DOWN 地上絵
ペルーの旅


■ペルーへ

ペルーの位置  ペルー、遠い遠い国。いつか一度は行ってみたいと思っていた。旅行社の日程は13日間と長い。年をとって体が弱れば無理になる。夏休みと有給休暇を利用し、思い切って参加することに決めた。

 昨年は米が穫れないほどの冷夏だったが、今年は連日38度、異常に暑い。成田空港に集合したのは8名、添乗員はつかないという。英語もスペイン語も分からないわたしは不安になった。ただ、幾人かの同行者はメキシコまで行ったことがあるらしい。
「だいじょうぶです。なんとかなりますよ」
と元気づけられる。

エリーさん  午後2時過ぎ、大韓航空機が離陸した。10時間ほどかかってロサンゼルス空港に降り立つと、エリーさんという山口美江に似た日系女性が待っていた。東京ほど暑くはない。28度くらいか。乗り換えの案内を受け、今度はアルゼンチン航空ブエノスアイレス行きのジャンボに搭乗した。

 機体は恐ろしいほど古く、座席が狭い。日本人乗客はわたしたちだけのようだ。ほとんど耳にしたことのない言葉が飛び交っている。スペイン語なのだろう。雰囲気は既にラテンアメリカである。

ペルーの地図  機内食はパサパサしたパンとチーズが主体でハムもあるが、味と香りが違い過ぎて口には合わなかった。途中、メキシコシティーの空港に着陸すると、お土産をたくさん抱えた人たちがどっと降りていった。新たな客を乗せると機は再び離陸、ようやくリマに到着したのは深夜になった。
男性ガイド
 昼夜が目まぐるしく交替し、成田からいったい何時間かかったのか見当もつかない。腕時計は24時間経ったことを示しているが、ほとんど寝ていないせいか、丸2日くらいかかったような気がしてならない。


■リマ

 空港で待っていたのは島さんという男性だった。口髭を生やした、穏やかそうな感じの人である。昔、学生時代に訪れたペルーが忘れられず、16年ほど前に移り住んだのだそうだ。

 リマの宿泊先はシェラトンホテルと言い、チェックインを待つ間、諸注意を受ける。通貨はソーレスで、US$も遣えること(1$=2.18Soles)、冬のリマは最高気温が17〜8度、最低は13〜4度だという。東京ほどではないが夜はコート類が必要だ。
リマ市内

 翌日、リマの市内観光に出かけた。天候は薄曇り。ときどき太陽が顔を出し、日中は暖かい。フンボルト海流の影響でいつも曇っていると聞いた。
 最初に、予約してある天野博物館を見学、案内の日本人女性がペルー各地の遺跡について丁寧に説明してくれた。チャビン文化の土器やチャンカイ文化の織物の他、プレインカ時代の精巧な工作技術に感心する。

 昼食は街中の小さなレストランに入った。ビールを飲みながら待っていると、びっくりするほど大きなパエリアを給仕長が運んできた。味付けは日本人に合っている。小さな魚の酢漬け“ペヘレイ”もあった。
パエリアを見せる給仕長

 午後はミラフローレスにある 海岸の公園Parque Amor(23K/RCP) に寄った後、セントロのサンマルティン広場、ピサロの像、アルマス広場のカテドラル、フジモリさんの大統領府(27K)などを見物し、ホテルに戻った。

 一夜明けるとインカ帝国の首都、クスコへ向けて出発。国内便は荷物の制限が厳しく、大きなスーツケースはホテルに預けていく。目的地の飛行場は高度が3,400b近いため、機体をできるだけ軽くしないと着陸が難しいのだそうだ。

 機が水平飛行に入ると遠くアンデスの峰々が見えてきた。雪を抱いている山もたくさんある。マチュピチュ上空を過ぎると徐々に高度を下げていく。目指すクスコはもうすぐだ。山と山の谷間をかすめるように降下していくと、突然たくさんの家々が姿を見せた。茶色一色の屋根が並んでいる。機長は注意深く、慎重に着陸した。

  DOWN UP

■クスコ

クスコ  タラップを降り、建物に向かって歩きだすと、足元がなんとなくフラフラする。おかしい。息も苦しくなってきた。富士山に登ったときと似ている。
 迎えのバスに乗り、かわいらしいホテルに着いた。サボイインターナショナルとある。小さなロビーでチェックインを待つ間、女性従業員がコカ茶を入れてくれた。高山病にいいという。フラフラして元気が出ないわたしは3杯くらい飲んだだろうか。

