2015.11.23更新
印が主な更新個所です。)

■実践神学

「実践神学は神学の冠である。」(シュライアマハー)

0.全 体

山口隆康、『アブラハムと実践神学――聖書的<実践的神学>入門』(東神大パンフレット27)、東京神学大学出版委員会、1988、88頁、550円。
実践神学の概論ではなく、実践神学的考え方の紹介。アブラハム物語の一つの解釈としてもおもしろい。

神田健次、関田寛雄、森野善右衛門編『総説 実践神学』(T、U)(日本基督教団出版局、T:1989、536頁、U:1993、440頁)は、わざわざ買うほどのものではない。各章末の参考文献は少しは役に立つかも。さしあたって参考になりそうのは、Tの「老いの神学」(宍戸好子)、Uでは「第1章聖礼典と式文」(北村宗次)の礼拝順序の独特の考え方、「第2章結婚と葬儀」(飯沢忠)の葬儀の実例、第3章教会音楽(横坂康彦)くらい。

実践神学基礎論

シュライエルマッハー(加藤常昭訳)、『神学通論』、教文館、1962、196頁。
ハインリッヒ・ショルツの「解説」つき。加藤常昭はどこかで、死ぬまでにもう一度訳し直したいと言っていた。
「シュライエルマッハーが、その『神学通論』において、教会指導というきわめて実践的な課題を神学全体の組織原理とし、その結果神学そのものの実践的性格を明らかにするとともに、それまで時には神学体系から排除されようとしていた実践神学の位置を回復したことは有名なことである。ニッチがこれを受けて実践の客体としてばかりでなく、実践の主体としての教会という概念を明らかにし、ここに実践神学の学としての出発点が定まったとさえいわれる。加藤常昭「実践神学概観」、『日本の神学』No.2、1963、pp.132-143。
熊野義孝、『基督教概論』、1947。(『熊野義孝全集第6巻 キリスト教本質論』、新教出版社、1978)。
「第1篇 宗教としてのキリスト教」、「第2篇 特にキリスト教的なるもの」、「第3篇 福音的教会の理念」からなる。実践神学基礎論としては第2篇以降が重要か。
加藤常昭「教会の実践の学としての実践神学――聖霊論的視点から」(東京神学大学神学会編『神学』40号、1978、pp.131-152)
『神学』39号の「実践神学のパースペクティブにおける聖霊論」の続編として、実践神学体系の基礎構図を示すテーゼのみを列挙したもの。
「実践神学における実践とは、神の救済が地上的歴史的現実となる過程に参与せしめられる教会の実践である。」(テーゼ1.11)
「その実践の主体は教会である。その意味では、特に牧会者の実践を包括的に取り扱う牧会者の神学 theologia pastoralis, Pastoraltheologie とは、明瞭に区別されなければならない。」(p.132)
「今ここにおける救済の現実に参与する教会の実践が、その現実化をもたらす聖霊の働きと特に深い関わりを持つことは明らかである。その働きの場における神の働きと人間の働きとの関わりは、キリストにおけるそれとは異なった独自のものである。この聖霊の働きの中にあって実践する者の持つべき視点を、聖霊論的視点と呼ぶことにする。」(テーゼ2.22)

加藤常昭の実践神学基礎論に関わる論文は、「実践神学基礎論に関する試論」(『神学』20号、1961.2)が最初。その次は、たぶん、「実践神学概観」(『日本の神学――その成果と展望』2号、日本基督教学会、1963)。

加藤常昭『福音主義教会形成の課題』(今日のキリスト教双書15、新教出版社、1973)に、「実践神学のパースペクティブ」(初出は『神学』32号、1969)が収められている。また、加藤常昭『説教論』(日本基督教団出版局、1993)に次のものが収められている。「実践神学のパースペクティブにおけるキリスト論」(初出は『神学』36・37合併号、1975)、「実践神学のパースペクティブにおける聖霊論」(初出は『神学』39号、1977)。

1.礼拝学

讃美歌や教会音楽の分野はそれはそれでまた広い世界なので、今のところは取り扱わない。

1.0 事典、その他

岸本羊一、北村宗次編、『キリスト教礼拝辞典』、日本基督教団出版局、1977、427頁。
多くの項目が、礼拝学のために有用。しかし、目次に執筆者が記されていないのは残念。巻末に索引が付いているのはよい。加藤常昭「礼拝学」の項は、礼拝学とは何かについて示唆深い。比較的ページ数をとっている項目は、「改革派教会、長老派教会の礼拝」(岸本羊一)、「カトリックの典礼」(土屋吉正)、「旧約聖書における礼拝」(新見宏)、「讃美歌――近世の讃美歌」(原恵)、「詩篇(歌)」(北村宗次)、「初代キリスト教の礼拝」(松木治三郎)、「聖餐」(加藤常昭)、「聖務日課」(岸本羊一)、「リタージカル・ムーブメント」(岸本羊一)、「礼拝史の歴史」(北村宗次)、「礼拝式文書」(北村宗次)。
今橋朗、竹内謙太郎、越川弘英監修、『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、日本基督教団出版局、2006、522頁、9000円。
「事典、地図」の中の記事を見よ。

定期刊行物では、『礼拝と音楽』が重要。1955年4月〜月刊、1974年春〜季刊(あらためてNo.1〜)。

1.1 礼拝史

全 般

由木康、『礼拝学概論』、新教出版社、2011(初版1961)、318頁、2625円。
日本の礼拝学の草分け。これ以前の『基督教礼拝学序説』(基督教教程叢書第16編、日独書院、1936)を書き改め、1961年に「現代神学双書」の15番として出された(263+16頁、初版は480円)。1998年に「新教セミナーブック 20世紀の遺産」のシリーズで復刊(2625円)。さらに、2011年に新装版で松山與志雄の解説が付いた。
礼拝の起源から原始教会の礼拝、リタージの形成、教会暦の発展と、礼拝史をたどる。そして、正教会、ローマ教会、宗教改革期の礼拝式、その後のプロテスタント諸教派の礼拝を概説。最後に、「現代における礼拝運動」と日本の礼拝式の諸問題。付録に、ドイツ福音教会の式文とフランス改革教会の式文。
礼拝には預言者的傾向と祭司的傾向が共存していると分析。じゃあ、王的は? 「祭司的原理と預言者的原理の緊張関係において礼拝史を分析し、さらにそれによって現在の礼拝を再組織しようとする態度には、神学的原理の考察が不足しているように思えてならない。」加藤常昭「実践神学概観」、『日本の神学』No.2、1963、pp.132-143。
W.ナーゲル(松山興志雄訳)、『キリスト教礼拝史』、教文館、1998(19702)、352頁、3700円。
新約聖書時代から現代までの教科書という感じで良い。カルヴァンとその前後については簡単過ぎる感じがするが。巻末に礼拝用語小辞典あり。
J.F.ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教礼拝の歴史』、日本基督教団出版局、2002(1993)、306頁、5200円。
新約聖書の時代、初期教会(Early Christian Centuries)、中世、宗教改革期、近現代の5章と第6章「キリスト教礼拝の未来」。多様な人々が混在して礼拝における広大な実験場となっていて、また、この礼拝体験の多くが宣教師たちを通じてラテン・アメリカ、アフリカ、アジアに輸出されていった「1990年代の北アメリカの『視点』から記されている」(p.6-8)。

礼拝史全般としては他に、ウィリアム・ウィリモン(越川弘英訳)『言葉と水とワインとパン――キリスト教礼拝史入門』(新教出版社、1999、2600円)。カトリックの日本人の著作としては、土屋吉正『ミサ――その意味と歴史』(あかし書房、1977、281頁)。第一部でミサの意味を説明し、第二部で初代教会から第二バチカンまでを概観。

オード・カーゼル(小柳義夫訳)、『秘儀と秘義――古代の儀礼とキリスト教の典礼』、みすず書房、1975。

その他、異色のものとして、江藤直純、宮越俊光編、『人物でたどる礼拝の歴史』、日本基督教団出版局、2009、264頁、3150円。26項目。主要な事項を網羅しているわけではなく、読み物。しかし、ルターと共にブーゲンハーゲンを挙げて、彼の「ブラウンシュヴァイク教会規則」(1528)を紹介するなど、他の文献ではほとんど出てこない内容もある。

古代イスラエル

W. ブリュッゲマン(大串肇訳)、『古代イスラエルの礼拝』、教文館、2008、188頁、1995円。
著者は、現代聖書注解の創世記のブルッグマンと同じWalter Brueggemann。「現代アメリカのリタージカル・ムーブメントを背景にした、旧約聖書の礼拝研究」(小友聡による書評、『本のひろば』2008.8)。「第一章 正統的ヤハウェ信仰の対話的構造」、「第二章 礼拝と犠牲における動作」、「第三章 礼拝におけるヤハウェの語り」、「第四章 礼拝におけるイスラエルの語り」、「第五章 礼拝――「遊び」におけるイスラエル」

初代教会

2010.10.20全面的に更新

初代教会の典礼については、J.A.ユングマン『古代キリスト教典礼史』(石井祥裕訳、上智大学中世思想研究所監修、平凡社、1997(1967)、382頁、4500円)がある。ユングマンは現代の礼拝学の権威。オスカー・クルマン『原始キリスト教と礼拝』(由木康、佐竹明訳、聖書学叢書5、新教出版社、1957(1950ドイツ語版第2版))も重要。

フェルディナント・ハーン(越川弘英訳)、『新約聖書の礼拝――初期教会におけるその形を尋ねて』、新教出版社、2007(1970)、180頁、2100円。
第1章 問題、第2章 旧約聖書とユダヤ教における礼拝、第3章 礼拝に対するイエスの姿勢、第4章 初期キリスト教における礼拝の基盤、第5章 アラム語を語る初期の共同体における礼拝、第6章 ヘレニスト・ユダヤ人のキリスト教における礼拝、第7章 初期の異邦人のキリスト教における礼拝、第8章 使徒後の時代における礼拝、第9章 使徒教父及びユスティノスにおける礼拝、第10章 結論。
「本書は礼拝順序や式文形成の問題に直接的な答えを与えるものではない。(しかし)現実の礼拝の姿を反省する聖書的視点を提供してくれるにちがいない。」勝田英嗣による書評、『本のひろば』2007.7。
ポール・F. ブラッドショー(荒瀬牧彦訳)、『初期キリスト教の礼拝――その概念と実践』、日本基督教団出版局、2006(1996)、212頁、2500円。
初代教会がどのような儀式を行ったかのみならず、なぜそれを行ったかを説明する。「入信儀礼」、「ユーカリスト」、「典礼の時間」の三部から成る。
「ブラッドショーを読んでいて愉快なのは、「この儀式の正しいやり方はこうで、その根拠はここにある」といった仕方で安易に特定の伝統のみを正当化し、他の伝統を軽んじるような"エセ権威"が、音を立てて打ち砕かれていくことである。」「訳者あとがき」、p.205。
山田耕太、『新約聖書の礼拝――シナゴーグから教会へ』、日本基督教団出版局、2008、224頁、2520円。
序論として、新約聖書時代のユダヤ教の礼拝と、キリスト教の礼拝の概略。本論として、信仰告白、洗礼、聖餐、職制。結論として礼拝の意義について総括する。幼児洗礼の問題と陪餐者の問題が付加的に論じられているとのこと。
越川弘英の書評によれば、本書は概して新約時代の礼拝とそれ以降の礼拝の転会を体系的に論述することに比重を置いているように思えるが、これと対峙するのがブラッドショーで、彼は統一性よりも多様性を重んじるとのこと。
小友聡によれば、「新約の礼拝について聖書学的に基本的な考え方を教えてくれる・・・。旧約やユダヤ教との関連や、使徒教父文書についても丁寧に説明してくれる」とのこと(『キリスト新聞』、2009.2.14)。

中 世

J.ハーパー(佐々木勉、那須輝彦訳)、『中世キリスト教の典礼と音楽』、教文館、2000、339+61頁、3800円。
原著は John Harper, "The Forms and Order of Western Liturgy," 1991. 中世と言いつつも、10世紀からトリエント公会議まで(したがって第二バチカン前まで)の礼拝式(典礼)の紹介と解説。「典礼と音楽」とタイトルにあるが、とりわけ音楽に焦点が当てられているというわけではない。及び、英国国教会の礼拝式までを含む。なぜ英国国教会がここに含まれているかというと、プロテスタントの中で英国国教会のみがカトリック教会の典礼に匹敵する成分典礼を確立したから。原著ではさらに「中世の典礼の再構成を試みる際の手引きとして、中世の典礼書の現代校訂版やファクシミリ版の内容と構成を詳説した実践編がある」(「訳者あとがき」、p.333)が、専門的すぎるため邦訳では割愛された。巻末には訳語対照表、用語集、文献など豊富。付録に「教会歴上の主要な典礼季節と祝日」、「詩編唱集」、「頻出する聖歌の歌詞対訳」。
第一部西方教会における典礼
序 章典礼とは何か
第一章キリスト教会の典礼の形成――歴史的概要
第二章中世の教会と典礼
第二部中世の典礼
第三章典礼暦年と教会歴
第四章典礼のための諸書
第五章詩編と詩編唱集
第六章聖務日課
第七章ミ サ
第八章行列とそのほかの付加的な儀式
第九章聖週間と復活祭
第三部宗教改革以降
第十章トリエント改革
第十一章英国国教会の典礼(1549-1662年)

プロテスタント

V.ヴァイタ(岸千年訳)、『ルターの礼拝の神学』、聖文舎、1969。
H.G.ヘイゲマン(矢崎邦彦、高橋隆教訳)、『礼拝を新たに』、日本基督教団出版局、1995(1962)、242頁、2800円。
原題は、"Pulpit and Table"。改革派の礼拝史をたどることを通して、現代の改革派教会の礼拝をどう整えていくかを探る。「第1章 二つの源流」でツヴィングリとカルヴァンの礼拝式を概観。「第2章 闇の時代へ」でその後のウェストミンスター神学者会議からシュライエルマッハーまでの時代は、経験主義と合理主義によるリタージ不毛の時代であったことを指摘。

1.2 礼拝論

レイモンド・アバ(滝沢陽一訳)、『礼拝――その本質と実際』、日本基督教団出版局、19611,19966(1957)、242頁、1650円。
1992年の第4版から新装版。イギリスの非国教会の立場からの礼拝論。しかし随所で国教会祈祷書を引用している。第1章「礼拝の原理」がなかなかしっかりした礼拝本質論、第2章「起源と発展」が簡潔な礼拝史。それ以降、御言葉、祈り、賛美、聖礼典について。礼拝順序とその意味を学ぶ上でも重要。
J.G.デーヴィス(岸本羊一訳)、『現代における宣教と礼拝』、日本基督教団出版局、1968(1967)、276頁。
第3章「不適当な宣教概念」で語る著者の見解ははたして適当か?
ウィリアム・デルバート・マックスウェル(勝田英嗣訳)、『改革派教会の礼拝』、一麦出版社、2002(1948)、254頁、2400円。
原題は、"Concerning Worship"。スコットランド教会の礼拝論、礼拝の構造、指針など。補遺A「祈りの様式」は、公祷、集祷、招祷、連祷などの形式が実例豊富で詳しい。補遺Bは「牧師の衣装」。

J.E.バークハート『礼拝とは何か』(越川弘英訳、日本基督教団出版局、2003、208頁、3800円)は、礼拝は実生活のリハーサルであり、キリスト者の生活のモデルであると説いているらしい。

『礼拝と音楽』No.121(日本基督教団出版局、2004春)は、改革教会の礼拝の特集。この中に藤崎三牧によるブックガイドあり。

近藤勝彦、『礼拝と教会形成の神学』、ヨルダン社、1988。この第一章が「礼拝の神学」として「最高の行為としての礼拝」、「バイオフィラスな神」、「礼拝の神学」、「感謝について」、「犠牲について」を収録。

G. D. レーマン「現代の礼拝はなお一つ欠く――プロテスタント礼拝の起源と展開に学ぶ」 (『神学』59号、1997)は、罪の告白の祈りが宗教改革における礼拝改革から欠かせなかったのに対し、日本の礼拝にこれを書いている問題を指摘。

1.3 最近の邦訳

2010.10.20全面的に更新

ウィリアム・ウィリモン(William H. Willimon)

ウィリアム・ウィリモン(越川弘英、岩見育子訳)、『礼拝論入門――説教と司式者への実践的助言』、新教出版社、1998(1984)、165頁、1800円。
原題は"Preaching and Leading Worship"(説教と礼拝指導)。礼拝について論じたというよりも、牧師が牧師であるがゆえに果たさなければならない説教と礼拝指導についての実践ガイド。礼拝順序を変更する場合の注意、会衆の礼拝参加、礼拝の中の祈りについて、洗礼と聖餐について。そして説教について。聖書日課と教会暦を重視する。びっくりしたのは、「教会はパンの製法を記したレシピを会衆の家庭に示すべきであろう。そうして教会員の家庭で焼かれたパンが日曜日の朝に礼拝堂に置かれるならば、誰でも聖餐式の意味を理解できるようになる」だって。
越川弘英訳、『言葉と水とワインとパン――キリスト教礼拝史入門』、新教出版社、1999、228頁、2600円。
越川弘英訳、『牧会としての礼拝――祭司職への召命』、新教出版社、2002、307頁、3300円。
洗礼・聖餐・葬式・結婚式など礼拝をめぐる様々な場面での牧会的配慮について。

ウィリモンの礼拝学以外の著作には、『現代聖書注解』の使徒言行録(中村博武訳、1990)、R.リシャーと共編『世界説教・説教学事典』(加藤常昭責任監訳、日本基督教団出版局、1999)、S.ハワーワスと共著『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』(東方敬信、伊藤悟訳、教文館、1999)、S.M.ハワーワスと共著『神の真理――キリスト教的生における十戒』(東方敬信、伊藤悟訳、新教出版社、2001)、S. ハワーワスと共著『主の祈り――今を生きるあなたに』(平野克己訳、、日本基督教団出版局、2003)、『洗礼――新しいいのちへ』(平野克己訳、日本基督教団出版局、2006)がある。

J. F. ホワイト(James Floyd white) 1932-2004.10.31

J. F. ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教の礼拝』、日本基督教団出版局、2000(19902)、464頁、6500円。
原題"Introduction to Christian Worship," 初版1980。原著は第三版が2000年に出ている。エキュメニカルな礼拝の歴史と神学。「第1章 キリスト教礼拝とは何か」、「第2章 礼拝と時間」、「第3章 礼拝と空間」、「第4章 聖務日課」、「第5章 み言葉の礼拝」、「第6章 サクラメント――目に見える神の愛」、「第7章 入信儀礼」、「第8章 ユーカリスト」、「第9章 通過儀礼――人生の旅路と通過点」。
「現象学的視点を踏まえつつ礼拝の基本的な構造(時間と空間)と諸式を組織的体系的に論じている。」(越川訳『キリスト教礼拝の歴史』の「訳者あとがき」、p.296。)
越川弘英訳、『キリスト教礼拝の歴史』、教団出版局、2002、306頁、5200円。
原著は"A Brief History of Christian Worship," 1993. 邦訳はページ数の割に値が高い。
J. F. ホワイト(越川弘英監訳、プロテスタント礼拝史研究会訳)、『プロテスタント教会の礼拝――その伝統と展開』、日本基督教団出版局、2005(1989)、458頁、6090円。

その他

フランクリン・M・セグラー、C・ランドル・ブラッドリー(鳥山美恵、大谷レニー、松見 俊訳)、『キリスト者の礼拝――神学と実際』、キリスト新聞社、2009、370頁、4620円。
原著初版1967年。翻訳は2006年の第3版から。主にアメリカのバプテスト系の神学校で礼拝学の標準的な参考書として用いられてきた書であるとのこと。「第T部 礼拝の意味」として、礼拝とは何か、聖書的基盤、歴史的背景、礼拝の神学、礼拝の心理学、礼拝・再生・世界、共同体(コミュニティー)と礼拝、ポストモダニズムと礼拝。「第U部 礼拝を表現する」として、音楽、祈り、言葉によるコミュニケーション、学習スタイルと礼拝、こどもと礼拝、バプテスマと主の晩餐、その他の行為、シンボルの用い方、建築と音響効果、教会暦、芸術、通過儀礼。「第V部 礼拝の計画と実践」として礼拝式順の計画、礼拝を導く、礼拝の変化への取り組み。その他、聖書朗読の仕方や自由祈祷の公同の祈りをどう祈るかとかも。リーダーシップに関する記述もなされているらしい。
ダンカン・B. フォレスター、J. イアン・H. マクドナルド、ジャイアン・テリニ(桑原昭訳)、『神との出会い――現代の礼拝論』、一麦出版社、2012、304頁、5040円。
原著は"Encounter With God: An Introduction to Christian Worship and Practice". フォレスターは南インド教会で教師に任職、後に英国の大学のチャプレン。マクドナルドはスコットランド教会の教区牧師から大学で教えるようになった。テリニはローマ・カトリック教会の司祭で、東方正教会のリタージーを研究したが、後に英国教会に移った。この三人が議論を交わしながら共同で執筆。
第1章では「礼拝は実際に形を取って行われる」とか「礼拝と信仰」、「礼拝と共同体」など。第2章は「キリスト教の礼拝の起源」として、旧新約における礼拝観と教父らにおける礼拝、第3章は、「キリストの体の礼拝」とか人間論とか。第4章は「御言とサクラメント」、第5章は説教について、第6章は祈祷について、第7章は「キリスト者になるということ」、第8章は「キリスト者としての形成」として洗礼、命の成長・発育と共同体など、第9章は聖餐論、第10章は「礼拝と牧会」として結婚式や葬儀も、第11章は「現代世界における礼拝」として、「礼拝の危機」、「今とこれからのキリスト教の礼拝」など。
H.O.オールド(金田幸男、小峯昭訳)、『改革派教会の礼拝――その歴史と実践』、教文館、2012、336頁、3045円。
原題は『礼拝――聖書によって改革される』。改革派の礼拝に限らず、聖書、古代、中世、宗教改革、近現代の時代ごとに、洗礼、主の日、賛美の務め、御言葉の務め、祈りの務め、主の晩餐、日々の祈り、施し、伝統と実践についてまとめられている。

1.4 どちらかというと信徒向けの礼拝の解説

竹森満佐一、『礼拝――その意味と守り方』(東神大パンフレット4)、東京神学大学出版委員会、1972、74頁。
まず読むべき、そして最も手っ取り早く読める小著。信徒向けでもあるが重要。礼拝とはそもそも何かから始まって、具体的礼拝式順や礼拝者、礼拝当番の心得まで。冒頭に書かれている、礼拝前のゴルヴィッツァーの祈りの姿勢は有名。
越川弘英、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、キリスト新聞社、2004、238頁、1600円。
第一部は礼拝の意味、第三部で礼拝の流れに沿って解説。
山下萬里、『豊かな礼拝を願って 主の栄光へ向かう群れ』、ヨベル、2004、253頁、1800円。
山下萬里(1924.6.12-2004.1.18)。
小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004、167頁、1400円。

その他、感心できるかどうかわからないが、最近の日本人の著作として、岸本羊一『礼拝の神学』(日本基督教団出版局、1991、298頁)は、主に雑誌『礼拝と音楽』に寄せた論文集。森野善右衛門『礼拝への招き』(新教出版社、1997、249頁、2500円)。今橋朗『礼拝を豊かに――対話と参与』(日本基督教団出版局、1995、224頁、1400円)。

賀川純基『礼拝って何?――聖書・歌・そして祈り』(キリスト新聞社、1998、242頁、1450円)は礼拝の中の音楽に関することが中心。記述に重複が多い。「礼拝って何?」は読む必要なし、「音楽って何?」も必要なし、「会衆のさんびと聖歌隊」は聖歌隊の務めについてまあ参考になった。「詩編」は読む必要なし。「礼拝の歌」ではアーメンがいつからW-T進行なのかについての記事(pp.169-174)だけ興味深い。「信仰生活」も寄せ集めという感じ。「愛餐のすすめ」も読む必要なし。多く聖書が引用されているので、賛美に関する聖書箇所を知るには参考になるだろう。歌うことが持っている性質として、礼拝、伝道(著者は「宣教」と表現しているが)、信仰継承の三つを挙げている。私は交わりや信仰の養いも挙げたいところだが。

その他、J.マッコリー(大隅啓三訳)『礼拝と祈りの本質』(ヨルダン社、1976(1972)、227頁)は、タイトルに惹かれて読んだが、名前負けしている。自然主義的汎神論的神秘主義的霊性論からの聖餐論。まあ、おもしろく読みやすい。霊性は個人的ではなく共同体的であり、その中心は、聖餐における神の現臨のリアリティである。神学と霊性の関係、礼拝刷新運動の問題にも触れる。

1.5 諸教派の礼拝の特徴の比較・概観

2010.10.20全面的に更新
ポール・バスデン(越川弘英、坂下道朗訳)、『現代の礼拝スタイル――その多様性と選択を考える』、キリスト新聞社、2008、220頁、2625円。
原著は"The worship maze: finding a style to fit your church," 1999. 第1部は「問題の所在」として、「礼拝とは何か」、「礼拝と教会成長の関係」、「礼拝のスタイルとは何か」。第2部は「礼拝のスタイル」として、現在の北米の礼拝スタイルをリタージカル、トラディショナル、リヴァイヴァリスト、プレイズ・アンド・ワーシップ、シーカー・サービスの5つに分類して考察。第3部は「これからの課題」として「礼拝スタイルの選択」、「礼拝の諸要素について」、「礼拝に備えるために」。
J. F. ホワイト(越川弘英監訳、プロテスタント礼拝史研究会訳)、『プロテスタント教会の礼拝――その伝統と展開』、日本基督教団出版局、2005(1989)、458頁、6090円。
訳者は、荒井仁、後藤正敏、鈴木脩平、高橋恵一郎、棟方信彦、坂下道朗。ローマ・カトリックの礼拝を踏まえ、プロテスタントの9つの教派の礼拝を解説。最後に、プロテスタントの礼拝の未来を語る。
『シンポジウム 礼拝論』(東神大パンフレット20)、東京神学大学出版委員会、1981、147頁。
1980年の東京神学大学教職セミナーでの講演集。竹森満佐一の主題講演の後、カトリック:土屋吉正、正教会:高橋保行、ルター派:徳善義和、改革派:吉岡繁。
なかなかおもしろい。土屋は、第二バチカン以降のカトリックの教会論の傾向を紹介。高橋は、正教会は生活の中での体験を重視しており、また西方のようなスコラ哲学、ルネサンスの影響、宗教改革などを経験していないため、アカデミックに体系化された教会論は無いとしつつ、個人的な見解として正教会の教会観を披露。八代は、聖公会綱憲の四項目から聖公会の教会観を解説。徳善はアウグスブルク信仰告白の第7条を教会の機能規定と捉えて、「教会は目に見えないものであって、同時に目に見える」とする。榊原は改革派・長老派の特徴のみならず、改革派と長老派の違いを語る。泉は無教会には教会がないので歴史がない問題を提起。

