信他訳)、『聖霊の力における教会』(現代神学双書68)、新教出版社、1981。
ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『教会の本質』、新教出版社(教会と宣教双書6)、1976、1200円。(後に新教出版社セミナーブック34、2004、1680円)
上田光正、『信徒のための教会論入門』、日本伝道出版、1998、196頁、1200円。
芳賀力、『物語る教会の神学』、教文館、1997、346頁、3900円。『使徒的共同体――美徳なき時代に』、教文館、2004、320頁、2940円。
東野尚志、『改革教会における霊性――霊的共同体再建のために』(大森講座15)、日本キリスト教会大森教会(新教出版社)、2000。

東神大パンフ:

加藤常昭、『教会とは何か』(東神大パンフレット2)、東京神学大学出版委員会、19711、46頁、260円。
桑田秀延、『教会論入門――信徒のために』(東神大パンフレット8)、東京神学大学出版委員会、1974、65頁、350円。
『シンポジウム 教会論』(東神大パンフレット19)、東京神学大学出版委員会、1979、143頁。
赤木善光、『教会的キリスト教』(東神大パンフレット30)、東京神学大学出版委員会、1996、220頁、950円。
近藤勝彦:『礼拝と教会形成の神学』、『伝道する教会の形成』
左近淑、『神の民の信仰 旧約篇』、教文館、19961,1997再版、185頁、1890円。
全4講。第1講「出エジプト――神の民の成立」、第2講「十戒――神の民の特質」、第3講「歴史における神の民の信仰と課題」、第4講「ユダヤ教団の律法主義化と主イエスによる新しい共同体」。第3講と第4講は『左近淑著作集 第5巻』に「旧約聖書における神の民の歴史と信仰」と題して収録されている。「補講」として「おきてを守る――現在のユダヤ教について(ラビ・ジェイコブ・ミルグロム教授夫妻をお世話して)」。
松永希久夫、『神の民の信仰 新約篇』、教文館、1996、272頁、2415円。
後半で、新約各文書における教会観が簡潔にまとめられている。他に、新約聖書の教会論としては、A.M.ハンター(竹森満佐一訳)『新約聖書の信仰』(新教新書4)の中に、「一つの教会」という章がある。
カール・バルト、『啓示・教会・神学』(新教新書34)、『福音主義教会の危急』(著作集2)、『教会と諸教派』、『教会――活ける主イエス・キリストの活ける教団」(井上良雄訳、著作集3) 井上良雄編『地上を旅する神の民――バルト「和解論」の教会論』(教会と宣教双書15、新教出版社、1990)。
岩島忠彦、『キリストの教会を問う――現代カトリック教会論』サンパウロ、1987。百瀬文晃編、『教会――その本質と課題を学ぶ』、サンパウロ、1994。

1.8 サクラメント論、洗礼論

最近の洗礼論

W.H.ウィリモン(平野克己訳)、『洗礼――新しいいのちへ』、日本基督教団出版局、2006、248頁、2310円。
ロベルト・ロイエンベルガー(宍戸達訳)、『洗礼とはなにか――その今日の問題を問う』、新教出版社、2012、282頁、2730円。
幼児洗礼をめぐる問題を取り上げ、幼児洗礼と成人洗礼の双方の意義を説く。そのために教会教育と訓練のあり方にも徹底的な反省を迫るとのこと。

バルトの洗礼論

バルト、クルマン(宍戸達訳)、『洗礼とは何か』、新教出版社、1971。後にバルトの部分が改訳されて、バルト『教会の洗礼論』(新教セミナーブック21、2008)。E.シュリンク(宍戸達訳)『洗礼論概説』(現代神学双書72、新教出版社、1988)。

『神学』41号(1979)に、大木英夫「バルトの洗礼論――バルト神学の歴史的位置との関連において」あり。『東北学院大学キリスト教文化研究所紀要』22号(2004)に佐藤司郎「共同の行為としての洗礼――バルトの洗礼論への一視角」あり。

その他

日本キリスト教協議会信仰と職制委員会、日本カトリック教会エキュメニズム委員会編訳、『洗礼・聖餐・職務――教会の見える一致をめざして』、日本基督教団出版局、1985。

日本基督教団信仰職制委員会編、『幼児洗礼』、日本基督教団出版局、1975。

小林信雄、『洗礼――その起源と意義』(聖書学叢書3)、新教出版社、1956。

1.9 聖餐論

聖餐に関する文献は、A:新約時代や初代教会における聖餐理解に関するもの、B:宗教改革における聖餐をめぐる論争、C:教義学的に整理された聖餐論、D:礼拝学の中での聖餐の在り方、そして、E:現代の諸問題を取り扱ったものとに大別されるようだ。宗教改革期の信仰告白や教理問答も参照する必要あり。

実践神学の礼拝学の中の1.7 聖餐の守り方と現代の諸問題の文献も見る。

W.リュティ、E.トゥルナイゼン(赤木善光訳)、『説教・告解・聖餐』(新教新書38)、新教出版社、1960(1957)、161頁、1000円。
第三部がリュティによる「聖餐」。リュティは、「聖餐そのものの本質に根ざした危急」と「教会に責任のある危急」とに区分して、聖餐に関わる現代の具体的問題を指摘する。
フォン・アルメン(土居真俊、片山寿昭訳)、『聖餐論』、日本基督教団出版局、1972(1966)、275頁。
Jean-Jacques von Allmen, "Essai sur Le Repas du Seigneur," 1966. 原著はフランス語。
日本カトリック教会エキュメニズム委員会、日本キリスト教協議会信仰と職制委員会編訳、『洗礼・聖餐・職務――教会の見える一致をめざして』、日本基督教団出版局、1985。
WCC信仰職制委員会が出した「アクラ文書」(1974)、「リマ文書」(1982)、「リマ式文」(1982)の翻訳。小川圭治と岸本羊一による簡単な解説あり。
赤木善光、『聖餐論』、日本基督教団三島教会、2003再版、1800円。
ISBN: 4-9901697-0-0。元は、自由が丘教会文庫2、日本基督教団自由が丘教会出版委員会(発売:教文館)、1981。第一部は信徒向けに書かれた聖餐をめぐる小論集、第二部はカルヴァンの聖餐論についての3論文を中心とした論文7本。付論の「なぜ按手礼が必要なのか」と「手を按かれた人々のからだ」は、聖餐をめぐる現代の問題との関連で。
赤木善光『教会的キリスト教』(東神大パンフ30)の中の第5章も聖餐に関する七つの小論文あり。日本のプロテスタント教会では、聖餐においてキリストの救いの恵みに与ると言うとき、恵みの結果や救いのもたらす実りのみに与ると考えるのが宗教改革からの教えだと理解しているが、そうではなく、カルヴァンは聖餐においてキリスト御自身に与ると言っていると指摘している。
日本基督教団宣教研究所編、『聖餐』、日本基督教団出版局、1987。
雨宮栄一「ルター派教会における聖餐の問題」、大崎節郎「改革派教会における聖餐の問題」、尾形隆文「現代神学における聖餐の問題――特にK・バルトのサクラメント理解を中心に」、神田健次「合同教会における聖餐の問題――エキュメニカルな視野を求めて」、村山盛忠「日本基督教団における聖餐の問題」、座談会「聖餐をめぐる具体的諸問題」。
宍戸基男、関川泰寛、藤掛順一、芳賀力、『聖餐 なぜ受洗者の陪餐か』、日本基督教団改革長老教会協議会、1994、900円。
宍戸基男「聖書から」、関川泰寛「古代教会における聖餐」、藤掛順一「宗教改革における聖餐の問題」、そして、今回のテーマに即している重要な論として、芳賀力「現代の議論を踏まえて 素朴な疑問を持つ若き友へ――未受洗者陪餐を巡る十五の教義学的対話」が、かなり細かく筋道を立てて受洗者陪餐の根拠を解説。
近藤勝彦、『聖餐の意味とその守り方』(鳥居坂教会文庫8)、日本基督教団鳥居坂教会、1994。
「聖餐とは何か」と「正しい聖餐式の守り方」の二講演。後者の中で、現行式文の問題(pp.69-75)や受洗者陪餐の理由(pp.76-83)、聖餐執行者の問題(pp.90-95)、陪餐者の生活と献身について(pp.95-100)などに触れている。
近藤勝彦『教会とその生活を学ぶ』の第7章に「聖餐の意味」がある。
『日本基督教団福音主義教会連合』、第347-348号(2006.5-6)に「聖礼典の意味と洗礼を受けていることの素晴らしさ」と「聖餐に与る意味」、第370-371号(2008.4-5)に「聖餐に与るとはどういうことか」がある。
佐藤敏夫、『プロテスタンティズムになぜ聖餐は必要か』(福音の原点1)、新教出版社、1996。
神田健次、『現代の聖餐論――エキュメニカル運動の軌跡から』、日本基督教団出版局、1997。
ローザンヌ(1927)、エディンバラ(1937)、ルンド(1952)、モントリオール(1963)、アクラ(1974)、リマ(1982)の各世界会議・委員会での聖餐理解に関する文書の成立過程と特徴、および、「宣教論」の視点からの評価と日本の教会の参与と貢献。聖餐全般についての文献リストあり。
小林信雄、『主の晩餐――その起源と展開』、日本基督教団出版局、1999。
赤木善光、『宗教改革者の聖餐論』、教文館、2005、630頁、7875円。
ドイツ福音主義教会常議員会(楠原博行訳)、『聖餐――福音主義教会における聖餐の理解と実践のための指針』、教文館、2006(2003)、131頁、1200円。
加藤常昭「本書を読むための手引き」が付いている。「問題提起」のあと、「一 聖書から得られるもの」、「二 神学的問題」、「三 実践における勧め」。
ロバート・リーサム(原田浩司訳)、『主の晩餐――現代アメリカにおける聖餐への問い』、一麦出版社、2007、127頁、1680円。
赤木善光、『イエスと洗礼・聖餐の起源』、教文館、2012、464頁、3675円。
第一部は「イエスと洗礼・聖餐の起源」として、「現代日本人のイエス像」、「現代の聖書学における聖餐の研究」、「聖餐の起源の問題」。イエス・キリストをどう信じるのかというイエス像の問題がサクラメント理解の根底にあるとして、荒井献、八木誠一、田川建三、松永希久夫、小河陽のイエス像と信仰を問い、また、聖書を神の啓示の書と受け止めるか否かの問題を、マルクセン、シュトゥールマッハー、タイセンなどから指摘する。第二部は「現代におけるサクラメントの問題」で、「現代における洗礼の諸問題」、「サクラメントの倫理化」、「その他の問題」。特に幼児洗礼の問題を取り上げ、バルト『教会の洗礼論』、クルマン、小林信雄、ビースレイ・マレイ、アーラントなどの洗礼論を論じている。サクラメントの問題は、教会を「キリストの体」として信じ得るか否かにかかっている。付論「日本基督教団の諸問題」として、「日本基督教団とエキュメニズム」、「日本基督教団の二重構造性について」、「他教派を理解するとはどういうことか」、「井上良雄と東神大紛争」。
ウィリアム・クロケット(竹内謙太郎監修、後藤務訳)、『ユーカリスト――新たな創造』、聖公会出版、2014、416頁、4200円+税。
ユーカリストについて、新約聖書、初代教会、中世、ルターとツヴィングリ、カルヴァン、聖公会・ピューリタン・メソジストの伝統、そして現代の視点として「宗教改革からエキュメニズムまで」、「象徴的なものの回復」、「象徴的実在主義者の伝統」、「社会学的伝統」、「象徴についての神学的熟考」、「ユーカリストと正義」、「憶えることと希望」、「臨在とエピクレーシス」。

その他、『神学』59号は「教会とサクラメント」。関川泰寛『聖霊と教会』の第7章は「聖霊とサクラメント」。上田光正『信徒のための教会論入門』の第2章第7節は「教会を建てる言葉(U)聖礼典」。礼拝学の諸文献も。

最近の未受洗者陪餐問題を取り上げたもの

赤木善光、『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか――神の恵みの手段としての洗礼と聖餐』、教文館、2008、144頁、1680円。
芳賀力編、『まことの聖餐を求めて』、教文館、2008、389+3頁、2625円。
聖書学の立場から小友聡、中野実、朴憲郁、カトリックから小高毅、聖公会から岡野保信、ルーテル教会から徳善義和、改革派から牧田吉和、組織sんが区から芳賀力、実践神学から加藤常昭、各国の現状としてドイツ福音主義教会(楠原博行)、アメリカ合同メソジスト(東方敬信)、教会の実践から岡本知之、西堀俊和。「おわりに」として再び芳賀力による「それが「聖餐の豊かさ」なのだろうか」。

1.10 伝道論

近藤勝彦、『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』、教文館、2002、322頁、3600円。
帯のコピーは、「神学は伝道のためであり、伝道はまた、神学を必要としている」。伝道はその中心を「福音の宣べ伝え」に、つまり「キリストと神の国」の「福音」の「宣教」に置いている(「はじめに」より)。第一部「二十一世紀の日本の伝道と神学」では、現代の日本の状況と課題について、伝道する側の問題と伝道される側の国民性、教育、家庭、日本基督教団が抱える問題など。特に、説教の力の回復をフォーサイスやロイド・ジョンズに言及しながら訴える。第二部「組織神学としての伝道の神学」では、マルティン・ケーラー、トレルチ、ブルンナー、バルト、ファン・リューラー、モルトマンを取り上げる。
近藤勝彦の伝道に関する講演集に、『教会と伝道のために』(教文館、1992、316頁、2500円)、『伝道する教会の形成』(教文館、2004、266頁、2100円)、『日本の伝道』(教文館、2006、260頁、2100円)。
A.ファン・リューラー(長山道訳)、『伝道と文化の神学』、教文館、2003、172頁、1890円。
2論文収録。ここでの伝道の神学とは「アポストラートの神学」である。「伝道の神学」は1953年の講演が元で、オランダ語。翻訳は1954年ドイツ語版から。もう一つ「世界におけるキリストの形態獲得――教会と文化の関係について」(1955年の講演を元に加筆された1956年の論文。訳者あとがきによれば、ファン・リューラーの言う「アポストラート」とは、非キリスト教世界における伝道、キリスト教世界における福音の宣べ伝え、文化のキリスト教化を包括し、それにイスラエルとの対話とエキュメニカル運動を含んでいる。

