展覧会レビュー


「イントレランス」の時代に,互いに応答する
―「Borderline Cases 境界線上の女たちへ」を中心に
小勝禮子(こかつ れいこ/栃木県立美術館学芸員)
月刊『あいだ』104号(2004年8月20日/あいだの会発行)初出>


 先日,やっと『イントレランス』を見た
*1。むろん,映画通にとっては基本中の基本,何を今さらであろうが,2004年8月の現在,この1916年製作の「映画の父」D.W. グリフィスの傑作を見直すことが,いかに時宜にかなっているかにあらためて衝撃を受けた。古代バビロンの栄華と崩壊から,キリストの磔刑,聖バーソロミューの虐殺,そして現代(20世紀はじめ)アメリカの搾取される労働者たちまで,4つの異なる時代における人間の「イントレランス(不寛容)」に起因する悲劇を同時並行的に語る映像に加えて,まさに性懲りもなく続くもうひとつの「不寛容」の時代として,21世紀初めの現代の戦争と虐待の映像が,否応なく確実に,見ている私の脳裏に侵入して来たのだから。

 しかし,こうした時代に対抗する営みも,まったく途絶えているわけではない。人間同士の紛争の原因である「イントレランス」の感情を生むのは,自分とは異なる者「他者」への恐怖と排除の意識だろう。「わたしたちの社会,国家,個人の中にある『ボーダーライン』を考え,そのせめぎあいの上で『他者』と相互に応答することを試みる」(展覧会要旨より)という問題意識に立った「BorderlineCases 境界線上の女たちへ」展は,韓国と日本の現代女性アーティストたちによる,戦争の時代への「抵抗」の試みのひとつである。


「Borderline Cases 境界線上の女たちへ」展の実施に至る経緯


 そもそもこの展覧会が開催されるに至った経緯から振り返っておきたい。なぜなら限られた会期で終了する展覧会では,その会期中ばかりでなく作り上げる過程のなかにおいてこそ,関係する人々の緊密な関係を育むことができるのであるから。筆者はこの展覧会の企画に関わったわけではなく,外側から共感を持って眺めていた立場なので,詳細さや正確さをいささか欠くことがあれば,ご容赦いただきたい *2

 同展に参加した日韓のアーティストたちの最初の出会いは,2002年3−6月の光州ビエンナーレと,同年6月の「東アジアの女性と歴史」展に遡る。光州ビエンナーレには,パク・ヨンスクが《Mad Women Project 2002》を出品し,嶋田美子が大阪在住の在日の友人,皇甫康子の協力を得て「コリアン・ディアスポラ」部門に《パチンコ:家族,国家》を出品した。「東アジアの女性と歴史」展(ソウル女性コミュニティ・センター)は,韓国のフェミニスト・アーティスト・ネットワーク(FAN)主催であり,ユン・ソクナム,イトーターリ,嶋田美子らが参加し,キム・ソンヒ(当時・光州市立美術館学芸課長)が展示企画委員の一人だった。同時期には,梨花女子大学博物館で「もうひとつの美術史,女性性の表象」展(3月−6月)も開催され,それを記念したシンポジウム「韓日近現代美術と女性」
*3 のために ,日本から若桑みどり,池田忍と筆者がパネリストとして参加し,その機会にイメージ&ジェンダー研究会の会員や,東アジア女性展のために嶋田やイトーらアーティストたちが来韓したので,2002年6月初めのソウルには,在外のアーティストも含めた韓国と日本の女性アーティストやジェンダー研究者が集まることになり,相互の交友が深められたのである*4




 それに先んじてイトーターリは,2001年12月に千野香織の論文 *5 に触発されて,ナヌムの家と日本軍「慰安婦」歴史館 *6 を訪ねたいという希望を持ち,朴英子を介して,ナヌムの家でのパフォーマンス公演と日韓のアーティスト交流イヴェントの企画を立てていた。それは,6月の訪韓を利用したナヌムの家訪問による下準備を経て,2002年8月14日「歴史館四周年記念式典」での高橋芙美子,イトーターリのパフォーマンス公演(ソウル,韓国日報社),15日ナヌムの家訪問,16日―17日,韓国と日本のアーティストによるアート・マラソン,シンポジウム(ソウル,サムジ・スペース)に結実し,短い滞在ながらきわめて密度の濃い交歓がなされたのであった。筆者もこの一連の企画に参加することができ,その記憶は鮮明に残っている。実行委員,イトーターリ,山上千恵子,朴英子,高橋芙美子,中西美穂らの熱意の結晶であった。