1.6 カトリック

2010.10.20全面的に更新
土屋吉正、『礼拝の刷新』、オリエンス宗教研究所、1968。
国井健宏、『ミサ――イエスを忘れないために』、ドン・ボスコ社、2005、88頁、683円。
「エウカリスチア」の三つの意味をたどりながらミサの真の目的を示す。
ヨセフ・ラッツィンガー(濱田了訳)、『典礼の精神』(現代カトリック思想叢書21)、サンパウロ、2005、264頁、2310円。
著者は教皇ベネディクト16世。典礼の本質、典礼における時間と空間、聖画像と音楽など。
国井健宏、『ミサを祝う――最後の晩餐から現在まで』、オリエンス宗教研究所、2009、241頁、2310円。
第一部は最後の晩餐を起点に初代教会が成長し、感謝の祭儀がいかに形成され、変遷を経て刷新に向かうまでの過程を追う。第二部では現在のミサの構成とその意味を掘り下げる。とのこと。

1.7 礼拝式文と順序の実際

もちろん、由木康『礼拝学概論』やナーゲル『キリスト教礼拝史』も見る。

ルター

ルターの礼拝順序に関わる著述については、前田貞一「ルター派の礼拝」(『キリスト教礼拝辞典』pp.369-373)にまとめられている。ナーゲル『キリスト教礼拝史』のpp.158-169も。

重要な二つ「フォーミュラ・ミサ」(1523)と「ドイツミサ」(1526)の礼拝順序を簡便にわかりやすく並べたものが、徳善義和「ルターと讃美歌2 信仰改革は礼拝改革へ具体化」(『礼拝と音楽』158号、2013夏、p.54)にある。

「ドイツミサ」は各地のルーテル教会で定着を見ず、『ミサと聖餐の原則』〔フォーミュラ・ミサ〕がやがてドイツ語の形で定着し、各地に広まっていき、その後宗教改革の広がりに伴って、各国語で行われるということになった。徳善義和「礼拝の始まり――宗教改革期の諸教会の礼拝」(『礼拝と音楽』149号、2011春、p.25)

1."Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine," 1523の聖霊降臨日。
WA, 12, 35ff. Cl, 2, 424ff. ドイツ語。何かの本で、"Von der Ordnung des Gottesdienstes in der Gemeinde"という現代のドイツ語で表記を見た。訳すと「教会における礼拝の順序(秩序)について」。邦訳は、青山四郎訳「会衆の礼拝式について」(『ルター著作集第一集第五巻』p.269-)。日本語訳で本文わずか5頁の「短いパンフレット」。
礼拝における神の言葉の回復を訴えている。「神の言が説教されなければ歌いも朗読も集まることもしないほうがましである」(p.276)。
2."Formula Missae et Communionis," 1523末.
WA, 12, 205-220. Cl, 2, 427-441. ラテン語。一般に「フォーミュラ・ミサ」と言われている。エルランゲン版では"Formula Missae et Communionis pro Ecclesia Vittembergensi"「ヴィッテンベルク教会のためのミサと聖餐の定式」。邦訳は、青山四郎訳「ミサと聖餐の原則」(『ルター著作集第一集第五巻』p.281-)。あるいはこれをもとに鈴木浩、湯川郁子によって改訂されたものが『ルター著作選集』(教文館、2005)のpp.437-460(巻末に簡単な解題あり)。1523年11月に書かれ、12月に出版された。
自国語の讃美歌の必要などを述べているようだが、基本的にラテン語による式文である。それは、それに代わるドイツ語のものがまだないためである。この点は「ドイツミサと礼拝の順序」の中でも言及している。アバ『礼拝』や由木康『礼拝学概論』によれば、「在来のミサを簡素化しただけの代わりばえのしないもの」らしい。W.D.Maxwellが最初にそう評価したようだ。
しかし、後の「ドイツ・ミサ」と共に、ルター派の礼拝を方向付けた。「フォーミュラ・ミサ」は「ドイツ・ミサ」によって廃止されることなく、週日のミサとして残された。それは、人々を当時の世界語であるラテン語に精通させたいと考えていたからである。(由木康p.142、ナーゲルp.165fなど)
3."Eine christliche Vermahnung von äußerlichem Gottesdienst und Eintracht an die in Livland," 1525.
このタイトルは、K先生に教えていただいた。前田貞一は、"A Christian Exhortation to the Livonians Concerning Public Worship and Concord"という英語タイトルを記している。ナーゲル『キリスト教礼拝史』では全く触れられていない。『ルター著作集』(聖文舎)にないので、たぶん邦訳なし。ということは、あまり重要ではないのか。
4."Deutsche Messe und ordnung Gottis dienst," 1526元旦.
WA, 19, 72ff. Cl, 3, 294ff. いわゆる「ドイツ・ミサ」。表紙の写真がナーゲル『キリスト教礼拝史』p.167にあり。邦訳は、青山四郎訳「ドイツミサと礼拝の順序」(『ルター著作集 第一集第六巻』、聖文舎、1963)、または、小島潤訳「ドイツ語のミサ」(『ルター篇』、新教出版社、1956)。さらに古いが、石原謙「ルターの『ドイツ・ミサ』」(『石原謙著作集 第6巻 宗教改革U』、岩波書店、1979のpp.196-216。元は、日本神学校神学会編『神学と教会』第3巻T、1936.10、pp.1-22)にも序文と「礼拝について」と最後の結びの部分の訳あり。
「プロテスタント教会最初の自国語による礼拝式として貴重なもの」(青山四郎の解説)。自国語の礼拝の必要を説きつつ、カールシュタットの急進的な礼拝改革をいさめている。しかも、礼拝の形式も言語もそれ自体がまったく絶対化されてはならず、福音の自由を妨げてはならないことを強調する。また、「グレゴリアン・チャントとともにドイツコラールが礼拝の中で重要の位置を占めるようになった最初のもの」。
礼拝順序は、人を縛り付けるのではなく、キリスト教的自由によって状況に適合させよ。祭服、祭壇、燈明は、それらがすべて廃れるか、あるいは廃止したいと思うようになるまで残しておこう。特に祭壇は残しておくべきではないが、今はその時が来るのを待とう。ドイツ語の讃美歌を十分に持つようになるまでは、これまでどおりラテン語で礼拝すべきである。すべての礼拝順序は、そこから弊害が生じれば直ちに廃止して、別のものを作らなければならない。どんなによい礼拝順序でも、それが濫用されることはあり得るからだ。礼拝順序の生命は、その正しい使用にある。
ちなみにルターは、礼拝で使用するにふさわしい、福音的で自国語の讃美歌がないとなると、自分で讃美歌を作り、賛美歌集を編纂した。

カルヴァン

2015.11.23全面的に更新

渡辺信夫訳「礼拝式文」が『カルヴァン篇』(キリスト教古典叢書8、新教出版社、1959)に収録されている。欄外の記号によって、1542年ジュネーヴ版、1542ストラスブール版、1545年ストラスブール版、1559年ジュネーヴ版が分かるようだ。これらのうち重要なものは、1545ストラスブール版。

はじめ、1536年、ファレルに請われてジュネーヴに留まっていたとき、ファレルによって1533年に初めてフランス語で書かれた礼拝式文を用いていた。

1538年にジュネーヴを追放されストラスブールに来ると、ブーツァーのドイツ語礼拝に出会った。これは、シュヴァルツが1523年に始めたドイツ語ミサに修正を加えてきたものだった。カルヴァンはジュネーブのフランス人教会のために、これをフランス語に訳し多少修正を加えて用いた。

1541年にジュネーヴに戻ると、ジュネーヴで用いられていたツヴィングリの礼拝様式に替えて、ストラスブールで行った礼拝を導入した。これに基づいて作成されたのが1542年のジュネーヴ教会の式文である。

1542(ジュネーヴ)
タイトルは、『初代教会の慣習に従った、祈りと教会的詠唱のための様式:礼典の執行と結婚の聖別の方式』(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』2006のp.488の出村彰執筆の項目より)。もっと全部記すと、「フランス人教会において、説教の前後になされる祈祷の儀式。ならびに同じ教会において歌われるフランス語詩編・賛美歌。つづいて洗礼と主の聖餐の聖礼典を執行する順序と方式、また信徒の集まりの前で結婚をし、婚姻を確認する順序と方式。洗礼と聖餐の説教を付す。」(久米あつみ「カルヴァンと典礼」、『礼拝と音楽』121号、2004春、p.11)。簡単に言うと、「祈りと歌唱の方式」(出村彰「カルヴァンの流れを受け継いで――宗教改革から今日まで」、『礼拝と音楽』121号、2004春、p.9)。
1545(ストラスブール)
タイトルは、1542ジュネーヴ版と同じ。
J.H.リース『改革派教会の伝統』(吉田信夫訳、新教出版社、1989)のp.222以降にも解説あり、特に1545ストラスブール版の礼拝順序あり。1545年版は後藤憲正『改革派教会の礼拝』(大森講座2、1987)にもあり。渡辺信夫『カルヴァンの教会論』(改革社、1976、pp.136-142)にも紹介あり。
1545年ストラスブール版は、あらためてストラスブールの教会ために作成されたもので、「カルヴァンの礼拝に対する意図が最も完全に述べられていると考えてよいだろう」(リース『改革派教会の伝統』p.224)。1545年ストラスブール版の1542ジュネーヴ版との違いは、「罪の赦しの保証と十戒が含まれ、執り成しの祈りと聖餐の祈りが分離され、食卓を囲むことが強調されている」ことである。(リース『改革派教会の伝統』、p.224)
1559(ジュネーヴ)
1559年ジュネーヴ版は若干の部分にわずかの改訂がなされたのみ。
1562年最終版のジュネーヴ教会の礼拝順序については、秋山徹「カルヴァンのジュネーヴ教会の礼拝」in 『礼拝と音楽』No.142、2009夏号、pp.18-22。
「ここでは聖餐は、礼拝行為の不可欠な部分であると考えられており、その必要性は、それが執行されない時ですら、礼拝の構造を決定しなければならないほどなのである。・・・カルヴァンは、伝統的な要素や儀式をほとんどすべて破棄したが、彼は注意深く、礼拝様式の伝統的な形を保存したのであった。」(ヘイゲマン『礼拝を新たに』、p.39,55)

マンシュレック編(平井清訳)『改革者の祈り』(新教新書)の中に、参考になるカルヴァンの祈りがいくつか収められている。説教前の祈り(p.7,9,57)、感謝と献身(p.12)、罪の告白・悔い改め・赦しの求めの祈り(p.30,34,35,40-43,46,53,61,63,80-88など)、聖餐感謝(p.159)、洗礼(p.163)など。特にp.46の祈りは礼拝式文の中の罪の告白の祈りと同一である。

久米あつみ『カルヴァンとユマニスム』(お茶の水書房、1997、10+256+6頁)は、「カルヴァンの思想と働きを文化の地平で捉えた」もので、教育、典礼と音楽、ことば、富の問題、労働、政治、そしてレトリックを扱う。最後の「カルヴァンとレトリック」のみ書き下ろしで、それ以外は基督教共助会の『共助』1992.2〜1995.2に断続的に連載されたもの。この中の「典礼と音楽」でカルヴァンの礼拝の音楽や式文について述べられている。後の改革派の礼拝は4〜5時間続き、牧師は後から到着、信徒はそれまで礼拝中うろついてはいけないというような話も出てくる。出村彰による書評が『日本の神学』No.37、1998、pp.94-99にあり。本文pdfファイル

改革派系

改革派・長老教会の流れにある教会の礼拝形式には、チューリッヒでのツヴィングリによるものと、ジュネーヴでのカルヴァンによるものとの二つの源流がある。

後藤憲正、『改革派教会の礼拝――第1部・礼拝式の構造』(大森講座2)、新教出版社、1987、142頁。
歴史的な礼拝の構成にしたがって、第1章「み言葉のリタージ」(聖書朗読と説教を中心とする)と第2章「信仰者のリタージ」(聖餐を中心とする)に分けて解説。第1章は、ブッツァー(1539)、カルヴァン(1545)、ノックス(1556)、ロードのリタージ(1637)、ウェストミンスター礼拝指針(1645)、スコットランド教会(1940、1979)、アングリカン教会(1549、1552)、サヴォイ・リタージ(1661)、アメリカ長老教会(1970,77)の礼拝式順。
それにしても、「御言葉のリタージ」と「信仰者のリタージ」とをあっち見たりこっち見たりしなければならないのがめんどくさい。これは、「カルヴァンの意図に反するだけではなく、改革教会の伝統にもふさわしくない。叙述上の便宜という理由では正当化できないと思う。」(加藤常昭「礼拝史の視点」、『季刊教会』No.1、1990.11、p.8)
ウェストミンスター礼拝指針(1645)
松谷好明、『ウェストミンスター礼拝指針――そのテキストとコンテキスト』、一麦出版社、2011、280頁、3570円。第1部が成立の経緯と概要、特徴や意義、第2部が歴史的系譜として初代教会から始まってイングランド教会、スコットランド教会の礼拝史、第3部が「ウェストミンスター礼拝指針――本文と註」。参考資料として「家庭礼拝の指針」もあり。この第三部を抜き出したものが、『ウェストミンスター礼拝指針――本文と注』、一麦出版社、2011、130頁、1470円。
これ以前には、松谷好明『ウェストミンスター神学者会議の成立』(自費出版1992、1997年以降一麦出版社、469頁)の第五章二に全文の和訳があった。この本の「はじめに」では『キリスト教大事典』の「ウェストミンスター会議」の項や『信條集 後篇』の解説、『新キリスト教辞典』の「ウェストミンスター信仰規準」の項の不正確さを指摘していて興味深い。
アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003(1988)、120頁、1200円。
RCAの1987年の式文に、礼拝指針(Directory for Worship)を加えたもの。巻末に、磯部理一郎による解説あり。その中に、宗教改革者たちの礼拝順序(『キリスト教礼拝事典』に基づく)、スコットランド教会(SBCP1637、ウェストミンスター1645、BCP1940、BCP1979、"The Order of Public Worship"1994)、PCUSA(1993)、RCA(1906、1968)がある。
"Directory for Worship" の原文
1987年の式文 "Order of Worship for Lord's Day" の原文(PDF)
RCAの式文のページ
RCAの式文は、20世紀になって、1906、1968、1987と改訂されてきた。
W. ジャンセン「アメリカ改革派教会における礼拝の祝い」(『季刊教会』、51号、2003.6)に解説がある。この論文は、リタジーとは何かについて示唆深い。「礼拝順序はリタジーの一部分にしか過ぎない。・・・礼拝順序が書かれていなくても、又、順序が突然に変わったりする事があっても、それも確かにリタジーである」。また、リタジーと教会の将来についてこう語る。「独自の伝統を第一にする教会には将来がない」。

その他、この「礼拝学」の項で取り上げている各書。G.D.レーマン「現代の礼拝はなお一つ欠く――プロテスタント礼拝の起源と展開に学ぶ」(『神学』59、1997)は重要。特に、罪の告白と赦しについて。

英国国教会、聖公会

祈祷書(The Book of Common Prayer)
第一祈祷書、1549年。
第二祈祷書、1552年。
第三祈祷書、1559年。
第四祈祷書、1604年。
第五祈祷書、1662年。
日本聖公会の祈祷書(主要なもの)
「『聖公会祈祷書』の淵源をたどると、1878年(明治11)頃刊の、C.M. ウィリアムズ編訳『朝晩祷文』に達する。これは、日本の聖公会の祈祷書が英国系と米国系の混乱を防ぐために、ウィリアムズが両国の母教会の祈祷書から編纂・翻訳したもので、朝祷文・晩祷文・リタニーを含んでいる。
 次いで1879年(明治12)の『聖公会祷文』は、・・・朝晩祷文に聖餐式、洗礼式、公会問答、堅信式が加わった。さらに、1883年(明治16)に増補版が刊行され、これが1887年日本聖公会第一回総会で公認された。」秋山憲兄『本のはなし』新教出版社、2006、p.211。
『日本聖公会祈祷書』、1896年(M29)。
『改訂増補日本聖公会祈祷書』、1938年(S13)。
『日本聖公会祈祷書』、1959年。(これまでは英米の祈祷書の翻訳だったが、これは日本独自に作成。「文語祈祷書」と呼ばれている。)
『日本聖公会祈祷書』、1988年。(1990年の総会で確定され、1990年祈祷書と呼ばれている。内表紙にも1990年と記されているが、奥付の書誌データとしては1991年。)

私が持っているのは『改正 祈祷書』(日本聖公会、1987)。これは試用段階のものらしく、1988年の日本聖公会総会で承認されて「改正」がとれて『日本聖公会祈祷書』となった模様。

日本の現代の礼拝式文

日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(口語)』、日本基督教団出版局、198820、324頁、3800円。
1949第1版(文語)、1952第2版(文語)、1957第3版(文語)、そして1959口語初版。1970第9版から修正と追加が別刷りで挟み込まれるようになった。1988第20版の序で結婚式式文中の用語と聖書の引用についての注意が記された。口語版の初版からの改訂の経緯は、『新しい式文――試案と解説』の序文にまとめられている。
日本基督教団信仰職制委員会編、『新しい式文 試案と解説』、日本基督教団出版局、1990、256頁、1600円。
タイトルの通り、第一部が「式文試案」、第二部がその解説。1970年から始まった式文改訂作業の一つの成果。特徴は、「現行の式文に手を加えるという方法をとらずに、まず基礎的な研究をしてから新しい式文作成をめざす」ということと、「試案として広く諸教会に意見を問うた上で『新しい式文』が作られることを願った」こと。それゆえ、各式文に対する短い解説が付されている。解説の執筆者は、岸本羊一、山本尚忠、北村宗次。
日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(試用版)』、日本基督教団出版局、2006、168頁、1785円。
主日礼拝、結婚式、葬儀諸式のみ。特に会衆の礼拝参加を念頭において構成された式文で、「祈祷文」例も豊富に収録ということらしい。主日礼拝式Aの会衆用分冊も出た。聖餐を御言葉への応答と捉えているが、そうではないだろう。聖礼典も「御言葉」である。
『試用版U』は2009、204頁、2100円。洗礼式、転入会式、転会式、按手礼、准允式、などなど。

連合長老会は独自の式文を出している。連合長老会編『式文(口語)』(全国連合長老会出版委員会、1972初版、1985改訂版)。この式文は、日本基督教会諸式文(昭和4年版)を原本としている。「序」によると、結婚式式文において「結婚成立を公告する合法性を明確にし」、幼児祝福式、納棺式、前夜式、出棺式、火葬前式などは省かれている。

日本基督改革派教会は、『日本基督改革派教会式文』(日本基督改革派教会大会出版局、1984、171頁、2500円)を出している。

日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団監修、『ルーテル教会式文(礼拝と諸式)』、日本福音ルーテル教会(発売:東京聖文舎)、20012、307頁、5500円。
初版の年が記されていないが、たぶん1996ではないか。これの前は、1978年に公式採択された「茶式文」。これに対してこの1996年版は「青式文」と呼ばれている。これを解説したものに、前田貞一『聖卓に集う――日本福音ルーテル教会礼拝式書解説』(教文館、2004、157頁、1000円)があるが、公式の解説ではなさそうだ。日本福音ルーテル教会の『百年記念小論集 第1巻』に日本福音ルーテル教会の礼拝式文史があるらしい。
カンバーランド長老キリスト教会日本中会礼拝書特別委員会編、『神の民の礼拝――カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』礼拝書』、一麦出版社、2007、288頁、2520円。
主日礼拝の構造を、招集、御言葉、聖餐、派遣の4部としている。

日本の各教会での礼拝順序の例

竹森満佐一、『礼拝――その意味と守り方』(東神大パンフレット4)、東京神学大学出版委員会、199518、74頁、2002年第21版は500円。
「六 礼拝の内容」で、当時の吉祥寺教会の礼拝順序とその解説。不可解な点として、47頁の礼拝式順で「礼拝招致」が、最近の版では「礼拝招詞」になっている。(確認したところでは、1995年第18版までは「礼拝招致」、2002年第21版では「礼拝招詞」。著者は1990年に亡くなっているのに・・・。)たぶん誰かが誤植と思って勝手に修正してしまったのだろう。吉祥寺教会に確認したところ、現在(2012年1月現在)でも「礼拝招致」とのこと。もっとも、竹森がなぜ「礼拝招致」としたかについては謎。
加藤常昭、『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』、教文館、1994(初版)1998(再版)、426頁、1800円。
2015年オンデマンド。「第2部 礼拝する教会」の「第1章 礼拝」の中で、鎌倉雪ノ下教会の礼拝順序について解説している。かつての礼拝順序については、加藤常昭『教会生活の手引き3 礼拝・諸集会』(日本基督教団出版局、1979)の「第3章 礼拝」の「第2節 礼拝順序」で解説されている。
関川泰寛、『聖霊と教会――実践的教会形成論』、教文館、2001、270頁、2500円。
「第6章 聖霊と礼拝」で、十貫坂基督教会での礼拝順序の変更前後を比較。
日本キリスト教会札幌北一条教会礼拝・祈祷委員会、『礼拝式の意味』、一麦出版社、2002、31頁、280円。
礼拝式の構成要素を順に全てを取り上げて、信徒向けに短く解説。
鈴木崇巨、『牧師の仕事』、教文館、2002、400+17頁、3000円。
実例ではないが、「第8章 礼拝の指導」で礼拝の順序に沿って、各項目を説明。使用が考えられる聖句箇所例は豊富。背景はアメリカの非主流教会的。

1.8 教会暦

2010.10.20全面的に更新

古いもの

日本における教会暦に関する基本的な著作は、古くは、由木康『教会暦の研究』(日本基督教団宣教研究所、1956)、同じく由木康の『礼拝学概論』(新教出版社、1961)の第4章に始まるだろう。

その後、山内六郎『教会暦のはなし』(聖文舎、1966)。

日本基督教団の研究としては、由木康『教会暦の研究』の後、深津文雄『教会暦における聖書日課の解説』(日本基督教団宣教研究所、1962)、日本基督教団聖書日課研究委員会編『新しい教会暦』(日本基督教団出版局、1975)。

スー・アルトハウス、『教会の祭と行事の祝い方』、日本基督教団出版局、1985、238頁。教会学校向けに、三大祝日や各種行事での、朗読劇風の礼拝、ページェント、リタニーなどの実例を紹介したもの。Sue Althouse。

その後のもの

日本基督教団出版局聖書日課編集委員会編、『新しい教会暦と聖書日課――4年サイクル主日聖書日課を用いるために』、日本基督教団出版局、1999、190頁、1800円。
「T 教会暦の成立と展開」(今橋朗)、「U 聖書日課の歴史」(山下萬里)、「V 現代の礼拝刷新と聖書日課」(勝田英嗣)、「W 日本基督教団の聖書日課」(北村宗次)、「X 聖書日課を用いるために」(四竃揚)。付録の中の「4年サイクル主日聖書日課 使用聖書一覧」は、聖書箇所からそれがどの主日に用いられるかを引ける便利な“逆引き”。日本語文献表あり。
今橋朗、『よくわかるキリスト教の暦』、キリスト新聞社、2003、123頁、1200円。
日本語文献表あり。付録に、灰の水曜日と復活日の1900年から2100年までの一覧表あり。今橋朗は1932.4.19-2014.1.27。
K.H.ビーリッツ(松山與志雄訳)、『教会暦――祝祭日の歴史と現在』、教文館、2003、334+30頁、3675円。
原著1998新版からの翻訳。教会暦の歴史を起源から今日まで詳しくたどる。教会暦の標準的教科書とのこと。「第一部 祝祭暦と祝祭日」で時間体験、日と週、暦、日曜日、その後、「第二部 復活祭圏」、「第三部 降誕祭圏」と続き、第四部で聖人の祝日を扱う。巻末に「日本の教会暦対照表」あり。訳者によるあとがき。2004年に第二版?