1.11 終末論と歴史と啓示

熊野義孝、『終末論と歴史哲学』、1933。
熊野義孝全集第5巻(新教出版社、1979)に収録。大木英夫によれば、「日本人の手になる最初の本格的な終末論の著作」。「西田幾多郎の注目を受け、神学界のみならず哲学界にも知られるに至った・・・しかし今からふり返ると、・・・熊野博士の線からは、現代世界の終末論的「蔑視」が出てきても、終末論的「考察」は出てこないのではないかと思う。」大木英夫『終末論的考察』、p.221。
「「今日の終末信仰」を問うに際し、必読の文献のひとつが、熊野義孝『終末論と歴史哲学』であることは明らかである。そこでもまず強調されたのは、神学すること自体の終末論的特質であった。」加藤常昭『愛の手紙・説教』、p.125。
カール・レーヴィト(Karl Löwith)(信太正三、長井和雄、山本新訳)、『世界史と救済史――歴史哲学の神学的前提』(神奈川叢書3)、創文社、1964(1953)、304頁。
最初は1949年に英語で"Meaning in History"として出てあとからドイツ語で出た。序論の後、ブルクハルト、マルクスから1章に一人取り上げて歴史を逆にたどりながらその歴史観を解き明かし、第11章で「歴史の聖書的な解釈」に至る。近藤先生によれば、「進歩史観がなぜ生じたか、組織をやる人は知っておけ」とのこと。大木先生も必読だと強調。でもまあとりあえずは、序論と第11章と結語とあとがきを読めばいいかな。原題は"Weltgeschichite und Heilsgeschehen, Die theologischen Voraussetzungen der Geschichtsphilosophie"。本文中ではHeilsgeschichteが救済史と訳され、Heilsgeschehenは<救済の出来事>と訳されている(訳者後記)。未来社からカール・レーヴィット(佐藤明雄訳)『歴史の意味』(フィロソフィア双書27、1989、142頁、1600円)が出ている。これは、レーヴィットの歴史観が端的に示された「歴史の意味について」と、晩年の論文集から歴史観に関する3論文「歴史と歴史意識」「進歩の運命」「テイヤールド・シャルダン――進化と進歩と終末論」を収録。
大木英夫、『終末論』(紀伊國屋新書A-65)、紀伊國屋書店、1972、252頁。
「『終末論的考察』が、終末論的視点から試みられた文明批評であるのに対して、本書は、その視点を構成する終末論それ自体について叙述したものである」(まえがき)。「新書版第二刷でなお残っていたぼんの少しの誤植をなおし」て1979年に新装版、1994年に精選復刻紀伊國屋新書。『終末論的考察』は、中公叢書、中央公論社、1970、227頁。
山本和(やまもと かのう)、『歴史と終末』(現代教養文庫813)、社会思想社、1974、249頁。
最初、角川書店から『歴史のみかた――キリスト教的歴史観』(角川新書53、1955)として出たものの改版。章は「歴史への問い」、「歴史の眼」、「自然と歴史」、「歴史と終末」、「時と永遠」の五つ。巻末に古いが豊富な参考文献表あり。「序」によれば「青年学徒の思想や教養に資する教養書」として書いた。さらに著者の歴史哲学自体をより詳細に知るには、『救済史の神学』(創文社、1972)を参照せよとのこと。これによれば、救済史を聖書釈義の歴史と捉えるバルトの解釈学法は≪救済史の神学≫にふさわしい(318頁)。
山本和編、『終末論――その起源・構造・展開』(今日の宣教叢書7)、創文社、1975。
全9論文。大木英夫「戦後思想としての終末論」(後に『現代人のユダヤ人化』白水社、1976に収録)、関根正雄「旧約聖書における終末論の理解」(後に『関根正雄著作集第5巻』新地書房、1979に収録)、山本和「終末論の基礎構造」、その他、饗庭孝男、山室静、中川秀恭、佐竹明、野呂芳男、高柳俊一。
平野保、大木英夫、『キリストの再臨』(東神大パンフレット15)、東京神学大学出版委員会、1977。
近藤勝彦、「黙示文学的終末論の可能性」(河合隼雄、清水博、谷泰、中村雄二郎編、『岩波講座 宗教と科学9 新しいコスモロジー』、岩波書店、1993、29-58頁)。
W.パネンベルク編著(大木英夫、近藤勝彦、朴憲郁、西谷幸介、大住雄一、荒木忠義、深井智朗訳)『歴史としての啓示』、聖学院大学出版会、1994(19611, 19825)、326頁。
「T緒論」(パネンベルク)、「U古代イスラエルにおける啓示の概念」(レントルフ)、「V原始キリスト教史における啓示理解」(ヴィルケンス)、「W啓示に関する教説についての教義学的諸命題」(パネンベルク)、「X教会概念における啓示の問題」(レントルフ)、「第二版のためのあとがき」(パネンベルク)。大木英夫の「訳者あとがき」によれば、この書物は二十世紀の「神学史に転機をつくり出した」。
J. モルトマン(蓮見和男訳)、『神の到来――キリスト教的終末論』(J.モルトマン組織神学論叢5)、新教出版社、1996(1995)。
芦名定道、小原克博、『キリスト教と現代――終末思想の歴史的展開』、世界思想社、2001。
G.ザウター(深井智朗、徳田信訳)、『終末論入門』、教文館、2005(1995)、377頁、3675円。
古屋安雄、『神の国とキリスト教』、教文館、2007、256頁、2310円。
『形成』に連載した「神の国」研究ノートと講演録。

予定説

「もし予定について論議するなら、そのことは考えないで、まずキリストの傷、キリストをよく思い浮かべるのがよかろう。そうすれば、予定の論議は止むであろう。・・・もしわたしがキリストの恵みに与り、恵みの内に留まるなら、予定は〔慰めに満ち〕揺るがない。」(シュタウピッツの言葉、ルター(植田兼義訳)『卓上語録』、教文館、2003、p.32)

2.キリスト教倫理

2.0 総記

事典

事典としては、佐藤敏夫、大木英夫編、『キリスト教倫理辞典』(日本基督教団出版局、1967)がある。105項目。各項目ともだいたい3-6頁ほど。目次に執筆者も記されているのは良心的。もはや古い項目もあるが、今なお有用そうなのは、「カトリックの倫理」、「キリスト教倫理学」などの概説のほか、大木英夫「愛(アガペー)」、加藤常昭「祈り」、鈴木正久「男と女」、佐藤敏夫「教会と国家」など。

キリスト教倫理の歴史的変遷や現代において課題としている具体的局面については、A.E.マクグラス『現代キリスト教神学思想事典』(新教出版社、2001)の「倫理」の項が概観している。

講座 現代キリスト教倫理

全4巻、日本基督教団出版局、各2750円。
1.神田健次編、「生と死」。
2.関根清三編、「性と結婚」。
3.金子啓一編、「日本に生きる」。
4.栗林輝夫編、「世界に生きる」。

2.1 入門的概説

金子晴勇、『キリスト教倫理入門』、教文館、1987初版1996第3版、251頁、2200円。
一般大学での講義内容をもとにした著作。論に全面的な賛成はできない(一般倫理との関係、世俗化の捉え方、ルター派的律法理解など)が、とりあえず入門としてキリスト教倫理の位置づけを考えるきっかけによい教科書。著者のルター研究とアウグスティヌス研究の成果が随所に表れている。
小田島嘉久、『キリスト教倫理入門』、ヨルダン社、1988、254頁、1900円。
ウイリアム・バークレー(岩渕宏安訳)、『バークレーのキリスト教倫理』、ヨルダン社、1986(1971)、278頁、2039円。
佐藤敏夫、『キリスト教倫理概説』、福音と現代社、1978、133頁(後に、ヨルダン社から)。
章は、第1部が「正義と愛」、「アガペーについて――神の愛」、「アガペーとエロース――人間の愛」、「奉仕としての愛」、第2部が「善とは何か」、「律法の意義」、「良心について」、「徳について」、第3部が「状況倫理」、「自然法」、「心情倫理と責任倫理」、「妥協について」。ティリッヒ、パネンベルクよりはブルンナー、ニーバー、ニグレン等に近いが、「それらの人たちの思想を手がかりとしているということであって、終始追随しているということではない」。

2.2 海外の著作

バルト、ブルンナー、ボンヘッファー、それからニーバー兄弟、新しいところでパネンベルク、もっと新しいところでハワーワス。

バルトの倫理学

カール・バルト、『教会教義学』。
吉永正義訳で、『神論U/3』、『創造論W/1〜4』、『和解論W』。バルトは教義学の中で倫理を語る。神の前での自由の中で、信仰告白や祈りについて語られているのが興味深い。『創造論W』は、鈴木正久による要約『キリスト教倫理』(全4巻、新教出版社)あり。
「バルトの倫理学について要点を知りたい読者は、『キリスト教倫理』(新教出版社、1964〜1969年)という4巻本を読んでほしい。・・・バルト神学のエッセンスに触れるのであれば、この『キリスト教倫理』を読んでみることをお薦めする。特に「制約における自由」(第4巻)を強く推薦したい。」佐藤優、『神学部とは何か――非キリスト教徒にとっての神学入門』(シリーズ神学の船出00)、新教出版社、2009年、p.102。
カール・バルト(天野有訳)、『キリスト教的生』(T、U)、新教出版社、T:1998、250頁、4800円。U:1998、692頁、7200円。
遺稿を元にして、『教会教義学』のW/4(すなわち邦訳『和解論W』)を未完ながらも再構成したもの。
カール・バルト(吉永正義訳)、『キリスト教倫理学総説』、新教出版社、(1973)、T/1:2000、218頁、4000円。T/2:2003、293頁、5200円。U/1:2003、442頁、7200円。
1928年夏学期と1928-29年冬学期にミュンスターで、1930-31年冬学期にボンで行った講義をもとに、D.ブラウンが編集して、全集に収めたもの。T/1は「序論」(「倫理学と教義学」、「神学的倫理学と哲学的倫理学」、「神学的倫理学の道」)と、第一章「神の誡めの現実」(「誡めの啓示」、「神の誡めとしての誡め」、「神の裁きとしての誡め」)。
カール・バルト(吉永正義、井上良雄訳)、『カール・バルト著作集5 倫理学論文集』、新教出版社、1986。
「義認と聖化」、「福音と律法」、「教会と文化」、「ヒューマニズム」などを収録。

ブルンナーの倫理学

エーミル・ブルンナー(寺脇丕信訳)、『正義――社会秩序の基本原理について』、聖学院大学出版会、1999、432頁、5800円。
序論として「西洋における正義の理念の崩壊」の後、第一部「基礎編」で正義をキーワードに倫理を基礎づける。後半(第二部)は国家論や家族論などの各論。

ブルンナーの重要著作『誡命と諸秩序』は、ドイツ語で"Das Gebot und Ordnungen," 1933、英訳は"The Divine Imperative," trans. by Olive Wyon, 1947。邦訳はない。桑田秀延「キリスト教社会倫理のテキスト――ブルンナーの『命令と諸秩序』」(『桑田秀延全集 第4巻』所収)は21頁ほどで本書を紹介している。ギフォード講演『キリスト教と文明』(1948)も重要(熊澤義宣訳、『現代キリスト教思想叢書10』、白水社、1975所収)。『ブルンナー著作集第6巻』は「倫理・社会論集」(川田殖 他訳、教文館、1996、442頁、6489円):「社会における正義と自由」「キリスト教と文化」「信仰と倫理」「無制約的なものと現実」「キリスト者の政治的責任」「国際的倫理の探求」などを含む。

ボンヘッファーの倫理学

ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『現代キリスト教倫理』(新教セミナーブック32)、新教出版社、2003(1949)、467+14頁、4000円。
ボンヘッファーの死後、E.ベートゲが編集したもの。原著初版は1949年。その後1962年の改訂第6版で順序が変更された。さらに1992年、執筆順序の綿密な調査に従って新版が出た。邦訳は、原著1949年版によるものが1962年にボンヘッファー選集4として出た。その後、1978年の増補改訂版で、原著の付録の部分も収録された。すなわち、「律法の第一用法についての教説――ルター派信仰告白文書による」、「『人格』倫理と『事柄』倫理」、「世界に向かって語る教会の言葉の可能性」、「真実を語るとは何を意味するか」。ただし、順序は原著初版のまま。
2003年、新教セミナーブック32として新装版が出たが、中身は1978年の増補改訂版の第4刷。訳者による「解説――あとがきに代えて」は、1996年の増補改訂版第2刷の際に書き改められている。訳者によると、1992年の原著新版に沿って、「そこに収録されている詳細な脚注も加えた新訳版を出すべく目下その準備を進めている」とのこと。
バルトは、ボンヘッファーの「四つの委任」(結婚、労働、政治的権威、教会)がどこから、なぜこの四つに限定されているのかという点で批判している(KDV/4, S.21-22)らしい。
なお、森野善右衛門訳『教会の本質』(教会と宣教双書6、新教出版社、1976)に、「キリスト教倫理は存在するか」という小論がある。

ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr, 1982.6.21-1971.6.1)