 今夜は酒と風呂は止めるように注意があった。シャワーもよくないという。人によって違いはあるが、一般に症状がひどくなるのだそうだ。フロアに目をやると、床が傾斜しており、自分が大きなすり鉢の底にいるような気がしてならない。不思議に思って他の人にたずねたら、
「そんなことはない。床は水平になっている」
と言う。島さんの話しによれば、高山病になると呼吸が苦しくなる他、頭痛や物忘れ、時には幻覚、幻聴が出ることもあるという。
すり鉢の底にいるような気がしたのは幻覚だったのか?

コカ茶  コカの葉はコカインの原料ですが、コカ茶にはなんの麻薬性もないようです。 飲むと、多少ポー≠ニ体が温まるような気がする程度で、湯温の影響との区別 もつきにくく、特別、習慣になるような作用があるとも思えませんでした。  

 午後、クスコの市内観光に出た。石畳の通りには地面に座って編物をしているインディオの女性が目につく。路地に面した塀は石造りが多く、中には 12角の石(49K/RCP) もあった。
 バスで太陽の神殿跡のサントドミンゴ教会に向かう。今も残るインカの石組みは、剃刀の刃も入らないほど隙間がない。その後、山の上にあるケンコー遺跡やタンボマチャイ、サクサイワマンの遺跡を見学した。人の背丈よりも遥かに大きな、何十トンもあるような石が積まれている。巨石をどのようにして運び、加工したのか、想像もつかない。
サクサイワマン遺跡
 クスコの夜は寒い。最低気温は零度を割る。赤道に近い所がこれほど寒いとは思わなかった。街でリャマの毛で編んだセーターを求めた。同行の女性たちが買物をしている間、島さんと喫茶店へ寄った。コーヒーを注文すると、出てきたのは黒く濁っている。一緒に出された白湯で割って飲むのだそうだ。お世辞にもおいしいとは言い難い。日本のコーヒーとは全く別の飲物という感じである。
 島さんが教えてくれた。ペルーでもコーヒーを栽培していて、ブラジルを経由して輸出されている。質の良いコーヒーは輸出に回し、輸出に向かない物を国内で消費するのだという。
 わたしの症状はなかなかよくならない。廊下を歩くと、目も回りだした。早めに床に就いたが、息苦しさでなかなか寝つけず、数分おきに深呼吸をする。

 翌朝、高山病の症状は軽快した。まだ薄暗いうちに起床、日本から持っていったインスタントラーメンを食べることにする。お湯の温度が上がらないせいか、生煮えでまずい。味噌汁はおいしくできた。空気が薄く湿度が低いため洗濯物の乾きは早い。汗は全く出ない。日本と違い、風呂に入らなくても特に気持悪くは感じない。


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■マチュピチュ

 きょうはマチュピチュへ行く日である。まず、ホテルで水を用意した。“アグアミネラル”といえば炭酸水。泡が立たない普通の水は“アグアミネラル・シンガス”というそうだ。
 早朝の冷えびえとした街を抜け、急な山道になった。バスの車窓から見える民家の多くは日干し煉瓦でできており、どの家の窓もなぜか塞がれている。
織物を売るインディオの女性  2時間近くかかってオリャンタイタンボに着いた。ここで列車に乗り換える。日本でも報道されたが、ここはつい最近、ピラミッド状の地形が発見された場所である。町のある一角が遠目に見ると緩いピラミッドになっているという。研究はこれからのことらしい。

 線路上に大勢のインディオ(125K/世界の車窓から)が集まってきた。手に手に織物を携え、乗客に向かってかざしている。個性的な模様をアピールしているのだろう。アウトバゴン(観光列車)の発車時刻になった。駅を出るとすぐ、進行方向右手の畑が先程のピラミッド状地形になっているのを確認できた。このことに気づいた乗客はほとんどいないようだった。
 列車はウルバンバ川(166K/同)に沿って谷あいを下っていく。抜けるような紺碧の空にビルカバンバ(50K/Keizo's Home)の峰々が輝いている。人を寄せつけない急峻な山肌は太陽が昇るとともに刻々と色合いを変えていく。雄大な自然がここにはあった。次々と変化する景色は新鮮で、飽きることがない。