加藤常昭『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』(教文館、1994初版,1998再版)の問266-278に雪ノ下での教会暦の扱いについて書かれている。

土戸清『人間性の崩壊を救うもの――現代の教育と宗教の役割』(教文館、2005)の中に、教会暦について説明した一章がある。

その他

O. クルマン(土岐健治、湯川郁子訳)、『クリスマスの起源』、教文館、1996、122頁、1500円。
2006年新装版。原著は初版1947、改訂新版1990。クリスマスの起源とクリスマスツリーの起源。キリスト教会は、特定の日を祝っていたのではなく、「キリストの地上への顕現」という事実を祝っていた。12月25日は太陽崇拝という異教の祝祭日に由来するが、その日が救い主イエス・キリストの誕生日となったことは、キリストこそ闇の中に輝く光であり、義の太陽であるゆえに、「自然の中に示される神の啓示はすべて、キリストの愛の行為における神の啓示に従属させられていることを、私たちに思い起こさせる」(p.66-67)。
H. マイアー(野村美紀子訳)、『西暦はどのようにして生まれたのか』、教文館、1999(1991)、183+10頁、1800円。
74ページまでが本文「西暦の歴史」で、それ以降は資料として関連する人物の紹介とフランス革命暦など。邦訳タイトルは『西暦はどのようにして生まれたか』であるが、西暦の成立だけでなく、週、月、年の決定との関連も分かる。
「ニカイア公会議(325年)は復活節にかんして二つの重要な決定を下した。一つは、復活祭を日曜日に祝うというローマの慣例を承認したこと、次にその期日を春の満月後最初の日曜日と定めたことである。こうして教会暦の基礎が固まった。まずユダヤ教起源の週・・・次に、太陽暦に基づくローマ流の年・・・最後に――ユダヤ教の過越祭という回り道を経て――月の影響を受ける復活日。そしてこの日を基準に・・・移動祝日が決まる。」(pp.32-33)
「歴史の直線の真ん中に起点が、つまりキリストの生年があって・・・、そこから「それ以後」と「それ以前」の両方へ向かって時間を数えるのは西暦だけだという著者の指摘は意味深い。」(「訳者のあとがき」p.181)

1.9 聖餐の守り方と現代の諸問題

組織神学の教義学の中の聖餐論の文献も見る。

日本基督教団宣教研究所編(木下芳次、芳賀真俊執筆)、『礼拝における聖餐式の諸問題』、日本基督教団出版部、1960。
7つの章からなる。中心は第4章「聖餐式の形式とその意義」で、20の問いをたてて聖餐式における具体的問題への教派ごとの理解を紹介する。そして第6章「現代日本プロテスタント教会の聖餐式」で日本の教会における聖餐の形式の傾向をまとめる。
加藤常昭、「聖餐式をめぐる問い」(『福音主義教会形成の課題』、1973)。
制定語は、説教として、直説法によって宣言されるべき。/ 聖餐式がなぜ神の恵みを証しするものなのか、どうして他の道が取られないのか、それは恵みの秘義に属する。/ 我々が聖餐式を行うときに主が共におられるかどうかは、神の全く自由な行為による。ただ我々は約束の言葉を聞いている。その約束に相応する我々の行為は信じるということである。その限り、信仰のないところに聖餐式の正しい執行はあり得ない。/ 説教は具体的に聖餐式を指し示すべきであるし、あるいはまた聖餐式のための小さい説教をしてもよい。
G. D. レーマン、「聖餐の守り方――日本の教会のルーツを探る」 (『季刊 教会』12号、1993.8)
近藤勝彦、『聖餐の意味とその守り方』(鳥居坂教会文庫8)、日本基督教団鳥居坂教会、1994。
「聖餐とは何か」と「正しい聖餐式の守り方」の二講演。後者の中で、現行式文の問題(pp.69-75)や受洗者陪餐の理由(pp.76-83)、聖餐執行者の問題(pp.90-95)、陪餐者の生活と献身について(pp.95-100)などに触れている。

2.説教学

  • ――海 外――
  • ――日 本――
  • ――特別な関心――

2.0 総記

事 典

W.H.ウィリモン、R.リシャー編(加藤常昭責任監訳、加藤常昭、深田未来生日本語版監修)、『世界 説教・説教学事典』、日本基督教団出版局、1999、570頁、16275円。
212項目。収録項目は、1.歴史的、神学的なテーマ、2.説教や説教者に関する実践的な事項、3.主要な説教者(説教の抜粋付き)に分けられる。「序文」に重要な分野ごとの主要な項目が示されている。神学としては「説教の神学」、「神の言葉」、「聖霊と説教」、「律法と福音」、「預言者的説教」など。解釈学としては、「解釈学」、「釈義」、「文学批評」、「旧約聖書説教」、「説教者」など。歴史としては、「説教の歴史」、「ピューリタンの説教」など。レトリックとしては、「言語理論」、「帰納的説教」、「物語の説教」など。礼拝としては、「礼拝説教」、「教会暦と説教」、「朗読聖書日課による説教」、「ホミリー」など。説教者としては「説教者の霊性」、「牧会的配慮と説教」など。説教準備としては、「講解説教」、「導入と結びのことば」、「説教題」、「原稿に基づく説教」、「説教の語り方」などが挙げられている。

資料集

リチャード・リシャー編(加藤常昭監訳)、『説教をめぐる知恵の言葉 古代から現代まで』(上下巻)、キリスト新聞社、上:2010、450頁、6825円。下:2011、344頁、5250円。
原題:"The Company of Preachers: Wisdom on Preaching, Augustine to the Present," 2002. 「説教とは何か」、「説教者」、「神の言葉を語ること」、「聖書解釈」、「レトリック」、「聞き手」、「説教と教会」の7つのテーマに分類した、説教に関する古今の発言のアンソロジー。アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、フォーサイス、ブルトマン、バルト、さらに、現在のアメリカの説教学者(クラドック、バトリック、ウィリモン、C・H・キャンベル)、神学者・説教者たち(バーバラ・ブラウン・テイラー、ガードナー・C・テイラー、ウォルター・ブリュッゲマン、ゴンサレス夫妻、リチャード・B・ヘイズなど、55人の説教や論文からのアンソロジー。上巻は「聖書解釈」まで。下巻は残りの三つ。下巻の翻訳者は吉村和雄、森島豊、宮崎誉、平野克己。

説教の歴史

2015.11.23全面的に更新
E.ダーガン(中嶋正昭訳、関田寛雄監修)、『世界説教史』(T〜W)、教文館。
T:古代〜14世紀、1994。U:14〜16世紀、1995。V:17〜18世紀、1996。W:19世紀、1997。
『シリーズ・世界の説教』、教文館、2012〜。
小高毅編、『古代教会の説教』、2012、374頁、3570円。高柳俊一編、『中世の説教』、2012、494頁、4725円。高柳俊一編、『近代カトリックの説教』、2012、462頁、4515円。出村彰編、『宗教改革時代の説教』、2013、488頁、4725円。
ミヒャエル・ハイメル、クリスティアン・メラー(徳善義和訳)、『時を刻んだ説教――クリュソストモスからドロテー・ゼレまで』日本基督教団出版局、2011、450頁、6300円。
アウグスティヌス、ルター、キルケゴール、バルト、キングら、説教史上の名説教16編に、そのときの状況やその説教と説教者についての解説。ヨアンネス・クリュソストモス「不安の中の沈黙に対する嘆きの説教」(387年)、アウグスティヌス「深みに臨む生」(410年)、マイスター・エックハルト「魂における神の誕生について」(1300年頃)、マルティン・ルター「実力行使をしない圧倒的な力」(1522年)、アビラのテレサ「熱情的な神の友の説教」(1577年)、ヨハンネス・マテウス・マイファルト「言い難きことの境で」(1626年)、ツェンドルフ伯爵「福音の勝利の調べ」(1738年)、シュライエルマッハー「一つとする愛の絆」(1829年)、ゼーレン・キルケゴール「王のための説教」(1847年)、ヨゼフ・ヴィティッヒ「人々を不安から解放する」(1922年)、ボンヘッファー「抵抗と信従の中の預言者的な説教」(1934年)、マルティン・ニーメラー「ダッハウ強制収容所の中のクリスマス」(1944年)、ルドルフ・ボーレン「真理の光の中へと導く、悔い改めの説教」(1945年)、カール・バルト「囚われ人に解放を」(1961年)、マーティン・ルーサー・キング「みことばの変革する力」(1967年)、ドロテー・ゼレ「現代の女性神秘家が神との闘いへと勇気づける」(1988年)。

2.1 バルトとその周辺

説教について考えるためにまず読むべき文献

P.T.フォーサイス(大宮溥監修、楠本史郎訳)、『フォーサイスの説教論』、ヨルダン社、1997(19071,19647)、372頁、3700円。
マコナッキーに「バルト以前のバルティアン」と呼ばれたフォーサイスの説教論。「時代の変化の中において果たさるべき説教の使命について、説教者としての戦いの労苦をにじませるようにして書いたこの書物は、・・・説教者必読」。(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』p.188)
W.リュティ、E.トゥルナイゼン(赤木善光訳)、『説教・告解・聖餐』(新教新書38)、新教出版社、1960(1957)、161頁、1,000円。
第一部説教(リュティ)、第二部告解(トゥルナイゼン)、第三部聖餐(リュティ)。
ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『説教と牧会』、新教出版社、1975、238頁、1800円。
K.バルト、E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『神の言葉の神学の説教学』、日本基督教団出版局、1988、252頁。
バルトの大学での説教学演習の記録を元にした説教論と、トゥルナイゼンの小論3編。バルトのはこれより先に、翻訳権を得ずに(つまり海賊版ね)『説教の本質と実際』(新教出版社、1977)として出た。加藤常昭は、『説教者カール・バルト――バルトと私』(日本基督教団出版局、1995)という小さな本を出している。

じっくり腰を据えて読む文献

R.ボーレン(加藤常昭訳)、『説教学T、U』、日本基督教団出版局、T:1977、648頁、U:1978、526頁(1971)。
原著は一巻本。気づいたところでは、邦訳のTは1979に再版、Uは1982再版、1990第3版が出ている。中身は変わっていないだろう。Tには、「第一部 序論的行程」、「第二部 説教の根拠」、「第三部 言葉の時間形態――想起・約束・現在」。Uには、「第四部 説教者」、「第五部 聞き手」が収められている。Uには、「インタビュー――著者に聞く」も収められている。Uの巻末に、TとU全体の聖句索引、簡単な解説付きの人名索引、そして事項索引がある。
『説教学U』に収められている第四部「説教者」は、加藤常昭によれば「おそらく私が知る限り、現代説教学においては最も詳細な説教者論」とのこと(加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.120)
ルードルフ・ボーレン(Rudolph Bohren)は1920-2010.2.1。
ディートリヒ・リッチュル(関田寛雄訳)、『説教の神学』、日本基督教団出版局、1986(1960)、256頁。
一読の価値ありとのこと。「第1章 教会への神の言と教会からの神の言」、「第2章 礼拝と説教の職務」、「第3章 説教」と「付論」。翻訳者は分かってないで訳しているので、解説が全く的を射ていないらしいが、「バルトの『教会教義学』の"神の言葉の教理"に大きく依存して出発している」(訳者あとがき)。
ハンス・ヨアヒム・イーヴァント(加藤常昭訳)、『イーヴァント著作選1 説教学講義』、新教出版社、2009、253頁、2730円。
1937年夏に告白教会牧師研修所で語られた説教学講義。付論に、アルブレヒト・グレツィンガー「その精神史的コンテキストにおける説教学者としてのハンス・ヨアヒム・イーヴァント、そして更にそれを越えて」。
イーヴァント(1899.6.11-1960.5.2)の著作の邦訳に、出村彰訳、『清き心をつくり給え――H.J.イーヴァント説教集』(現代世界説教選)、日本基督教団出版局、1980。これは遺稿集第三巻に納められている36編の説教から23編を選んで訳出。竹原創一訳、『ルターの信仰論』、日本基督教団出版局、1982。鈴木和男訳、『約束の陽は昇る――ゲッティンゲン説教黙想』、日本基督教団出版局、2001。鈴木和男訳、『キリスト論序説――人間の人間性への転換』、日本基督教団出版局、2008。これは遺稿集第二巻の訳。加藤常昭編訳『説教黙想集成』(全三巻)、教文館、2008。この中に、イーヴァントの黙想論や25編の説教黙想が含まれている。

その他

トゥルナイゼンには、『この世に生きるキリスト者』(加藤常昭訳、新教新書33、新教出版社、1960、140頁)に「説教」というわずか6頁の文章がある。加藤常昭によれば、「きわめて短文であるが、すぐれたものと思う」(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』p.185)。また、『トゥルナイゼン著作集 第4巻』(新教出版社)に「説教の課題」、「説教の開始、進め方、終結について――ひとつの説教学研究」という論文がある。

ブルンナー(大木英夫訳)『我は生ける神を信ず』(新教出版社、1962)の訳者による「あとがきに代えて――宣教者としてのブルンナー」に、ブルンナーの説教論が端的に紹介されている。

2.2 60年代の翻訳もの

60年代に書かれたものだが、加藤常昭らによってよく紹介されるもの

マンフレッド・ヨズッティス(加藤常昭訳)、『現代説教批判――その律法主義を衝く』、日本基督教団出版局、1971、226頁。
ヨズッティス(Manfred Josuttis)は、「現代説教学における説教者論の先鞭をつけた実践神学者」で、この著作は「説教分析論の誕生を促すことになった」。(小泉健「説教における「わたし」――M.ヨズッティスを例として」、東京神学大学総合研究所『紀要』13号、2010、p.89,91。小泉健のこの講演録は、ヨズッティスの手頃な紹介にもなっている。
H.J.クラウス(佐々木勝彦訳)、『力ある説教とは何か』(現代世界説教選)、日本基督教団出版局、1982(1966)、144頁。
「クラウスのこの小さな書物は、・・・全権に生きる説教がどのように生まれるかをひたすら問い続ける情熱の書物です。」加藤常昭『説教者を問う』、p.57。

その他の古いもの

ヘルムート・ティーリケ(佐伯晴郎訳)、『教会の苦悩――説教に関する私の発言』、ヨルダン社、1967(1965)、275頁。
H.H.ファーマー(山内六郎訳)、『断絶の現代と説教』、聖文舎、1969、162頁。

2.3 ボーレン以降

佐藤司郎、「R. ボーレン以後の説教学の動向――聞き手の問題を中心として」(説教塾『紀要・説教』(説教塾創立20周年記念号)、第9号、2007.11)。クリスティアン・メラー、ゲルト・タイセンの説教論、ヴィルフリート・エンゲマンの聞き手論を紹介している。

クリスチャン・メラー(加藤常昭訳)、『慰めの共同体・教会――説教・牧会・教会形成』、教文館、2000(19831、19902)、432頁、3500円。
クリスティアン・メラー(説教塾編、加藤常昭訳)、『説教の喜び』(説教塾ブックレット5)、キリスト新聞社、2006、152頁、1470円。
この中に、メラーが2000年秋に来日した時の講演「説教の喜び」が収められている。これの初出は、説教塾編『説教3』(説教塾紀要、2001.6、264頁、2100円)。ちなみにこの紀要には、他に、徳善義和「ルターの説教」、久米あつみ「カルヴァンの説教」、加藤常昭「竹森満佐一の説教」などが収められている。
クリスティアン・メラー(加藤常昭訳)、『慰めのほとりの教会』、教文館、2006、334頁、2940円。

2.4 アメリカの説教学

2015.11.23全面的に更新

アメリカの「白人のメインラインの教会における説教学」の状況を紹介しているものとして、平野克己、『いま、アメリカの説教学は――説教のレトリックをめぐって』(説教塾ブックレット4)、キリスト新聞社、2006、206頁。「帰納的説教」、「ニュー・ホミレティックス」、「ニュー・ホミレティックスを超えて――教会の言語としての説教」の3章に、フレッド・クラドックの説教「小さな事柄に耐え忍ぶ」、バーバラ・ブラウン・テイラーの説教「明白なる神のパラドクス」、ウィリアム・ウィリモンの説教「機能不全の神の家族」の三つの説教が解説付きで全文掲載されている。付録の「アメリカ説教学を学ぶための文献表」は一言コメント付きでとてもありがたい。

フレッド・B・クラドック(吉村和雄訳)、『説教――いかに備え、どう語るか』、教文館、2000(1985)、390頁、4500円。
"Preaching," 1985.「長く説教学の教室で用いられてきたテキスト」(平野克己『いま、アメリカの説教学は』2006、p.205)
「〔この〕きわめて実際的な説教論は、終始一貫、帰納的説教の作り方を明晰に語っているものとはなっていない。クラドック自身に変化が見られると言うべきなのか・・・。しかし、そのひとつの理由は、ここでは、主題説教よりも講解説教に主眼点を置いているからであろう・・・。」加藤常昭『愛の手紙・説教』、p.294。
T.H.トロウガー(越川弘英訳)、『豊かな説教へ 想像力の働き』、日本基督教団出版局、2001(1990)、239頁、2500円。
Thomas H. Troeger, "Imagining a Sermon," 1990.「説教における想像力についての重要な文献」、「そのすべての主張に同意できなくても、説教者が精読するべき書物・・・。しかし、だからといって、想像力の働きを手放しに礼賛し、それに対する評価は『人間の基準から審査されるべき』となると、わたしたちは立ち止まらざるを得なくなります。」(平野克己『いま、アメリカの説教学は』2006、p.60,76,78)
トロウガーの邦訳に、迫川由和訳『21世紀の説教を求めて――十人の説教者の物語』(教文館、1998、224頁、2500円+税)あり。
フレッド・B・クラドック(平野克己訳)、『権威なき者のごとく――会衆と共に歩む説教』、教文館、2002(19711,19742,19793)、293頁、3200円+税。
前半は1960年代から70年代初めの北米の社会的状況と説教の関連について。後半は「帰納的説教」(Inductive Preaching)の紹介。付録に「頌栄」というタイトルの説教を収録。なお、原著第4版(2001年)では4編の説教が収録されているとのこと。「説教のレトリックにスポットライトを当てる新しい説教運動の起点」として「現代アメリカ説教学の出発点」であり、「現代の古典」とも呼ばれる。(平野克己『いま、アメリカの説教学は』2006、p.24, 205)
R.リシャー(平野克己、宇野元訳)、『説教の神学――キリストのいのちを伝える』、教文館、2004、250頁、2800円。
Richard Lischer, "A Theology of Preaching: The Dynamics of the Gospel," 2001. 原著初版は1981年だが、1992年に増補改訂版、2001年再版。邦訳に際し、著者の提案によって原著の中の1つの章の訳出は省略された。また、原著にはない説教4編を収録。ニュー・ホミレティックスの問題を指摘している。

2.5 その他の翻訳もの

A.W.ブラックウッド(福士卓司訳)、『講解説教の技法』、聖恵授産所出版部、1996、270頁。
福士卓司(ふくし・たくじ)は1943.2.26-2014.1.17。
トム・ウィルキンソン(松谷好明訳)、『キリスト中心の講解説教』、一麦出版社、2007、480頁、4725円。
一麦出版社の目次あり。第一部が説教論、第二部が説教の要約16編。
「友人たちと私は、無鉄砲にも、町の公園に集まっている大勢の人々に野外説教を試みさえしました。いつも聴衆はほとんど若い人たちで、私たちの語ることによく耳を傾けてくれました。すぐさま私は、福音のメッセージをより効果的に伝えるには知識と技術がもっと必要だと感じました。」(「はじめに」より)
キャシー・ブラック(川越敏司、飯野由里子、森壮也訳)、『癒しの説教学――障害者と相互依存の神学』、教文館、2008、272頁、2500円+税。
目が見えないこと、耳が聞こえないこと、麻痺、「重い皮膚病」(ツァアラト)、精神障害といった具体的な障害に関する聖書箇所の解釈の問題と実際の障害や障害者の理解への影響。
ウィリアム H.ウィリモン(平野克己、笠原信一訳)、『教会を必要としない人への福音』、日本基督教団出版局、2008、208頁、2310円。
教会形成論でもあるようだが、見ていないので、どういう範疇に入れるか不明。少なくとも、ウィリモンが説教について語っている書物ではあるようだ。

2.6 いわゆる福音派系で親しまれてきた説教論で良質のもの

C.H.スポルジョン(ティーリケ編、加藤常昭訳)、『説教学入門』、ヨルダン社、1975(1961)、402頁。
Charles Haddon Spurgeon, 1834.6.19-1892。最近の日本語表記はスパージョン。イギリスのピューリタン的なカルヴァン主義バプテストの説教者。ティーリケによる原著は、"Vom Geistlichen Reden, Begegnung mit Spurgeon"。スポルジョンの説教学の講義が1875年に"Lectures to My Students"と題して刊行され、説教学の古典となっている(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』、p.183)。ティーリケ編の原著は、このドイツ語訳("Lectures to My Students"の21編の講義の中から18編を選んで並べ直したものと二つの説教:ヨハネ4:48と詩編1:4からの説教)に、ティーリケの解説とゾンマーアウアーのあとがきを付加したもの。邦訳ではゾンマーアウアーのあとがきは省略されている。巻末にスポルジョンの年譜あり。
スポルジョン(松代幸太郎訳)『牧会入門』(聖書図書刊行会、発売:いのちのことば社、1975、リパブックス2000)は、"Lectures to My Students"からの13編に、付録としてJ.H.ジョウェット「教役者の家庭訪問」と「実務家としての教役者」を加えたもの。
スポルジョンは週に10回説教し、彼の説教はしばしば2時間に及んだ。加藤常昭訳、ヨルダン社の「訳者あとがき」、p.391。
「あなたが持っているもの(もちろん、今流行の説教学の文献のいくつかを含めて)すべてを売り飛ばして、スポルジョンを買いなさい。そして、・・・〔スポルジョンの〕忠告を、たとえ、全体として自分の奉仕のための処方箋として受け入れることがないとしても、彼をしてあなたのための一人のソクラテスとするがよい。」加藤常昭訳、ヨルダン社、p.63。
この新版が、『新版 説教学入門』、いのちのことば社、2010、432頁、4200円。
D.M.ロイドジョンズ(小杉克己訳)、『説教と説教者』、いのちのことば社、1992(1971)、475頁、4800円。
ロイドジョンズの説教は、近藤勝彦も「彼のスタンスは、特に「日本基督教団」の牧師・説教者が学ぶのにきわめて適切」と評価している。近藤勝彦、『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』、p.89。「ロイドジョンズは、・・・なかなかすぐれた神学的見識を持っている・・・。この書物は、説教塾の学びのためのテキストとして読むことを勧めたいほどのものです。何よりも重要なのは、ピーターソンと同じように召命を重視していることです」。加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.23。

他に、C. ヴィスロフ(鍋谷堯爾、宮本威訳)『説教の本質』(聖文舎、1970、464頁)。H.W. ロビンソン(島田福安、島田礼子訳)『講解説教入門』(聖書図書刊行会、1987)(現在、いのちのことば社リパブックス、316頁、3780円)。日本人によるものに、藤原導夫『キリスト教説教入門――その本質と実際』(いのちのことば社、1998、165頁)。

2.7 加藤常昭以前の日本の説教学

加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』(1964)のp.185以下で紹介されているものは次の三つ。まず、後藤光三『説教学』(1960)は、当時の代表的な説教学のスタイルによる保守的な傾向の大著。レイモンド・アバ『礼拝』(滝沢陽一訳、1961)の第3章「み言への奉仕」は「独立した説教論としても適用する立派なもの」。藤井孝夫『説教学入門』(教師の友文庫、日本基督教団出版部、1962)は、CS教師向けと言いつつ、原理論的な説教論を中心とした「地味で堅実なよい説教論」。

また、説教学とは言えないが、日本の代表的説教者の説教論として、加藤常昭は次の三つを挙げる。『植村正久とその時代』第4巻(佐波亘編、1938)には、「牧会と講壇」という表題のもとに、説教に関する洞察力のある文章がいくつもある。山室軍平「伝道者論」(『山室軍平選集』第五巻所収)の中に説教および説教者論が含まれており、一読の価値がある。竹森満佐一訳『カルヴィン説教集』1938の巻末にある解説は、カルヴァンの説教についてのすぐれた解説であるとともに、説教そのものについての示唆に富んだ文章となっており、推賞に値する。

渡辺善太、『聖書的説教とは?』(渡辺善太著作選11、ヨベル新書024)、ヨベル、2014、312頁、1800円+税。
加藤常昭の書き下ろし巻頭エッセイ「なぜ『聖書的説教とは?』は必読すべき書物なのか」を収録。ヨベルから復刊される前は、日本基督教団出版局、19681,19692、307頁。
「渡辺善太の秘密を垣間見せる好著であった。復刊が望まれる。・・・渡辺先生の説教を聴いていると、聖書の言葉が起ち上がってくる。立体化してくる。聴き手に向かって迫ってくる。この秘密を私たちも盗まなければならない」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.43)