2015.11.23全面的に更新

兄。主要な著作の紹介は、東京神学大学神学会編『キリスト教組織神学事典』(教文館)の大木英夫による「ニーバー」の項を見る。

ラインホールド・ニーバーを簡潔に紹介しているものはほとんどなく、W.E.ホーダーン(布施濤雄訳)『現代キリスト教神学入門』(日本基督教団出版局、1969)の第7章「アメリカ新正統主義――ラインホルド・ニーバー」が手頃な26ページで紹介しているくらい。

邦訳のある重要著作としてはだいたい次の三つかな。『光の子と闇の子』以外は古い邦訳。

武田清子訳、『光の子と闇の子――デモクラシーの批判と擁護』、聖学院大学出版会、1994(1944)、210頁、2243円。
"The Children of Light and the Children of Darkness: A Vindication of Democracy and a Critique of its Traditional Defense"。邦訳の最初は1948年。その後、新教新書84、1964。副題は「キリスト教人間観によるデモクラシー及びマルキシズムの批判」だった。
第二次世界大戦中に出版された、キリスト教的人間観に基づく新しいデモクラシーの主張。大戦後の世界が直面するであろうデモクラシーとマルキシズムの対立を見越して、それぞれの原理と実際の内包する問題を解明し、そのどちらもが人間の本性、特に悪の問題を深く捉えていないゆえに楽観主義に陥る問題点を厳しく指摘しながらも、デモクラシーの原理に新しい世界共同体の可能性を見る。
上與二郎訳、『基督教倫理』、新教出版社、1949(1935)、244頁。
"An interpretation of Christian Ethics"。この中で「不可能の可能性」を言う。
武田清子訳、『キリスト教人間観 第一部 人間の本性』、新教出版社、1951。
ギフォード講演であるニーバーの主著「人間の本性と運命」"The Nature and Destiny of Man"(第1部:1941, 第2部:1943)の第一部の邦訳。第2部は「人間の運命」として歴史論であるが未邦訳。
『道徳的人間と非道徳的社会』
原題は "Moral Man and Immoral Society"(1932)。1960年のペーパーバック版に際して序文が付けられた。ニーバーの初期の名著。
邦訳は、最初は武田清子、高木誠訳で『世界大思想全集〔第二期〕社会・宗教・科学思想篇30』、河出書房新社、1960。その後、大木英夫訳が『現代キリスト教思想叢書8』(白水社、1974)に、ティリッヒ「プロテスタント時代」(抄訳)と合わせて所収。『道徳的人間と非道徳的社会』には「倫理学と政治学の研究」という副題がついている。これから『道徳的人間と非道徳的社会』だけが白水社のイデー選書として出された(1998)。このとき解説として佐々木毅「道徳主義とリアリズムとの独特な結合の提案」が付けられた。さらに、2014年、10出版社共同復刊のプロジェクト「書物復権」の一つとして新装復刊。
2004.10.27朝日新聞朝刊で、ビル・クリントン(当時アメリカ大統領)の「日本人に読んでほしいアメリカを知るための本」21冊の中に、『道徳的人間と非道徳的社会』が入っている。

大木英夫、深井智朗訳『アメリカ史のアイロニー』(聖学院大学出版会、2002(1952)、310頁、3990円)。付録として巻末にニーバーの「ユーモアと信仰」を所収とのこと。これ以前には、オーテス・ケーリ訳『アメリカ史の皮肉』(社会思想選書)、社会思想研究会出版部、1954があった。

その他の邦訳: 栗原基訳『近代文明と基督教』(基督教思想叢書)イデア書院、1928。飯野紀元訳『信仰と歴史』新教出版社、1950。平和教会継続委員会編(竹林拙三訳)『キリスト者と戦爭』日本基督教協議会文書事業部、1959。飯野紀元訳『共産主義との対決』時事通信社、1961。オーテス・ケーリ訳『自我と歴史の対話』未來社、1964(原題は「自己と歴史のドラマ」1955年)。古屋安雄訳『教会と社会の間で――牧会ノート』(新版)、新教出版社、1971。梶原寿訳『義と憐れみ――祈りと説教』新教出版社、1975。など。

橋義文、西川淑子訳、『ソーシャルワークを支える宗教の視点――その意義と課題』、聖学院大学出版会、2010、220頁、2100円。1930年の講演。巻末に、両訳者による解説あり。

『福音と世界』、新教出版社、2011年10月号は、「ラインホールド・ニーバー没後40年」の特集。東方敬信、西谷幸介、鈴木有郷、植木献。

ニーバーの祈り(The Serenity Prayer)は有名。

評伝・研究書

これまで読まれてきた評伝は、飯野紀元『ニーバー』(人と思想シリーズ)、日本基督教団出版部、1962、214頁。

鈴木有郷、『ラインホールド・ニーバーの人間観』、教文館、1982。

ニーバーの思想の全体像を研究した書に、高橋義文『ラインホールド・ニーバーの歴史神学――ニーバー神学の形成背景・諸相・特質の研究』(聖学院大学出版会、1993、476頁、4486円)。文献表あり。

鈴木有郷、『ラインホルド・ニーバーとアメリカ』、新教出版社、1998、285頁、3360円。第一次世界大戦からナチスの台頭、第二次世界大戦、そして冷戦へと続く国際社会の中で、アメリカの存在意義と責任を追及し続けたニーバーのアメリカ理解を考察。序論は森孝一編『アメリカと宗教』(JIIA現代アメリカ5)、日本国際問題研究所、1997に収録された論文「アメリカ・プロテスタント思想とアメリカのビジョン」を骨子としているとのこと。

チャールズ・C・ブラウン(高橋義文訳)『ニーバーとその時代――ラインホールド・ニーバーの預言者的役割とその遺産』(聖学院大学出版会、2004(原著2002)、534+23頁、6300円)。この付録に、高橋義文「ニーバーの「冷静を求める祈り(セレニティー・プレヤー)」――その歴史・作者・文言をめぐって」あり。

高橋義文、『ニーバーとリベラリズム――ラインホールド・ニーバーの神学的視点の探求』(聖学院大学研究叢書8)、聖学院大学出版会、2014、438頁、8000円+税。この中に、補遺二として「ニーバーの著作の翻訳について」あり。

ヘルムート・リチャード・ニーバー(Helmut Richard Niebuhr, 1894-1962)

弟。ちなみに、彼の子供は、リチャード・ラインホールド・ニーバーだって。

H.R.ニーバーは、文章を飾らず紆余曲折することもないので、著作は比較的短い。しかしそれゆえに咀嚼が難しく、「神学者のための神学者」と呼ばれたらしい(『啓示の意味』の「訳者解説」)

邦訳されているのは次の6つ。

柴田史子訳、『アメリカ型キリスト教の社会的起源』、ヨルダン社、1984(1929)、310頁。
"The Social Sources of Denominationalism". トレルチの影響を受けて、アメリカ社会の宗教学的・社会学的側面から教団類型論を展開させた、デノミネーション論とエキュメニズム論。
佐柳文男訳、『啓示の意味』、教文館、1975(1941)、200頁。
トレルチとバルトを結合させて、歴史的相対主義の視点を提起。当時アメリカの神学界の中心であった自由主義者たちの大部分が、ブルンナーの啓示理解は受け入れるがバルトのそれは受け入れ難いとする状況にあって、「むしろバルト的な啓示理解には正しい点がある」(古屋安雄「H.リチャード・ニーバーの神学」、『神学』23号)とした。ニーバー神学のプロレゴメナとも言うべき位置を占める。
赤城泰訳、『キリストと文化』、日本基督教団出版局、1967(1951)。
信仰と文化の関係を5つに類型化。
東方敬信訳、『近代文化の崩壊と唯一神信仰』、ヨルダン社、1984(1960)、226頁、1400円。
単一神主義ではなく「徹底的唯一神信仰」を説く。付録論文4編と邦訳版の補遺として神学的自伝「宗教改革――継続する命令」付き。
小原信訳、『責任を負う自己』、現代神学双書32、新教出版社、1967(1963)、284頁。
タイトル論文自体は142ページ。J.M.ガスタフソンによる44ページの「解説的序文」と、アール・レクチャーの抜粋の「付録」、そして訳者による30ページの「H・リチャード・ニーバーの神学思想」。
柴田史子訳、『アメリカにおける神の国』(聖学院大学研究叢書6)、聖学院大学出版会、2008(1973)、214頁、3150円。
アメリカにおいて「神の国」という思想がどのように展開したのかを歴史的に論じ、アメリカとは何かを神学的に解明する。

研究書では、東方敬信『H・リチャード・ニーバーの神学』(日本基督教団出版局、1980、304頁)が、ニーバー神学の形成と主張をまとめている。

ニーバー兄弟を比較した小論に、東方敬信「二人のニーバー――政治と教会のあいだ」(『物語の神学とキリスト教倫理』(教文館、1995)所収。後に、キリスト教文化学会編『キリスト教と欧米文化』(ヨルダン社、1997、pp.215-240)にも収録)がある。

ヘルムート・リチャード・ニーバーの子、リチャード・ラインホールド・ニーバーの邦訳に、西谷幸介訳、『復活と歴史的理性――神学の方法の研究』、新教出版社、2009(1957)、288頁、3675円。近藤勝彦の書評によれば、父の「啓示の意味」の問題意識を継承し、「信仰と歴史」あるいは「歴史的啓示の認識問題」を取り扱っている。

パネンベルクの倫理学

W.パネンベルク(近藤勝彦訳)、「神の国と倫理学の根拠」『神学と神の国』。
重要。
W.パネンベルク(大木英夫、近藤勝彦 監訳)、『キリスト教社会倫理』、聖学院大学出版会、1992、270頁。
この中の「倫理的なものの危機と神学」。
W.パネンベルク(西谷幸介 訳)、『現代キリスト教の霊性』、教文館、1987、232頁、2,100円。
「1.プロテスタント的敬虔と罪責意識」、「2.聖餐的敬虔――キリスト教共同体の新しい経験」、「3.聖化と政治」、「4.神学的視野における神の不在」、「5.真正なる自己の探求」の5章からなる。この中の「聖化と政治」がいいらしい。訳者付論として「パネンベルク歴史神学の要点」がある。

その他

A.ニーグレンAnders Nygren(岸千年、大内弘助訳)、『アガペーとエロース』(全3巻)、新教出版社、1954,55,63(1930,36)。
第1巻だけ新教セミナーブックとして復刊(1995、220頁、2000円)。
S.ハワーワス(東方敬信訳)、『平和を可能にする神の国』(現代キリスト教倫理双書)、新教出版社、1992(原著1983)、297頁、2800円。
ウィリアム・C.スポーン(徳田信訳)、『聖書とキリスト教倫理』(神学は語る)、日本基督教団出版局、2010、210頁、2520円。
聖書における倫理ではなく、倫理学における聖書の用い方の研究とのこと。「神の命令」、「道徳の備忘録としての聖書」、「解放への召命」、「弟子になることへの召命」、「応答する愛の基盤としての聖書」。

2.3 日本人の著作

大木英夫、近藤勝彦、東方敬信あたりをを押さえておく。

大木英夫、『新しい共同体の倫理学』(上、下)、教文館、1994、上:290頁、4849円、下:330頁、5000円。
近藤勝彦、『キリスト教倫理学』、教文館、2009、528頁、4830円。
「基礎編」と「各論」の二部構成。基礎編は、「組織神学における倫理学の基礎づけ」、「倫理学の構成」、「倫理学の方向」、「歴史の指導原理としての『プロテスタント的文化価値』」。各論は、「国家と社会」、「ヴォランタリー・アソシエーションの意味」、「結婚と家族の倫理」、「平和の倫理――『平和主義』と『正当な戦争』について」、「生命の倫理」、「環境の倫理」、「徳の倫理」の7つの章からなる。他の神学的著作と同様に、「自己の神学的構想をそのまま展開し、叙述する方法ではなく、私自身がその中を歩んできた神学的環境をなした幾人かの神学者たちの主張を検討しながら自説を展開する」。
寺園喜基による書評(『日本の神学』49号、2010)。
「倫理学の根本問題――プラカードを掲げる試み」(上、中、下)、『神学』60-62号(1998-2000)で、キリスト教倫理の成立を終末論的に位置づけ、国家や社会、文化を神学的に見据えて倫理を方向付ける。
近藤勝彦、「倫理学の神学的基礎づけ――E.トレルチ、K.バルト、P.ティリッヒ、W.パネンベルク」(『現代神学との対話』、ヨルダン社、1985、pp.340-363)。
初出は『形成』(滝野川教会発行)の1984年5,6,8月号。倫理学の基礎づけにおける課題を明確にした上で、4人の神学者の神学における倫理の基礎づけを検証し、問題点を明らかにする。なぜトレルチを取り上げるのか。それは、主観的倫理と客観的文化価値の倫理の総合を考えていたトレルチによって、バルトの倫理学の欠点が克服されるからである。
東方敬信、『物語の神学とキリスト教倫理』、教文館、1995、299頁、3000円。
11論文集。バルトやH.R.ニーバーなどが中心。「カール・バルトの『ローマ書』における客観的関係論――H・リチャード・ニーバーの視座から」、「神学的倫理の課題――バルトとニーバー兄弟」、「変革的主体の成立をめぐって――K・バルトとH・R・ニーバー」など。

J.M.ガスタフソン(東方敬信訳)『キリスト教倫理は可能か』ヨルダン社、1987(1975)のあとがきで、東方敬信はキリスト教倫理を三つに分類している。第一は、バルト、ボンヘッファー、P.レーマンなどの、イエス・キリストの出来事における神の啓示を倫理の根拠とする立場、第二は、ブルンナー、ラインホールド・ニーバーらの、創造論とキリスト論の差異の上に位置づける立場、第三に、ガスタフソンとH.R.ニーバーのように、人間の道徳経験の現象学的分析から出発する立場である。