マチュピチュ遺跡(上下2枚貼り合わせ、背景塗りつぶし35K)  プエンテルイナス駅で下車、登山バスに乗り換える。つづら折りのでこぼこ道を30分ほど登り、終点に着いた。ここから上は歩いて見学するのだという。標高が2,300bとクスコよりもずっと低いため、呼吸が楽だ。
 休みやすみ10分くらい登っただろうか。突然現れた一大パノラマに息をのんだ。石造りの建造物が整然と並んでいる。住居から神殿、催し物広場があり、畑、水道、水洗トイレ、牢屋まである。なぜ山の上に、このようなインカの都市が造られたのか。あまりの不思議さに、ただただ感心するばかりだった。
サンポーニャ
zamponas.au
(209K/RCP)

 帰りの列車を待つ間、駅構内にぎっしりと並んだ土産物店を見て歩いた。一通り見終わって売店でコーヒーを求めて飲んでいると、5〜6歳くらいの子供が商品を手に売り歩いているのに気づいた。その中に一段と小さなかわいらしい女の子がいる。4歳くらいだろうか。“サンポーニャ”というインディオ独特の笛を持っていた。器用に曲を吹いてみせる。ほんとうかどうか分からないが、お父さんが作ったのだという。5ソーレスを渡し、一つ受けとった。
ピスコ酒
 夜、夕食はクスコ市内のレストランを訪れた。看板には『TABERNA EL TRUCO』とある。きょうは酒のお許しが出た。食前酒としてピスコサワーを勧められる。ぶどうから造られたピスコ酒*に卵白とレモン汁を加えたカクテルで、シナモンシュガーを振りかけてある。甘く、飲みやすい。左党にはピスコ酒がいいお土産になる。
フォルクローレ
ojos_azules.au(255K/RCP)

 ここはジャガイモのスープ**が特別おいしい。食事中にこの地方の踊り、フォルクローレが始まった。サンポーニャを主体にしたにぎやかな音楽に合わせて、民族衣装の若い女性2人がかわいらしい踊りを披露する。

 2杯のピスコサワーを飲み干したところで心臓がおかしくなった。猛烈な動悸と不整脈が出る。高地ではアルコールの回りが恐ろしく早い。ホテルに戻り、日本から持っていった卵油***を飲んだらようやくおさまった。
 3日間滞在したクスコともお別れだ。飛行機が離陸する。茶色の街クスコは次第に小さく、見えなくなっていった。

 * ピスコ酒はリマとナスカの中間にあるPiscoで買いました。ブランデーよりもまろやかで口当たりがよく、ロックやストレートでもいけるおいしいお酒です。いびつなガラス瓶に入っていても、お値段は少々張ります(コニャックほどではありませんが)。
 ** アンデスの人々はジャガイモ料理が好きらしく、レストランでわりと目にします。高地では気圧が低いため湯の温度が上がらず、煮炊きは圧力鍋を使わないとうまくできません。心なしか、炎の勢いも弱々しく感じられます。
 *** 日本古来から伝わる健康食品(心臓と痔の妙薬)。薬局などで市販されていますが、卵油100%というのはあまり見かけません。卵の黄身を炒って、自分で作ることもできます。



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■プーノ

 約30分の飛行でフリアカ空港に到着した。クスコよりも更に高地にあり、バスでプーノへ向かう。延々と続く高原では牛がのどかに草を食んでいる。なだらかな山の斜面には畑が見える。1時間くらい走り、峠を越えたところで目の前が開けた。澄み切った空気、雲一つない藍色の空の下にプーノの家々と畑が現れ、その向こうには広大なチチカカ湖が青々とたたずんでいる。
 なんという景色だろう。言葉では表現のしようもない。見えているのはほんの一部分で、湖全体の10分の1くらいだという。対岸のはるかかなたにはボリビアの山々が連なっている。ここは3,900b以上あるのか、息が苦しい。
チチカカ湖とプーノ遠景(左右3枚貼り合わせ40K)
 宿泊先はプーノ郊外のイスラエステベスというホテルだった。チチカカ湖のほとりにある白い建物で、上の写真では湖面左端に写っている。ロビーには酸素ボンベが備えられており、客室は湖に面していて、眺めはすばらしい。
 チェックインの後、付近を散歩した。小高い丘の上には2種類のサボテンが生えていた。途中の草地には数頭のアルパカがいて、わたしの様子をうかがっている。性質を知らずに近づいていったその時である。突然、特に大きな一頭がこちら目がけて走り出し、威嚇してきた。2b近い大物だ。わたしは驚いて一目散に逃げた。相手が退却すると安心したのか、それ以上追いかけてくることはなかった。