 このとき,アート・マラソンに参加する韓国側アーティストを集めてくれたのがフェミニスト・アーティスト・ネットワーク(FAN)であり,スタッフ提供などの人的支援をしてくれたのも,会場となったサムジ・スペースのディレクターでFAN実行委員のキム・ホンヒだった。このFANとのつながりから,同じくFAN実行委員の写真家パク・ヨンスクを日本に招いて,2004年1−2月,大阪での滞在制作,個展,アーティスト・トーク,シンポジウムが開催され
*7 ,さらに大阪で制作されたパクの作品の東京での展示と,東京の滞在制作を実現させたいというイトーターリの願いが,Borderline Cases 展開催のきっかけのひとつとなった。

 一方,2002年8月のソウル・ツアーに加わり,テレサ・ハッキョン・チャの詩を朗読してパフォーマンスにも参加した池内靖子は,2003年,チャの著『ディクテ』を翻訳出版する
*8 。折しもハッキョン・チャの回顧展「観客の夢」が2001年9−10月,カリフォルニア大学バークレー・アート・ミュージアムを皮切りに,ニューヨーク,シアトルなどアメリカ国内5箇所を回って,2003年9−10月にはソウル,サムジ・スペースに巡回した *9 。韓国出身で少女期にアメリカに移民したハッキョン・チャの作品が作者の没後に里帰りを果たしたわけだが,チャの作品を日本でも展示,紹介したいという池内の熱意が,パク・ヨンスクの東京展の企画と結びつくことになる。故郷を失ったディアスポラとしてのハッキョン・チャの芸術はイメージ(映像,写真)ばかりでなく,複数の言語からなる言葉や音声を含み,日常のさまざまな境界・規範を踏み越えたために「狂っている」とされた女性たちをテーマにしたパク・ヨンスクの《マッドウイメン》シリーズと,社会や言語や国家のボーダーラインを問うことによって呼応しあう。この二人の問いかけに,「日本の女性/アーティストたちはどう応答できるのか」を考えることが,「Borderline Cases 境界線上の女たちへ」展の企画を立ち上げるきっかけになったのだという。

 展覧会実現に向けて実行委員会
*10 が結成されたが,企画の中心となったのは,FAAB(Feminist Art Action Brigade)であった。FAABとは,その設立主旨によれば,「フェミニズムという視点から,これまでの男性性中心主義が作り上げてきた社会システム,価値観,美的標準を変え,すべての人間が同じ地平で繋ぎあえるようになる社会を作るための表現者やそれにかかわる者たちの実践的なグループ」である。「旅団 Brigade」という軍事用語をあえて使うのも,以下のように説明される。「帝国主義,植民地主義,軍国主義が牙を剥き,力の論理だけの赤裸々な男性性中心主義が蘇ってきて」いるなか,「私達があえてフェミニズムを標榜するのは,それがこの凶暴な現実に絶望しないための一つのビジョンになりうると思うからです。『今やアクションあるのみ!』 FAABは親睦団体ではありません。表現を武器に軽やかに連帯し,楽しく闘う実践的な『旅団』です」。

 FAABの結成は2003年4月であり,それまでWAN(Women's Art Network)で活動して来たメンバーのうち,アーティストを中心とした数人が,より実践的な活動を求めて分離し,再結成したものであった。WANの活動としては,「越境する女たち21」
*11 の実現が大きな成果だろう。筆者は,越境展の前後からWANに入会し,またFAAB結成に際して同グループにもサポーターとして入会した。
数人の主要メンバーが抜けたとはいえ、地方在住のアーティスト会員が多いWANもまた,女たちのネットワークを求めて個々の地道な活動を続けている。

 FAABとBorderline Cases実行委員会によって,展覧会を立ち上げていくのにあたって,資金集めや展覧会場探しが難航したことも漏れ聞いていた。年間予算のある美術館や公共のスペースがバックにあるわけではない。アーティストを中心にした個人の集まりを基本とするFAABは,国際交流基金と芸術文化振興基金の助成を申請したが,結局後者の助成しか得られず,韓国のFANの好意によって寄贈を受けたファンド・レージングのための版画集の販売や,展覧会場の無償提供を協力してくれたA.R.T.(ディレクター:ジョニー・ウォーカー)を使って,2004年2月にプレ・イヴェント,ファンド・レージング・パーティ
*12 を開催するなどして,どうにか資金を集め,開催にこぎつけたのだという。