その他

熊野義孝の『キリスト教倫理入門』(現代神学双書13)新教出版社、1960、265頁を半分くらい読んだが、道徳との関わりから語られていて、イマイチだった。

加藤常昭は、雑誌「月刊キリスト」に1969年1月号から「キリスト教倫理入門」という連載を書いたらしい(加藤常昭『自伝的説教論』、p.371)。ドイツの「奉仕女母の家」の訓練学校で、ひとりの生徒が「特別な動機などはない。私は、このような仕事が好きだから、ここに来ました」と言った。「肩を張らない、恵みに生かされる。私たちの倫理の出発点はここだと学んだ」(pp.371-373)

芳賀力には、「秩序と形成――キリスト教倫理の基礎視角」『神学51号』など、『神学』の中に倫理に関する論文がいくつかある。『神学』掲載論文のページを参照。なお、『神学』の51号と60号(1998)は倫理の特集。

2.4 男女、結婚、性

トゥルナイゼン、ヴィサー・トーフト他(編集部訳)、『男・女・結婚』(新教新書35)、新教出版社、1960、120頁。
7論文集。特に、ヴィサー・トーフト「性の意義」、フィリップ・モーリー「一体・一霊」、トゥルナイゼン「現代の結婚の危機とキリスト者」は必読。
カール・バルト(鈴木正久編)、『キリスト教倫理U 交わりにおける自由』、新教出版社、1955。
『教会教義学』第54節「交わりの中での自由」の要約。元の文章の邦訳は、カール・バルト(吉永正義訳)『創造論W/2』(新教出版社)。
関根清三編、『性と結婚』(『講座現代キリスト教倫理2)、日本基督教団出版局、1999、286頁、2750円。
関根清三の序論と各氏による10章。読むに価しそうなのは、関根清三「性と結婚を聖書に問う」、森本あんり「性と結婚の歴史」、湯浅泰雄「性と結婚をめぐるキリスト教史再考」、熊澤義宣「変貌する結婚・家族像の中で――ボヴェー「結婚学」とその後」。

最近のもの

ポール・トゥルニエ(野邉地正之訳)『結婚の祝福と課題――愛による連帯を求めて』、日本基督教団出版局、2009、122頁、1680円。
かつては、『結婚の障害』ヨルダン社、1970、2000再版。
浜口吉隆、『結婚の神学と倫理』(南山大学学術叢書)、南窓社、2010、313頁、3500円。
第一章「人間の性と結婚の倫理」、第二章「結婚の不解消性と離婚――新約聖書における背景と意味」、第三章「結婚の意味と目的の変遷」、第四章「離婚・再婚者に対する司牧的配慮」。

2.5 平和と戦争

2010.10.20全面的に更新

事典

関西学院大学キリスト教と文化研究センター編、『キリスト教平和学事典』、教文館、2009、450頁、8400円 。
栗林輝夫、樋口進監修。全144項目。執筆者86名。「人身売買」「セックスワーク」の項もあるあらしい。

単行本

目に着くままに挙げる。

関西学院大学キリスト教と文化研究センター編、『平和創造への道』、新教出版社、2010、210頁、2100円。
袴田康裕編、『平和をつくる教会をめざして』、一麦出版社、2009、345頁、2940円 。
日本キリスト改革派西部中会世と教会に関する委員会による八・一五集会および二・一一集会の講演、及び、中部中会での「平和を守る集会」での編者の講演。袴田康裕「信仰告白として国家を考える――私にとっての「教会と国家」」、小野静雄「キリストに従う――抵抗の神学の可能性」、牧田吉和「信仰告白としてのファッシズムとの戦い――オランダ改革派教会の場合」、最上敏樹「理性的平和のために」、岡田明「思想・良心・信教の自由について考えてきたこと――都立高校における国旗・国歌強制の中で」、野田正彰「過ぎ去ろうとしない過去」、市川康則「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に――政治的、社会的問題に対する教会の視点と姿勢」、木下裕也「キリストを主と仰ぐ――改革派信仰における教会と国家」、袴田康裕「預言者的使命に生きる教会 2007年度中部中会平和を守る集会――ウェストミンスター信仰告白第23章から学ぶ」。
ジョン・マッコーリー(東方敬信訳)、『平和のコンセプト――聖書的・神学的視座から』、新教出版社、2008、158頁、1785円 。
富岡幸一郎、『非戦論』、NTT出版、2004、285頁、2205円。
ジョン・ハワード・ヨーダー(棚瀬多喜雄訳)、『愛する人が襲われたら――非暴力平和主義の回答』、東京ミッション研究所、1998、179頁、2100円。
東京ミッション研究所ヨーダー研究会編、『ジョン・H・ヨーダーの神学――平和をつくり出す小羊の戦い』、新教出版社、2010、231頁、1995円。もある。執筆者は東方敬信、中島真実、藤原淳賀、矢口洋生、M・T・ネイション(南野浩則訳)。
R.H.ベイントン(中村妙子訳)、『戦争・平和・キリスト者』、新教出版社、1963。
レイトン・リチャード、『キリスト教非戦平和主義』(基督教論叢13)、新教出版社、1952。
関根正雄、松木治三郎、武田清子、『戦争と平和について』(基督教論叢)、新教出版社、1950。
関根正雄「旧約聖書と平和の問題」、松木治三郎「新約聖書に於ける戦争と平和」、武田清子「絶対平和主義と現実主義」。佐藤敏夫等共編『現代キリスト者の問題と課題』(日本基督教青年会同盟、1954)の中に、武田清子「キリスト者と戦争と平和の問題」あり。『岩波講座現代思想 第9巻』(岩波書店、1957)の中に、武田清子「平和の創造――キリスト教の立場から」あり。

バルトの平和と戦争

『教会教義学』の中の第三巻『創造論』の第四分冊。解説に、宮田光雄『政治と宗教倫理』の中の論文。

バルトの教会と政治の関わりについては、宮田光雄、「カール・バルト――政治的・神学的評伝」 (宮田光雄、『平和のハトとリヴァイアサン――聖書的象徴と現代政治』、岩波書店、1988、pp.123-200)。この中で特に取り上げられているバルトの著作は、『ローマ書』、『神学的実存』、『バルメン宣言』、スコットランド信条の第24条の講義、『義認と法』、『キリスト教共同体と市民共同体』、『東と西の間にある教会』『神の人間性』。

ヴァイツゼッカー「荒れ野の40年」(1985.5.8)

2010.10.20全面的に更新

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker, 1920.4.15- )は、第六代の西ドイツ大統領であり、二期十年の大統領在任中に東西ドイツが統一されたため、統一ドイツの初代大統領でもあった。

「荒れ野の四十年」は、1985年5月8日のドイツ降伏40周年にあたっての連邦議会での演説。日本語訳は最初、雑誌『世界』1985年11月号に掲載された。その時『世界』の編集長だった安江良介がこの演説に「荒れ野の四十年」という題を付けたという。ドイツでは「五月八日演説」などと呼ばれている。(永井清彦編訳『言葉の力――ヴァイツゼッカー演説集』岩波現代文庫の「訳者あとがき」、p.238)。

加藤常昭訳
刊行されたものを底本として翻訳。『想起と和解――共に生きるために』(教文館、1988)の中に「一九四五年五月八日――四〇年を経て」と題してある。後に加藤常昭『ヴァイツゼッカー』(清水書院、1992)に若干改訂されて収録されている。
「思い起こすとは、ひとつの出来事を正直に、混じり気なしに思い起こし、その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにするということ」(p.11)。「罪責があろうがなかろうが、年を取っていようが若かろうが、われわれはすべてこの過去を引き受けなければなりません。・・・過去をあとから変更したり、なかったことにすることはできない・・・しかし、過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じる」(p.18-19)。「思い起こすことなくして和解は起こりえない」(p.19)。「想起とは神の歴史における働きを経験すること」(p.20)。「われわれがこうしたわれわれ自身の歴史的な思い出を、現在における自分の態度を定める基準とし・・・まだ解決していない課題に向かう手引きとして用いることができるならば、この四〇年間の歩みに感謝することもゆるされるでありましょう。」(p.36)
加藤常昭のヴァイツゼッカー関連本は、清水書院の人と思想シリーズで『ヴァイツゼッカー』(清水書院、1992)、演説集で『想起と和解――共に生きるために』(教文館、1988)と『良心は立ち上がる――ヴァイツゼッカー講演集』(日本基督教団出版局、1995)、アンソロジーで『ヴァイツゼッカーのことば』(日本基督教団出版局、1996)。
永井清彦訳
講演の録音をもとにしているようだ。『荒れ野の四十年―― ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』岩波ブックレット767、2009、63頁、504円。訳者による「解説――若い君への手紙」付き。
旧版は、『荒れ野の四十年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文』岩波ブックレットNo.55、1986、55頁。内表紙に「岩波ブックレットNo.56」とあるのは、No.55の間違い。永井清彦「翻訳に際して」という5頁の文章が巻頭にある。そして巻末には村上伸「ヴァイツゼッカー演説のいくつかの背景」。これらは新版にはなく、本文に対する注も全然違うので、旧版も見ておく価値あり。Erinnerungを「心に刻む」と訳し、「エアインネルン」とルビを振っている。
「心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべる(ゲデンケン)こと」(新版p.6)。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。」(新版p.11)旧版の訳者注で、大統領は原稿に「結局のところ」を付け加えて演説したと記されている。「心に刻む」というキーワードとの関連の重要さが指摘されている。
岩波ブックレット新版と同一の訳が、永井清彦編訳、『言葉の力――ヴァイツゼッカー演説集』(岩波現代文庫/社会193)、岩波書店、2009、4+249頁、1050円に収録されている。「荒れ野の四十年」の他、「パトリオティズムを考える」、「基本法――揺るぎない自由の保証人」、「自由に堅く立つ」、「変革期ヨーロッパの「徳」、「統一の日に――統一も自由も」、「党派を超えて――ブラントを悼む」、「暴力を排す」、「無関心の名の、心に着せた外套を脱ぎ給え」、「言葉の力」、「水に流してはならない――ドイツと日本の戦後五十年」の全11編。この文庫版は、永井清彦編訳(とはいえ、関口宏道、片岡哲史、他の訳も含まれている)『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(岩波書店、1995)をもとに、三篇を入れ替え、全面的に編者によって改訳されたもの。各講演題や各講演の前に置かれた訳者による短い解説も書き直されている。入れ替えは、「首都はベルリンに」、「障害者を校正に」、「ドイツへの信頼を」の替わりに、「暴力を排す」(1992.11.8)、「無関心の名の、心に着せた外套を脱ぎ給え」(1993.2.15)、「水に流してはならない――ドイツと日本の戦後五十年」(1995.8.7の東京での演説)が加えられた。最後の「水に流してはならない」は『歴史に目を閉ざすな――ヴァイツゼッカー日本講演録』(岩波書店、1996)に収録されていた。新旧両著とも、時系列順に並べられている。前著の『ヴァイツゼッカー大統領演説集』の「訳者解説」は、「言葉の人」ヴァイツゼッカーを的確に知ることができる40頁だが、文庫版にないのは残念。

2.6 日本における天皇制の問題

2015.11.23全面的に更新

富坂キリスト教センター編、『天皇制の神学的批判』、新教出版社、1990、340頁。

飯沼二郎、『天皇制とキリスト者』、日本基督教団出版局、1991(2006オンデマンド)、224頁、2940円。

今村嗣夫、『象徴天皇制と人権を考える』、日本基督教団出版局、2005、62頁、998円。

富坂キリスト教センター編の「近現代天皇制を考える」のシリーズ(新教出版社)。1:『近代天皇制の形成とキリスト教』、1996、349頁。2:『大正デモクラシー・天皇制・キリスト教』、2001、372頁、4200円。3:『十五年戦争期の天皇制とキリスト教』、2007、620頁、5985円。

日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会編、『光は闇の中に輝いている――靖国・天皇制・信教の自由 バプテスト40年の闘い』、新教出版社、2010、396頁、2625円。

土肥昭夫、『天皇とキリスト――近現代天皇制とキリスト教の教会史的考察』、新教出版社、2012、534頁、4935円。16の論文集。人名索引あり。第1章「天皇制をうつもの」から第2・3章「キリスト教の歴史的検討」の(1)と(2)は、『日本プロテスタント・キリスト教史論』(教文館、1987)の第8〜10章。第4章「『東京毎週新報』とその系列紙」と第5章「『教団時報』「日本基督教新報』など」は、同志社大学人文科学研究所編『近代天皇制とキリスト教』(人文書院、1996)所収、第6章・7章の小崎弘道、植村正久の天皇制論は、『歴史の証言』(教文館、2004)所収。第8章は「天皇制形成期のキリスト教――人権問題との関連において」、第9章は「天皇制確立期のキリスト教系私学」。第10章「近代日本における天皇即位とキリスト教」は富坂キリスト教センター編『キリスト教と大嘗祭』(新教出版社、1987)所収。第11章「近代天皇制とキリスト教(1)――帝国憲法発布より日清戦争まで」は富坂キリスト教センター編『近代天皇制の形成とキリスト教』所収。第12章「近代天皇制とキリスト教(2)――日比谷焼討事件より虎の門事件まで」は富坂キリスト教センター編『大正デモクラシー・天皇制・キリスト教』所収。第13章「天皇制狂奔期を生きたキリスト教――日本基督教連盟を中心として」と第14章「天皇制下の日本基督教団」は、『十五年戦争期の天皇制とキリスト教』所収。第15章は「戦後の天皇制と教会」、第16章は「戦後天皇制とわたしたち」。

講演やエッセイ中心のより簡便なものとして、土肥昭夫、『キリスト教会と天皇制――歴史家の視点から考える』(新教新書272)、新教出版社、2012、260頁、1785円。