2.8 加藤常昭

加藤常昭、『説教――牧師と信徒のために』(現代と教会新書)、日本基督教団出版部、1964、205頁。
この本に先立って刊行された藤井孝夫『説教学入門』(教師の友文庫、日本基督教団出版部、1962)と併読されることを期待して書かれている。取り扱う問題が重複するのは当然だが、「叙述、つまり問題の扱い方を意識して相違させている」とのこと。
「第一部 説教論」には、「わたくしたちの課題」(今日における説教の問題、説教学とは何か、説教と信徒)、「説教の課題」(礼拝における説教、神学的な説教、慰めとしての説教、教会の言葉としての説教)、「説教の方法」(聖書の用い方、説教の対話的構成、原稿作成に現れる説教の問題)。第二部では、神学者たちのルカ5:1-2に関する説教を並べて解説(ハインリヒ・フォーゲル、ヴォルフガング・トゥリルハウス、アルトハウス、ギュンター・ヤーコブ、ブルトマン、バルト)。
「むしろ愛の奉仕を人にゆずってでも祈りと言葉の奉仕に専心することが自分たちの務めだ」(p.14)。「説教者のために切に祈ることこそ、信徒に求められる、しかも誰にでもできる、説教のための奉仕と言える」(p.30-31)。
加藤常昭、『福音主義教会形成の課題』(今日のキリスト教双書15)、新教出版社、1973、394頁。
18の講演・論文集。説教学関連のものは、「説教作成過程に関するひとつの方法論的考察――いわゆる説教黙想について」(未発表の講義草稿)、「「聖書的説教」の方法論的考察」(渡辺善太米寿記念論文集『渡辺善太――その人と神学』所収)、「説教の喪失と回復」(『福音と世界』1962.10)、「現代における説教の課題」(『福音と世界』1968.9)、「日本における説教の諸問題」(1971年関東教区教師会での講演)。
加藤常昭、『説教論』、日本基督教団出版局、1993、520頁、6699円。
第1章「説教の神学的基礎」は『神学』(36+37、39、41、44、47号)に発表した5論文。第二章「ハイデルベルクにて」は随想2本と付論。第三章「説教の課題」は、説教とは何か、いかなる説教をめざすのか。第四章「説教の方法」は、説教の方法と説教分析に関する4編。
加藤常昭、『愛の手紙・説教――今改めて説教を問う』、教文館、2000、328頁、3000円。
『説教論』(1993)以降の5つの論考集。「聖書を説く言葉・説教」は、カトリックの典礼に関する研修会で語られた聖書朗読と説教について。「届くべき言葉・説教」は、教団の教師向けの講演が元で、説教の語調、何を「届かせる」のか、どのように聖書を説くか、言葉が届いたとき何が起こるのか(罪認識など)、教会に生き教会を生かす説教について。「終末論的出来事の言葉・説教」は、バルトを手がかりに語られた説教論、説教者論で『説教者カール・バルト』と重なりあっている。「教会を造り上げる言葉・説教」は、時代を支配する霊の中での説教、牧会としての説教などを論じる。「愛の手紙・説教」は、現代キリスト教会の困窮と約束から、講解説教の再生、愛の手紙としての説教、新約聖書における手紙と説教、物語の説教と手紙の説教、手紙のレトリック、使徒たちの語り口、説教は演繹的でもあり帰納的でもあるなど。
加藤常昭、『自伝的説教論』、キリスト新聞社、2003、380頁、2000円。
「キリスト新聞」の連載にさらに加筆・修正した38歳までの自伝であるが、説教者としての自伝は、説教論となり説教者論となる。さらに、説教が教会と切り離すことができず、また、説教者は伝道者でもあるゆえに、自伝的教会論でもあり自伝的伝道論でもある。
「『外からの先行する言葉』というシュマルカルデン条項における表現こころを捕らえられた」(p.45)。「なぜ大切なところで、権威あると思われている神学者の引用に逃れて、説教者自身の言葉でメッセージを語ろうとしないのか」(p.156)。「説教の題は、町を歩く人びとに語りかけるものでなければならない。ここでも教会内だけで通じるような言葉を使うわけにはいかない」(p.194)。「説教で牧師の政治的見解を述べ、聴く者が意見を異にしても、反論できずに黙って聴かされるということは正しくない。・・・説教が語るべきは、神に作られ、救われた人間としてのあるべき基本の道だけである」(p.224f)。「説教をやさしく語るということは、単に言葉をやさしくすることではなく、生活の中で捉え得る言葉で語るということである」(p.241)。
加藤常昭(説教塾編)、『説教者を問う』(説教塾ブックレット1)、キリスト新聞社、2004、199頁、1200円。
説教者とは「神の言葉に仕える者」である。しかしこのことがいったい何を意味するのかをさらに問う。説教することは、説教者が説教者として生きる生き方、その存在に関わる。それゆえ説教者論が必要である(第1章)。説教者は、教会によって説教者として立てられているがゆえに、(たとえ経験がなかろうと年が若かろうと)重んじられなければならない。しかし、説教者自身も説教者であることを軽んじてはならない。自分が説教者であるということがどういうことかを会得することが急所である(第2章)。神は説教を通じなくても人を救い得る。しかし、その神が説教という外的手段を自ら必要とされ、求められた。その務めに召された説教者もまた、外的な神の言葉の手段に属する。それゆえ、神の言葉の説教にもサクラメンタルな契機がある(第3章)。聖霊の内的照明とは、説教者の内面が基準になることではなく、霊において臨在される方がそこで発言されることである。ここからこそ、説教者の大切さと説教者の内面の情熱が語られ得る(第4章)。
加藤常昭編訳、『説教黙想集成T 序論・旧約聖書』、教文館、2008、826頁、6510円。
この中に、加藤常昭、アイヒホルツ、イーヴァントの説教黙想論がある。
加藤常昭、『文学としての説教』、日本基督教団出版局、2008、274頁、2940円。
この中に、芳賀力との対話、イーヴァントと竹森満佐一の説教との対話がある。
『説教批判・説教分析』、教文館、2008、400頁、3780円。
「理論篇」と「実践篇」の二部構成。理論篇では、説教分析の課題、対象、方法など。これらは、『説教論』に収録されていた「わたしの説教分析I 説教批評のひとつの道」の改訂版であるとのこと。付論として、ハイデルベルク・テーゼなど。実践篇では、説教塾での演習の記録として、竹森満佐一の説教分析(ヨハネ20:28とローマ1:19-20)と、他の説教者の説教分析、説教批評。日本基督教学会の『日本の神学』49号、2010に山口隆康による書評あり(pdfファイル)。この書評では、説教分析論のスタートは1986年であるといった研究史の紹介が始めになされている。
加藤常昭、『出来事の言葉・説教』、教文館、2011、528頁、4725円。
6つの論文集。「出来事の言葉・説教」、「再び問う、出来事の言葉を」、「伝道し、教会を造る説教」、「改めて問うわれわれの課題」、「私の説教を語る」、「パウロの説教論」

「自分が説教者として、とにかく説教ができるようになったと内心確かさを覚えて安堵したのは、五十歳半ばになってからである・・・」(『自伝的説教論』、p.378)

「私どもが説教において触れてはならないと決めつけている、牧師の交代とという重大な出来事から教会の中で起きた小さな出来事に至るまで、しかし、加藤牧師は説教の中でこそ採り上げ、御言葉の光の中でそれらの出来事を牧会的に、魂への配慮をしつつ丁寧に解き明かされる」 井ノ川勝「牧会する説教」、加藤常昭『ヨハネによる福音書1〜5』(加藤常昭説教全集12-16巻、教文館)への書評、『本のひろば』2005.8、p.9

なお、『子どものための説教入門(信徒のための神学講座)』(日本キリスト改革派教会西部中会教育委員会(聖恵授産所出版部発売)、2001、202頁、1429円)という本もある。講演と質疑応答、付論として「教会学校説教の課題と方法」。全体として、教会学校の使命から説教論、そして説教準備から語り方まで具体的な指針。

加藤常昭の説教について

森島豊編(加藤常昭、佐藤司郎、平野克己、井ノ川勝著)、『これからの日本の説教――説教者加藤常昭をめぐって』(説教塾ブックレット9)、キリスト新聞社、2011、242頁、1890円。
加藤常昭の80歳記念シンポジウム。

藤原導夫、『まことの説教を求めて――加藤常昭の説教論』(説教塾ブックレット11)、キリスト新聞社、2012、160頁、1680円。これは、藤原導夫「加藤常昭先生の説教論」(『説教塾紀要 説教』6号、教文館、2004)が土台かな。

2.9 日本人の著作

関田寛雄、『聖書解釈と説教』、日本基督教団出版局、1980。
論文や釈義、小論集。第一部の「聖書解釈と説教」に9論文を収録。現在オンデマンドで5355円。これからの後の論文集は、『「断片」の神学――実践神学の諸問題』(日本基督教団出版局、2005、458頁、5775円)。
日本基督教団出版局編、『説教の課題と現実』、1987、332頁、4600円。
季刊雑誌『説教者のための聖書講解』1〜51号の巻頭論文をまとめたもの。説教黙想について、説教論、説教者、葬儀説教・結婚式説教・学校での説教、アウグスティヌス・ルター・カルヴァン・ウェスレー・バルトの説教について、諸教派・各地域の説教など。この中の澤正彦「韓国教会の説教」は澤正彦『韓国と日本の間で』(新教出版社、1993)に収録されている。
松田真二、『改革主義信仰告白と説教』(大森講座5)、日本キリスト教会大森教会(発売:新教出版社)、1990、96頁、1000円。
教会の公の決定である信仰告白の文書に見られる説教についての告白に着目し、中でも説教について興味深い告白をしている「第二スイス信仰告白」、「ハイデルベルク信仰問答」、「ドルトレヒト規定」(ドルト信条)を取り上げて、説教の定義、内容、効力について考察する。
石丸新、『パブリック・スピーキングとしての説教』、聖恵授産所出版部、1990、216頁。
日本基督教団出版局編、『聖書から説教へ』、日本基督教団出版局、1992、206頁。
『聖書と教会』1989.10〜1990.12連載がもと。大宮溥、城崎進、笠原義久、熊澤義宣、小林恵一、関田寛雄。
岩崎謙、『宣教する教会の説教』(大森講座18)、日本キリスト教会大森教会(発売:新教出版社)、2003、87頁、900円。
第1章「宣教を促す説教の立脚点」と第2章「宣教する教会の説教」、結語は「宣教現場を支える神学」。異教社会、宗教多元主義的社会において、説教の使命とは何か。
並木浩一、『聖書の想像力と説教』(説教塾ブックレット8)、キリスト新聞社、2009、160頁、定価1575円。
2009年1月19日の加藤常昭牧師80歳記念特別セミナーの講演。
越川弘英、平野克己、大島力、並木浩一、『旧約聖書と説教』、日本基督教団出版局、2013、128頁、1260円。
2011年日本旧約学会シンポジウム「旧約学と説教」での4講演(関連の説教2本を含む)。大島力による「まえがき」のあと、越川弘英「今日の礼拝と説教における旧約聖書の位置づけと活用」、平野克己「教会の礼拝説教と旧約聖書──アメリカの説教学の変遷と重ね合わせながら」、その付録として説教2本:クレッグ・バーンズ「“雑多な他国人”への説教」とバーバラ・ブラウン・テイラー「神の恵みを映し出す夜空」、大島力「預言者的想像力と説教――旧約学と説教の接点を求めて」、並木浩一「旧約学と説教――総論とヨブ記のアンティフラシス」。4者とも「想像力」を強調していることが及川信の書評(『本のひろば』2013.4)で指摘されている。「想像力」に関しては並木浩一『聖書の想像力と説教』が必読の書とのこと。

論 文

山口隆康、「説教学と修辞学(T)」(東京神学大学神学会編、『神学』62号、教文館、2000)。

芳賀力、「伝承としての啓示――説教の教義学的基礎づけを巡って」(東京神学大学神学会編、『神学』62号、教文館、2000)。

芳賀力、「物語る説教とは何か」(東京神学大学総合研究所『紀要』、4号、2001)。

佐藤司郎、「なぜバルトは説教黙想を書かなかったのか――説教黙想の課題」(『東北学院大学論集 教会と神学』第48号、2009.3)。

佐藤司郎、「R. ボーレン以後の説教学の動向――聞き手の問題を中心として」(説教塾『紀要・説教』(説教塾創立20周年記念号)、第9号、2007.11)。

2.10 説教者論

加藤常昭(説教塾編)、『説教者を問う』(説教塾ブックレット1)、キリスト新聞社、2004、199頁、1200円。
説教者とは「神の言葉に仕える者」である。しかしこのことがいったい何を意味するのかをさらに問う。説教者論は「説教する」という実践的課題のみならず、「説教者として生きる」という存在に関わり生き方に関わる課題を負っている(p.16)。説教者は、どれほど若かろうが説教者として重んじられなければならない。それは、教会が正しい手続きを経て説教者を説教の職務に就かせているからである。

加藤常昭『自伝的説教論』は説教者論でもある。「自分の召命の出来事に、改めて畏れを抱く」(p.56)。「私たち伝道者として召された者は神の言葉と祈りに専心するのであり、その集中を妨げるならば、愛の実践も禁欲しなければならないことがあるのではないか」(p.209)。

G. D. レーマン、「説教者の確信」 (東京神学大学神学会編、『神学』62号、2000、東京神学大学神学会)。
説教者は説教に対し「自信がなくても結構だ。大事なのは確信だ」。では、その確信の根拠は何か。神、聖書、御言葉の担い手である教会、牧会の務めの付与、説教においてテキストが語ることへの確信を説く。教会に関する確信では、教会を通して説教の務めが委ねられ、説教者として立てられていることも明確に語ってくれればよかったと思う。John R. W. stott, "Between Two Worlds" から多くの示唆を受けて書かれたとのこと。
小泉健、「説教における「わたし」――M.ヨズッティスを例として」(東京神学大学総合研究所『紀要』、13号、2010)。
講演録。冒頭で、宗教改革以来の説教者の位置づけをごく簡単に概観する。ヨズッティスは、「現代説教学における説教者論の先鞭をつけた実践神学者」(p.89)で、この講演録はヨズッティスの手頃な紹介にもなっている。

『吉祥寺教会の歩み』(日本基督教団吉祥寺教会、1999)の中の、加藤常昭「伝道者・竹森満佐一」、松永希久夫「神学教育者としての竹森満佐一牧師」、山内眞「聖書神学者としての竹森満佐一先生」の三つは、説教者としての竹森満佐一の姿として、興味深い。竹森の説教論や説教者論を垣間見ることが出来るものは、竹森満佐一訳『カルヴィン説教集』(1938)の解説、『神学』41号(1979)の中の「教会と神学――最終講義」など。

伝道者は、著述によってではなく、その言葉に耳を傾けた者の心に神の言葉を刻むことによって、その使命に生きる。/ この説教者の一言一句も聞き漏らすまいと耳を傾け、心燃やした。/ 教会員をよく知ることなくして説教はできない。/ 教理的説教とは、聴く者をして神を礼拝する行為、キリストに従う行為へと呼び立てる言葉である。それゆえ実践的であり信仰告白的とも言い換えられる。・・・教理的であるということは、いきいきと迫る言葉であることを意味する。聴く者を引きずり込む。/ これから説教を学ぶ者は、『カルヴィン説教集』の解説を学ぶと共に、竹森満佐一の説教集『わが主よ、わが神よ』の説教を声に出してくり返し読むとよい。
牧師として何よりも大切なことは、聖書から神の言葉を聴き、これを信仰者と非信仰者とを問わず取り次ぐこと。/ 聖書諸文書自体の内包する神学構造により、その内容を解明し、これに聴従する。/ 真に礼拝が成立していれば、それだけで教会は教会として成立している。それとは別個に交わりがあったりするのは間違っている。/ 誰が語るかでなはく、何が語られるかによって、礼拝は成立する。/ 〔礼拝における恵みに対し〕週日の家庭や職場や学校における応答こそ重要な教会生活であり教会活動である。信徒がマイノリティである社会では、教会の中に閉鎖的に籠もる傾向が強い。しかしそれでは証しにならない。
講解説教とは、神の言である聖書が礼拝の中心であるということを厳格に重んじ、聖書をそのまま生かし、聖書をそのまま語ろうとするひとつの努力なのであり、これが古代から教会が絶えることなく継承してきた説教の最も基本的な形態である。

加藤常昭『説教者を問う』pp.19-28の文献案内で紹介されているもの

D.M.ロイドジョンズ(小杉克己訳)、『説教と説教者』、いのちのことば社、1992(1971)、475頁、4800円。
「ロイドジョンズは、・・・なかなかすぐれた神学的見識を持っている・・・。この書物は、説教塾の学びのためのテキストとして読むことを勧めたいほどのものです。何よりも重要なのは、ピーターソンと同じように召命を重視していることです」(加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.23)
C.H.スポルジョン(ティーリケ編、加藤常昭訳)、『説教学入門』、ヨルダン社、1975、402頁。
書名を『説教者入門』とすることもできたと思われる書物。
カール・バルト(加藤常昭訳)、『福音主義神学入門』、新教出版社、1962(1962)、266頁。
「神学とは何か」を神学的に考察したかなり濃密な論述。誤訳を訂正して『カール・バルト著作集10』に所収。内容は相当深く、読み応えあるのでじっくり読む。2003年に新教セミナーブック18として再版された。
「バルトの『福音主義神学入門』は、そのまま『説教者入門』とすることができる。」(加藤常昭『愛の手紙・説教』、p.112)
K.バルト、E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『神の言葉の神学の説教学』、日本基督教団出版局、1988、252頁。
この中のバルトの「説教学」。
H.J.クラウス(佐々木勝彦訳)、『力ある説教とは何か』(現代世界説教選)、日本基督教団出版局、1982(1966)、144頁。
これもすぐれた説教者論の一つ。著者は執筆当時、旧約学の専門でありつつ、すぐれた説教者として知られていた。改革派の神学者だが、ルターに深く傾倒していることがよく分かる叙述が続く。関心は説教者そのものではなく説教者が説教を作る営みに集中するが、説教がどのような説教者の内面的な戦いから生まれるかを情熱的に語っている。
山内晴海、『カトリック司祭』、サンパウロ、2003。
加藤常昭が『説教者を問う』(キリスト新聞社、2004)の中で紹介している。第二バチカン公会議での新しい司祭職理解を、豊かに聖書を引用しながら語っているらしい。教会における正しい手続きによって教会的な客観的な事柄として召命が確認される。だからこそ、主イエス・キリストにあやかって、聖なる生活と聖なる業とによって、日々キリストの代理者としてよりふさわしくなれるように努力しなければならない。加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.24。

2.11 カルヴァンの説教について

2010.10.20全面的に更新

カルヴァンの説教に言及している言葉

『カルヴィン説教集』の竹森満佐一の「解説」は、「現在説教に苦労している説教者たちのために、これだけを改めて出版してもよいと思うほど、すぐれた興味深いもの」。「今日の説教者のなかに、竹森牧師の感化を受けている人がかなりおります。・・・しかし、そのうちの何人が、この説教論を読んでおられるであろうか・・・読んでいたら、もう少し違った説教をするはずだ」(加藤常昭「伝道者・竹森満佐一」より)

「彼〔カルヴァン〕は神の御言と之を聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も怖れた。」 この言葉は、初版の「訳者序」にあったが、戦後の1952年の再版にはなくなったらしい。(巻末の解説に取って代わられたのか?)(これについて触れているのが、竹森満佐一編『講解説教 イエス伝――マルコ福音書によって』(新教出版社、1990)の松永希久夫による「追記」。)

ふたつのことが必要である。すなわち信者の救いに必要になることについての正しい健全な知識を与えること、さらに、それと同時に、その教えが人々の心にいきいきと触れるように勢いを付け加えねばならない。/ 

「カルヴァンの説教についての一つの難点は、聖書の講解説教であるのだが聖書研究とほとんど区別がつかなくなるということにある。」(松永希久夫「神学教育者としての竹森満佐一牧師」、p.139)

「ルターは、日曜日には福音書の説教しかしませんでした。・・・ジュネーヴのカルヴァンもまた同じでありまして、日曜日の礼拝と言えば、福音書を説き明かしました。」(加藤常昭『加藤常昭説教全集16 ヨハネによる福音書5』教文館、p.190)

目に留まった論文

説教塾編『説教3』(説教塾紀要、2001.6、264頁、2100円)に久米あつみ「カルヴァンの説教」が収められている。

アジア・カルヴァン学会日本支部編(久米あつみ監修)、『新たな一歩を――カルヴァン生誕500年記念論集』(2009、キリスト新聞社、228頁、2625円)の中に、野村信「聖書解釈と説教――カルヴァンの聖書解釈論の考察」あり。

久米あつみ「カルヴァン最大の危機で エゼキエル書37章の説教に聴く」、説教黙想アレテイア特別増刊号『危機に聴くみ言葉――3月11日の後で教会は何を聴き、何を語るか』、日本基督教団出版局、2011.12。

エピソードなど

1541年9月に、3年前に追放されたジュネーブにストラスブールから戻ってきたとき、カルヴァンはサン・ピエール大聖堂で前に中断した箇所からまた聖書の講解を始めた。たとえば、ベノア(森井真訳)『ジァン・カルヴァン』、p.102。

おまけ

同志社大の深田未来生は、『アレテイア』第1号(1993)の「説教者の書斎から」という連載企画で、「説教者の任務を見直すために」として次の5冊を紹介している。古典的名著C.H.ドッド『使徒的宣教とその展開』、「語り」を考え直すのに興味深い関山和夫『説教の歴史――仏教と話芸』(白水社、1992)、関田の人格がにじみ出ている関田寛雄『聖書解釈と説教』、「説教者のための聖書講解」の巻頭小論をまとめた『説教の課題と現実』、石丸新『パブリックスピーキングとしての説教』(聖恵授産所出版部、1990)。

「説教者は学徒たることを決してやめてはならない。書斎こそは牧師館で一番重要な部屋なのである。牧師はすべからく毎朝四時間は書斎で過ごすべしという昔の規則は、もし彼が新旧の宝を伝えようとするならば、今日も真理である。心を常に新鮮に、また養わずに、どうして力ある講壇を守り続けることができようか。広くしかも深く、そして規則正しい体系的な読書なしにはできないのである。その外に何の方法もない。」レイモンド・アバ『礼拝――その本質と実際』、日本基督教団出版局、p.91。

「私の学生時代の恩師平賀徳造教授が、私の説教を批評して、なぜ最も大切なメッセージを自分の言葉で告げず、権威あるひとの引用ですますのかと厳しくたしなめてくださった」。加藤常昭、『本のひろば』2002.2号の日本基督教団東京教区墓所管理委員会編『ヤコブの階段の前で』キリスト新聞社の書評。

「竹森満佐一が自分で言っているように、竹森満佐一の説教はカルヴァンの説教よりも「講解的」である。」「明らかに、その師カルヴァンよりも講解的であろうとした竹森牧師の説教も、実は、丁寧に読むと、聞き手の経験、あるいは、説教者自身の経験から帰納的に説教テキストの言葉に耳を傾けるに至っている言葉が至るところに聴き取れる。」加藤常昭『愛の手紙・説教』、p.116,294-295。

聖書講座5の「釈義と説教」(1968)は何であるか?

3.牧会学

3.0 牧会と「魂への配慮」

2010.10.20全面的に更新

牧会

牧 会: 教会という集団を牧する牧師の職務のわざ

魂への配慮(ドイツ語でゼールゾルゲ)

ひとりの魂に集中し、牧師の職務に限定されるものではなく、教会に生きるキリスト者であるならば、誰にでも与えられている務め。

魂への配慮のための対話は、カトリック教会の告解(今日では<ゆるしの秘跡>)と呼ばれる、ひそかに行われる罪の告白と、それに対して与えられる対話として深められてきた。キリスト教会の実践のひとつの根幹である。

日本のプロテスタント教会はこれまで、これにあまり関心を持たず、それだけに実践されることも少なかった。

(「説教とカウンセリング」、『講座 現代キリスト教カウンセリング 第1巻キリスト教カウンセリングとは何か』、日本基督教団出版局、2002、p.116-118による)

3.1 牧会学

トゥルナイゼンの『牧会学』

原著名は、"Die Lehre von der Seelsorge"。直訳は「魂への配慮についての教え」。加藤常昭は「訳者として、釈然としないまま、周囲の勧告もあって、通例に従って『牧会学』と訳したが、誤解を招いたままであるように思う」と言っている。(「説教とカウンセリング」、『講座 現代キリスト教カウンセリング 第1巻キリスト教カウンセリングとは何か』、日本基督教団出版局、2002、p.116)

加藤常昭は最近(いつ頃からだろうか?)「トゥルンアイゼン」と表記している。

トゥルナイゼンは「日本語版のための序文」で、「カール・バルトの神学的労作への、ささやかな手引きと考えてくださってもよいでしょう」と語っている。

訳者加藤常昭は、牧師としての務めに思い詰めていた時にこの本と出会い、「キャンセルできることはすべて断り、読み耽った。・・・そして、私は救われたと思った。伝道し、説教し、魂への配慮に生き抜く私自身を生かす神の言葉をもう一度新しく聴いた」(加藤常昭『自伝的説教論』,p.202)

「この書物が問題としていたのは、一人の魂に集中する配慮です。・・・罪を犯した者が悔い改めて主の赦しにあずかることができるように力を注ぐのです。」(『日本の教会と「魂への配慮」』、p.12)

Tは牧会の基礎づけについて、Uは牧会の実践を扱う。教科書としてスタンダードで、神学全般の学びに役立つ。必携。

E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『牧会学T 慰めの対話』、日本基督教団出版局、初版1961(1946)、478頁、6600円。
「第一部 牧会の基礎づけ」、「第二部 牧会の本質と形態」、「第三部 牧会の完成」。
E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『牧会学U 世俗化時代の人間との対話』、日本基督教団出版局、1970(1968)、364頁。
第一部は、「牧会的実践の諸原則」。第二部は「牧会の実際」として結婚問題、病者の牧会、死なんとする者、悲しむ者への慰めを扱う。

教科書的なもの

ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『説教と牧会』、新教出版社、1975、238頁、1800円。
チャールズ・V. ガーキン(越川弘英訳)、『牧会学入門』、日本基督教団出版局、2012、402頁、6090円。
"An Intorduction to Pstroral Care," 1997. 第1部「牧会の歴史と新たな方向――継続と変革」では牧会の歴史を踏まえて現代のアメリカの牧会の形態を考察、第2部「牧会とは何か――キリスト者の共同体の物語に対するケア」では牧会の対象である共同体の特質とその中での牧師のリーダーシップ的役割について、第3部「牧会の実践とライフサイクル――キリスト教の物語、個々人の物語、そして家族の物語」では幼少期から高齢期までのライフサイクルの各段階での牧会について。

その他

C.H.スポルジョン(松代孝太郎訳)、『牧会入門』、いのちのことば社、1975、454頁、4600円。
スポルジョンの綴りはSpurgeonである。より原語の発音に近いとして「スパージョン」とも表記されるのは、いつからだろうか。『キリスト教大事典』1963で「スパージョン」の見出しになっている。
クリスチャン・メラー(加藤常昭訳)、『慰めの共同体・教会』、教文館、2000、432頁、3500円。
原著名を直訳すれば、「牧会的に説教する」となるらしい。
R.ボーレン(加藤常昭訳)、『天水桶の深みにて――こころ病む者と共に生きて』、日本基督教団出版局、1998、262頁、3900円。
「少々難解ですが、この神学者の存在、信仰、神学がすべて現れた、あまり類書のない本です。妻に自殺された神学者の再生の物語です。十五年の思索が込められています。」(加藤常昭、松居直との対談『本を読もう』、p.112)。
牧田吉和監修、『福音主義神学における牧会』、いのちのことば社、2003、241頁、1400円。
2002.11の福音主義神学会の全国研究会議の「結実」。共著者は加藤常昭、河野勇一、堀肇、宮村武夫、窪寺俊之。カトツネのは「福音主義神学における牧会」(pp.22-135)。加藤常昭の「パースペクティブ思考法」を中心とするテーゼへの応答として、4人の福音派の先生が講演した。加藤によれば議論がかみ合っていないものもあるという。
越川弘英編著、『牧会ってなんだ?――現場からの提言』(現代の教会を考えるブックレット2)、キリスト新聞社、2008、157頁、1470円。
第一部は越川弘英の今橋朗へのインタビューというか対談というか。第二部は、今橋朗、禿準一、古賀博、平野克己、増田琴の5名の牧師の対話。「祷告の集い」(「祷」は旧字)(p.35)、「牧会権」(p.60)、教会の「ファミリー・サイズ、パストラル・サイズ、プログラム・サイズ」(p.97)、「ポイメニクス」(p.156)。「牧会というのは、その人が神の前に立つために安心して孤独になれるようにしてあげること」(p.95)。「一人になれない者は注意しなさい」という言葉がボンヘッファー『共に生きる生活』にあるらしい。「牧師として一つ心がけているのは、いつでも教会を辞められるようにということ」(p.134)。
加藤常昭、『慰めのコイノーニア――牧師と信徒が共に学ぶ牧会学』、日本基督教団出版局、2012、242頁、2520円。
『信徒の友』の連載をもとにまとめられたもの。