 夕刻、頭痛がしてきた。息苦しさがひどい。1分か2分おきに大きく息をしないと苦しくてしかたがない。ようやく治ったと思っていた高山病がぶり返したようだ。物事を考えるのがつらい。体調はクスコよりもずっと悪く、食欲がない。名物の鱒の料理は一口も喉を通らない。今夜も酒と風呂が禁止された。浴室にはシャワーはあるが湯舟はない。寒い。燃料節約のためか、暖房はわずかしか効かない。しかも夜中は止められてしまった。ベッドの中でうとうとするが、息苦しさのため熟睡できない。

 よく、旅行案内書などに「チチカカ湖の名物料理は・・・」などと書かれていますが、それを味わえるのは高山病にならないときの話。クスコとは標高差が400bほどあり、この差はわたしにはこたえました。せっかくの料理を前にしても、ナイフやフォークを持つ気力が湧きませんでした。
 高地への順応は体調や人によって異なり、飛行機で急にやってくるとか、列車などで時間をかけて移動しても違うといいます。ほとんどの人は軽症ですが、数人に1人くらいは食事どころか、息をするだけでもやっとという情けない状態になります。
 なお、ちょっと苦しい程度で、大した症状が表れない人もけっこういて、普段低血圧で体の不調を訴える人などが意外と元気だったりします。ちなみにわたしの場合、到着日の夜はやや重症。息苦しさと頭痛、だるさで食欲ゼロ、タバコは影響ありませんでした。



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■ウロス島

 プーノ2日目はウロス島観光に出かける。体調は昨夜よりも幾分か良い。湖畔から小さな観光船で出発した。湖は船の通り道が決まっている。行きと帰りは互いにぶつからないように離れた水路ができていて、水底の水草が刈られている。途中に料金徴収の小屋があり、船は通行料を払う。このお金は水草刈りなど、湖の整備に充てるのだそうだ。
 トトラという葦のような草が生えている所で船が停まった。船長が身を乗り出して引き抜いている。皮をむき、わたしたちに差し出した。少しかじってみたが、ごわっとしている。別段おいしい物ではなく、食べられるという程度らしい。

トトラの家と土産物を売るインディオの女性  島さんがバッグから取り出した袋を開けて、飴玉を配り始めた。
「島へ行ったら子供が寄ってくるので与えてください」
 小一時間ほどでウロス島に着いた。地面は見当たらない。トトラを敷き詰めた島である。歩くと、ぶよぶよする。家も何も全部トトラでできている。確かに子供たちがやってきた。3つ4つの小さな子供たちがたくさんいる。学童程度の子供は見当たらない。手に手にトトラで作った、おもちゃの船を握っている。それをわたしたちに向かって差し出しながら
インディオの女の子 「ツーダラー」
と小さな声を出す。首を振っていやいやをしたら
「ワンダラー」
ときた。こんな小さな子供が観光客相手に商売をしている国をわたしは見たことがない。かわいそうというより、なぜ大人たちがこんな息の苦しい高地に住んでいるのか不思議に思えた。

 やや大きな子供が湖面に手を入れて何かをすくうような格好をしている。彼は厚さ1aほどの 氷を取り出してみせた(14K) 南緯16度、氷が張る湖が熱帯にあるとは思ってもいなかった。帰国後、あらためて中学生の地図帳を見たら、なんと北極と同じツンドラ気候と描かれている。寒いわけである。

 ウロス島から戻った後、プーノ市内のバザールを見に行った。露天がずらっと並び、果物、日用品から衣類、電気製品まで、いろんな商品が山のように積まれている。コカ茶は布製の大袋で量り売りされていたが、旅行者にはティーバッグが便利。
ビニールでパックされた品物はゴムまりのように膨れている。今にも破裂するのではないかと心配になるほどである。日本の有名電機メーカーの名前をつけた帽子もある。カセットテープなどは明らかに海賊版と分かるような代物だ。

湖畔のプーノ夜景  チチカカ湖周辺は空気が澄んでいて、人工的な照明が少ない。星がよく見えた。深夜、懐中電灯を手に湖畔へ降りる。湖面にはプーノの明かりが点々と続き、その上に南十字星が輝いている。南半球の銀河は静かにはっきりと流れていた。