2.7 経済倫理

2015.11.23全面的に更新

とりあえず目に付いたもの。

J.J.フラーフラント(関谷登訳)、『市場倫理とキリスト教倫理――市場・幸福・連帯』、教文館、2014、274頁、2600円+税。第1章 序論、第2章 市場と厚生、第3章 市場と正義、第4章 市場と徳、第5章 統合と適用。著者名の綴りはJohan J. Graafland、原著はオランダ語? WARC(世界改革派教会同盟)の2004年のアクラ宣言の評価、市場経済は正義や寛容などを持ちうるか、厚生や幸福にどう影響するか、愛や謙虚や節制といったキリスト教的徳を促進できるのかなど。東方敬信が「名著だ」と紹介している(『クリスチャン新聞』2014.5.4号)。

東方敬信の『神の国と経済倫理――キリスト教の生活世界をめざして』(教文館、2001)は、経済倫理についてのキリスト教内部の神学論を展開するのではなく、具体的な経済活動(産業社会、労働、消費、所有、市場経済、功利主義、環境、飢餓など)をキリスト教の視座から考察している。あとがきで、現在の市場経済に対するオルタナティブ経済の例をいくつか紹介している。

3.弁証学

3.0 弁証学全般

弁証学の意義をめぐって

佐藤敏夫「弁証学」in 『キリスト教組織神学事典』(増補版、教文館、1983)によれば、まずは、バルト、ティリッヒ、ブルンナーの三人。

バルト(吉永正義訳)『教会教義学 神の言葉T/1』、p.58〜61頁あたり。不信仰に対して我々が期待することは、そこで信仰が出来事として生起することであり、そのとき、福音は我々の助けを必要としない。神は自ら御言葉を弁護し給う。それゆえ、護教論(Apologetiks)と論駁(Polemik)はただ出来事として生起することができるだけであり、プログラムとはなりえない。

ティリッヒ『組織神学』。「相関の方法」(Method of Correlation)

ブルンナーの「論争学」(Eristik)。『教義学 第一巻』(著作集第2巻)

ボンヘッファー、『抵抗と信従』

大木英夫

大木英夫、『人格と人権――キリスト教弁証学としての人間学』(上、下)、教文館、上:2011、356頁、3800円+税、下:2013、464頁、5300円+税。上巻で人格論、下巻で人権論を扱う。下巻では、イェリネックが「法制史的な方法」で信教の自由をロジャー・ウィリアムズまで遡ったのに対し、大木は「革命を引き起こす力を持った理念」としてクロムエルに遡るとのこと。

3.1 キリスト教と文明、プロテスタンティズムと近・現代社会

翻 訳

エルンスト・トレルチ(Ernst Troeltsch)、『トレルチ著作集8、9 プロテスタンティズムと近代世界T、U』、ヨルダン社、1984、1985。
第8巻は堀孝彦・佐藤敏夫・半田恭雄訳、第9巻は芳賀力・河島幸夫訳。特に第8巻の「近代世界の成立にたいするプロテスタンティズムの意義」(pp.5-163)は重要かも。これは、新教出版社からも出ていたらしい(西村貞二訳、『近代世界とプロテスタンティズム』新教新書67、1962。更にその前は、創元社、哲学叢書55、1950)。
M.ヴェーバー(大塚久雄訳)、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫(白209-3)、1989改訳(1920)、436頁、720円。
1938年に梶山力訳、梶山の死後、1954年に梶山と大塚の共訳という形で岩波文庫から上下二冊で出た。1975年には『世界の名著50 ウェーバー』(中央公論社)に収録。さらに改訳されて大塚訳として1988年に岩波書店から出たものが文庫になった(白209-3、1989)。誤訳を訂正し、読みやすい訳になったということで、決定版といえるだろう。40ページ近くにわたる訳者の解説付き。
さらになんとついに、中山元訳で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(日系BPクラシックス)、日経BP社、2010、531頁、2520円。
パウル・ティリッヒ(古屋安雄訳)、「プロテスタント時代」(抄)、『現代キリスト教思想叢書8』、白水社、1974。
古屋安雄訳『ティリッヒ著作集5 プロテスタント時代の終焉』、白水社、1978。プロテスタント時代、批判および形成原理としてのプロテスタンティズム、プロテスタント的形成、プロテスタントの宣教と現在の人間、プロテスタント原理とプロレタリアート状況、自然と聖礼典、プロテスタンティズムにとってのカトリック教会の永続的意義、プロテスタンティズムの諸原理、マルティーン・ブーバーのプロテスタンティズムへの三つの貢献、プロテスタント時代の終焉?(1.プロテスタント時代の終焉?、2.宗教改革における預言者的伝統の再発見、批判的逆説と肯定的逆説、「肯定的逆説」の逆説について、神学者の精神状況、弁証法神学のどこが誤っているのか?)
カール・バルト、「教会と文化」。
エミール・ブルンナー(熊澤義宣訳)「キリスト教と文明」、『現代キリスト教思想叢書10』、白水社、1975(原著1948)。
1947〜48年のギフォード講演の第一部(1947.2-3)。人間の実存に関わる基本的問題に対するキリスト教信仰の答えを、現代の哲学・思想と比較しながら、明らかにする。全10講。その各講で取り上げている問題とは、存在とは何か、真理とは何か、時間とは何か、意味の問題、宇宙における人間、人格と人間性、正義の問題、自由の問題、創造性の問題。教義学的にも、信仰の学びとしても、興味深い。このギフォード講演第一部で、キリスト教文明論の原論の輪郭を明らかにしようと試みている。ちなみに第二部(邦訳なし)は、「文明生活の諸領域におけるさらに具体的な諸問題をとりあつかう」(p.33)。単行本で白水社、233頁3000円が出た。
H.リチャード・ニーバー(東方敬信訳)、『近代文化の崩壊と唯一信仰』、ヨルダン社、1984(1960)。
H.リチャード・ニーバー(赤城泰訳)、『キリストと文化』、日本基督教団出版局、1967(1951)。
アブラハム・カイパー(鈴木好行 訳)、『カルビニズム』、聖山社、1988。
W. パネンベルク(深井智朗訳)、『近代世界とキリスト教』、聖学院大学出版会、1999、174頁、2000円。

F.W. グラーフ(野崎卓道訳)『プロテスタンティズム――その歴史と現状』(教文館、2008、208頁、1890円)の第4章が「プロテスタンティズムと文化」。

日本人

佐藤敏夫
『キリスト教と近代文化――近代プロテスタント思想史』(新教新書88)、新教出版社、1964、158頁。『プロテスタンティズムと現代――文化神学序説』(今日のキリスト教双書9)、新教出版社、1970、225頁。
近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、302+3頁、4410円。
プロテスタント福音主義における伝道的・教会的観点から、信教の自由、文化多元主義と宗教的寛容、憲法改正、愛国心、キリスト教学校教育、スピリチュアリティとは何か、エキュメニズムについてなどを語った講演・論文集。「日本伝道の現状と展望」という講演もある。未発表論文も5編あり。

特に神学的なデモクラシー論を中心とした教会と国家やキリスト教と民主主義の関係など

2015.11.23全面的に更新
ジョン・デ・グルーチー(松谷好明、松谷邦英訳)、『キリスト教と民主主義――現代政治神学入門』、新教出版社、2010(1995)、386頁、3780円。
民主的で公正な世界秩序を求める現代の闘争において教会が果たす役割は何か」という問いが中心テーマらしい。正義の観点から社会批判をおこなう預言者的ヴィジョン、及び、これらを支えるエキュメニズムが強調されているらしい(『本のひろば』2010.11の木部尚志による紹介より)。第1部「システムとヴィジョン」、第2部はキリスト教と民主主義との「歴史的・神学的連関」、第3部「教会と民主化闘争」として、南北アメリカにおける公民権と解放、サハラ以南アフリカにおける植民地独立後の民主化闘争、東ドイツと南アフリカにおける民主主義の産婆役を取り上げる。第4部「批判的な神学的考察」は、公正で民主的な世界秩序のための神学。民主主義を三一論に基礎づけた議論をしているらしい。
宮田光雄、『同時代史を生きる――戦後民主主義とキリスト教』、新教出版社、2003。
近藤勝彦、『デモクラシーの神学思想――自由の伝統とプロテスタンティズム』、教文館、2000、554+8頁、7875円。
「総論 自由の伝統とプロテスタンティズム――ウェーバー、セイバイン、カイパーの理解をめぐって」では、「結社の自由」と自由の共同体の根拠について、ブルンナー、トレルチ、リンゼイも論じる。その後、「第T部 16世紀と17世紀から」に、「カルヴァンにおけるセオクラシーとデモクラシー」、「ミルトンにおける自由の問題と終末論」、「ジョン・ロックの寛容論における神学的構成」の3論文を収録。「第U部 20世紀のデモクラシーの神学思想」では、P.T.フォーサイス、トレルチとリンゼイ、ブルンナー、ラインホールド・ニーバーを論じた後、「宗教的寛容の宗教的根拠」では特にニーバーとファン・リューラーを取り上げ、「終末論的国家論と民主主義的国家論」ではパネンベルク、リンゼイ、トレルチ、「人権の神学――現代ドイツプロテスタント神学の場合」ではモルトマン、テート、レントルフを論じる。「第V部 日本におけるデモクラシーの神学思想」では、植村正久、内村鑑三、吉野作造、南原繁を取り上げ、最後に、「近代化の曖昧さとモダンの神学的更新――日本の社会と教会の視点から」として「モデルネの神学」を語る。
深井智朗、『政治神学再考――プロテスタンティズムの課題としての政治神学』、聖学院大学出版会、2000、244頁、2730円。
「コンスタンティヌス体制とその残像における政治神学」を「政治神学タイプA」とし、「プロテスタンティズムのアングロサクソン的展開における政治神学」を「政治神学タイプB」として、日本における政治神学の問題を論じる。
A.D.リンゼイ(Alexander Dunlop Lindsay, 1879-1952)
(永岡薫訳)『民主主義の本質――イギリス・デモクラシーとピュウリタニズム』(増補)、未來社、1992(初版は1964)。(紀藤信義訳)『現代民主主義国家』未來社、1969。 (永岡薫、山岡俊樹、佐野正子訳)『わたしはデモクラシーを信じる』(リンゼイ著作シリーズ1)、聖学院大学出版会、2001、150頁、2520円。(古賀敬太、藤井哲郎訳)『オックスフォード・チャペル講話――デモクラシーの宗教的基盤』(リンゼイ著作シリーズ2)、聖学院大学出版会、2001、246頁、3570円。(山本俊樹、大澤麦訳)『キリスト教諸教会とデモクラシー』(リンゼイ著作シリーズ3)、聖学院大学出版会、2006、125頁、1680円。

3.2 宗教の神学

2010.10.20全面的に更新

日本で初めて「宗教の神学」という用語を使ったのはDavid Reid(リード)とのこと。古屋安雄『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1986、p.121。

全 般

古屋安雄、『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1986初版、1987第2版、360頁、2,800円。
なぜ他宗教を考えなければならないのか。また、これまでの神学で他宗教とキリスト教の関係がどのように考えられてきたか。
小田垣雅也、『ロマンティシズムと現代神学』、創文社、1992年。この第6章が「諸宗教の神学について」。
小田垣雅也、「キリスト教と諸宗教の神学」 in 『なぜキリスト教か――中川秀恭八五歳記念論文集』、創文社、1993。
「『神学』が神に関わる学問である以上、それは本質的に排他的である。しかし『諸宗教』は普遍的、一般的な視野である。この両者の間には排他と普遍という矛盾がある・・・それが『諸宗教の神学』の問題性である。」、「宗教は生か死かに関わる問題であって、比較を超えた断絶を他の宗教や思想に対して持っている」「どの宗教であれ、そもそも信仰というものが・・・外の世界に対しては断絶を持っている・・・、だからこそ信仰が信仰であり得る」、「諸宗教の間に神中心主義的視点で共通項を見いだそうとする試みは、・・・(その人が)個々の宗教の上に立って、それらすべてを見渡しうる架空の立場に立っている」、「諸宗教の無原則な相対主義は、知性と信仰の放棄であろう」。
絶対と相対の関係について「突っ込んだ考察を行っている」。近藤勝彦「今日、キリスト教の絶対性をどう理解するか」in 『啓示と宗教』サンパウロ、1998、p.258。
小田垣雅也、『コミュニケーションと宗教』、創文社、2006年。この中で、バルト神学が必ずしも「排他主義」として片付けてしまえない面もあると言っているらしい。

