2010.10.19更新
印が主な更新個所です。)

■実践神学

「実践神学は神学の冠である。」(シュライアマハー)

0.全 体

山口隆康、『アブラハムと実践神学――聖書的<実践的神学>入門』(東神大パンフレット27)、東京神学大学出版委員会、1988、88頁、550円。
実践神学の概論ではなく、実践神学的考え方の紹介。アブラハム物語の一つの解釈としてもおもしろい。

神田健次、関田寛雄、森野善右衛門編『総説 実践神学』(T、U)(日本基督教団出版局、T:1989、536頁、U:1993、440頁)は、わざわざ買うほどのものではない。各章末の参考文献は少しは役に立つかも。さしあたって参考になりそうのは、Tの「老いの神学」(宍戸好子)、Uでは「第1章聖礼典と式文」(北村宗次)の礼拝順序の独特の考え方、「第2章結婚と葬儀」(飯沢忠)の葬儀の実例、第3章教会音楽(横坂康彦)くらい。

実践神学基礎論

シュライエルマッハー(加藤常昭訳)、『神学通論』、教文館、1962、196頁。
ハインリッヒ・ショルツの「解説」つき。加藤常昭はどこかで、死ぬまでにもう一度訳し直したいと言っていた。
「シュライエルマッハーが、その『神学通論』において、教会指導というきわめて実践的な課題を神学全体の組織原理とし、その結果神学そのものの実践的性格を明らかにするとともに、それまで時には神学体系から排除されようとしていた実践神学の位置を回復したことは有名なことである。ニッチがこれを受けて実践の客体としてばかりでなく、実践の主体としての教会という概念を明らかにし、ここに実践神学の学としての出発点が定まったとさえいわれる。加藤常昭「実践神学概観」、『日本の神学』No.2、1963、pp.132-143。
熊野義孝、『基督教概論』、1947。(『熊野義孝全集第6巻 キリスト教本質論』、新教出版社、1978)。
「第1篇 宗教としてのキリスト教」、「第2篇 特にキリスト教的なるもの」、「第3篇 福音的教会の理念」からなる。実践神学基礎論としては第2篇以降が重要か。
加藤常昭「教会の実践の学としての実践神学――聖霊論的視点から」(東京神学大学神学会編『神学』40号、1978、pp.131-152)
『神学』39号の「実践神学のパースペクティブにおける聖霊論」の続編として、実践神学体系の基礎構図を示すテーゼのみを列挙したもの。
「実践神学における実践とは、神の救済が地上的歴史的現実となる過程に参与せしめられる教会の実践である。」(テーゼ1.11)
「その実践の主体は教会である。その意味では、特に牧会者の実践を包括的に取り扱う牧会者の神学 theologia pastoralis, Pastoraltheologie とは、明瞭に区別されなければならない。」(p.132)
「今ここにおける救済の現実に参与する教会の実践が、その現実化をもたらす聖霊の働きと特に深い関わりを持つことは明らかである。その働きの場における神の働きと人間の働きとの関わりは、キリストにおけるそれとは異なった独自のものである。この聖霊の働きの中にあって実践する者の持つべき視点を、聖霊論的視点と呼ぶことにする。」(テーゼ2.22)

加藤常昭の実践神学基礎論に関わる論文は、「実践神学基礎論に関する試論」(『神学』20号、1961.2)が最初。その次は、たぶん、「実践神学概観」(『日本の神学――その成果と展望』2号、日本基督教学会、1963)。

加藤常昭『福音主義教会形成の課題』(今日のキリスト教双書15、新教出版社、1973)に、「実践神学のパースペクティブ」(初出は『神学』32号、1969)が収められている。また、加藤常昭『説教論』(日本基督教団出版局、1993)に次のものが収められている。「実践神学のパースペクティブにおけるキリスト論」(初出は『神学』36・37合併号、1975)、「実践神学のパースペクティブにおける聖霊論」(初出は『神学』39号、1977)。

1.礼拝学

1.0 事 典

岸本羊一、北村宗次編、『キリスト教礼拝辞典』、日本基督教団出版局、1977、427頁。
多くの項目が、礼拝学のために有用。しかし、目次に執筆者が記されていないのは残念。巻末に索引が付いているのはよい。加藤常昭「礼拝学」の項は、礼拝学とは何かについて示唆深い。比較的ページ数をとっている項目は、「改革派教会、長老派教会の礼拝」(岸本羊一)、「カトリックの典礼」(土屋吉正)、「旧約聖書における礼拝」(新見宏)、「讃美歌――近世の讃美歌」(原恵)、「詩篇(歌)」(北村宗次)、「初代キリスト教の礼拝」(松木治三郎)、「聖餐」(加藤常昭)、「聖務日課」(岸本羊一)、「リタージカル・ムーブメント」(岸本羊一)、「礼拝史の歴史」(北村宗次)、「礼拝式文書」(北村宗次)。
今橋朗、竹内謙太郎、越川弘英監修、『キリスト教礼拝・礼拝学事典』、日本基督教団出版局、2006、522頁、9000円。
「事典、地図」の中の記事を見よ。