他に、牧会学と礼拝学にまたがる著作に、ウィリアム・ウィリモン(越川弘英訳)『牧会としての礼拝――祭司職への召命』(新教出版社、2002、307頁、3300円)。

告解については、マクニール『キリスト教牧会の歴史』(日本基督教団出版局、1987)、リュティ、トゥルナイゼン『説教・告解・聖餐』(新教出版社)、トゥルナイゼン『牧会学』(日本基督教団出版局)。

「よい羊飼いの羊に対する配慮は四つから成る。食べさせること(栄養を与えるため)、導くこと(羊は迷い易いから)、見張りをすること(狼から守るため)、そして癒すこと(傷ついた者の手当)である。この四つの行為はみな御言葉の務めの諸要素を言い表している」(G.D.レーマン「説教者の確信」(『神学』42号)でサムエル・ヴォルベダ『説教の牧会的天才』で語られていると紹介している)

3.2 牧会の歴史

J.T.マクニール(吉田信夫(よしだ・しのぶ)訳)、『キリスト教牧会の歴史』、日本基督教団出版局、1987(1951)、430頁、4,200円。
加藤常昭はいろいろなところで名著だと言っている。「告解、つまりローマ教会でなされている聖職者の前における個人的な罪の告白の問題が、どれだけ教会の歴史の中で重要、切実な問題であったかを知るであろう。日本の教会、われわれのプロテスタント教会が、いかなる意味においても、この告解の提出している真剣な問いと一度も取り組まなかったことは、ひとつの不幸であった」(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』日本基督教団出版部、1964、p.195)
加藤常昭、井ノ川勝、賀来周一、山岡三治、『日本の教会と「魂への配慮」』、日本基督教団出版局、2005、192頁、2600円。
全12巻の『魂への配慮の歴史』(C.メラー編、加藤常昭訳、日本基督教団出版局、2000-2004、全部で31185円)のエッセンスを知ることができる、座談会を元にした、全12巻へのガイドブック。「『魂への配慮の歴史』は、マクニールがやっているような、明確な問題意識を持ちながら全体を概観していくようなことではなくて、二千年の歴史の中で魂への配慮に生きた六〇人を超える人々を選んで、その人たちのポートレイト、つまり、一人一人の人物像やその人の言葉に耳を傾けるという文章も含めた叙述をそれぞれの専門家にさせています」(p.10)。
魂への配慮とは、「より根源的なこと、つまり、息ができるように助けること、神のみ前で嘆き、あるいは賛美することができるように助けてあげることなのである。すなわち、人間が神の息吹のリズムの中に再び入り込み、もはや、自分の人間としての息吹によって自分を引き受けるようなことをしないですむように助けてあげる」ことである。(p.14)
魂が配慮される相手は、罪を犯した一人の魂であり、あるいは、病み、悲惨の中にいる者であり、さらには、キリスト者の共同体全体である。魂に配慮する主体は、牧者であり、長老会であり、なによりも、教会全体、教会員全員である。「自分たちも慰め手となりうるキリスト者の共同体を形成することに心を注ぎたい」(p.13)。魂が慰められる場所は、個人的な告解や交わりの時であるのみならず、礼拝における罪の赦しや聖餐こそがその場である。
「一人一人の罪は、実は自分だけの問題ではなくて・・・共同体全体の問題・・・。」「共同体が本当に癒されるためには、一人一人が癒されなければいけない」(p.189f)。
なお、クリスティアン・メラー(加藤常昭訳)『説教の喜び』(説教塾ブックレット5、キリスト新聞社、2006)に、メラーが2006年に来日したときの講演「『魂への配慮の歴史』の基本線――魂への配慮の変遷」が収められいる。

3.3 牧会者

E.H.ピーターソン(越川弘英訳)、『牧会者の神学――祈り、聖書理解、霊的導き』、日本基督教団出版局、1997(1987? 1993?)、248頁、3800円。
"Working the Angles : The Shape of Pastoral Integrity." 内表紙裏の翻訳許可のCopyrightは1987、訳者あとがきに記されている翻訳の原著発行年は1993。「角度を調整する」とは、祈り、聖書、霊的導きを牧会三角形の頂点とし、これを調整すること。説教者の自己形成を問い直す説教者論。召された者の霊的生活の手引きとして適切。ぜひ読め(加藤常昭の講演にて)。
H.J.M.ヌーウェン(西垣二一、岸本和世訳)、『傷ついた癒し人――苦悩する現代社会と牧会者』、日本基督教団出版局、1981(1972,1977)、221頁。
ヘンリー・ナウエン。「傷ついた癒し人――現代社会におけるミニストリー」と「生きた想起者――イエス・キリストの記念としての奉仕と祈り」。
梅津順一、『ピューリタン牧師バクスター――教会改革と社会形成』、教文館、2005、316頁、2730円。
リチャード・バクスターは、17世紀イギリスの牧師(1615-1691)。第1部「牧会者リチャード・バクスター」は、牧会者としてのバクスターの生涯と、著者が説教塾で行った講演「リチャード・バクスターの牧会と説教」。第2部「バクスターの著作(抄)」は、『自叙伝』から「歴史の証人として」、『改革された牧師』から「牧会者の職務」、告別説教、そして『キリスト教指針』から「職業指針」「取引指針」「自己審査」を紹介する。

ツヴィングリの「牧者論」(1524)は重要と加藤常昭が言っている(『日本の教会と「魂への配慮」』、日本基督教団出版局、2005、p.55)。これは、『宗教改革著作集第5巻 ツヴィングリとその周辺T』(教文館、1984、3500円)にある。

松永希久夫、「説教と神の言とのはざまにて――説教学演習Vへの覚書」 (山口、芳賀編、『説教と言葉――新しい時代の牧会と説教−−加藤常昭先生献呈論文集』、教文館、1999)。

牧師論

ウィリアム・ウィリモン(越川弘英、坂本清音訳)、『牧師――その神学と実践』、新教出版社、2007、520頁、5250円。
任職から始まり、様々な角度から牧師の姿を語る。祭司、聖書解釈者、説教者、カウンセラー、教師、伝道者、預言者、リーダー。とてもじゃないが、こんなに務まらない。
越川弘英、松本敏之監修、『牧師とは何か』、日本基督教団出版局、2013、386頁、4830円。
執筆者は五十音順に、秋間文子、荒瀬牧彦、石井智恵美、石田学、大澤秀夫、古賀博、小海基、小林よう子、下田尾治郎、鈴木浩、平野克己、古屋治雄、村上みか、村山盛葦、吉岡光人、渡辺正男。

関川泰寛、「古代教会史から見た牧師論」 (『アレテイア』No.32(特集:牧師とは何か)、日本基督教団出版局、2001.3、16-21頁)。

近藤勝彦、『プロテスタント伝道百五十年――ともに記念し、ともに伝道するために』(美竹文庫2)、日本基督教団美竹教会、2007。非売品。第五章「何によって伝道者・牧師になるか」で、「牧師の神学」に根ざした牧師の職務とそれを遂行する「霊的な力量」と神の召しに応える「エネルギーの集中」について語る。

牧会者の姿

石田順朗、『牧会者ルター』、日本基督教団出版局、2007、272頁、2940円。
かつては、聖文舎、1976、248頁。教団出版局からの復刊には、巻末に「岸千年先生のこと」という短い文章が付されている。ルターの『著作集』その他での言葉を引用しながら、牧会者としてのルターの姿をとらえる。
「九十五箇条の提題」は、「ルターの牧会的動機と配慮によって行われた」(聖文舎版、p.22)。「「魂の配慮者」としてのルターを、彼のおかれていた歴史的、社会的、教会的な状況の中に位置づけることによって、そこから、今日の牧会論で課題となっている事柄に光を当てていく」(p.27)。
全信徒祭司性と教職論のつながりについて: 「牧会の責任とわざは、教会の構成要員である信徒の一人びとりが基本的に負うものであり、それはキリスト者各人にとって、「神の権利」であり、「魂の救いにとって必須なこと」なのである。この「すべてのキリスト者一般に与えられた」権利と責任から、まず、キリスト者一人びとりが、牧会を負う責任の自覚と、さらに進んで、それを「神とその御言にしたがって」行ないうるように、「神の言をもたらす教師と説教者とを持たなければならない」。(p.78)。
「「魂への配慮者」としてのルターについて日本人が書いたものはこの一冊だけであろう。」(『日本の教会と「魂への配慮」』、p.57)
ちなみに、「ルターの魂への配慮は、卓上語録とか書簡、説教によく表れています。その中の、ザクセン選帝侯フリードリヒに宛てた手紙の「労し、重荷を負う人びとのための14の慰め」、これはルターの魂への配慮をよく表す著作として知られています。」(『日本の教会と「魂への配慮」』、p.57) この「・・・14の慰め」の邦訳は、『ルター著作集第一集第三巻』笠利尚訳「労し、重荷を負う人々のための慰めに関する十四章」。
井上良雄、『神の国の証人ブルームハルト父子――待ちつつ急ぎつつ』、新教出版社、1982、470頁、4000円。
ブルームハルトの悪魔払いについての解説に、賀来周一「宗教体験とカウンセリング」(『講座 現代キリスト教カウンセリング第1巻 キリスト教カウンセリングとは何か』(日本基督教団出版局、2002)がある。J. C. ブルームハルトの著作に、『悩める魂への慰め』(手島欣二郎訳、新教出版社、1975年、218頁)がある。
R. ボーレン(加藤常昭訳)、『預言者・牧会者 エードゥアルト・トゥルンアイゼン』、教文館、上:2001、261頁、3150円、下:2003、356+18頁、4410円。
トゥルンアイゼン(1888-1974)の評伝。評伝を書くに当たって、人間が人間をするとはどういうことかを論じる「プレリュード」から始まる。カール・バルトとの交友についても記されている。下巻には、日本語訳のための付論が付いている。
E.A. マッキー(出村彰訳)、『牧会者カルヴァン――教えと祈りと励ましの言葉』、新教出版社、2009、440頁、3990円。
自伝、神学思想、礼拝、祈り、「キリスト教生活における敬虔、倫理、および牧会的配慮」の五つに分けたアンソロジー。

牧会者の霊的養いのために

「牧会者の一日の疲労と倦怠とは、観劇や入浴によって癒されるべきでなく、書斎においてひとり難解な神学書に向かうとき温かい看護を受けるであろう。」(熊野義孝「手紙――新しい伝道者のために」、『熊野義孝全集別巻U信仰編』、p.160)

D.ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『共に生きる生活』、改訳新版、新教出版社、2004(1939)、182+4頁、1500円。
原題は "Gemeinsames Leben"、英訳は "Life Together"。邦訳は最初、岸千年訳『交わりの生活』(聖文舎、1960)だった(ざっと見たところでは森野善右衛門はこのことに触れていない)。後、森野善右衛門訳「共に生きる生活」(『ボンヘッファー選集6 告白教会と世界教会』(新教出版社、1968)所収)、さらに単行本化されて、『共に生きる生活』(教会と宣教双書2、新教出版社、1975)。そして、2004年に改訳新版が出た。
「交わり」、「他者と共なる日」、「ひとりでいる日」、「奉仕」、「罪の告白と聖餐」の5章からなる。交わりとは何か。キリストの体とは何かなどたいへん興味深い。
「最初の訳書が『交わりの生活』と訳されたこともあり、教会員の交わり、共同生活を語っていると思われることがあるが、その内容は、この研修所〔ドイツの牧師補研修所〕における生活を語るものである。」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.310)

牧師の「仕事」

鈴木崇巨、『牧師の仕事』、教文館、2002、400+17頁、3000円。
小島誠志、石井錦一、大川従道、尾山令仁推薦というすごい本。29章からなる。着任時の注意、日々の生活の注意や常識、礼拝式の構成と意味、説教について、洗礼式と聖餐式、カウンセリングの方法や牧師批判への対応の仕方、結婚式や葬式の歴史や意義や方法などなど。なかでも、結婚式、葬式、礼拝に最もページを割いている。必携。しかし、マニュアルとして読むべきではなく、自分の考えをまとめる手掛かりとすべき。著者の教派的背景はメソジスト。ただし、英語圏の保守的な神学者によっている部分が多く、ドイツ語圏の神学者の引用や注はほとんどない(加藤常昭の書評『本のひろば』2003.1による)。
ウィリアム・スティル(松谷好明訳)、『牧師の仕事』、いのちのことば社、1993、204頁、2000円。
というのが出たらしい。著者はスコットランド教会の福音派らしい。

牧師の「仕事」という捉え方に対して問題を提起しているのが、加藤常昭「説教――牧師の仕事?」(『福音と世界』2003.8号、pp.5-9)。

3.4 牧会とカウンセリング

2015.11.23全面的に更新

だいたいナウエンの『傷ついた癒し人』が出るまでの翻訳

スワード・ヒルトナー(西垣二一(にしがき・つぎかず)訳)、『牧会の神学――ミニストリーとシェパーディングの理論』、聖文舎、1975、328頁、3700円。
原題は"Preface to Pastoral Theology"。加藤常昭は『牧会者の神学序説』と言っている。同じ著者の『牧会カウンセリング――キリスト教カウンセリングの原理と実際』(西垣二一訳、日本基督教団出版局、1969、448頁)も名著だが、こちらの方が重要だと加藤常昭談。牧会神学としての牧会学ではなく、牧会者の神学だ。「ヒルトナーが私に教えたのは、パースペクティヴ思考法であった。」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.253)
H.J.クラインベル(佐藤陽二訳)、『牧会カウンセリングの基礎理論と実際』、聖文舎、1980、461+11頁。
D.D.ウィリアムズ(窪寺俊之訳)、『魂への配慮』、日本基督教団出版局、1981、238頁。
Daniel Day Williams, "The Minister and The Care of Souls," 1961。東神大図書館にない(原著はある)。
H.J.M.ヌーウェン(西垣二一、岸本和世訳)、『傷ついた癒し人――苦悩する現代社会と牧会者』、日本基督教団出版局、1981、224頁、2000円。
"The Wounded Healer: Ministry in Contemporary Society, 1972"。Henri J.M. Nouwenは、ナーウェン、ノーウェン、ナウウェンとか日本語表記はいろいろ。最近はナウエンで落ち着いてきている感じ。

日本人の個人の著作

日本人でこの分野の著作の草分けは、赤星進あたりか。赤星進、『心の病気と福音』(上、下)、ヨルダン社、1988、1990。この本の前に、『精神医療と福音』、聖文舎、1977。赤星進は1918.11.10-2012.5.18。

三永恭平、『こころを聴く――牧会カウンセリング読本』、日本基督教団出版局、1986、262頁、1700円。
斎藤友紀雄、『今、こころを考える』、日本基督教団出版局、2002、198頁。
山中正雄、『こころの診察室』、日本基督教団出版局、2003、160頁。

他に、有馬式夫とか、工藤信夫とか。

講座・現代キリスト教カウンセリング

三永恭平、斎藤友紀雄、平山正実、深田未来生監修、日本基督教団出版局、2002年。

第1巻『キリスト教カウンセリングとは何か』、2002、276頁。
歴史と現在の状況、宣教におけるカウンセリング、キリスト教カウンセリングの多様性。
執筆者は、三永恭平、西垣二一、佐藤誠、平山正実、関田寛雄、加藤常昭、窪寺俊之、深田未来生、賀来周一、山中正雄、工藤信夫、川喜田好恵。
第2巻『カウンセリングの方法とライフサイクル』、2002、304頁。
カウンセリングの方法、ライフサイクル。
執筆者は、斎藤友紀雄、田村毅、佐藤誠、西田佳代、三永恭平、福山清蔵、小坂和子、高橋良臣、土戸清、岩佐壽夫、近藤裕、石井千賀子、熊澤喜久子、島悟・大庭さよ、木山良知、大倉透。
第3巻『適応と不適応のカウンセリング』、2002、328頁。
生と性、病気と障害、死、被害と不適応への支援。
執筆者は三谷康、近藤裕、秋谷たつ子、関谷直人、白井幸子、平山正実、井原泰男、吉松和哉、榎本てる子、斎藤友紀雄、西田佳代、河野博臣、岡部元英、伊藤高章、松本桂樹、中島聡美、秋山剛、釘宮禮子、川島めぐみ。

キリスト教カウンセリングセンター

2002年に、キリスト教カウンセリングセンター編で、『よい相談相手になるために――クリスチャン・カウンセラー入門』(キリスト新聞社)が出ている。

その後、2009年から「キリスト教カウンセリング講座」のシリーズをキリスト新聞社から刊行。主なもの:

賀来周一、『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』(キリスト教カウンセリング講座ブックレット1)、キリスト新聞社、2009。
佐藤誠、『はじめてのカウンセリング』(キリスト教カウンセリング講座ブックレット2)、キリスト新聞社、2009。
石丸昌彦、『統合失調症とそのケア』(キリスト教カウンセリング講座ブックレット8)、キリスト新聞社、2010。
山中正雄、『うつ病とそのケア』(キリスト教カウンセリング講座ブックレット9)、キリスト新聞社、2010。

その他のグループからの著作

富坂キリスト教センター編、『心の病いとその救い』、新教出版社、1991、218頁、1800円+税。その続編として、『いやしから救いへ――心の病とその救い2』、2007、255頁、2000円+税。

聖書と精神医療研究会編、『心病む人々に教会ができること』(21世紀ブックレット29)、いのちのことば社、2006。荒井隆志、宇田進、上山要、斉藤篤美、笹岡靖、佐竹十喜雄、平山正実。

関西学院大学神学部編(井出浩 他)、『癒しの神学――第43回神学セミナー「心の病の理解と受容」』(関西学院大学神学部ブックレット2)、キリスト新聞社、2009。

最近の書、その他

ジョン・B.カブ, Jr.(芝野雅亜規訳)、『神学と牧会カウンセリング』、日本基督教団出版局、2005。

藤掛明、小渕朝子、村上純子編著、『牧会相談の実際――カウンセラーと共に考える』、あめんどう、2014、206頁、1400円+税。第4章は「心悩む人の理解と支援のためのブックガイド――牧会者等による推薦図書75冊」とのこと。

3.5 老いについて

加藤常昭、『老いを生きる』(キリスト教カウンセリング講座ブックレット17)、キリスト新聞社、2010、117頁、1470円。
キリスト教カウンセリング講座ブックレットの中には他に、斎藤友紀雄、『老いとそのケア』(キリスト教カウンセリング講座ブックレット5)、キリスト新聞社、2011、130頁、1470円。がある。
ポール・トゥルニエ(三浦安子訳)『人生の四季――発展と成熟』、日本基督教団出版局、2007、178頁、1890円。
ヨルダン社、1970、2000再版。
W.J.カール・Jr.編(吉田信夫訳)、『恵みにあふれて――高齢者への説教と牧会』、日本基督教団出版局、2001(1997)、276頁、2800円。
宍戸好子、『支えのみ手――「老い」について聖書からきく』、日本基督教団出版局、1978、184頁、1100円。
説教集。さらに、『夕べになっても光がある――「老い」について聖書からきく』、日本基督教団出版局、2009、88頁、1470円もある。宍戸好子は『総説実践神学』(日本基督教団出版局、1989)の「老いの神学」という章を執筆している。
ポール・トゥルニエ(山村嘉己訳)、『老いの意味――美わしい老年のために』、ヨルダン社、1975、416頁、2039円。
ヘルマン・ホイヴェルス(林幹雄編)、『人生の秋に』、春秋社、1969。

日本基督教団出版局から出ているいろんな人の説教集に、日野原重明、三浦綾子、田中澄江他『夕映えの季節を生きる』(2000、162頁、1600円)、李仁夏、岩村信二、大隅啓三他『希望の旅路――聖書に聴く「老い」』(2001、181頁、1800円)。

日野原重明の著作も参考になるかもしれない。ならないかもしれない。たくさんあるが、たとえば、『いのちの終末をどう生きるか』(春秋社、1987、1500円)、『老いに成熟する』(春秋社、1997、1800円)。

死生学(サナトロジー)については、熊澤義宣『キリスト教死生学論集』(教文館、2005、305頁、2500円)の第一部が「キリスト教死生学」。第二部は「福祉の神学」。第一部の中に、東神大パンフレット29の『神学的死生学試論』も収められている。そこに参考文献表もあり。さらに、平山正実、『死と向き合って生きる――キリスト教と死生学』、教文館、2015、212頁、1500円+税。葬儀への提言や自殺予防まで含む。

4.キリスト教教育

4.0 いろいろ

吉岡良昌『キリスト教教育研究――信仰に基づく人間形成』(聖恵授産所出版部、1994)のp.324で日本におけるキリスト教教育の研究についての代表的なものとして、高崎毅『基督教教育』(1957)、小林公一『キリスト教教育』(1957)、小林政吉『宗教改革の教育史的意義』(1960)、山内一郎『神学とキリスト教教育』(1973)、熊谷一綱『キリスト教信仰と教育』(1976)、小林公一、岩村信二『人間の成熟』(1983)、学校伝道研究会編『教育の神学』(1987)、安達寿孝『キリスト教家庭教育の源流』(1989)、奥田和弘『キリスト教教育を考える』(1990)、水野誠『明日を生かすキリスト教教育』が挙げられている。

一般の教科書として、千葉泰爾編『教育の本質と目的』(福村出版、1991)と、同じシリーズの矢島・神保・荒井・小林編『道徳教育の研究』(福村出版、1991、1800円)はなかなかよかった。

事典

事典は、高崎毅、山内一郎、今橋朗編、『キリスト教教育辞典』(日本基督教団出版局、1969)。114項目。目次に執筆者が記されていてよい。比較的ページが割かれている項は、「一般の教育とキリスト教教育」(小林公一)、「キリスト教教育史」(高崎毅)、「キリスト教教育理論」(山内一郎)、「神学教育」(熊澤義宣)などの概論。しかし、その他の項目は今やあまり役立ちそうにない。

今橋朗、奥田和弘監修、荒井仁、古谷正仁(ふるや・まさよし)編、『キリスト教教育事典』、日本基督教団出版局、2010、434頁、7140円。
164項目。執筆者105名。項目になっている組織・団体名に「アジア・キリスト教協議会」、「キリスト教学校教育同盟」、「キリスト教保育連盟」、「世界教会協議会」、「日本カトリック学校連合会」、「日本キリスト教教育学会」、「日本聖公会関係学校協議会」。キリスト教と言いながら、「イスラームにおける宗教教育」、「親等における宗教教育」、「仏教における宗教教育」などの項もあり。

古いところで

日本のキリスト教教育を神学的に取り扱った草分けは、高崎毅。体系的著作として、『基督教教育』(新教出版社、1957、182頁)がある。2010年オンデマンド。日本基督教団の教師試験の受験の手引きに参考書として挙げられていたものの長く品切れだったため、教師検定委員会からの要望があって、オンデマンド化されたとのこと。

その他、小林公一『キリスト教教育』(日本YMCA同盟、1958)、村上寅次『教育的実存とキリスト教』(ヨルダン社、1962)あたり。しかし、訳書だがJ.D.スマート(安村三郎訳)『教会の教育的使命――キリスト教教育の基本的原理の反省』(日本基督教団出版部、1958(1954)、297頁)がまず読むべき名著とのこと。古いところでは他に、R.C.ミラー(安村三郎訳)『聖書神学とキリスト教教育』(日本基督教団出版部、1962(1956)、344頁)は、子供の成長段階に沿っての具体的指針、R.C.ミラー(太田俊雄、中沢三千子訳)『教会とキリスト教教育』(日本基督教団出版部、1966(1961)、369頁)は、キリスト教教育における教会の本質の重要性について、R.ヘンダーライト(山内一郎訳)『教会教育の神学――赦しと希望』(日本基督教団出版局、1968(1961)、223頁)は、キリスト教教育における認識論、人間論、倫理、及び、終末論の視点から諸問題を考察、L.M.ラッセル(今橋朗、岸本羊一、山内一郎訳)『キリスト教教育の革新』(新教出版社、1971(1967)、280頁)はキリスト教教育の場、構造、方法、目的について、など。

教育原理については、小林公一・稲生勁吾編『新教育原理 改訂版』(日本キリスト教教育センター市民セミナー出版部、1981)。

最近出版された本、未分類

ルシアン・E.コールマンJr.(鍋倉勲訳)、『なぜ教会は教えるのか――教会の教育的使命』、日本基督教団出版局(出版サービス)、2007、206頁、1890円。
P.J. パーマー(小見のぞみ、原真和訳)、『教育のスピリチュアリティー――知ること・愛すること』、日本基督教団出版局、2008、258頁、2310円。
森一弘、田畑邦治、M・マタタ編、『教会と学校での宗教教育再考――〈新しい教え〉を求めて』、オリエンス宗教研究所、2009、320頁、2310円。
山内一郎、『新約聖書の教育思想』、日本基督教団出版局、2014、330頁、3200円+税。

4.1 キリスト教教育史

キリスト教教育の歴史については、高崎毅「キリスト教教育史概観」(高崎毅、太田俊雄監修『キリスト教教育講座第二巻 キリスト教教育の原理』、新教出版社、1958、pp.9-50)を見る。小林公一編著『キリスト教教育の背景』(ヨルダン社、1979、264頁)にも「キリスト教教育史」がある。