熊野義孝に「キリスト教と諸宗教の関係」、「キリスト教と諸宗教」がある。『熊野義孝全集 第四巻』に収録。

「キリスト教の絶対性」

エルンスト・トレルチ(森田雄三郎、高橋晃兆訳)、「キリスト教の絶対性と宗教史」、『現代キリスト教思想叢書2(トレルチ・ケーラー・ヘルマン)』、白水社、1974(1912)、pp.7-160。
1902初版。「文化圏の思想」は、第二版で初めて現れる。「素朴な絶対性」。歴史的相対的なキリスト教が絶対性を主張できるのは、「学問的証明によっておこなわれる決定」ではなく、「宗教的自覚にもとづく決断」によるものであると、「主体的、人格的、実存的な確信、究極的には信仰告白である、ということを強調している」。古屋安雄「なぜキリスト教か――弁証と倫理の問い」in 『なぜキリスト教か――中川秀恭八五歳記念論文集』創文社、1993、p.34。
エルンスト・トレルチ、「世界宗教の中でのキリスト教の位置」in 大坪重明訳、『歴史主義とその克服』、理想社、1968(1924)、pp.108-139。
『歴史主義とその克服』は、1956年の初版に、訳文を見直し、索引や訳者註が付けられた。トレルチの死去の翌月に予定されていたイギリスでの講演原稿集。フリードリッヒ・フォン・ヒューゲルの序文の後、第一が「倫理学と歴史哲学」と題する三つの講義。第二が「世界宗教の中でのキリスト教の位置」。第三が「政治、愛国心、宗教」。この中の「世界宗教の中でのキリスト教の位置」で以前の著作の「キリスト教の絶対性と宗教史」の趣意を述べている。「キリスト教の絶対性と宗教史」とは異なり、キリスト教の最高妥当性を論証するために諸宗教の価値を比較することはできないとする。
「トレルチの苦闘を通じてキリスト教の絶対性、いやいかなる宗教の絶対性も、いわゆる客観的証明の事柄ではないことが明らかにされた点において、トレルチの功績は長く記憶されるであろう。」古屋安雄『宗教の神学――その形成と課題』、ヨルダン社、1986、p.135。
宗教はそれぞれの歴史的・地理的・社会的諸条件のもとにおける個性的な形態をとっており、その意味で諸宗教は相対的な現象である。それゆえ、各宗教が素朴に信じている自らの絶対性は、ひとつの本物の絶対性である。したがって、諸宗教の価値を比較することは意味がなく、ある一つの宗教の普遍妥当性や最高妥当性を証明することは不可能である。
キリスト教の絶対性を考えるならば、それは、特定の民族に束縛されない普遍性でもなければ、思考や思想的作業に基づくのでもなく、圧倒的な力を持って我々に臨まれる神の啓示に基づくものである。啓示は、我々にとって拘束力を持ち、我々を救済するものであり、我々にはこれ以外の啓示は与えられておらず、また、この我々に与えられてる啓示において我々は神の言葉を聞くゆえに、我々にとって絶対的なものである。
そして、キリスト教の絶対性や普遍妥当性の認識は、このような啓示を承認する個人的・主体的な確信に基づいている(「素朴な絶対性」、「主観的絶対性」)。個人的とか主観的と言っても、単に幻想や独善的信念ではなく、絶対的なる真理を求めて止まぬ心から生まれ、不断の自己純化と向上努力との中で育まれていく確信である。そうであるならば、我々は、他の諸宗教の普遍妥当性の程度などは気にかける必要なく、あるいは、宗教というものがより進んだ高い段階へと進化論的に発展するというような問題も、放っておいて差し支えない。
パウル・ティリッヒ(野呂芳男訳)、『ティリッヒ著作集4 絶対者の問い』、白水社、1979。

絶対的なものに具体性、特殊性において触れるという、宗教におけると絶対と相対の関係については、小田垣雅也「キリスト教と諸宗教の神学」 in 古屋安雄編、『なぜキリスト教か』、創文社、1993年。また、近藤勝彦「今日、キリスト教の絶対性をどう理解するか」 in 山岡三治、井上英治編『啓示と宗教』、サンパウロ、1998。

他宗教をどう考えるか

他宗教の理解の仕方の三類型:排他主義(exclusivism)、包括主義(inclusivism)、多元主義(pluralism)。これを提唱したのは、Alan Raceと言われている。文献は、Alan Race, "Christians and Religious Pluralism," イギリスではLondon SCM press, 1983. アメリカではMaryknoll, NY, Orbis Books, 1983。レイス自身は多元主義者のようだ。

用語について、"religious pluralism"は、宗教が複数存在する現象や事実を指す(宗教多元的状況、宗教多元現象など)こともあるが、諸宗教に真理や救いを認めようとする態度の総称(宗教多元主義)でもある。保呂篤彦「現代の要請としての宗教多元主義」 in 間瀬啓允編『宗教多元主義を学ぶ人のために』世界思想社、2008、p.4-5。

「他宗教をどう考えるか」という問題は、キリスト教信仰の独自性、特殊性(したがって、排他性)(他の宗教も真剣に真理と救いを求めているならば独自性や特殊性、そして排他性を持つだろうが)から他宗教の真理性や救いの可能性をどう考えられるかという問題や、他宗教への尊重や寛容を持つことができるかという問題である。

G.デコスタ編(森本あんり訳)、『キリスト教は他宗教をどう考えるか――ポスト多元主義の宗教と神学』、教文館、1997、330頁、3,500円。
多元主義を批判し、しかし排他主義ではなく包括主義の道を示す論文集。ジョン・ヒック、ポール・F.ニッター(八木誠一、樋口恵訳)『キリスト教の絶対性を超えて――宗教的多元主義の神学』、1993(1987)、春秋社、429頁への反論。
G.A. リンドベック(田丸徳善監修、星川啓慈、山梨有希子訳)、『教理の本質――ポストリベラル時代の宗教と神学』、ヨルダン社、2003。
J. モルトマン(喜田川信、藤井政男、頓所正訳)、『聖霊の力における教会』(現代神学双書68)、新教出版社、1981(1975)。
この第4章「神の国の教会」の第三節が「キリスト教と諸宗教」。この本は、『希望の神学』、『十字架につけられた神』と合わせて三部作と言われている。藤井政男の「男」は内表紙では「雄」となっているが、奥付は「男」。

カール・バルトは『教会教義学』の「和解論」の中で次のようなことを語っている。被造物と歴史の世界全体は、その右にイエス・キリストが座しておられる神の支配領域であるのだから、神は教会の外の領域で御自身を証しする自由を持ち給う。しかし、もしそのような領域で神の言葉が語られるとしたら、それは神御自身がイエス・キリストにおいて語り給う言葉以外にありえない。そのような聖書的・教会的でない領域の言葉は、イエス・キリストから委託されその権限を与えられたならば存在しうる。そうであるならば、そのようなところで語られた言葉に対して、それがどんなに我々にとって縁遠い言葉であろうと、耳を閉ざす理由があろうか。それに耳を閉ざすような態度は聖書に対して従順だと言えるだろうか。しかし、そのような言葉に耳を傾けることは、全教会がしなければならない事柄ではなく、一部の人に拘束力を持つにすぎない。聖書と関わるように、それらの言葉に関わることはできない。また、これらの考察は、教義学として、神のただ一つの言葉であるイエス・キリストの限界づけられることのない力を論じるためになされたのであって、その種の言葉が理論的・実際的に考慮できるかという問題の原理的な考察であった。井上良雄訳『和解論V/1』、pp.160-226。

カトリックの他宗教理解は、第二バチカン公会議の「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」in 南山大学監修、『第二バチカン公会議 公文書全集』、サンパウロ、1986。ノストラ・アエターテ。「この宣言は、カトリック教会が公的に最初に非キリスト教の諸宗教の価値と正当性を認めた教会文書」である。山岡三治「キリスト教と諸宗教との関係」 in 『啓示と宗教――キリスト教の存在意義をめぐって』、サンパウロ、1998、p.273。「『教会の外に救いはない』という言葉は、全人類を視野においた普遍的な定義ではなくて、小さな群れであった教会の中でキリスト者となった人たちが脱落しないように戒める言葉だった・・・。」百瀬文晃「イエス・キリストにおける神の自己啓示」 in 『啓示と宗教――キリスト教の存在意義をめぐって』、サンパウロ、1998、p.198。第二バチカン公会議での諸宗教への態度の解説とそれ以降のカトリックの教えについては、山岡三治「キリスト教と諸宗教の関係」が簡潔に記している。

日本カトリック司教協議会 諸宗教部門編、『諸宗教対話――公文書資料と解説』、2006、184頁、945円。第二バチカン公会議文書、教皇文書、教会法、カテキズム、教皇庁文書、日本司教団文書などからの、諸宗教対話に関する記述の抜粋と、4つの論考:デ・ジョルジマリア「なぜ対話か」、阿部仲麻呂「カトリック教会における「諸宗教対話」と「諸宗教の神学」の概要」、奥村一郎「キリスト教と仏教との対話の歩み」、フランコ・ソットコルノラ「諸宗教の人々と共に祈る」。

他宗教との対話

西谷幸介、『宗教間対話と原理主義の克服――宗際倫理的討論のために』、新教出版社、2004初版、2007改訂新版、214頁、1995円。
出版案内によると、グローバリゼーションの流れの中で、「誰もが他者と共に生き、しかも、オンリーワンとしての自分の生き方を見定めていかねばならない。その手がかりは宗教間対話にある」だそうだ。宗教は自己完結性を持っているゆえ、宗教間対話は、教理に関するよりもグローバルな倫理問題を取り上げる方が有意義であると結論づける。この書に対する小原克博の書評(『日本の神学』No.44、2005.9)、山梨有希子の書評『宗教研究』No.79(1)、日本宗教学会、2005.6)。

ウェスレー・アリアラジャ(中嶋正昭訳)、『聖書と他宗教の人々』、日本基督教団出版局、1987(1985)、151頁、1300円。他宗教との対話の聖書的根拠を示し、「対話の神学」を主張するが、それでいいのか。

対話については、金子晴勇『対話的思考』(創文社、1976、237頁)、河合隼雄「対話の条件」(河合隼雄、清水博、谷泰、中村雄二郎編、『岩波講座 宗教と科学1 宗教と科学の対話』、岩波書店、1992、1-24頁)。

WCCの取り組みは、神田健次編・解説(村瀬義史訳)『宗教間対話と共生のために――エキュメニカルな指針』(NCC宗教研究所双書)、新教出版社、2006。この中に、9.11以降の状況を踏まえて2003年に出された「他宗教に生きる人々との対話と関係のために――エキュメニカルな考察」があるらしい。WCCのエキュメニカル運動の歩みについては、神田健次「宗教間対話の軌跡と課題――エキュメニカルな視座から」 in 『神学研究』47号、関西学院大学神学研究会、2000.3、pp.155-177。

日本カトリック司教協議会 諸宗教部門編、『カトリック教会の諸宗教対話の手引き――実践Q&A』、カトリック中央協議会、2009、152頁、903円。第一部が「諸宗教対話の心」で、諸宗教対話とは何か、目的、心構えなど。第二部「諸宗教対話の実践Q&A」は冠婚葬祭や日本の年中行事、葬儀やお墓の問題などとの関わり方の88問答。最後の10問答はイスラームについて。日本カトリック諸宗教委員会編『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』(1985)の後継図書とのこと。

一神教は排他的という俗説の問題性、宗教寛容論など

西谷幸介、小原克博の諸論文。小原克博の論文は「小原克博 On-Line」の研究活動のページを見る。西谷幸介の論文はCiNiiで検索する。

近藤勝彦、「文化多元主義と宗教的寛容」(in 『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007)。「宗教的寛容の宗教的根拠」(in 『デモクラシーの神学思想』、教文館、2000)。

一神教という分類について、ヘルムート・リチャード・ニーバー(東方敬信訳)、『近代文化の崩壊と唯一神信仰』、ヨルダン社、1984。

ちなみに、宗教学の創唱者と言われるフリードリッヒ・マクス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1923-1900)は、多神教(polytheism)や唯一神教(monotheism)とは別に、多神の中の一つを他の神の上に立つ最高神とする単一神教(henotheism)を区別した。"A History of Ancient Sanskrit Literature," London: Williams and Norgate, 1859らしい。簡単には、マクス・ミュラー(湯田豊監修、塚田貫康訳)『宗教学入門』、晃洋書房、1990、p.70で語られている。原著は"Introduction to the Science of Religion," 1873。これは1870年にロンドンの王立研究所でなされた4講演。邦訳は、清水友次郎抄訳『宗教学綱要』(丙午出版社、1908, 1921)、比屋根安定抄訳『宗教学概論』(誠信書房、1960)。全訳は、湯田豊監修塚田貫康訳『宗教学入門』(晃洋書房、1990)。塚田貫康が便宜のために付した各講演のタイトルは、「言語と宗教」、「世界の宗教およびその分類」、「アーリア、セム、トラニアの言語および宗教」、「宗教の比較および科学的精神」。

パネンベルク(佐々木勝彦訳)『組織神学入門』(日本基督教団出版局、1996)、p.76〜77。「寛容とは、相対立する真理要求に無関心な態度を示すことではない。それと反対に、寛容は、何が真実で規範的なのかということに関する決定に基づいてのみ可能である。・・・人間は、究極的真理をまだ完全に見てはいない。それゆえキリスト教の真理意識は、他者への寛容を要求する。」1Cor13:9。しかしこのことは、キリストにのみ救いがある(Acts4:12)ことを放棄するものではない。「もしもイエスがこの世で唯一の救い主ではないとすれば、われわれはなぜキリスト者とならなければならないのであろうか」。パネンベルクは、ここから、この真理を主張するために、ただイエス・キリストのうちにのみ唯一の神が臨在している、すなわち、イエスは受肉した神の永遠の御子であるという命題を明らかにするキリスト論の課題を語る。

「なぜキリスト教か」

「なぜキリスト教か」という問いは、諸宗教のみならず様々なイデオロギーや無神論、あるいは世俗の科学や哲学に囲まれた現代世界において、キリスト教の不可欠性や優位性を示すことができるかという問いであり、世界に対してキリスト教の実際的な存在意義を示す弁証学の課題である。

古屋安雄編、『なぜキリスト教か――中川秀恭八五歳記念論文集』創文社、1993。
中川秀恭は、1908.1.1-2009.4.26。古屋安雄「なぜキリスト教か――弁証と倫理の問い」は後に『日本の将来とキリスト教』(聖学院大学出版会、2001)に収録、倉松功「なぜキリスト教か」、小川圭治「宗教多元論と神の絶対性」、小田垣雅也「キリスト教と諸宗教の神学」、熊沢義宣「キリスト教の独自性と宗教協力の問題」、大木英夫「なぜプロテスタンティズムか」など。
この論文集には他に、鈴木佳秀「旧約聖書における聖戦思想の一側面」、並木浩一「交わりにおける生」、川島重成「「よきサマリア人」のたとえ」など。