 チチカカ湖から昇る朝日がまぶしい。きょうでプーノともお別れである。フリアカへ戻る途中でわき道に入り、シルスタニ遺跡を見学するという。バスを降り、坂を登る。苦しい。チチカカ湖よりも更に高所にある。4,000bはあるのだろうか。見たことのない小さなウチワサボテンが所どころに生えていて、朱色の花をつけている。
 喘ぐようにして10分ほど登った。広々とした頂上に出たら、チュルパという死者の塔があちらこちらに建っている。鳥の声も風の音も聞こえない。眼下には ウマヨ湖(23K) がひっそりと水をたたえている。歩くだけでも大変な高所に、どうしてこんな大きな石を積み上げる必要があったのか。不思議と言うしかない。
シルスタニ遺跡
 フリアカ空港で搭乗を待っていると、建物の外にいる女性がわたしたちに向かってしきりに声を掛ける。物売りは待合室に入ってはいけないようだ。持っているのは、アルパカの小さな敷物が多い。同行の女性が値引き交渉をしている。
 島さんからチーズやパン、りんご、チョコレートなどが入った、変わった弁当を配られた。チョコレートには“SUBLIME”と書かれている。ピーナツ入りでなかなかおいしい。

 再び機上の人となった。茶色の山また山の連続である。途中でアレキパ空港に寄る。ほんとうはミスティ山と呼ぶのであろうか、 ペルー富士(39K/RCP) という印象的な形の火山が目前にそびえている。乗客の乗り降りが終わるとすぐ出発した。
 雄大な地形をした山々の上を海岸沿いに北上する。リマに近づくにつれ、徐々に雲が増えてくる。再度リマシェラトンに到着したのは夕刻だった。今夜はホテルの地下にある寿司屋で夕食である。懐かしい日本の味に、高山病に悩まされたわたしも元気になった。

  DOWN UP 地上絵

■ナスカへ

パチャカマ遺跡  一泊して翌朝、荷物をまとめてホテルへ預けた。今度はバスで、有名なナスカへ向かう。まず、市内のスーパーマーケットに立ち寄り、飲み水やフィルムなどを買い求めた。出発してまもなく、郊外にあるパチャカマ遺跡を見学する。ここはかなり古い遺跡のようである。積まれている石の大きさは不揃いで、隙間も多い。ここには太陽の神殿の他、月の神殿もあった。
根なし草  空は曇ってはいるが、雨は一年中降らないという。草木どころかサボテンも生えていない。唯一見かけた植物は、風に吹かれてころころと移動するパイナップルの葉の形をした根無し草だけだった。

 バスはアメンカンハイウェイを一路南へ向かってひた走る。お寿司屋さん特製のおむすびを頬張り、車窓に映る景色を眺めながら進む。草木のない風景が延々と続く。所々、川に沿って緑が現われる。付近には潅漑をした畑もあり、日干し煉瓦でできた、屋根のない民家がぽつぽつと建っている。雨が降らないから屋根はいらないのだそうだ。一方、泥棒よけのためか、窓は厳重に塞いである。

 山岳地帯にかかった。道路のあちこちに形の定まらない黒い物が落ちている。島さんに尋ねたら、破裂したタイヤだという。何千キロも続くアメリカンハイウェイでは古いタイヤではもたないのだそうだ。日が暮れても走り続け、ナスカツーリスタスホテルへ着いたときには真っ暗になっていた。このホテルはリゾート風の平屋造りで、プールがある。部屋は落ち着いた茶系の色調をベースにしている。湯舟もあり、気に入った。
 
Nazca Photo Gallery with Interactive Image Map

■ナスカの地上絵

 一夜明け、きょうは今回の旅行の最大のハイライト、地上絵を見物する日である。バスで 飛行場 まで行き、セスナの順番を待つ。4・5人乗りの小さなセスナが次々と発進していく。わたしの番が回ってきた。操縦士は若いアメリカ人のようである。管制塔からの指示を受けるとすぐに発進、離陸した。

地上絵  地上絵の場所までは10分足らずだった。パイロットが日本語混じりの英語で説明する。よく分からないが何か見えてきたらしい。指さす方向に目をやると、山の斜面に絵が描いてある。以前、テレビで紹介されていた “宇宙人” だ。右手を上げ、わたしたちを歓迎しているようにも見える。

