展覧会要旨


 わたしたちの社会、国家、個人の中にある「ボーダーライン」を考え、そのせめぎあいの上で「他者」と相互に応答することを試みます。

 「ボーダーライン」には「国境」「境界線」「(精神医学的な意味での)狂気と正気のはざま」という意味があります。2002年の光州ビエンナーレに「マッド ウーマン」シリーズを展示して注目されたパク ヨンスクの作品は、この「はざま」で不安定な位置を持たざるをえない女性を映し出しています。また韓国から米国に移住し、英語、フランス語を学んだテレサ・ハッキョン・チャは、ディアスポラとして国家の、言語の「はざま」でその揺れ動くアイデンティティを表現しています。尹錫男(ユン・ソクナム)は、韓国の家父長制社会のもと、日常にはりめぐらされた抑圧に沈黙を強いられ苦悩する女性たちの声を「母は19歳」というかたちに表出します。

 これらの作品に対峙して、わたしたちは自分たちの位置はどこにあるのか、この島国の国民国家でわたしたちは本当に確固としたボーダーラインに守られ、定義され、安定、安住しているのか、という疑問を突き付けられます。

 出光真子は、「自衛隊は軍隊になり、イラクへ出ていった」という昨今の状況と戦前の自らの幼少期とを重ねあわせ、市民生活と軍の動きの乖離を「直前の過去」として映像化します。嶋田美子は、プライベートなものと社会的なものとの緩衡地帯である家族に着目し、匿名の家族の隠蔽された闇、「家族の秘密」を公共へ引き出すことで、 マジョリティとマイノリティの歴史や物語を解体してみせます。イトー・ターリは、 民族や国家を構成しているマジョリティがマイノリティに抱く無意識的な「恐れ」に分け入りつつ、マイノリティとしての疑似カミングアウトという捻れの行為を通じて、民族差別や性差別を考えます。高橋芙美子は、「女性の表象」と私的な身体との 関係を、独特のペーソスに満ちた身ぶりによって顕在化させ、同時にその関係性をも逸脱していく彼方を暗示します。

 そしてまさにこの展覧会そのものが様々なジャンルの女性たちによって立ち上げられ、その各人が織りなす思考、表現行為によって成しとげられたという点でも、いわゆる「展覧会」の概念を揺り動かす境界線上にあるといえるかもしれません。こうして、わたしたちは日本の女性表現者として「ボーダーライン」への応答を提示し、観客とともに考えていきたと思います。


展覧会実施経緯


 F.A.A.B/Borderline Cases展実行委員会のメンバーが光州ビエンナーレ(2002、嶋田美子参加)、「東アジア女性と歴史」展(2002、FAN主催、嶋田美子、イトー・ターリ参加)にパク・ヨンスクと共に参加し、また「日韓ウィメンズアート交流」事業(2002、高橋芙美子、イト−・ターリ参加)では、受け入れ団 体であったFAN(フェミニスト・アーティスト・ネットワーク)の主要メンバーのパク・ヨンスク、ユン・ソクナムと親交を深め、ネットワークの輪を広げました。
 パクの「マッドウィメン・シリーズ」が2004年1月に大阪で展示され、滞在制作「マッドウィメン/日本」が行なわれ、東京では大阪で制作された作品展示とともに、現代日本社会に生きる女性たちの象徴的な行為や症状をモデルに演じてもらうことで資本主義の本質的なものをあぶりだしつつ、彼女たちの抱える問題を表象化する作品制作を行うこと計画しています。 
 また、F.A.A.B/Borderline Cases展実行委員会メンバー、池内靖子(立命館大教授)が故テレサ・ハッキョン・チャ(アーティスト)の著書「ディクテ」を翻訳、出版(2003年、青土社) 、ディアスポラとしての芸術表現という問題を考えるきっかけとなりました。チャの大々的な回顧展『観客の夢』がバークレー美術館、ソウルのサムジースペースで行われ、そこに出品されたビデオ作品Passages Paysages(1978)を今回上映します。
 これら二人のアーティストによる社会的、地政学的、言語学的なボーダーラインにおける女性の位置の表象に対し、日本の女性/アーティストとしてわたしたちはどう応答できるのか、と考えることがこの展覧会を企画するきっかけとなりました。


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□展覧会要旨
About the Show


参加アーティスト
Participating artists

関連企画