キリスト教を宗教という観点から神学的に考察したもの

シュライアマハー『宗教論』。

熊野義孝、『基督教概論』、1947年。『熊野義孝全集 第六巻 キリスト教本質論』(新教出版社、1978)所収。
佐藤敏夫、『宗教の喪失と回復――運命としての世俗化とキリスト教』、日本基督教団出版局、1978、258頁、1800円。
まず第1章で「宗教とは何か」として宗教の本質的な要素をキリスト教神学として明らかにする。次に2〜4章で、「世俗化」は、宗教の終わりではなく、国家や文化、理性における宗教の支配の終わりであって、キリスト教が正面から受け止めるべきものであることを述べる。世俗化と異なり「世俗主義」は、聖なるものの喪失であるゆえ、5〜9章で、世俗主義による「キリスト教の非宗教化」を批判し、むしろキリスト教の「宗教」としての回復を訴える。
「おそらくわが国で最初の『宗教の神学』の視点から書かれた書物」古屋安雄、『宗教の神学』、ヨルダン社、1986、p.38。

その他

ルドルフ・オットー(山谷省吾訳)、『聖なるもの』(岩波文庫青428)、岩波書店、1968(19171)。
Rudolf Otto(1869-1937), "Das Heilige"。訳者は1927年に原著14版からの翻訳をイデア書院から出したが、岩波文庫版は第30版からの新訳。キーワードは、ヌミノーゼ(das Numinöse)。
ルードルフ・オットー(華園聡麿訳)、『聖なるもの――神的なものの観念における非合理的なもの、および合理』、創元社、2005、357頁、3360円。
「わたしは弁証法神学にくる前、自らの神学的立場の決定に大いに悩んだ。その苦悩の間に私に新しい光と内察とを示唆してくれたのがこのオットーの『聖なるもの』であった。本書はプロテスタント神学の古典として高く評価されるべきものと考えている。」桑田秀延、『桑田秀延全集3 神学論文集T』、キリスト新聞社、1975、p.199。
ミルチャ・エリアーデ(風間敏夫訳)、『聖と俗――宗教的なるものの本質について』(叢書・ウニベルシタス14)、法政大学出版局、1969(1957)、274頁。新装版が2014、284頁、2900円+税。「聖なるものはみずから顕われる」(序言より)。
ピーター・L.バーガー編、『神の知られざる顔――宗教体験の根本構造』、教文館、1985(1981)、428頁、5000円。
岩松浅夫、金井新二、金沢篤、鎌田繁、月本昭男、矢島道彦、横山紘一訳。宗教体験の「対決(confrontation)」と「内面性(interiority)」の二つの類型化をめぐる論文集。

宗教学事典

2015.11.23全面的に更新

星野英紀、池上良正、氣多雅子、島薗進、鶴岡賀雄編、『宗教学事典』、丸善、2010、17+659頁、21000円。かつての小口偉一、堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973)以来、37年ぶりの宗教学事典。執筆者は「日本宗教学会」のメンバーが中心らしい219名。キリスト教関係のよく見る学者としては、芦名定道、月本昭男、土屋博、出村みや子、土井健司などが執筆陣に加わっている。243項目を「宗教とは何か」「宗教研究への視角」「宗教学の基礎用語」「思想と世界観」「実践と行為」「人間の諸活動と宗教」など10の章に分け、各項目とも2ページ見開きあるいは4ページあるいは6ページで、解説と参考文献を記している。

島薗進、深澤英隆、石井研士、下田正弘編、『宗教学文献事典』、弘文堂、2007、55+557頁、12600円。執筆者425名、849文献の解説。左右の2段組で1項目につき1段(つまり1/2ページ)が基本だが、2段以上の項目もある。より簡便に、宗教学の基本文献を解説付きで紹介しているものとして、島薗進、『宗教学の名著30』(ちくま新書744)、筑摩書房、2008、286頁、820円+税。しかし、目次にはマックス・ミュラーもオットーも出てこない。棚次正和、山中弘編著、『宗教学入門』、ミネルヴァ書房、2005、259+10頁、2800円+税。この第五章「宗教学を学ぶ人のための基本文献」で約32文献が解説付きで紹介されている。

「一般に近代宗教学は、1873年、マックス・ミュラーが『宗教学入門』(Introduction to the Science of Religion)を出版したことをもって始まるとされる。」棚次正和、山中弘編著、『宗教学入門』、ミネルヴァ書房、2005、p.141。

島薗進、葛西賢太、福嶋信吉、藤原聖子編、『宗教学キーワード』(有斐閣双書KEYWORD SERIES)、有斐閣、2006、308頁、1995円。

宗教「学」とは名付けられていないが、様々なキーワードから現代の宗教を読み解く事典として、井上順孝編、『現代宗教事典』、弘文堂、2005、592頁。山折哲雄監修、川村邦光、市川裕、大塚和夫、奥山直司、山中弘編、『宗教の事典』、朝倉書店、2012、919頁、25000円+税。

世界の諸宗教の事典

2015.11.23全面的に更新

ミルチャ・エリアーデ、ヨアン・P.クリアーノ(奥山倫明訳)、『エリアーデ世界宗教事典』、せりか書房、1994、492頁、4800円+税。

古典的には、比屋根安定、『諸宗教事典』、聖文舎、1963、596頁。90年代に出たもので、ジョン・R・ヒネルズ編(佐藤正英監訳)、『世界宗教事典 新装版』、青土社、1991、672頁。リチャード・ケネディ(田丸徳善監修、山我哲雄訳)、『世界宗教事典 カラー版』、教文館、1991、323頁、7282円+税。山折哲雄監修、『世界宗教大事典』、平凡社、1991、2191頁。

最近の値の張るもので、クリストファー・パートリッジ(井上順孝監訳、井上順孝、井上まどか、冨澤かな、宮坂清訳)、『現代世界宗教事典――新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』、悠書館、2009、621頁、12000円+税。世界宗教百科事典編集委員会編(委員長井上順孝)、『世界宗教百科事典』、丸善出版、2012、912頁、20000円+税。山折 哲雄監修(川村邦光、市川裕、大塚和夫、奥山直司、山中弘 編)、『宗教の事典』、朝倉書店、2012、919頁、27000円+税。アンリ・タンク編(蔵持不三也訳)、『ラルース世界宗教大図鑑――歴史・文化・教義』、原書房、2013、389頁、18000円+税。

村上重良の著作に、『日本宗教事典』(講談社学術文庫837)、1988、472頁、980円。その姉妹編で『世界宗教事典』(講談社学術文庫1436)、講談社、2000、344頁。その他、『近代日本の宗教』(講談社現代新書571)、講談社、1980。『新宗教――その行動と思想』(岩波現代文庫 学術170)、岩波書店、2007(元は、評論社、1980)。

事典ではないが、世界の宗教を知る古典的な教科書として、岸本英夫、『世界の宗教』、大明堂、1965、290頁、1942円。

新宗教、新々宗教について、井上順孝、対馬路人、西山茂、孝本貢、中牧弘允編、『新宗教事典 本文篇』(縮刷版)、弘文堂、1994、689頁、4660円+税。もっとも簡潔には、島薗進『新新宗教と宗教ブーム』(岩波ブックレット237、岩波書店、1992、64頁、400円)。

3.3 神学的日本論や、日本学とか日本文化論とか宗教学的日本人論とか

「日本の神学」

深井智朗によると、「日本の神学」としてのこれまでのイメージは、1.日本における神学研究の歴史。神学の諸分野における日本人による業績を解説するようなもの。2.「日本的神学」という意味で日本人独自の、日本の風土や思想に適応した神学。しかし、さらに、3.「日本とは何か」ということを神学の課題として受け止め、それと取り組む神学。大木英夫、古屋安雄『日本の神学』によって問題提起されている。(キリスト新聞、2005.4.30号、p.2)

古屋安雄、大木英夫、『日本の神学』、ヨルダン社、1989、322頁。
「第一部 歴史的考察」(古屋)と「第二部 方法論的考察」(大木)の二部構成。
大木英夫、『人格と人権――キリスト教弁証学としての人間学 上』、教文館、2011、356頁、3990円。
出版社の紹介記事によれば、「上巻は人格論を視座に、明治維新以後の大日本帝国憲法と「和魂洋才」を基盤とした近代化の問題点を明らかにし、戦後の日本そのものを神学的に考察した上で、日本における「人間」理解と自覚をめぐり、キリスト教的真理の弁証の道としての人間学を論じる。」とのこと。

日本におけるキリスト教の土着論

武田清子について、「なんと言っても彼女の功績はキリスト教の日本における土着論としての五類型(埋没型、孤立型、対決型、接木型それに背教型)を提唱したことであろう」。武田清子『出逢い 人、国、その思想』(キリスト新聞社、2009)への古屋安雄の書評、『本のひろば』2009.9。

武田清子、『土着と背教――伝統的エトスとプロテスタント』、新教出版社、1967。

武田清子には他に、『背教者の系譜――日本人とキリスト教』(岩波新書)、岩波書店、1973。『正統と異端の“あいだ"――日本思想史研究試論』、東京大学出版会、1976。

単に日本の宗教とキリスト教

門脇佳吉、『日本の宗教とキリストの道』、岩波書店、1997。
授業で出てきた。門脇佳吉は、カトリック司祭で上智大の先生。
鈴木範久、『日本宗教史物語』、聖公会出版、2001、159頁、1300円。
日本の宗教の歴史を、立教大学の教授が主として学生向けに書いた読み物。全13話。

一般の宗教学者等による日本人の宗教・信仰に関する論で文庫とか新書とかで読めるもの

磯部忠正、『日本人の信仰心』(講談社現代新書712)、講談社、1983。
近藤先生が薦めていた。神代先生の授業でも出てきた。同一タイトルのものが春秋社(1997、224頁、2200円)から出ているが、何だろうか?
山折哲雄、『神と仏――日本人の宗教観』(講談社現代新書698)、講談社、1983。
授業で出てきた。
梶村昇、『日本人の信仰――民族の三つ子の魂』(中公新書888)、中央公論社、1988、212頁、660円。
授業で出てきた。
阿満利麿、『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書085)、筑摩書房、1996、206頁、680円。
持ってる。昔読んだ。授業で出てきた。
湯浅泰雄、『日本人の宗教意識――習俗と信仰の底を流れるもの』(講談社学術文庫1384)、講談社、1999、1050円。
授業で出てきた。

一般の日本文化論とか日本学

和辻哲郎、『風土――人間学的考察』(岩波文庫)、岩波書店、1979。
初版は1935年。1993年に『風土 改版』(岩波書店)というのも出ているが、何だろうか? 1991年にはワイド版岩波文庫も出ている。和辻哲郎についてのわりとよく書けている評伝に、湯浅泰雄『和辻哲郎――近代日本哲学の運命』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1995)。
丸山真男、『日本の思想』、岩波新書C39、岩波書店、1961。
加藤周一、『日本人とは何か』、講談社学術文庫51、講談社、1986。
「優れた評論である」(近藤先生)。加藤周一『現代ヨーロッパの精神』(同時代ライブラリー、岩波書店、1992)(かつては、岩波書店、1959)の中に「カール・バルトとプロテスタンティズムの倫理」という章がある。バルトとブルンナーの論争を取り上げてバルトに軍配を上げているらしい。
楠正弘、『文化学としての日本学』、創文社、1993、248頁、3800円。
持ってない。近藤先生が薦めていた。創文社の目録によれば、「宗教教義論的観点に立つ従来の日本文化の伝播論・固有論を超え、相対主義的・類型論的な新しい「日本学」の確立を企図した先駆的業績」とのこと。さて、では、神学的には我々はどういう方法論でいくべきか。類型論ではなく、文化史的視点で。

3.4 現代の異端とカルトの問題

現代におけるキリスト教の異端として(もちろん在来のキリスト教の側から見て異端とされるのであるが)特にしばしば言及されるのは、統一協会、エホバの証人とモルモン教の三つ。このうち、前者二つは社会的にも問題とされることが多い。

カルトについて

竹下節子、『カルトか宗教か』(文春新書073)、文藝春秋、1999、196頁、660円。
カルトが看板にしているテーマ、規模、組織、リスクの種類などの観点から、カルトの特徴を細かく取り上げる。フランスのカトリックのカルト対策や国家としての取り組みに詳しく、カルトか否かの見分け方はおもしろい。また、癒し系カルト、能力開発系カルト、健康カルト、シンプルライフ・カルト、終末論カルトについて詳述。全体的にフランスでのカルトの活動や被害の事例が豊富。フランスではカトリックという伝統宗教がカルトに対する「目付役」になっているが、日本にはそれがない。
浅見定雄、『なぜカルト宗教は生まれるのか』、日本基督教団出版局、1997、246頁、1400円。
日本脱カルト協会(JSCPR)編、『カルトからの脱会と回復のための手引き――〈必ず光が見えてくる〉本人・家族・相談者が対話を続けるために』、遠見書房、2009、236頁、1995円。
一九九五年の「地下鉄サリン事件」など一連のオウム真理教事件で日本社会が騒然としている中、一九九六年に急遽発刊した『心の健康づくりハンドブック』以来十四年を経た研究と経験を踏まえ、内容を大きく刷新し、さらに脱会と脱会後の支援に役立つよう新たに企画したもの。この団体はかつては日本脱カルト研究会(JDCC)だったが、2005年から日本脱カルト協会(JSCPR)。
執筆者は、浅見定雄、櫻井義秀、西田公昭、黒田文月、平岡正幸、戸田京子、山口貴士、鈴木正一、豊田通信、北條悟、小久保温、杉本誠、岩立盛郷、貫名英舜、竹迫之、志村真、渡辺浪二、平野学。その他、体験者の事例を簡潔に紹介した記事が豊富。巻末に、どれだけカルト度があるかをチェックする114項目の「集団健康度測定目録」、参考文献、相談先リストなど。
日本脱カルト協会推薦文献のページ参照。