 パンパという灰色がかった茶色の地面に白く、何キロ、何十キロと延びる直線が無数に交錯していて、 巨大な三角小さな円も見える。そんな砂漠の所々にさまざまな絵が描かれているのだ。 サルクモクジラハチドリコンドルペリカン・・・。 地上からは分からないこれらの絵は、いったいなんのために必要だったのだろうか。空中を飛行する乗り物のために描いたとしか考えられないような作品を目の当たりにして、遥か昔のナスカ人のロマンに思いをはせる。

 空港からの帰り道の途中、マリア・ライヘ女史が建てた 観察塔 に立ち寄った。アメリカンハイウェイの道路沿いに造られた、高さ20bほどの鉄塔である。
 見下ろせば、 トカゲと木 の地上絵がすぐ下に描かれているのが分かる。トカゲはハイウェイで真っ二つに切断されていた。ハイウェイが造られた後に地上絵が発見されたのだという。


 それぞれの画像は右上の Image Map からもリンクされています。興味のある方はご覧ください。

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SUBLIME  ナスカは温暖で、散歩しやすい街である。道ゆく人々はゆったりしていて、旅行者相手の物売りは少ない。露店で買った、この地方独特の果物“チリモーヤ”は青リンゴに似た色つやで、やわらかく甘い。フリアカ空港で食べたチョコレート“SUBLIME”も街頭でバラ売りしているが、箱入りのほうが安い。お土産にしようと思い、一人で商店に入った。

ちなみに、ワン、ツー、スリー(1,2,3)はほとんど通じません。トマト、ウオーターも同じ(観光客相手の物売りは別)。「南アメリカ」とアメリカがついていても英語はほとんど用をなしません。1,2,3,4,5,10,20は、ウノ、ドス、トレス、クアトゥロ、シンコ、ディエス,ベインテです。これだけ覚えておけば買い物にはまず困りません。「ウノ?」と聞かれたら、「一つですか?」と尋ねられているのです。わたしは全く勉強せずに行ったので、最初は「ウノ?」の意味が分かりませんでした。5555-5555という電話番号は「シンコ、シンコ、シンコ、シンコ−シンコ、シンコ、シンコ、シンコ」と発音します。ホテルのテレビCMで見ました。

 

■バジェスタス島

パラカスの地上絵(燭台)  翌朝は4時半のモーニングコールだった。食堂はまだ開かない。朝食は弁当を渡された。バスが出発してからまもなく、夜が白々と明けてきた。アメリカンハイウェイを北上する。朝早かったのと疲れのため、車内は皆眠りこけている。4時間ほどで、パラカスホテルに到着した。ここからバジェスタス島の見物に出かけるのだそうだ。

 観光客が混んでいるため、ボートに乗船できたのはお昼になった。救命具を肩に掛ける。港を出てしばらく進んだらパラカス半島の山の斜面に地上絵が見えてきた。旅行案内書には“燭台”と書いてある。ここの絵は空からでなくてもよく分かる。
泳ぎ回るアシカ  まもなく着いたバジェスタス島は鳥や海洋動物の楽園だった。たくさんのアシカたちが泳いでいたり、岩の上で日光浴をしているものもいる。わたしたちのボートが近づいても逃げようとはしない。無数の海鳥が飛び回り、島のあらゆる所で休んでいる。糞のにおいが鼻を突く。島の上部には大量の鳥の糞を採取する工場が見えた。肥料にするらしい。

 パラカスを後にして、再びリマへとバスはひた走る。夕刻、リマ郊外にある“黄金博物館”を訪れた。ペルー各地から掘り出されたあらゆる出土品が展示されている。土産物売場にも金銀の装身具が並べられていた。
 ペルー最後の夜は、 La Rosa Nautica(28K右端/RCP) という海上レストランで夕食だった。高級料理店らしく、客数も多い。出されたのは海鮮料理で口に合う。リマで最もおいしいレストランの一つなのだろう。食べられないものはほとんどなかった。

 いよいよ、ペルーを発つ日がやってきた。日本を出発するまで長いと思っていた日程も、あっという間に過ぎてしまった。空港まで見送ってくれた島さんにお礼を言い、別れを告げる。ブエノスアイレス発アルゼンチン航空386便は轟音を響かせて離陸態勢に入った。今夜はロサンゼルスに一泊して、帰国は明日になる。また、うだるような東京へ戻らなければならない。
(C) 1996 k-tsuji
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