日本のキリスト教学校教育の歴史について、キリスト教学校教育同盟編『日本キリスト教教育史 思潮篇』(創文社、1993、680頁、4800円)という詳細な本がある。これの姉妹書に『日本キリスト教教育史 人物篇』(創文社、1977、480頁)がある。

NCC教育部歴史編纂委員会編、『教会教育の歩み――日曜学校から始まるキリスト教教育史』、教文館、2007、264頁、2100円。
NCC教育部の100周年記念事業の一つとして刊行された、明治初期からの日本の教会教育の歴史。「第1部 年表」では、全体を6期に分けて、各期ごとに年表の前に見開き2ページで概説されているのがよい。日曜学校・教会教育関係の歴史とキリスト教界・一般歴史とを並べた150ページにわたる詳細な年表(呉寿恵、小見のぞみ、朴憲郁、吉高叶、大嶋果織)。第2部は、13の「テーマをめぐる論考」。戦前、戦時下、戦後のカリキュラムなど。
NCC教育部の70周年記念として発行された片子沢千代松他編、『日本における教会学校の歩み : 1859-1977』(日本キリスト教協議会教育部、1977)は、写真と年表によって構成されたもので、これを参照しつつも、歴史資料を検証して全体を新たに編纂し直したものとのこと。

4.2 教会教育

カテキズムを中心とする教理教育については、三要文とカテキズムのページを参照。

佐藤敏夫、高崎毅、『現代と教会教育』(現代と教会新書)、日本基督教団出版部、1966、186頁。
佐藤敏夫「今日の時点における教会(日本)内外の状況」、高崎毅「現代における教会教育の使命」「教会論における教会教育の位置づけ」の3講演集。

礼拝として教会学校の役割を位置づけ、洗礼に導くこと大切にするために役立つ文献

加藤常昭、『子どものための説教入門(信徒のための神学講座)』、日本キリスト改革派教会西部中会教育委員会(聖恵授産所出版部発売)、2001、202頁、1429円。
講演と質疑応答、付論として「教会学校説教の課題と方法」。全体として、教会学校の使命から説教論、そして説教準備から語り方まで具体的な指針。この中で「私が主張したことは、教会学校を<学校>と捉えるよりも、<子どもの教会>とする理解を明確にしたいということであった」(加藤常昭『自伝的説教論』p.93f)

朴憲郁。たとえば「神学教育におけるキリスト教教育」(NCC教育部歴史編纂委員会編『教会教育の歩み』教文館、2007)。もっといい文献があるかな。

「子供たちが日曜日の朝来てくれなかったならば、子供たちが来てくれる時間と場所を作ったらいいではないか。教会や教会堂に来てくれなかったならば、こっちから訪ねたらいいではないか。」(加藤常昭『これからの日本の教会の伝道』日本基督教団出版局、2003、p.22)

教師向けのハンドブック

2010.10.20全面的に更新
CS活性化推進委員会編、『21世紀教会学校ハンドブック』、CS成長センター、2008、255頁、1365円。
執筆者は、矢吹博、杉本玲子、福井誠、後平一。
日本基督教団教育委員会編、『教会学校教師ノート』、日本基督教団出版局、19881,19943、224頁。
執筆者は、斎藤道雄、石川和夫、高寺幸子、佐伯幸雄、西尾操、三井啓示、横野朝彦、島しづ子。
全国連合長老会編、『日曜学校教師の手引き』、全国連合長老会、1979(1993第3刷)、168頁。
執筆者は、永井修、森田武夫、藤原亮、鳥羽徳子、鳥羽和雄、白井正之、菊間俊彦、牧浦昇。

4.3 家庭教育

安達寿孝がかなり専門的な著作を2つ出している。『キリスト教家庭教育の源流』(新教出版社、352頁、2136円)と『キリスト教家庭教育の展開――アメリカ・ピューリタン社会の場合』(新教出版社、1998、280頁、2800円)。

H. ブッシュネル(森田美千代訳)、『キリスト教養育』、教文館、2009、452頁、4410円。
原著1861年初版。1967年のリプリント版第5刷からの翻訳。教育ではなくて「養育」(Nurture)。家庭での長期にわたる信仰養育に焦点を当てる。親の「自然的愛情」のみでは子どもの養育は不可能で、信仰者としての親となるべき。有名な「子どもは、クリスチャンとして成長すべきであり、決してクリスチャン以外の者として自らを知るべきではない。」は、p.13とのこと。
訳者による著作に『『キリスト教養育』と日本のキリスト教』(教文館、2011、208頁、2625円)がある。これはブッシュネルの研究書で、「ブッシュネルがなぜ19世紀のアメリカにおいて「キリスト教養育」ということを唱えたかについて、その成立過程をていねいに分析し、かつ、ブッシュネルの主張をよくかみ砕いて紹介している」。田中かおるの書評、『本のひろば』、2011.11、p.16。

4.4 学校教育

歴 史

2015.11.23全面的に更新

日本におけるキリスト教学校教育の歴史については、キリスト教学校教育同盟百年史編纂委員会編、『キリスト教学校教育同盟百年史』、教文館、2012、400+24頁、3675円。及び、年表が、キリスト教学校教育同盟百年史編纂委員会編、『キリスト教学校教育同盟百年史 年表』、教文館、2010、126頁、1260円。「キリスト教学校教育同盟」のサイトに正誤表あり。さらに、非売品で「資料編」があるとのこと。「キリスト教学校教育同盟」は、1910年設立の「基督教教育同盟会」に始まる。

キリスト教学校教育同盟に加盟しているキリスト教学校の歩みについてまとめられたものに、キリスト教学校教育同盟編、『創立の礎――加盟校の歩み キリスト教学校教育同盟創立100周年記念』、キリスト教学校教育同盟、2011、200頁がある。

大西晴樹、『キリスト教学校教育史話――宣教師の種蒔きから成長した教育共同体』、教文館、2015、216頁、2600円+税。ヘボン、ブラウン、フルベッキから未来に向けての提言まで。

「教育の神学」

学校伝道研究会編、『教育の神学』、ヨルダン社、1987、315頁、2800円。
大木英夫、佐藤敏夫、倉松功、近藤勝彦、古屋安雄、斎藤正彦、西谷幸介らの論文集。
第1章 教育の神学
大木英夫「教育の神学――現代日本におけるキリスト教学校の文化的意義との関連で」
佐藤敏夫「キリスト教文化倫理学の構想――キリスト教学校再興」
倉松 功「キリスト教学校の愁眉の諸問題」
近藤勝彦「プロテスタント大学の理念――「大学の神学」をめざして」
第2章 歴史的考察
古屋安雄「今日のキリスト教学校における伝道の使命」
斎藤正彦「教会と学校の宣教協力の現状と課題――日北米宣教協力会(JNAC)の問題をめぐって」
西谷幸介「日本の神学における<教育>の論議」
第3章 学校礼拝とチャプレン
倉松功、伊藤久男、高橋義文の3論文。
朴憲郁によれば、倉松功「キリスト教学校礼拝論」は「学校の教会化」の可能性を臆することなく追求しているという。また、伊藤久男「キリスト教大学における主教主任制度」はキャンパス・ミニストリーと宣教/伝道を同一視してしまっているという。朴憲郁「キャンパス・ミニストリーと担い手」 in 東京神学大学総合研究所『紀要』13号、2010、p.128。
第4章 キリスト教学校教育
土戸清、倉松功、小島一郎、鈴木有郷、東方敬信、清水正、本田栄一各論文。
第5章 教会と学校
斎藤正彦、鷲山林蔵、浜田辰雄、荒井多賀子の各論文。
学校伝道研究会編、『キリスト教学校の再建――教育の神学 第二集』、聖学院大学出版会、1997、286頁、3400円。
学校伝道研究会の紀要『キャンパス・ミニストリー』に掲載された12編と新たに執筆された4編。主な論文は、大木英夫「キリスト教学校の現代的意味――第三ミレニアムとキリスト教学校」、古屋安雄「魅力あるキリスト教授業であるために」、近藤勝彦「競争主義社会における教育の問題」、斎藤正彦「キリスト教学校教育におけるキャンパス・ミニストリーの役割りと位置づけ」など。
学校伝道研究会編、『キリスト教学校の形成とチャレンジ――教育の神学 第三集』、聖学院大学出版会、2006、282+31頁、3990円。
第1部は「学校伝道研究会の理念」として、2005.4に打ち出したミッション・ステートメントじついて。第2部「国家・社会とキリスト教学校の使命」では、倉松功、深谷松男、近藤勝彦、阿久戸光晴の4論文。第3部「学校伝道の展開」はいくつかの各論。

理念とか

「教育の神学」の諸論文の他に、

キリスト教学校教師養成事業委員会編、『キリスト教学校教育の理念と課題』、キリスト教学校教育同盟、1991、373頁、2800円。
執筆陣は赤木泰とか讃岐和家とか? 松川成夫「総論 キリスト教に基づく教育――日本におけるその意味と役割の教育史的考察」など。
キリスト教学校教育同盟から出ている本は他に、『キリスト教学校の教育――中・高教師のために』(1987、216頁、1500円)とか、『日本におけるキリスト教学校教育の現状』(正が1961、補遺が1966)とか。
深谷松男、『キリスト教学校と建学の精神』、日本基督教団出版局(出版サービス)、2009、199頁、1785円。

古いところでは、青山学院・関西学院編『キリスト教教育の理想と現実』(創文社、1968、289頁)。

最近のものでたまたま見かけたものに、平塚敬一、『時代を見据えて――キリスト教学校教育の将来は』、聖公会出版、2011、264頁、1890円。

教会との関係について

教会と学校教育との関係は重要なテーマだろう。『キリスト教学校の再建』の中の松川成夫「『キリスト教に基づく教育』を考える」のp.102,106あたり、斎藤正彦「キリスト教学校教育におけるキャンパス・ミニストリーの役割と位置づけ」のpp.227-231を見る。

キリスト教大学教育

特に、キリスト教大学教育に関しては著作・論文が多くあり、一つの分野を形成している。以下、主なもの。

90年代: 古屋安雄『大学の神学――明日の大学をめざして』(ヨルダン社、1993)、雨貝行麿『キリスト教教育の使命――大学教育とキリスト教』(ヨルダン社、1997)、東京基督教大学共立基督教研究所編『大学とキリスト教教育』(ヨルダン社、1998)、倉松、近藤『キリスト教大学の新しい挑戦』(聖学院大学出版会、1998)など。翻訳で、アーサー・F. ホームズ(宮平望訳)『知と信の対話――キリスト教教育の理念』(一麦出版社、1999)には関連の文献表あり。

00年代: 倉松功『私学としてのキリスト教大学――教育の祝福と改革』(聖学院大学出版会、2004、276頁、3150円。四国学院キリスト教教育研究所編『大学とキリスト教教育』(四国学院キリスト教研究所叢書、新教出版社、2005、280頁、3675円)は、古屋安雄、中山弘正、小川圭治、山内一郎、土井省吾、土戸清、隅谷三喜男、山崎和明が執筆。

10年代: 青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究部編『キリスト教大学の使命と課題――青山学院の原点と21世紀における新たな挑戦』(教文館、2011、278頁、1680円)、スタンリー・ハワーワス(東方敬信監訳)『大学のあり方――諸学の知と神の知』(青山学院大学総合研究所叢書、ヨベル、2014、384頁、3500円+税)(訳者は塩谷直也、高砂民宣、西谷幸介ら)など。

最近のものでたまたま目に留まったもの

近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、306頁、4410円。
この第V部が「教育とキリスト教学校」で、「キリスト教学校だからこそできること」、「「人格」教育とは何か」などを収録。

4.5 神学思想と教育

山内一郎、『神学とキリスト教教育』(神学双書6)、日本基督教団出版局、1973、330頁。
「第一部 キリスト教教育研究の動向」で、バルト神学以降の独米英のキリスト教教育理論の動向を概観、「第二部弁証法神学以降の教育思想」で、バルト、ブルンナー、ブルトマン、ティリッヒの神学と教育の問題、「第三部 現代神学とキリスト教教育」で、史的イエスの問題、「経験」教育、解釈学的課題を取り上げる。
バルト神学からのキリスト教教育の可能性を論証した小樋井滋『バルト神学と宗教教育』(ヨルダン社)の中の佐藤敏夫の解説によると、山内一郎のこの本の方が「よくまとまっておりそつがない」。しかし、朴憲郁は、小樋井がKD,W/3の中に「教会と聖書の外の諸思想への相対的肯定の主張を発見し、・・・そこから公教育を基礎づけようと試みた」ことは、「学校教育における諸宗教教育の意義をキリスト教教育の立場で再考する場合にも、極めて有益な示唆を与えてくれる」と評価する(朴憲郁「多宗教社会におけるキリスト教教育学の課題」(倉松功、近藤勝彦編『福音の神学と文化の神学――佐藤敏夫先生献呈論文集』教文館、1997))
宮本武之助先生喜寿記念論集編集委員会編、『キリスト教と教育の接点』、日本YMCA同盟出版部、1982、258頁。
小林政吉、大須賀潔、隅谷三喜男、佐藤敏夫、松川成夫、倉松功、茂泉昭男、一柳やすか、宮本武之助。
小林公一編著、『キリスト教教育の背景』、ヨルダン社、1979、264頁。
『教会教育』、『聖書教育』、『教師の友』などの連載をまとめたもの。「神学と教育――キリスト教教育の背景としての神学」と「キリスト教教育史」の2部立て。「神学と教育」の中で、シュライエルマッハー、リッチュル、トレルチ、ヘルマン等、アルトハウスとニグレン、バルト、ブルンナー、ティリッヒ、ブルトマン、ニーバーを挙げて、彼らの神学と教育との関係を探る。
青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究センター編、『ジョン・ウェスレーと教育』、ヨルダン社、1999、256頁、2000円。
6論文。巻末に主要文献解題とウェスレー年表あり。青山学院大学のキリスト教文化研究センターからの教育関係の研究報告には、『現代におけるキリスト教教育の展望』(ヨルダン社、1996、271頁、2136円)が先に出ている。
大曽根良衛「ウェスレーとモラヴィアニズム」
東方敬信「ジョン・ウェスレーのキリスト教倫理」
三浦正「ジョン・ウェスレーにおけるキリスト教教育論の基底」
池田稔「ジョン・ウェスレーとキングスウッド・スクール」
深町正信「ジョン・ウェスレーと日曜学校運動」
大森秀子「アメリカにおけるメソジスト監督教会日曜学校運動」

他に、ジャック・l.シーモア編(奥田和弘、西垣二一訳)『キリスト教の現代的展開』(新教出版社、1987(1982)、254頁)、上山修平『子どもの神学――教会刷新の手がかり』(大森講座V、新教出版社、1988、74頁)など。

4.6 一般の教育との関係や人間形成の視点という感じのものなど

青山学院大学総合研究所 キリスト教文化研究センター編『キリスト教と人間形成――ウェスレー生誕三〇〇年記念』(新教出版社、2004、356頁、2500円)の巻末に、「人間形成」の観点からの文献ガイドがある。簡単な紹介文つきなのがたいへんよい。

小林公一、『一般の教育とキリスト教教育』(教師の友文庫)、日本基督教団出版部、1963、203頁。
小林公一(こばやし・こういち)は1915.11.28-2004.10.15。
吉岡良昌、『キリスト教教育研究――信仰に基づく人間形成』、聖恵授産所出版部、1994、339頁。
大木英夫、『「宇魂和才」の説――21世紀の教育理念』、聖学院大学出版会、1998、300頁。
論文集。
東方敬信、『生きるための教育――教育人間学とキリスト教』、教文館、2009、208頁、1890円。
論文集。「キリスト教教育の再構築をめざして」、「成長と回心について」、「信仰発達論をめぐって」、「生の全的変革と信仰発達論」、「道徳性発達論と聖書」(『キリスト教と人間形成』所収)、「物語の神学と礼拝教育」、「贈与の教育学」。

最近のものでたまたま目に留まったもの

近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、306頁、4410円。
この第V部「教育とキリスト教学校」の中に、「「愛国心」教育の落とし穴」、「回心とアイデンティティの形成――教育における取り組み」、「「人格」教育とは何か」などを収録。

4.7 信仰・教会生活への入門書

2010.10.20全面的に更新

未信者・求道者向け、あるいは受洗後の信仰入門や教会生活の入門書には、(1)キリスト教の考え方や人生観・世界観などのキリスト教入門、(2)聖書入門、(3)教理的な面からの信仰入門、(4)教会生活入門、と分類できるだろうが、明確に切り分けることはできない。聖書の入門書は、聖書の翻訳と解釈学のページの中でまとめられている。その他、祈りについての本は、三要文のページの中の「主の祈り」の項目の中で。

ついに出た、洗礼準備教育用をはっきり銘打ったものとして、朴憲郁、平野克己監修(大澤秀夫、筧伸子、田中かおる、古谷正仁)、『10代と歩む洗礼・堅信への道』、日本基督教団出版局、2013。が出た。全15章、CD-ROM付き。

(1)キリスト教入門

2015.11.23全面的に更新

キリスト教への入門は、聖書について、信仰内容や、キリスト教の歴史、現代社会との関わり、人物から入る、芸術や文学から入るなど実に幅広い。

記述の仕方も、中高生向けからインテリ向けまでさまざま。

古いもので、高柳俊郎(信徒、理科の先生)による中高生向けのものに、『はじめてのキリスト教』(日本基督教団出版局、1987、158頁、980円)は、「宗教とは」、「神さまはいるのか?」など素朴な質問と答え31項。この続編に、『もっと知りたいキリスト教』(日本基督教団出版局、1993、182頁)がある。さらに、『これがキリスト教』(日本基督教団出版局、1995、128頁、1262円)というのもあるらしい。

最近のものでまともそうなもの

マクグラス(本多峰子訳)、『総説 キリスト教――はじめての人のためのキリスト教ガイド』、キリスト新聞社、2008、726頁、7875円。
キリスト教の全体像をきちんと整理して叙述したもの。原著第2版からの翻訳。第1章「ナザレのイエス」から聖書、信仰内容の背景と概要、キリスト教史、世界的な視点での現代のキリスト教、信仰生活など全9章。巻末にキリスト教用語集あり。さらに学びたい方への文献リストは原著にある英語のものだけで残念。
関川泰寛、『ここが知りたいキリスト教――現代人のための道案内』、教文館、2010、238頁、1890円。
ほとんどキリスト教の知識のないインテリ向けに書かれた。第1章と第2章の旧約聖書と新約聖書についての紹介の後、第3章「キリスト教の謎」として、死海文書、なぜキリスト教はローマ社会に広まったのか、なぜ宗教戦争は起こるのか。第4章は歴史、第5章は「キリスト教と現代」として、現代における聖書解釈の問題と教会共同体、キリスト教と諸宗教、教育、道徳(特に「殺すなかれ」をめぐって)。第6章は、人間の生涯、職業観、生きる勇気、なぜ悪が存在するかなど。各章末に参考文献が挙げられているのがよい。

J. ゴンザレス(金丸英子訳)、『これだけは知っておきたいキリスト教』、教文館、2012、193頁、1890円。

大学の教科書用に書かれたもの

森本あんり、『現代に語りかけるキリスト教』、日本基督教団出版局、1998、118頁、945円。
創造と進化、奇跡、環境問題、労働、苦難、性倫理、自己決定権、信教の自由と人権、カルト、他宗教など。
D.N.マーチー(佐々木哲夫訳)、『はじめて学ぶキリスト教』、教文館、2002、346頁、2625円。
芦名定道、土井健司、辻学、『改訂新版 現代を生きるキリスト教――もうひとつの道から』、教文館、2004、318頁、2100円。
青山学院宗教センター編、『地の塩、世の光――人物で語るキリスト教入門』、教文館、2006、229頁、1800円+税。
CD-ROM付き。
嶺重淑、『キリスト教入門――歴史・人物・文学』、日本基督教団出版局、2011、104頁、1260円。
キリスト教史と主な人物と文学作品の三つのみを取り上げて、各項目見開き2頁に収めた入門書。第T部「歴史」では、キリスト教の歩みとして、紀元以前、紀元1世紀、古代、中世は二回、宗教改革時代二回、近代2回、そして20世紀後半以降の全10回で紹介。その後、日本キリスト教史が5回。第U部「人物」では、アウグスティヌス、アッシジのフランチェスコ、ルター、カルヴァン、ザビエル、ウェスレー、シュヴァイツァー、バルト、コルベ、ボンヘッファー、ハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄妹を入れているのは特徴的、そして、キング、マザー・テレサ、日本人から内村鑑三と賀川豊彦のふたりだけ(植村正久とか新島襄も入れておけば良かったねえ)、全部で15名。第V部「文学」では『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、トルストイ『復活』、ジッド『狭き門』、ディケンズ『クリスマス・キャロル』、日本人の作品で、『沈黙』、『深い河』、『氷点』、『塩狩峠』、『駆け込み訴え』の10作品を紹介。参考文献や読書案内も各項目に挙げられている。教会の学びでもちょっと紹介するのに便利そうだ。
聖学院キリスト教センター編、『神を仰ぎ、人に仕う――キリスト教概論〔改訂21世紀版〕』、聖学院大学出版会、2013、270頁、2205円。
2013年に聖学院全体で使用する聖書が従来の『口語訳』から『新共同訳』に変更されたことに伴う改訂版。若干の手直しも加えられているとのこと。

Q&A形式で書かれていて、簡潔さをねらっているが、教会生活を扱っているわけではないし、教理入門としては不十分だし。

後藤正敏、関川泰寛、長谷川宣恵、船本弘毅、『信仰30問30答』、日本基督教団出版局、1997、130頁、1000円。
キリスト教入門的。各項を4頁でそろえた「人間とは何か」、「失われた人間」など30項。「信仰の基本的な事柄を明確に伝え、この時代に生きるキリスト者が直面するさまざまな問題に対して、いかに考え取り組むべきかを具体的に指し示す」(「はじめに」)。それゆえ、性の問題、生命科学、環境問題に関する項もある。全項に80字ほどの要約がついている。
井ノ川勝、小友聡、越川弘英、小林よう子、辻中明子、『イエスと共に歩む生活――はじめの一歩Q&A30』、日本基督教団出版局、2010、135頁、1260円。
第T部の15問答は、神、イエス・キリスト、聖霊、教会、礼拝、聖書について。第U部の15問答は、信仰生活、悔い改め、祈り、戦争、一神教と多神教、カルト、命、病気、自殺、いじめ、離婚、死、老い、死後について。巻末の執筆者紹介で誰がどの問答を書いたかが分かる。
第3の問答「人間は、何のために創造されたのでしょうか。」について「人間がなんのために創造されたのかという問いの答えもわたしたちにはわかりません。」だと(小林よう子の筆)。詩編102:19を読んだことがないのか。
第11の問答「教会とは建物のことだけを言っているのではなさそうですが、何のことなのでしょうか。」について、せっかく意味ありげな質問になっているのに、教会が「キリストの体」であることも、キリストを頭としていることも、神の国を世に映し出していることも、聖霊の宮であることも(せっかくすぐ前の問答は聖霊についてだったのに)、信仰による一致についても語られていない(辻中明子の筆)。ただいろんな人が集まっているという見方しかできていなく、まったくダメ。
第12の問答(辻中明子の筆)では、「1534年には「国王至上法」(首長令)と共に英国国教会(聖公会)が設立しますが、その15年後にはザビエルが日本に到着しています。」って、文章がめちゃくちゃ。

(2)信仰入門

2015.11.23全面的に更新

教理的な信仰入門は三要文のページを参照。

C.S.ルイス(柳生直行訳)、『キリスト教の精髄』(C.S.ルイス宗教著作集4)、新教出版社、1977、358頁、2800円。
今日でも読まれている重要な書。キリスト教に関する様々な事柄の説明ではなく、キリスト教信仰の急所を語るような感じ。
アリスター・マクグラス(稲垣久和、広田貴子訳)、『信仰の旅路――たましいの故郷への道』、いのちのことば社、2003(1999)、203頁、1470円。
神に近づいていく信仰の旅路を、すでに先に旅をした先達たち――アンセルムス、ルター、ウェスレー、ジョナサン・エドワーズから、J.I.パッカーなど――に導かれて歩む。アレキサンダー・マクラレンという19世紀のスコットランドの有名な説教者は知らなかった。未信者向けの入門というより、すでに信仰生活を歩んでいる者向けの信仰の養いによい。
久野牧、『キリスト教信仰Q&A』、一麦出版社、2008、141頁、1890円。
教理的な面について、求道者や信仰に入って間もない人たちが抱く、信仰に関するさまざまな疑問に答える。

大野恵正、『神と人間――キリスト教をめぐる対話』、教文館、1995、235頁、2500円。見ていないので不明。

(3)教会生活入門

80年代以前

石島三郎『信仰生活入門』(新教新書60、新教出版社、1962)は、対話形式で、かつては禁酒を信徒にも説いていたが後に自分も飲むようになった話あり。他に、芦名直道、『教会生活案内』、キリスト新聞社、1982、166頁。

日本基督教団東京教区編、『信徒必携』(新改訂版)、日本基督教団出版局、1998、134頁、460円。
1953初版、1959改訂、1965新版、1980改訂新版、1998新改訂版(通算27版)。受洗後教育向け。
辻宣道、『教会生活入門』(教会生活の手引き1)、日本基督教団出版局、1979、98頁、450円。
『教会生活の処方箋』の姉妹編。
石井錦一、『教会生活を始める』、日本基督教団出版局、1988、254頁、1200円。
著者が「信徒の友」にさまざまに執筆した文章を一つにまとめたもの。あとがきは「上島時之助をおぼえて」。
尾山令仁、『新版 信仰生活の手引き』、いのちのことば社、1989、118頁、1155円。
1956初版、1958再版、1966改訂、1985新装、1989新版。