平岡正幸は、2009.2.18死去。著作が含められている主な書物は、斎藤幸二と共著『統一協会のコントロールからの解放――救出の手引き』(ルーテルブックレット1、ルーテルブックレットプレス、1993)、日本ルーテル神学大学教職神学セミナー編『「神々」の時代を問う――キリスト教と新々宗教』(ルーテル神学大学セミナーシリーズ、キリスト教視聴覚センター、1994)、オウム真理教信徒救済ネットワーク編著『マインドコントロールからの解放――愛とは何か 生とは何か』(三一書房、1995)、『心の健康づくりハンドブック――破壊的カルト・オウム真理教を考える』(日本脱カルト研究会、1996)、山岡三治、井上英治編『啓示と宗教』(サンパウロ、1998)の中に「現代におけるカルトの問題」(pp.364-396)、ルーテル学院大学・神学セミナー編『家族を創る』(ルーテル学院、1999)、 日本脱カルト協会(JSCPR)編『カルトからの脱会と回復のための手引き――〈必ず光が見えてくる〉本人・家族・相談者が対話を続けるために』(遠見書房、2009)。

櫻井義秀、『「カルト」を問い直す――信教の自由というリスク』 (中公新書ラクレ201)、中央公論社、2006、286頁、。

マーガレット・T. シンガー(中村保男訳)、『カルト』、飛鳥新社、1995、341頁。

新刊で、D.E.コーワン、D.G.ブロムリー(村瀬義史訳)、『カルトと新宗教――アメリカの8つの集団・運動』キリスト新聞社、2010。サイエントロジー、TM、ラムサ、統一協会、ファミリー・インターナショナル、ブランチ・ダヴィディアン、ヘブンズ・ゲートなどを、社会学的に位置づけて紹介し、論じる。

マインド・コントロールについて

スティーヴン・ハッサン(中村周而、山本ゆかり訳)、『マインド・コントロールからの救出――愛する人を取り戻すために』、教文館、2007、2625円。
スティーヴン・ハッサン(浅見定雄訳)、『マインド・コントロールの恐怖』、恒友出版、1993(1988)、409頁、1500円。

マインド・コントロールについては、他に、西田公昭『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店、1995、246頁、1359円)。西田は社会心理学者。紀伊國屋書店の寸評によれば、「カルト集団の誘いのテクニックから、組織内での心理操作、脱マインド・コントロールまで、豊富な実例と心理的実験をあげながら、その原理を明快に解き明かす。浅見定雄氏推薦」とのこと。西田公昭には他に、『「信じるこころ」の科学――マインド・コントロールとビリーフ・システムの社会心理学』(セレクション社会心理学18)、サイエンス社、1998。『まさか自分が・・・そんな人ほど騙される――詐欺、悪徳商法、マインドコントロールの心理学』、日本文芸社、2005年。

T.W.カイザー、J.L.カイザー(マインド・コントロール問題研究会訳)、『あやつられる心――破壊的カルトのマインド・コントロール』、福村出版、1995、269頁。

浅見定雄、西田公昭、江川紹子、紀藤正樹、『東京女子大学学会講演会「カルトと若者」』、ブレーン出版、2000、161頁、。

脱会者のため、家族のためのカウンセリング

マデリン・ランドー・トバイアス、ジャンジャ・ラリック(南暁子、上牧弥生訳)、『自由への脱出――カルトのすべてとマインドコントロールからの解放と回復』、中央アート出版社、1998。
マインド・コントロール研究所編、『カルトで傷ついたあなたへ――カウンセリングとリハビリテーション』、いのちのことば社、1999、270頁。
マインド・コントロール研究所編、『親は何を知るべきか――破壊的カルトとマインド・コントロール』、いのちのことば社、1998、232頁、1890円。

個々の具体例

浅見定雄、『統一協会=原理運動――その見極めかたと対策』、日本基督教団出版局、1987、224頁、950円。
「前編 予防と救出のために」でどういう状況が危ないか、緊急に何をすべきか、だまされないための心得など。「後編 統一協会の教理と本質」で洗脳のしくみ、統一協会の教えについて。
統一協会の内部の実状について具体的なのは、川崎経子『統一協会の素顔――その洗脳の実態と対策』(教文館、1990、270頁、1200円)。原理用語集あり。文献表あり。川崎経子は1929.11.14-2012.10.7。南哲史、『マインド・コントロールされていた私――統一協会脱会者の手記』、日本基督教団出版局、1996年。
統一協会問題キリスト教連絡会編、『これが素顔!』、日本基督教団出版局?、20044、16頁、100円。
これまでは日本基督教団内の統一原理問題連絡会によるものだったが、第4版は、カトリック、聖公会、日本福音ルーテル、日本バプテスト連盟、在日大韓基督教会も参加。
ウィルバー・リングル(皆川誠訳)、『エホバの証人への実際的アプローチ』、いのちのことば社、1989、127頁、1000円。
ウィリアム・ウッド、『「エホバの証人」の教えと聖書の教え』、いのちのことば社、1850円。
ウィリアム・ウッドには他に、『エホバの証人――マインドコントロールの実態』三一書房、1993、240頁、1700円。

マインド・コントロール研究所編、『統一協会から愛する人を助けるために』、いのちのことば社、2010、376頁、2310円。櫻井義秀、中西尋子、『統一教会――日本宣教の戦略と韓日祝福』、北海道大学出版会、2010、604頁、4700円。

教会の「カルト化」の問題

2010.10.20全面的に更新

浅見定雄は、この問題を「逸脱としてのカルト化」と呼んでいるらしい。(『キリスト新聞』2006.10.28)。

マインド・コントロール研究所編、『「信仰」という名の虐待』(21世紀ブックレット17)、いのちのことば社、2002、96頁、892円。
パスカル・ズィーヴィー「「信仰」という名の虐待――Spiritual Abuse」、「被害者からの手紙」、福沢満雄「信仰生活の中で虐待され、傷ついた人々の訴え」、志村真「信徒を虐待し危害をもたらす宗教思想・信仰信条を考える」。
ウィリアム・ウッド、『教会がカルト化するとき』(21世紀ブックレット18)、いのちのことば社、2002、72頁、892円。
ウィリアム・ウッド、『「健全な信仰」と「カルト化した信仰」』(21世紀ブックレット26)、いのちのことば社、2005、72頁、840円。
パスカル・ズィヴィー、『“「信仰」という名の虐待”からの回復――心のアフターケア』(21世紀ブックレット37)、いのちのことば社、、120頁、945円。
『「信仰」という名の虐待』以降に寄せられた多くの相談をもとに、どのように心のケアを行っていくべきかに関する症例と研究。

3.5 科学とキリスト教

科学の方法論と神学

トーランス(通常表記は「トランス」だが、みんな「トーランス」と呼ぶ)(Thomas Forsyth Torrance)の著作の邦訳: 小坂宣雄訳『空間・時間・復活』(ヨルダン社、1985(1976)、325頁)。水垣渉、芦名定道訳『科学としての神学の基礎』(教文館、1990(1980)、248頁、2200円)。ちなみに、トランスの邦訳著作は他に、泉田栄訳『カルヴィンの人間論』(1980改訳)、吉田信夫訳『バルト初期神学の展開・1913-1931年』(新教出版社、1977(1962))がある。トランスは宣教師の子として中国で生まれた。

大木英夫、「神学と諸科学の関係――二十世紀神学史の経過」(『偶然性と宗教――現代の運命とキリスト教』、ヨルダン社、1981、pp.134-160)。

自然科学とキリスト教信仰・神学

笠井惠二、『自然的世界とキリスト教』、新教出版社、1999。
キリスト教が自然破壊の元凶であるという誤解を解く。
標宣男、深井智朗訳、『自然と神――自然の神学に向けて』、教文館、1999、290頁、3200円。
自然科学との対話。
A.E.マクグラス(稲垣久和、倉沢正則、小林高徳訳)、『科学と宗教』、教文館、2003、2500円。
2009年に新装版、2625円。
J.ポーキングホーン(本多峰子訳)、『自然科学とキリスト教』、教文館、2003、2500円。
教文館の広告によれば、20世紀を代表する物理学者の一人ディラックの指導を受けた理論物理学者が、科学と信仰の問題に挑んだ刺激的でユニークな書。彼の邦訳には、同じ本多峰子訳で『科学と宗教――一つの世界』(玉川大学出版部、192頁、2800円)もある。
I.G.バーバー(藤井清久訳)、『科学が宗教と出会うとき』、教文館、2004、336頁、2415円。
教文館によれば、「ビッグバン、量子物理学、進化論、遺伝子操作、人工知能(AI)など、現代科学が提起する知識を幅広く紹介しながら、宗教との関係を「対立」「独立」「対話」「統合」に分類し、多様な見方を提示。宗教の合理性に対して今なお懐疑的な現代人の疑問に応答する。科学と宗教の関係のアウトラインを、一般の読者が理解できるよう、シンプルな言葉、明快な表現で説明。」だそうだ。
J. モルトマン(蓮見幸恵、蓮見和男訳)、『科学と知恵――自然科学と神学の対話』、新教出版社、2007、320頁、2800円。
A.E.マクグラス(芦名定道、杉岡良彦、濱崎雅孝訳)、『「自然」を神学する――キリスト教自然神学の新展開』、教文館、2011、482頁、5040円。
いわゆる「自然神学」ではなく、キリスト教信仰に立って自然を理解しようとする。

『岩波講座 宗教と科学』(全10巻・別巻2巻、河合隼雄、清水博、谷泰、中村雄二郎編、岩波書店、1992ー1993)この中で、有用そうな論文は、第1巻「宗教と科学の対話」の中の河合隼雄「序論 対話の条件」、倉松功「7 プロテスタントの場合」、第4巻「宗教と自然科学」の中の小川圭治「弁証法神学と科学」、第5巻「宗教と社会科学」の中の久米博「宗教の将来と解釈学」、第8巻「身体・宗教・性」はまだ見ていない。第9巻「新しいコスモロジー」の中の近藤勝彦「黙示文学的終末論の可能性」。

進化論については、たとえば稲垣久和『進化論を斬る――科学とキリスト教』(いのちのことば社、1981、191頁)。

特に科学技術の諸問題の理解として、富坂キリスト教センター編、『科学技術とキリスト教』、新教出版社、1999、208頁、2730円。執筆は、古谷圭一、上山修平、中島貴子、今井尚生、谷村禎一、安田治夫他。

フランシスコ・J・アヤラ(藤井清久訳)、『キリスト教は進化論と共存できるか?――ダーウィンと知的設計』、教文館、2008、184頁、1680円。原著2006。カトリック的な立場からのアメリカでの「知的設計」(インテリジェント・デザイン)の考え方に対する批判。科学と宗教は両立しないはずはないという確信に基づいて書かれた。芦名定道が『週刊読書人』第2746号(2008年7月11日)に寄せた書評あり。

科学史・科学思想史とキリスト教

標宣夫、『科学史の中のキリスト教――自然の法からカオス理論まで』、教文館、2004、220頁、1800円。
藤井清久、『歴史における近代科学とキリスト教』、教文館、2008、256頁、2625円。
歴史の流れに沿って科学者・自然哲学者・神学者を伝記的に紹介・解説する。

キリスト教と科学の歴史的関係についての一般的なものは、A.D.ホワイト(森島恒雄訳)『科学と宗教の闘争』(岩波新書赤44)、岩波書店、19391,1968改版(1976,1896)が基本的かつ古典。渡辺正雄『科学者とキリスト教――ガリレイから現代まで』(ブルーバックス686)、講談社、1987もある。

最近のもの

スティーヴン・ジェイ・グールド(新妻昭夫訳)、『神と科学は共存できるか?』、日経BP社、2007、323頁、1995円。
フランシス・コリンズ(中村昇、中村佐知訳)、『ゲノムと聖書――科学者、〈神〉について考える 』、NTT出版、2008、304頁、。
金承哲、『神と遺伝子――遺伝子工学時代におけるキリスト教』、教文館、2009、282頁、2625円。
「本書は、「遺伝子工学とキリスト教」というテーマに関して日本語で書かれた最良の研究書」。芦名定道による書評、『日本の神学』 Vol. 49、2010、p.185。pdfへのリンク
A.E.マクグラス、J.C.マクグラス(杉岡良彦訳)、『神は妄想か?――無神論原理主義とドーキンスによる神の否定』、教文館、2012、158頁、1890円。
「第一章 神についての妄想か」、「第二章 科学は神が存在しないことを証明したのか」、「第三章 宗教の起源は何か」、「第四章 宗教は悪なのか」。
『本のひろば』第666号、2013年7月(キリスト教文書センター)に、『神は妄想か?――無神論原理主義とドーキンスによる神の否定』をめぐる河崎行繁と西原廉太の対談あり。「この本の内容は、「科学界の視点に則ってみても、ドーキンスの論法は粗雑です」ということであって、「神は妄想ではない」ことを直接、示しているわけではない・・・。・・・マクグラスの本来の主張を知りたければ、『科学と宗教』(教文館、2003年)を読むと良い・・・。」、有神論か無神論かとは関係なく、「「科学は絶対である」という彼〔ドーキンス〕の原理主義をマクグラスは批判」している。「神学にも分からないことがあり、科学にも分からないことがある。人間にはすべてのことは分からないという謙虚さ、批判されることに対して自己を開くこと、自己の理解や考えを絶対化してそれを原理原則として提示しないこと、そういう姿勢が大事だとマクグラスは言いたかったのだ」。