 この企画実現に至る過程は,実際多くの困難に満ちたものだったと想像するが,しかし最初にも書いたように,企画に関係する韓国と日本のさまざまな立場の女性や男性が,こうした困難を乗り越えて,その局面ごとに話し合い,アイディアを出し合って切り抜けていくことこそが,「ボーダーライン上の応答」を実践していく一歩一歩であったに違いない。

1 | 2 | 3


*1 栃木県立美術館「ギュンター・ユッカー 虐待されし人間」展関連企画「ホームシアター・イン・ミュージアム」,7月31日〜9月11日。毎週土曜日7回。上映作品は,『イントレランス』に続いて、ヴィスコンティ『夏の嵐』,リーフェンシュタール『民族の祭典』『美の祭典』,ウディチコ『プロジェクション・イン・ヒロシマ』,タルコフスキー『サクリファイス』『僕の村は戦場だった』,ヒッチコック『断崖』。いずれも,現代ドイツの作家ユッカーがテーマとする人間の裏切り,恐怖,破滅,カタストロフ,戦闘などに関わる映画作品によるプログラム。
*2 筆者の立場は,FAABのサポート会員,イメージ&ジェンダー研究会会員。いくつかの事実については,Borderline cases展実行委員の安田和代さんから情報を提供していただいた。
*3同シンポジウムと展覧会については,以下に報告した。『イメージ&ジェンダー』Vol.3,彩樹社,2002年11月,pp.144-145。小勝禮子「2002年韓国のジェンダーと美術」,香川檀×小勝禮子「アートとジェンダーをめぐる往復書簡#1」,『diatxt.』9号,京都芸術センター,2003年4月,pp.90-95。
*4 この間の日韓交流については,以下を参照。小勝禮子,金惠信,北原恵,イトー・ターリ,「2002年日韓交流報告 韓国のジェンダー/美術史とフェミニズム・アートの現在」『イメージ&ジェンダー』Vol.4,彩樹社,2003年12月,pp.128-131。
*5 千野香織「戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の『日本』」栗原彬ほか編『越境する知1 身体:よみがえる』東京大学出版会,2000年,pp.109-143。千野香織「希望を身体化する―韓国のミュージアムに見る植民地の記憶と現代美術―」『神奈川大学評論』39号,2001年7月,pp.85-95。
*6 ナヌムの家は,日本軍の元「慰安婦」の共同生活施設として1992年に開設。日本軍「慰安婦」記念館は,元「慰安婦」たちの証言を記憶し,新たな歴史を刻む記念館として,ナヌムの家敷地内に1998年8月開館した。ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房,2002年を参照。
*7 大阪市,財団法人大阪都市協会主催で開催された。『マッドウィメン/日本―韓国のフェミニスト・フォトグラファー,パク・ヨンスクの仕事を起点に―』ドキュメント・ブック,企画・構成:中西美穂(NPO法人大阪アーツアポリア),発行:NPO法人大阪アーツアポリア,2004年6月を参照。
*8 テレサ・ハッキョン・チャ 池内靖子訳『ディクテ 韓国系アメリカ人女性による自伝的エクリチュール』青土社,2003年。
*9 The Dream of Audience--Theresa Hak Kyung Cha(1951-1982), organized by the University of California, Berkeley Art Museum,2001.
*10 文末に掲げた展覧会データ参照。
*11 『あいだ』62号に報告が掲載された。高橋芙美子「混沌のなかから『越境する女たち21』メイキング・レポート」。また以下の報告書も出版。ウィメンズアートネットワーク実行委員会編『ドキュメント越境する女たち21展』,彩樹社,2001年。
*12 パク・ヨンスク,金善姫,ユン・ソクナム,嶋田美子らのショートトークと,堀内麻紀子,高橋芙美子,イトー・ターリのパフォーマンス,テレサ・ハッキョン・チャのヴィデオ上映。むろん単なる資金集めだけではなく,事前にアーティストや観客が互いに知り合い,交流し合う機会となることも企図されていた。
top

1 | 2 | 3

home