90年代以降

加藤常昭、『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』、教文館、1994(初版)1998(再版)、426頁、1800円。
古屋治雄、『教会生活ハンドブック』、日本基督教団出版局、1999、96頁、950円。
受洗後教育向け。
楠本史郎、『教会生活案内1――教会に生きる』、日本基督教団出版局、2002、117頁、1260円。
「教会生活案内」のシリーズ全4巻の中の第1巻。信仰告白と洗礼と教会、礼拝と聖礼典と交わり、伝道と証し、祈りと献金と奉仕と学び、冠婚葬祭、献身、教会の制度(教師、現住陪餐会員、教会総会、役員会など)。
久野牧、『教会生活の道案内』、一麦出版社、2009、193頁、2100円。
信徒教育向け。教会を「出来事としての教会」と「制度としての教会」の二面から捉えて体系化。なかなか意欲的な提言も含められている感じ。「第1章 教会」で、教会、伝道、交わり、奉仕。「第2章 礼拝」で、礼拝、聖書、説教、信仰告白、献金、教会暦など。それとは別に「第3章 聖礼典」を立てて、洗礼と聖餐と並んで、小児洗礼と病床聖餐。第4章は祈り。「第5章 キリスト者の生活」は牧会、証し、死と葬儀、結婚とその式。第6章が「教会の制度」。その最後で「曲がり角にきた活動をどうするか」。この構成の難点は、伝道の位置づけが弱く感じるところと、信仰告白と制度とのつながりが希薄に感じられるところか。
黒木安信、『新版 教会生活の手引き――礼拝とは、交わりとは、祈りとは。』、ヨベル、2010、112頁、1365円。
最初は、『教会生活の手引き――浅草橋教会と共に』、2003。黒木安信は1935.6.29-2015.2.23。
2012年からの新シリーズ「信仰生活の手引き」全五巻。各約160頁、1300円+税。深井智朗『伝道』2012、塩谷直也『聖書』2012、井ノ川勝『教会』2012、越川弘英『礼拝』2013。左近豊『祈り』。

(4)その他

近藤勝彦

近藤勝彦のものに、『中断される人生――キリスト教入門』(教文館、1989)は説教集。日本伝道出版株式会社から、『礼拝と日々の生活』(1995)、『教会とその生活を学ぶ』(1999)もある。

『教会生活の要点』(東神大パンフレット38)、東京神学大学出版会、2010、156頁、735円。

いのちのことば社からのもの

尾山令仁、『新版 一問一答』、いのちのことば社、1989、133頁、930円。
83問答を13のカテゴリーに分類。信仰に入る前に抱く疑問に答え、また未信者からぶつけられる質問に答える。保守的な立場のものだが、私ならどう答えるかを考えさせられる点で、どのような問いが立てられているかはとても参考になる。
Hi-B.A.(高校生聖書伝道協会)、『キリスト教なんでもQ&A』、いのちのことば社、1990、95頁、750円。
高校生向けの超素朴な疑問43問答。続編に『キリスト教なんでもQ&A2』(1992、103頁、900円)もある。「なぜエイズなんてあるんですか?」、「イエス様も恋をしたの?」、「ゴキブリも神様が造ったの?」などなど。
川端光生、『スッキリわかるキリスト教』、いのちのことば社、1998、222頁、1300円。
これですっきりわかるかどうかはわからないが、上の尾山令仁のよりも理屈っぽく説明された37問答。「神の存在を証明できるか」「神の存在を確信できるか」など。

相当くだけたもの

そんなんでいいんかい?!という感じで、腰もくだける。

春名康範、『疑問がハレルヤ キリスト教――はるな牧師の「お答えします」』、日本基督教団出版局、2001、189頁、1500円。
『こころの友』連載のQ&A集。各項とも見開き2頁に抑えた81問答。
山北宣久、『おもしろキリスト教Q&A77』、教文館、2001、166頁、1200円。
これで答えになってるのかい?と思わせるチョー軽い問答集。続編に、『おもしろキリスト教質問箱[Q&A77]』(教文館、2006、164頁、1200円)。

5.伝道学・伝道論

5.0 いろいろ

東京ミッション研究所の西岡義行が2001.6.30キリスト新聞で勧める宣教学の本ベスト11のうち日本語のものは、

D.ボッシュ、『宣教のパラダイム変換』、新教出版社、1999,2001
H.クレーマー、『信徒の神学』、新教出版社、1960
東京ミッション研究所編、『これからの日本宣教』、いのちのことば社
W.A.ミークス、『古代都市のキリスト教――パウロ伝道圏の社会学的研究』、ヨルダン社
J.H.ヨーダー、『イエスの政治――聖書的リアリズムと現代社会倫理』、新教出版社、1992
S.ハワーワス、W.H.ウィリモン、『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』、教文館。

宇田進、『宣教学文献リスト』 (共立モノグラフno.1)、東京キリスト教学園共立基督教研究所、1984年。というのがあるらしい。

5.1 伝道しよう!

2015.11.23全面的に更新

教会員と共に読んで、伝道について学ぶというより、伝道への意欲につながる、入手容易な比較的最近の本、厳選3冊。

加藤常昭、『これからの日本の教会の伝道』、日本基督教団出版局、2003、69頁、950円。
近藤勝彦、『日本の伝道』、教文館、2006、260頁、2100円。
深井智朗、『伝道』(信仰生活の手引き)、日本基督教団出版局、2012、152頁、1365円。

5.2 宣教って何だ?

越川弘英編、『宣教ってなんだ?――現代の課題と展望』(現代の教会を考えるブックレット3)、キリスト新聞社、2012、182頁、1680円。
著者は越川弘英、石田学、松田和憲、鈴木脩平、濱野道雄。石田学「日本の宣教を考える」、松田和憲「21世紀における『宣教の神学』を探る」など。。

「宣教」という言葉は実に様々な意味で用いられている。以下、荒削り。

A: 教会における御言葉の告知(proclamation)
 A-1:説教と聖礼典、通常の礼拝としては説教と聖餐
 A-2:特に説教(preaching)
 A-3:その内容すなわち福音の使信(ケリュグマ)
B: 神から遣わされて人々を神の民へ導く(mission)
 B-1:教会の使命として(伝道)
 B-2:キリスト者の社会生活の中で(証し)
C: 未信者への福音の宣べ伝え
 C-1:福音をまだ知らない人への福音の伝達(propagating the Gospel)
 C-2:未信者を信仰に導く(evangelization)
 C-3:特に個人的回心を重視するタイプの伝道(outreach)
D: 非キリスト教文化への福音の宣べ伝え
 D-1:非キリスト教地域での福音の定着を目指す(文脈化、contextualization)(なお、土着化indigenizationと言ったら、現地の文化によって変質した形でキリスト教的なものが定着することを指す)
 D-2:特に習慣や価値観や社会のしくみがキリスト教化する(christianizaiton)
 D-3:福音の文化内開花(incultuarization)
E: 教会やキリスト者が信仰に基づいて行う社会的活動や奉仕
 E-1:教育、福祉、医療の分野で
 E-2:人権問題、差別問題、天皇制に関わる運動
 E-3:信仰者個々人の奉仕の業(愛の業)

Aは礼拝学や説教学のパースペクティブ、BとCが伝道、Dは弁証学的?なパースペクティブ。Eは教会の使命としての愛の業あるいは倫理のパースペクティブ。ということで、「宣教」という言葉は、意味が広すぎるので、やめにしません?

5.3 もはや古典的なもの

ホーケンダイク(戸村政博訳)、『明日の社会と明日の教会』(現代神学双書30)、新教出版社、1966(1966)、306頁。
巻末に熊澤義宣の「J.C.ホーケンダイク――人と思想」あり。
ヘンドリック・クレーマー(小林信雄訳)、『宣教の神学――キリスト教信仰のコミュニケーション』(現代神学双書3)、新教出版社、1960(1956)、204頁。
他に、小林信雄訳『信徒の神学』(現代神学双書2)、新教出版社、19601,19682(1958)、246頁も。
ジェラルド・H.アンダーソン編(土居真俊訳)、『福音宣教の神学』、日本基督教団出版局、1969(1961)、341頁。
レスリー・ニュービギンの序言、ジェラルド・H・アンダーソン「二十世紀プロテスタント諸教会における宣教の神学」、G.アーネスト・ライト「福音宣教の旧約聖書的根拠」、クルマン「新約聖書における終末論と宣教」、バルト「マタイによる福音書28章16-20節の釈義的研究」、クレーマー「宣教における神学的問題としてのシンクレティズム」、ティリッヒ「宣教と世界史」など。

日本人によるものに、

熊澤義宣、『明日の神学と教会』、日本基督教団出版局、1974、372頁。

5.4 宣教の歴史

D.J.ボッシュ(東京ミッション研究所訳)、『宣教のパラダイム転換』(上:「聖書の時代から宗教改革まで」、下:「啓蒙主義から21世紀に向けて」)、東京ミッション研究所(発売:新教出版社)、上:東京ミッション研究所選書シリーズ3、1999、458頁、6700円; 下:東京ミッション研究所選書シリーズ4、2001、540頁、7500円。
フェルディナント・ハーン(勝田英嗣訳)、『新約聖書の伝道理解』、新教出版社、2012(1963)、240頁、3990円。
原始教会が避けて通れなかった二つの根本的問い・・・ひとつはユダヤ人と異邦人についての問い、すなわちイスラエルの優位性と救いの普遍性の問題、もう一つは伝道と教会の一体性である(p.207)。

そのほか、J.ハーバート・ケイン(横内澄江訳)、『聖書から見た世界宣教』、いのちのことば社、1982、154頁。

5.5 翻訳もの

B.C.ジョンスン(吉田信夫訳)、『これからの福音宣教像――神学の方法の再考』、日本基督教団出版局、1996(1987)、233頁。
S.ハワーワス、W.H.ウィリモン(東方敬信、伊藤悟訳)、『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』、教文館、1999。
"Resident Aliens"。
レスリー・ニュービギン(鈴木脩平訳)、『宣教学入門』、日本基督教団出版局、2010、314頁、5460円。
原題:"Open Secret"。必ずしも入門的書物ではない。御国の宣べ伝え、御子の命、聖霊の証しという点で三位一体論的に宣教を捉える。後半は、「福音と世界の歴史」、「神の正義のための行動としての宣教」、「教会成長、改宗、文化」そして「諸宗教の中の福音」。
世界教会協議会世界宣教伝道委員会編(神田健次監修、加藤誠訳)、『和解と癒し――21世紀における世界の宣教・伝道論』、キリスト新聞社、2010、165頁、2310円。

WCC世界宣教・伝道委員会編(松田和憲訳)、『現代の宣教と伝道――エキュメニカルな視点から』(教会と宣教双書16)、新教出版社、1991、178頁、1630円。

5.6 日本宣教の課題との取り組み

隅谷三喜男、『現代日本とキリスト教』(新教新書62)、新教出版社、1962、169頁。
日本伝道を妨げている日本社会の体質を分析し、教会の問題点を指摘。隅谷三喜男は2003.2.22没。
他に、隅谷三喜男、山本和編『日本における福音と文化』(現代キリスト教双書。教文館、1967、122頁)は、遠藤義光「日本文化」、関根文之助「高天原の思想とその神々」、大内三郎「明治日本文化における精神的伝統とキリスト教」、隅谷「現代日本の文化と思想」、山本「日本におけるキリスト教と諸宗教」。
隅谷三喜男『アジアの問いかけと日本』(聖学院大学出版会、1994)は何だろうか?
東京ミッション研究所編、『これからの日本の宣教――発想の大転換』(東京ミッション研究所選書シリーズ2)、東京ミッション研究所(いのちのことば社)、1994。
後藤牧人、『日本宣教論』、イーグレープ、2011、514頁、3675円。
岸義紘、根田祥一、鈴木崇巨、濱野道雄、廣瀬薫、『日本ではなぜ福音宣教が実を結ばなかったか』、いのちのことば社、2012、525円。
山口勝政、『閉塞感からの脱却――日本宣教神学』、ヨベル、2012、248頁、1890円。

5.7 近藤勝彦の伝道論

近藤の伝道に関する著作にはほかに、『教会と伝道のために』(教文館、1992、316頁)、『伝道する教会、伝道する信徒』(日本伝道出版株式会社、1995、111頁)がある。『教会とその生活を学ぶ』の中に「伝道と教会」あり。

近藤勝彦、『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』、教文館、2002、322頁、3600円。
帯のコピーは、「神学は伝道のためであり、伝道はまた、神学を必要としている」。伝道はその中心を「福音の宣べ伝え」に、つまり「キリストと神の国」の「福音」の「宣教」に置いている(「はじめに」より)。第一部「二十一世紀の日本の伝道と神学」では、現代の日本の状況と課題について、伝道する側の問題と伝道される側の国民性、教育、家庭、日本基督教団が抱える問題など。特に、説教の力の回復をフォーサイスやロイド・ジョンズに言及しながら訴える。第二部「組織神学としての伝道の神学」では、マルティン・ケーラー、トレルチ、ブルンナー、バルト、ファン・リューラー、モルトマンを取り上げる。
近藤勝彦、『伝道する教会の形成――なぜ、何を、いかに伝道するか』、教文館、2004、264頁、2000円。
日本の伝道を阻む問題、とりわけ日本基督教団の伝道を阻害している諸問題と戦いながら、伝道の本質を探り、具体的な教会生活と伝道する教会の形成を考える講演集。教会の具体的課題と取り組む伝道論であり、教会論である。
近藤勝彦、『日本の伝道』、教文館、2006、260頁、2100円。
13の講演集。
近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、306頁、4410円。
この第W部が「伝道と教会」で、「『伝道の神学』再考」、「日本伝道の現状と展望」、「スピリチュアリティとキリスト教の救い」、「現代のエキュメニズムについての一考察」の講演録・論文を収録。

5.8 加藤常昭、古屋安雄、松田和憲、その他

加藤常昭

『伝道』(鳥居坂教会文庫3)、日本基督教団鳥居坂教会、1989。
『これからの日本の教会の伝道』、日本基督教団出版局、2003、69頁、950円。
FEBCで放送された美竹教会での講演。「今必要なのは、いわゆる総花的伝道論ではなく、急所を衝くことである」(p.4)。
「改革期に海外布教に献身し、日本にまで福音をもたらしたのはカトリックであって」プロテスタントではなかった(p.37)。新共同訳では「カトリックの方たちが、長い間親しんできた「イエズス」というみ名を捨てた」(p.20)。ではプロテスタントは何を捨てられるか?
「子供たちが日曜日の朝来てくれなかったならば、子供たちが来てくれる時間と場所を作ったらいいではないか。教会や教会堂に来てくれなかったならば、こっちから訪ねたらいいではないか。」(p.22)。
「主日の朝の礼拝を大切にしたが、同時に、礼拝に来ようとせず、来ることもできない人びとへの伝道の道を問わざるを得なかった。週日にもできるだけ教会堂の扉を開き、来客を待った」(p.37)。
山室軍平の『平民の福音』を読め(p.40)。

山室軍平『平民の福音』(救世軍出版供給部)について、『桑田秀延全集 第七巻』(1976)に「日本宣教史上の名著――山室軍平『平民之福音』」という4頁ほどの文章があり、そのp.199に、「第五〇〇版は昭和四四年八月一五日に発行され、その巻頭には桑田秀延の序文がある。なお現在は五一〇版(昭和四八年二月一日発行)に達している。」とある。

山室軍平『平民の福音』は、救世軍出版供給部から1899初版。鈴木範久監修『近代日本キリスト教名著選集 第1期キリスト教思想篇・第四巻』(日本図書センター)に「平民之福音」が収録されているらしい。

古屋安雄

古屋安雄、『日本伝道論』、教文館、1995、263頁、2575円。
著者の20年周期説や「量より質」への批判にもとづいた提言。教会は、家族への伝道のために方策を考えるべき。

古屋の著作には他に、『日本の将来とキリスト教』(聖学院大学出版会、2001、346頁、3800円)、『日本のキリスト教』(教文館、2003、1800円)、『神の国とキリスト教』(教文館、2007、256頁、2310円)など。古屋の著作は、自身の「経験に基づいた勘」で語っていることが多い感じ。

松田和憲

松田和憲、『福音宣教の使命に生きる教会』、新教出版社、1999、240頁、2310円。
松田和憲、『現代日本の「宣教の神学」研究 宣教の神学――パラダイム転換を目指して』、関東学院大学出版会(発売:丸善)、2010、648頁、5775円。
ボッシュの線で日本の宣教を考える。

その他

佐伯洋一郎、『今日の教会と伝道』、日本基督教団品川教会出版委員会、1978、260頁。
大木英夫が序を書いている。他に、『伝道する教会と信徒』、1978、292頁。こちらの序は市川恭二。
大宮溥、『教会生活の手引き2 伝道』、日本基督教団出版局、1979、94頁。
なぜ伝道するか、誰が伝道するのか、何を伝道するのか、いかに伝道するかの全4章。
吉岡繁、『実践的伝道論研究』、新教出版社、1996、196頁、1854円。
内容は、改革派色が強いが、なかなかよい。
岩崎謙、『宣教する教会の説教』(大森講座18)、日本キリスト教会大森教会(発売:新教出版社)、2003、87頁、900円。
伊藤瑞男、東岡山治、西原明、石井錦一、『わたしの伝道』、日本基督教団伝道委員会(発売:日本基督教団出版局)、2010、112頁、1050円。
伊藤瑞男「どのような教会をつくるのか」、東岡山治「天のお父様、あなたの出番です」、西原明「遣わされた地を神のまなざしで」、石井錦一「信徒によって育てられた」。わたしの読書メモあり。
深井智朗、『伝道』(信仰生活の手引き)、日本基督教団出版局、2012、152頁、1365円。
「伝道に成功という言葉は似合わない」(p.10)。「伝道の幻を大いに語りたい」(p.11)。「教会が新しくなることを恐れず、たえず改革されるためのお手伝い」(p.13)。「救いの喜びを語り得る信仰をいかにして日々新たにして行くか」(p.14)。「しなやかな心と信仰とをもって、よりよく主イエスの福音を演奏できるように何度も研鑽し、そして自分を変えて行かねばなりません」(p.16)。「伝道は種まき・・・決してあきらめずに、種をまき続けなさい」(p.24-25)。「伝道は・・・ひとりひとりの救いの経験、それからあふれ出る証言です」(p.26)。「救いの喜びが、その経験に押し出されて語り出す。・・・私たちの救いの喜びという原点に立ち返らねばなりません。・・・信仰の修養、修練、研鑽、訓練が、同時に、伝道の力なのです」(p.35)。「伝道は・・・駅伝だ」(p.76)。「伝道は、・・・見返りは求めません。合理的な計算もしません。損か得かも考えません」(p.135)。最後に3ページちょっとだが、参考文献の読書案内あり。

6.教会形成論

「教会形成とは、新しい終末論的共同体の形成である。」大木英夫「戦後思想としての終末論」 in 『現代人のユダヤ人化』白水社、1976年、p.301。真珠貝が自らにとって異質な小石を核として真珠を形成するように、歴史にとって異質な永遠なる神が歴史に介入することによって、そこに新しい共同体が形成される。

6.0 いろいろ

もちろん、カルヴァン『キリスト教綱要』も見る。

『シンポジウム 教会論』(東神大パンフレット19)、東京神学大学出版委員会、1979、143頁。
「教会論」をテーマにした「教職セミナー」での講演と質疑応答。カトリック:土屋吉正、正教会:高橋保行、聖公会:八代崇、ルター派:徳善義和、改革派:榊原康夫、無教会:泉治典。なかなかおもしろい。土屋は、第二バチカン以降のカトリックの教会論の傾向を紹介。高橋は、正教会は生活の中での体験を重視しており、また西方のようなスコラ哲学、ルネサンスの影響、宗教改革などを経験していないため、アカデミックに体系化された教会論は無いとしつつ、個人的な見解として正教会の教会観を披露。八代は、聖公会綱憲の四項目から聖公会の教会観を解説。徳善はアウグスブルク信仰告白の第7条を教会の機能規定と捉えて、「教会は目に見えないものであって、同時に目に見える」とする。榊原は改革派・長老派の特徴のみならず、改革派と長老派の違いを語る。泉は無教会には教会がないので歴史がない問題を提起。

聖公会の八代崇は、聖公会綱憲について「これら四つの事柄というものは神の民がなお旅する教会であるから必要であり、不可欠である。・・・そのいずれかを救済史の文脈から切り離して、それ自体を絶対化することは誤りである」と述べている。(『シンポジウム 教会論』東神大パンフ19、p.44)つまり、この世の教会の秩序は、いかなる形態も絶対化されてはならない。

教会政治と職制は密接に関わり合っているが、以下では一応区別してまとめてみる。

また、この分野は、長老教会の思索と実践の歴史が大きく、文献も長老制の立場からのものが多いが、教会政治全般を考える上で有用。

6.1 全般にわたる入門的なもの

2010.10.20全面的に更新
古屋治雄『教会生活ハンドブック』(日本基督教団出版局、1999)の53〜58頁。
日本基督教団東京教区編『信徒必携 新改訂版』(日本基督教団出版局、1999)の64〜75頁。
楠本史郎『教会に生きる』(教会生活案内1、日本基督教団出版局、2002)の93〜111頁。

ちょっと毒舌?で異色のものだが、信徒向けでよく読まれているもの

辻宣道、『教会生活の処方箋』、日本基督教団出版局、1981。
渡辺信夫、『教会論入門』(新教新書74)、新教出版社、1963。
渡辺信夫、『教会が教会であるために――教会論再考』(新教新書237)、新教出版社、1992。

信徒向けに書かれた、もうちょっと詳しいもの

久野牧『教会生活の道案内』(一麦出版社、2009)の151〜177頁。
楠本史郎『教会役員ハンドブック』(日本基督教団出版局、2007)の11〜44頁、92〜96頁。
この旧版が、日本基督教団伝道委員会編、『新版 教会役員ノート』、日本基督教団出版局、1975年。
関川泰寛『聖霊と教会――実践的教会形成論』(教文館、2001)の「第8章 聖霊と教会制度」。長老の歴史的起源から現代の長老のつとめまで。
加藤常昭『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』(教文館、1994)の48〜103頁。
竹森満佐一、『教会と長老』(東神大パンフレット24)、東京神学大学出版委員会、1986年、50〜56頁、74〜103頁。
全国連合長老会編、『長老教会の手引き』改訂版、全国連合長老会出版委員会、1991年。
pp.22-23「教会の職制」、pp.52-68「第4章 教職・長老・執事」、pp.69-77「第5章 教会総会・連合長老会」、その他、改革長老教会の歴史も。。
『改革長老教会Q&A』、日本基督教団改革長老教会協議会。

6.2 教会政治

長老主義、改革派の立場から

「改革派」の教会政治観の特徴については、ジョン・H・リース(吉田信夫訳)『改革派教会の伝統』(新教出版社、1989)。カルヴァンの教会政治についての考え方と長老制について。そのほか、改革派における司教制度や会衆制度についても紹介している。

吉岡繁、『教会の政治』、小峰書店、1972、172頁。
著者は日本キリスト改革派教会の教師。6つの章からなり、Tでは見える教会と見えない教会、U〜Wで教会政治(職制を含む)、Xで戒規、YでWCCについて語る。長老主義神定説に立つ。小会と中会・大会との関係については、各個教会の自治権を強調するベルコフを引用している。キリストの三重の職務に対応した三つの教会の職務を挙げつつも、「教会の職務」遂行の権能がなぜ「役員」たちに限られるのか、説明が十分でない。また、執事職がなぜ教会会議のメンバーとならないのかも説明されない。最後の章ではWCCを色々批判しているが結局は、改革派教会は、リベラリズムとの戦いを通して誕生したものであるゆえに、リベラルな教会が加わっているWCCに加入するわけにはいかないと言っている。
ウォルター・L.リングル(上河原立雄訳)、『長老教会――その歴史と信仰』(聖恵・神学シリーズ10)、聖恵授産所、1979(1971)、186頁。
竹森満佐一、『教会と長老』(東神大パンフレット24)、東京神学大学出版委員会、1986(初版)1994(7版)、162頁、700円。
「第一章 キリストのからだである教会」では、キリストの体であるとはどういうことか、聖徒の交わり、洗礼と信仰告白、礼拝、そしてpp.50-56が教会の制度について。「第二章 教会の生活」では、pp.74-113が、教会の制度、長老主義、宣教長老と治会長老、戒規について。第三章は「長老の職務」。
ジョン・マクルーハン(上河原立雄、荻原登訳)、『長老主義』(聖恵・神学シリーズ31)、聖恵授産所、1992(1949)、259頁。
澤正幸、『長老制とは何か』(大森講座7)、新教出版社、1992、75頁。
藤掛順一、『教会の制度――なぜ牧師、長老、執事か』(教会双書6)、全国連合長老会、2003、153頁、1300円。

近藤勝彦の論文

近藤勝彦、『礼拝と教会形成の神学』、ヨルダン社、1988年、183〜197頁の「教会政治の神学」。
近藤勝彦、『教会と伝道のために』、教文館、1992年、138〜152頁、「教会政治の考察」。
近藤勝彦、『教会とその生活を学ぶ』、日本伝道出版、1999年、146〜153頁「教会的に判断するとは」。

その他

北森嘉蔵、『合同教会論』、キリスト新聞社、1993年。
カール・バルト『教会教義学』の「和解論」第67節「聖霊とキリスト教団の建設」の「4.教団の秩序」。

6.3 職制論、教職論

どこが(誰が)教職を立てるか。どのような手続きを行うか。按手とは何か。正と補の違い。祝祷は誰がするか。長老、役員との職務の違い。辞任、解任、隠退、任期の問題。「名誉牧師」って何だ?。

「ミニストリー」という言葉について、朴憲郁「キャンパス・ミニストリーと担い手」(東京神学大学総合研究所『紀要』13号、2010)の中の「ミニストリーとは何か――聖書的・歴史神学的考察」。

加藤常昭、「礼拝成立のための務め――教会職務制度論序説」(『神学』41号、東京神学大学出版会、発売:教文館、1979)。
藤木正三、『教会の職務』(教会生活の手引き8)、日本基督教団出版局、1979。
新約聖書における「教会の職務」や、信徒の職務、役員の職務、牧師の職務など。
日本カトリック教会エキュメニズム委員会、日本キリスト教協議会信仰と職制委員会編訳、『洗礼・聖餐・職務――教会の見える一致をめざして』、日本基督教団出版局、1985。
赤木善光、「なぜ按手礼が必要なのか――キリスト教本質論からの接近」 (赤木善光『聖餐論』(自由が丘教会文庫2)、日本基督教団自由が丘教会出版委員会(発売:教文館)、1991、pp.272-295)。
山口隆康、「「聖餐の乱れと教職論」に関する一考察――日本基督教団兵庫教区における「未按手者の礼典執行」決議の問題」 (土戸清、近藤勝彦編『宗教改革とその世界史的影響――倉松功先生献呈論文集』、教文館、1998、pp.328-351)。
補教師の聖礼典執行を正当化する論理の問題点を暴く。礼拝の形式や職制といった歴史的教会の営みは、聖書に規範が求められるべきものではない。教会が歴史の中で選び取っていった伝統は、現在の制度を根拠づける規範にならず、同時に、その時代の状況に応じた相対的なものであると断定することもできない。地上的歴史的教会の存立基盤は、絶対と相対という単純な二元論ではとらえられないところに定められている。
エルシー・アン・マッキー(井上正之、芳賀繁浩竹訳)、『執事職――改革派の伝統と現代のディアコニア』、一麦出版社、1998、200頁、2000円。

キリストの三職と教会の職務について、 「改革派の伝統において、特に近代ではA. KuyperやH. Bavinckによってキリストの三職に基づいて教会的職務が厳密に規定されました。・・・しかし、今日においては、これについて改革派内部においても批判的見解が存在します。この構造そのものが受肉論の延長線上で教会論を理解する伝統的カトリックの神学的思惟に親近性を示している、という批判です。C. Trimp, "Ministerium een introductie in de reformatorische leer van het ambt," Groningen, 1982, pp.108-115を参照のこと。キリストの三職に規定された教会の職務理解は、図式化された固定的理解をもたらす危険性があり、・・・聖霊論的視点に立った教会職務の再検討が必要とされるでしょう。」 (牧田吉和、「21世紀の日本伝道と改革派伝統の役割」、『宣教セミナー 21世紀の日本伝道の課題』(中央宣教研究所紀要第24号「宣教」)、日本キリスト改革派教会中央宣教研究所、1999)

役員・長老のつとめ

楠本史郎、『教会役員ハンドブック』、日本基督教団出版局、2007、142頁、1050円。
1967年に、日本基督教団伝道委員会編『教会役員ノート』日本基督教団出版局が出た。その後、1975年に大きく改訂されて、『新版 教会役員ノート』が出た。2001年には聖句の表記が新共同訳に改められた(新版第11版、74頁、470円)。ちなみに、古い版では巻末に参考図書が掲載されていたがいつの間にかなくなっている。
『新版〜』が出た1975年から30年以上が経過して、今度は委員会ではなく個人が執筆することになったのがこの『教会役員ハンドブック』。ページ数が倍になった。様々な役員会の位置づけがあるゆえ、この書はすべての役員会のあるべき姿を示した教科書ではないことが、「あとがき」に注意されている。
竹森満佐一、『教会と長老』(東神大パンフレット24)、東京神学大学出版委員会、1986、162頁、700円。
全国連合長老会編、『長老教会の手引き』改訂版、全国連合長老会出版委員会、1991年。

6.4 法制論、教会法

エーリク・ヴォルフ(菊池信光訳)、『教会法――その歴史的展開』、一麦出版社、1994(1961の部分訳)、222頁、4841円。
原著『教会の秩序』部分訳。「第一部 起源から宗教改革まで」で教会の秩序の歴史を40頁ほどで簡単に紹介、「第二部 プロテスタント教会の展開」では主としてドイツ福音主義教会の教会法の歴史をまとめている。以上の本論はやや退屈だが、「付論 神学的実存における教会」が、筋道立ててヴォルフの教会観と法理解が整理されていて面白い。
この本の「序」で渡辺信夫が記しているように、カール・バルトは『教会教義学』の「和解論」第67節「聖霊とキリスト教団の建設」の「4.教団の秩序」で(邦訳『和解論』U/4、p.117)、教会法理念の著作として、W.フィッシャー、E.シュヴァイツァー、ブルンナー、らのものを挙げ、中でも「エーリク・ヴォルフの労作〔注:この『教会法』のことではない〕が、特に輝かしいものとして、賞賛され得るであろう」と述べている。その後、p.122fでも、ゾームやブルンナーの教会とキリスト支配の理解に対して、ヴォルフの理解を評価している。

戒規について、J.カール・レーニー(伊藤淑美訳)『教会戒規』(聖書図書刊行会、いのちのことば社発売、2718円)というのがあるようなので見てみたい。

6.5 教会規則

明治期その1

日本基督公会(横浜海岸教会:1872設立)が設立当初に定めたのが「公会定規」(こうかいじょうき)、この数か月後に採用したのが「公会規則」、これをもとに1874年に作られたのが「日本基督公会条例」。この条例で改革派とアメリカン・ボードと合同しようとしたが一致に至らなかった。日本基督公会は、日本長老会(横浜長老公会、現・横浜指路教会)と合同して、1877年日本基督一致教会を設立。アメリカン・ボード系の教会は1886年日本組合基督教会を設立した。「公会規則」と「日本基督公会条例」、「日本組合教会規則」(1886)は、鵜沼裕子『資料による日本キリスト教史』(聖学院大学出版会、19921,19972)のpp.113-123にある。

明治期その2

日本基督一致教会は1890年、「日本基督教会信仰の告白」を制定、憲法・規則も改正、「日本基督教会」と改称した。

戦前(日本基督教団合同前)

『日本基督教団史資料集』第1巻に、日本基督教会の「教会憲法」と「教会規則」(1937.10現在)、日本メソヂスト教会の「教会条例」(抄)(1936.3現在)などあり。

現在

日本基督教団の教憲・教規は、日本基督教団事務局編『日本基督教団教憲教規および諸規則』(日本基督教団出版局)。
日本キリスト教会の教会憲法は、その1:教会憲法とか、その2:日本キリスト教会のページにある。教会規則はWebには今のところ見あたらない。
「日本基督教会」は、1995.10.11-13の第45回大会において「日本キリスト教会」と標記を変更した。
日本基督教会の「信仰の告白」は、1953.10.14-16第3回大会において制定された。1985.10.9-11の第35回大会において、使徒信条の一部が改訳された。・・・というのはどこをどう変えたのだろうか?
「日本基督教会憲法」は、「信仰の告白」とともに、1953.10.14-16第3回大会において制定された。1986.10.8-10の第36回大会において前文ならびに第1条が一部改正された。1990第40回大会から改正案の逐条審議が開始され、1994.10.12-14第44回大会において逐条審議終了、可決された。さらに、1995.10.11-13第45回大会において標記変更に伴って改正された。
日本キリスト改革派教会の憲法は,信仰規準と教会規程から成る。信仰規準は、独自の前文を付したウェストミンスター信仰告白と同大・小教理問答書から成る。教会規程のほうは、第一部が政治規準、第二部が訓練規定、第三部が礼拝指針である。教会規程は全文が教会規程のページで読める。
カンバーランド長老教会 日本中会は、教会政治制度として、1.信仰告白、2.教会憲法、3.訓練規定、4.礼拝指針、5.会議規定を定めている。すべて、カンバーランド長老教会 日本中会のページで読める。
アメリカ合衆国長老教会(略称はPC(U.S.A.)となる。この括弧は重要)のThe Constitutionは、"The Book of Confessions"と"The Book of Order"とから成る。"The Book of Order"に、"The Form of Government"と"Directory for Worship"と"Rules of Discipline"と"the Formula of Agreement"が含まれている。すべて、Office of the General Assemblyの頁から全文読める。
アメリカ改革派教会(RCA)の"Book of Church Order"(BCO)は、"The Government"と"The Disciplinary and Judicial Procedures"と"The Bylaws and Special Rules of Order"と付録に"The Formularies"を含む。RCAのBCOのページ"The Book of Church Order"で全文読める。
カトリックは、日本カトリック司教協議会教会行政法制委員会訳『カトリック新教会法典 羅和対訳』(有斐閣、1992、1116頁、15750円)。初版は1962年だが、1992年発行のこれは1983年1月25日に発布されたもの。2001年12月から、オンデマンドで18900円。

6.6 日本基督教団論

日本基督教団「教職者懇談会」編、『合同教会としての日本基督教団――その教派的伝統と特質をめぐって』(新教コイノーニア6)、新教出版社、1989。
福田正俊「日本基督教団試論」、改革長老の伝統から加藤常昭、出村彰、高橋治、メソヂスト・ホーリネスから野村誠、大宮溥、山添順二、辻宣道、会衆派及びバプテストから岸本洋一、飯清、小栗善忠。
北森嘉蔵、『合同教会論』、キリスト新聞社、1993年。
近藤勝彦、『教団紛争とその克服――わたしの見方』、日本伝道出版株式会社、1998。
山口隆康、「日本基督教団の法制に関する研究」。
(1)『神学』64、2002。法域論の観点から、宗教団体法下の日本基督教団と、戦後から信仰告白制定まで、「教会規則」(準則)の制定と各個教会の形成。
(2)『紀要』6、2003。明治憲法と宗教団体法下での教憲なき時代、教憲の制定と教団の法制確立の時代、各個教会の教会規則の制定の時代へ。
(3)『神学』65、2003。教団史における教会規則の欠缺期間の問題、教会規則が教憲教規に基づく準則であることについて、教師の招聘、聖約、任期制について。
(4)。
(5)。
(6)。

『石原謙著作集 第10巻 日本キリスト教史』(岩波書店、1979)に『日本キリスト教史論』(新教出版社、1967)が収録されており、この第3部が「日本基督教団」で、「T 日本基督教団の成立とその進展」、「U 会派問題――日本の教会の教会性について」、「V 戦後二十年のキリスト教――日本のキリスト教における教派制教会の意義についての一考察」。

6.7 その他

教会形成論として

加藤常昭、『礼拝・諸集会』(教会生活の手引き3)、日本基督教団出版局、1979、89頁。
「なぜ集まるのか」というテーゼから出発して、礼拝と諸集会について語る。
D.ブローシュ(久野牧訳)、『教会の改革的形成』(教会と宣教双書3)、新教出版社、1982、318頁。
近藤勝彦、『礼拝と教会形成の神学』、ヨルダン社、。『伝道する教会の形成――なぜ、何を、いかに伝道するか』、教文館、2004、264頁、2000円。
関川泰寛、『聖霊と教会――実践的教会形成論』、教文館、2001、270頁、2500円。
日本の教会成長のためには、教会の中に入り込んでいる"諸霊"を識別し、聖霊を「認識的」のみならず「実体的」に理解しなければならない。そのためには、古代教会からの伝統を重んじ、正典・信条(信仰)・職制の三つの軸の上に教会を形成することが重要である。特に、ニカイア信条に言い表された三位一体なる神への讃美頌栄的な信仰告白に立つことが大切である。随所に見られる教会の現状の指摘と著者の経験は興味深い。

メラー(加藤常昭訳)『慰めの共同体・教会』も見る。

松永希久夫、『新約聖書における教会形成』、教文館、2007。

いわゆる「教会成長」関連

リック・ウォレン(河野勇一訳編)、『健康な教会へのかぎ』、いのちのことば社、1998(1995)、343頁、2400円。
リック・ウォレン(河野勇一訳編)、『魅力的な礼拝へのかぎ』、いのちのことば社、2001(1995)、78頁、500円。
ゲーリー・L.マッキントッシュ(松本雅弘訳)、『サイズ別に分析する教会形成の方策』、いのちのことば社、2009(1999)、189頁、1800円+税。
Gary L. McIntosh, "One Size Doesn't Fit All." ある規模の教会に当てはまることが、すべての教会に当てはまるわけではない。むしろ、規模によって方策を変えなければならない。12項目(志向性、構造、リーダーシップ、牧師の役割、意思決定、教会スタッフ、変化の起こり方、教会成長の仕方、成長を妨げる要因、成長のための戦略、今後の方向性)について、教会の規模による違いを、「はやりの物語のスタイル」で解説。大規模(400人以上)・中規模(200〜400人)・小規模(200人以下)の三つに分けているが、アメリカの400人規模の教会は、日本の100人規模の教会と同じようなニーズや課題を抱えている(「訳者あとがき」p.187)。
小規模教会では教会の皆と顔見知りであり、持ち寄りで食事会が行われる。しかし、中規模になると全員と知り合うのは困難になり、食事も小規模教会のやり方はできなくなり、委員会など何かの目的のために集まった人たちごとの食事になる。大規模教会での食事会は、料理のケータリングサービスを利用したイベントとなる。教会の規模が変化するとき、規模の違いに適応することが重要であり、その規模に見合った戦略が必要である。学びや研修なども、同じ規模の教会間でするほうがうまくいく。

教会生活や教会理解についての信徒向けの啓蒙書

祈りについては、三要文のページの主の祈りのところを見る。

渡辺信夫、『教会論入門』(新教新書74)、新教出版社、1963初版、1997復刊、173頁、1000円。
1982第13版の後、1997年に名著復刊第2集「教会に生きる」の10冊の内の一つとして復刊。著者の言うように、教会論というより「教会病理学入門」。たるんだ教会意識をたたっきる鋭い指摘の連続! 『教会が教会であるために――教会論再考』(新教新書242)もある。
辻宣道、『教会生活の処方箋』、日本基督教団出版局、1981、232頁、1300円。
毒舌にぶっ飛ぶ。今でも賛否両論を受けながらも読まれている。『教会が強くなるために』(日本基督教団出版局、1998、206頁、1800円)もある。
久野牧、『教会生活の道案内』、一麦出版社、2009、193頁、2100円。

近藤勝彦『信徒のための神学入門』(教文館、1994)は講演集。日本伝道出版株式会社から、『礼拝と日々の生活』(1995)、『伝道する教会、 伝道する信徒』(1995)、『教会とその生活を学ぶ』(1999)がある。

7.結婚式と葬儀

2010.10.20全面的に更新

7.1 結婚と結婚式

キリスト教倫理の中の男女・結婚・性の文献も参照。

最近の本

平林孝裕編著、関西学院大学共同研究「愛の研究」プロジェクト編、『愛を考える――キリスト教の視点から』、関西学院大学出版会、2007、237頁、2100円。
第4章が「パウロは性と結婚についてどう考えていたか」、また、第10章が「キリスト教式結婚式の変遷と愛による神聖化」。
浜口吉隆、『結婚の神学と倫理』(南山大学学術叢書)、南窓社、2010、313頁、3500円。
目次
ポール・トゥルニエ(野邉地正之訳)、『結婚の祝福と課題――愛による連帯を求めて』、日本基督教団出版局、2010、122頁、2730円。
もとはヨルダン社から『結婚の障害――愛による連帯を求めて』、1970。

7.2 葬儀について

2015.11.23全面的に更新

「キリストの教会は、逝去者らをも抱え込んでいるのであり、しかも、死んだ者として抱えているのではない。」トゥルナイゼン(宍戸達訳)『御手に頼りて』、p.5。

葬儀の歴史

『キリスト教礼拝学辞典』の「葬儀」の項(北村宗次)は、初期の教会から20世紀半ばのプロテスタント各派の式文の特徴までを紹介。

ホワイト『キリスト教礼拝の歴史』で索引で「葬式」を引く。

『キリスト教礼拝・礼拝学事典』の「葬儀」の項は、古代の葬儀の前式、葬送行進、埋葬の三つの部分の紹介から中世、宗教改革以後の各時期の葬儀の特徴(山本尚忠)と、正教会、カトリック、聖公会、プロテスタントそれぞれの執筆者による概略。「埋葬」の項はユダヤ教から現代まで(吉岡光人)。なお、「墓地、墓所、納骨堂、納骨室」の項もある(天利信司)。

日本基督教団信仰職制委員会編『死と葬儀』の中の大宮溥「教理史における死と葬儀」、北村宗次「キリスト教葬儀の伝統と英語圏における葬儀」。

事典関係ではあと、教団出版局のキリスト教倫理と教育の辞典に項目はないか。

アメリカでの礼拝について書かれた著作で、葬儀に関する部分のあるもの

ホワイトの『キリスト教の礼拝』pp.426-439。ウィリモン『牧会としての礼拝』にも何かある。

日本におけるキリスト教葬儀の解説やその実際上の問題

教会生活を解説した入門書も見る。加藤常昭『教会生活の手引き』の第三部第二章など。その他、鈴木崇巨『牧師の仕事』も見てみる。

日本基督教団信仰職制委員会編、『死と葬儀』、日本基督教団出版局、19741、19793、291頁。
柏井宣夫「旧約における死と葬儀」、松永希久夫「新約における死と葬儀」、大宮溥「教理史における死と葬儀」、北村宗次「キリスト教葬儀の伝統と英語圏における葬儀」、加藤常昭「ドイツ福音主義教会における葬儀」、小林栄「日本人の死と葬儀の理解」、山本尚忠「今日の日本における葬儀の諸問題」、加藤常昭「葬儀式文に関するひとつの私案」、祈祷例として納棺式の祈り(福田正俊)と葬儀の祈り(柏井忠夫)。
山本尚忠、『死と葬儀』(教会生活の手引き6)、日本基督教団出版局、1979、102頁。
第1章「死の諸問題」は日本人の死の理解や死に対する様々な態度について、第2章「キリスト教の死の理解」はキリスト教の死の理解と聖書における死の理解、第3章は「葬儀」として、旧約以来の葬儀の歴史と、死者に対するとりなしの祈りを自死者の葬儀の場合から考える、葬儀は個人的なことか教会の業か、第4章「死と葬儀の諸問題」は「病人と家族」、「死への準備」、そして「死去に際して」で死の呼び名、葬儀社、飾りつけ、納棺から記念会、墓前礼拝、「喪中」について。「告別式か葬儀か」も。
山本尚忠は1927.9.27-2013.5.6。
日本基督教団宣教研究所編、『老い・病気・死――教会の現代的課題』、日本基督教団出版局、1993、239頁。
第6章が「「葬・墓」――教会の今日的課題」。教団宣教研究所からは、古くは『キリスト教式葬儀とその異教地盤』(教団出版部、1959、134頁)が出ていて、鈴木正久 熊野義孝 竹森満佐一らが執筆していた。
日本ルーテル神学大学教職セミナー編、『現代葬儀事情』、キリスト教視聴覚センター、1994。
重兼芳子「今日の葬儀―生と死を見つめて」、柴田千頭男「日本社会におけるキリスト教葬儀―その問題点と課題」、石居正巳「キリスト教の葬儀とその式文―ルーテル教会の新しい式文を中心にして」、安田睦彦「葬送の自由を考える―お墓がないと死ねませんか」、藤井正雄「仏教における葬儀―仏教の歴史と儀礼の成り立ち」、東門陽二郎「カトリック教会の葬儀―儀式書にみる葬儀の変遷」、加藤常昭「プロテスタント教会の葬儀―改革長老教会の立場とその実践」、碑文谷創「現代日本社会の葬儀意識―死の受容システムとその変化」、木下勇「葬儀業者としての実務の立場から―宣教二世紀、土着化への一つのいとぐちとしての私見」、清重尚弘「旧約時代の葬儀」、下舘正雄「新約時代の葬儀」。
保科隆、『葬儀』、全国連合長老会、2005、42頁、600円。
疋田博、『キリスト教葬儀』、いのちのことば社、2005、118頁、1050円。
井上彰三、『心に残るキリスト教のお葬式とは――葬儀の神学序説』(NCC宗教研究所双書)、新教出版社、2005。
山口隆康、『キリスト者と葬儀』、玉川平安教会出版部、2005、180頁。
第1章は、葬儀の手引きとして葬儀の意味・目的から実際上の注意まで。第2章は葬儀「式辞」12編。第3章は「聖徒の日」のTテサ4:13-5:11の説教と、ヨハネ20:19-29のトマスを取り上げた説教。第4章は教会墓地における「墓前の祈り」の式辞と、『神学』57号所収の「最近の「葬儀説教」についての一考察」。この最後の論文の前半は、葬儀は私的礼拝か公的礼拝かの二者択一的図式の問題から、葬儀で語られるのは説教か式辞かという問題を考えている。
水野健、『愛する人と自分のためのキリスト教葬儀』、いのちのことば社、2007、79頁、。

式文の解説として書かれているものに、日本基督教団信仰職制委員会編『新しい式文――試案と解説』(日本基督教団出版局、1990)のpp.138-160の式文とその説明、およびpp.234-240の解説(北村宗次)。解説では、死者のすべてを主に委ねる委託の祈りの大切さと、共同体的性格の回復として教会の業として行うことと礼拝に近づけることが述べられている。

前田貞一『聖卓に集う』(教文館、2004)のp.153には、葬りは教会の公事に属さず個人の求めに応じて行う司牧者の「祈りの儀」であるとか、柩の置き方について、牧師の場合に頭部を聖壇に向けることは、死はすべてを等しくするゆえ厳禁だとか、献花に際し、会葬者すべてが直接柩内に花を手向けるなどは、遺体を衆目に曝すに等しい個人の尊厳をそこなう行為であるから厳禁などと書かれている。

カルヴァン「ジュネーヴ教会規定」、『綱要』3,25,5-8。

最近のもの

日本キリスト教団出版局『信徒の友』編集部編、『慰めと希望の葬儀――キリスト教葬儀の考え方と実際』(TOMOセレクト)、日本基督教団出版局、2010、112頁、1890円。
信徒の友に掲載された葬儀に関する記事他、新しい記事もあり。
オリエンス宗教研究所編『キリスト教葬儀のこころ――愛する人をおくるために』、オリエンス宗教研究所、2010、211頁、1470円。
加藤常昭、『キリストの教会はこのように葬り、このように語る』、日本基督教団出版局、2013、272頁、2625円。
第一部は「キリスト教会の葬り」で、葬儀をなぜするのか、葬りをめぐる魂への配慮、葬りの形。第二部は「葬りの言葉」として11の前夜の祈り・葬式の説教。
トーマス・G. ロング(吉村和雄訳)、『歌いつつ聖徒らと共に――キリスト者の死と教会の葬儀』、日本基督教団出版局、2013、330頁、4725円。

死について

死について取り扱ったものに、熊野義孝「死」(『キリスト教倫理辞典』、日本基督教団出版局、1967)、オスカー・クルマン(岸千年、 間垣洋助訳)『霊魂の不滅か死者の復活か』(聖文舎、1966)、エーベルハルト・ユンゲル(蓮見和男訳)『死――その謎と秘義』(現代神学の焦点4)、新教出版社、1976(改訂6版)、雨宮栄一『主を覚え、死を忘れるな――カール・バルトの死の理解 』(新教出版社、2002、276頁)、宮谷宣史編『死の意味――キリスト教の視点から』(新教出版社、1994、302頁、2600円)など。中島總一郎『死と神の国――人生の最終到達目標』(いのちのことば社、2006、547頁、3150円)は何だろうか。宮本久雄、武田なほみ編、『死と再生――2009年上智大学神学部夏期神学講習会講演集』、日本基督教団出版局、2010、347頁、2940円。

近藤勝彦『癒しと信仰』(教文館、1997)の中に、「生と死」についての説教8編と講演として「キリスト教の死生観」、「死について」などあり。

マクグラス編『現代キリスト教神学思想事典』(新教出版社、2001)の中に、「死の神学」の項あり。

トゥルナイゼン『牧会学』Uの第二部第9章は「死なんとする者と悲しむ者への慰め」。

7.3 葬儀説教集で参考になるもの

熊野義孝は、『キリスト教倫理辞典』(日本基督教団出版局、1967)の「死」の項で、植村正久「死と死者」(『植村正久全集 第6巻』、婦人之友社内植村全集刊行会、1932に収録されている『信仰の生活』の中の1編)を、「この主題に関してまれな含蓄に富む説教である」と言っている。

『世界説教・説教学事典』(日本基督教団出版局、1999)に「葬儀説教」の項あり。

浅原進、『葬儀説教集 天国への凱旋(浅原進牧師牧会三十年記念)』、日本基督教団白金教会、1999。
白金教会での30年間の32の葬儀説教。葬儀説教で語るべきことがわかる。生まれて間もなく亡くなった赤ちゃんの葬儀説教など感動する。
E.トゥルナイゼン(宍戸達訳)、『御手に頼りて――葬儀説教』、日本基督教団出版局、1984(1978)、223頁、2300円。
22説教。トゥルナイゼン夫人の母の葬儀、交通事故死した高校生の葬儀、自殺した人の葬儀説教2本などを含む。巻末に、解説と説教分析として、ボーレン「慰めの職にある者への慰め」。ボーレンの序文もよい。2008年オンデマンド。
日本基督教団出版局編、『主はわが牧者――葬儀説教集』、日本基督教団出版局、1989。
9人による17説教。福島恒雄、最上光宏、宍戸達、小淵康而、府上征三、船津邦光、東島勇気、田井中純作、金田弘司。内容的にはいまいち。
山口隆康、『キリスト者と葬儀』、玉川平安教会出版部、2005、182頁、1500円。
発売・東京聖文舎。第2章で、実際に行われた葬儀式辞12編(著者は「葬儀説教」とは言わない)。その他、教会がなす葬儀とは何か、葬儀観、死と復活についてなど、総合的に様々なことが記されている。

葬儀説教とは何か、何を語るべきかについては、大宮溥「説教の諸問題(2) 葬儀説教」(『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ 説教の課題と現実』、日本基督教団出版局、1987年、159-165頁)。その他、葬儀説教集編集委員会編『葬儀説教集 天国への旅人』(聖恵授産所出版部、1994、174頁、1700円)というのもある。これは、旧日基の伝統にある説教者に限定。松永希久夫による竹森満佐一牧師葬儀説教、加藤常昭の葬儀説教4本など。その他、松田眞二、田中剛二、榊原康夫、石丸新ら。だが、熟練した説教者の説教なので、余り参考にしにくい。

ルターに「死の準備についての説教」というのがある。『ルター著作集第一集第1巻』所収。関連で、石居正己『ルターと死の問題――死への備えと新しいいのち』リトン、2009、202頁、2100円。