1.1 礼拝史

全 般

由木康、『礼拝学概論』(新教セミナーブック 20世紀の遺産)、新教出版社、1961、280頁、2625円。
日本の礼拝学の草分け。これ以前の『基督教礼拝学序説』(1936)を書き改め、現代神学双書の15番として出された(初版は480円)。礼拝の起源から原始教会の礼拝、リタージの形成、教会暦の発展と、礼拝史をたどる。そして、正教会、ローマ教会、宗教改革期の礼拝式、その後のプロテスタント諸教派の礼拝を概説。最後に、「現代における礼拝運動」と日本の礼拝式の諸問題。付録に、ドイツ福音教会の式文とフランス改革教会の式文。
礼拝には預言者的傾向と祭司的傾向が共存していると分析。じゃあ、王的は? 「祭司的原理と預言者的原理の緊張関係において礼拝史を分析し、さらにそれによって現在の礼拝を再組織しようとする態度には、神学的原理の考察が不足しているように思えてならない。」加藤常昭「実践神学概観」、『日本の神学』No.2、1963、pp.132-143
W.ナーゲル(松山興志雄訳)、『キリスト教礼拝史』、教文館、1998(19702)、352頁、3700円。
新約聖書時代から現代までの教科書という感じで良い。巻末に礼拝用語小辞典あり。
J.F.ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教礼拝の歴史』、日本基督教団出版局、2002(1993)、306頁、5200円。
新約聖書の時代、初期教会(Early Christian Centuries)、中世、宗教改革期、近現代の5章と第6章「キリスト教礼拝の未来」。多様な人々が混在して礼拝における広大な実験場となっていて、また、この礼拝体験の多くが宣教師たちを通じてラテン・アメリカ、アフリカ、アジアに輸出されていった「1990年代の北アメリカの『視点』から記されている」(p.6-8)。

礼拝史全般としては他に、ウィリアム・ウィリモン(越川弘英訳)『言葉と水とワインとパン――キリスト教礼拝史入門』(新教出版社、1999、2600円)。カトリックの日本人の著作としては、土屋吉正『ミサ――その意味と歴史』(あかし書房、1977、281頁)。第一部でミサの意味を説明し、第二部で初代教会から第二バチカンまでを概観。

オード・カーゼル(小柳義夫訳)、『秘儀と秘義――古代の儀礼とキリスト教の典礼』、みすず書房、1975。

その他、異色のものとして、江藤直純、宮越俊光編、『人物でたどる礼拝の歴史』、日本基督教団出版局、2009、264頁、3150円。26項目。

古代イスラエル

W. ブリュッゲマン(大串肇訳)、『古代イスラエルの礼拝』、教文館、2008、188頁、1995円。
著者は、現代聖書注解の創世記のブルッグマンと同じWalter Brueggemann。「現代アメリカのリタージカル・ムーブメントを背景にした、旧約聖書の礼拝研究」(小友聡による書評、『本のひろば』2008.8)。「第一章 正統的ヤハウェ信仰の対話的構造」、「第二章 礼拝と犠牲における動作」、「第三章 礼拝におけるヤハウェの語り」、「第四章 礼拝におけるイスラエルの語り」、「第五章 礼拝――「遊び」におけるイスラエル」

初代教会

初代教会の典礼については、J.A.ユングマン『古代キリスト教典礼史』(石井祥裕訳、上智大学中世思想研究所監修、平凡社、1997(1967)、382頁、4500円)がある。ユングマンは現代の礼拝学の権威。オスカー・クルマン『原始キリスト教と礼拝』(由木康、佐竹明訳、聖書学叢書5、新教出版社、1957(1950ドイツ語版第2版))も重要。

フェルディナント・ハーン(越川弘英訳)、『新約聖書の礼拝――初期教会におけるその形を尋ねて』、新教出版社、2007(1970)、180頁、2100円。
第1章 問題、第2章 旧約聖書とユダヤ教における礼拝、第3章 礼拝に対するイエスの姿勢、第4章 初期キリスト教における礼拝の基盤、第5章 アラム語を語る初期の共同体における礼拝、第6章 ヘレニスト・ユダヤ人のキリスト教における礼拝、第7章 初期の異邦人のキリスト教における礼拝、第8章 使徒後の時代における礼拝、第9章 使徒教父及びユスティノスにおける礼拝、第10章 結論。
「本書は礼拝順序や式文形成の問題に直接的な答えを与えるものではない。(しかし)現実の礼拝の姿を反省する聖書的視点を提供してくれるにちがいない。」勝田英嗣による書評、『本のひろば』2007.7。
ポール・F. ブラッドショー(荒瀬牧彦訳)、『初期キリスト教の礼拝――その概念と実践』、日本基督教団出版局、2006(1996)、212頁、2500円。
初代教会がどのような儀式を行ったかのみならず、なぜそれを行ったかを説明する。「入信儀礼」、「ユーカリスト」、「典礼の時間」の三部から成る。
「ブラッドショーを読んでいて愉快なのは、「この儀式の正しいやり方はこうで、その根拠はここにある」といった仕方で安易に特定の伝統のみを正当化し、他の伝統を軽んじるような"エセ権威"が、音を立てて打ち砕かれていくことである。」「訳者あとがき」、p.205。
山田耕太、『新約聖書の礼拝――シナゴーグから教会へ』、日本基督教団出版局、2008、224頁、2520円。
序論として、新約聖書時代のユダヤ教の礼拝と、キリスト教の礼拝の概略。本論として、信仰告白、洗礼、聖餐、職制。結論として礼拝の意義について総括する。幼児洗礼の問題と陪餐者の問題が付加的に論じられているとのこと。
越川弘英の書評によれば、本書は概して新約時代の礼拝とそれ以降の礼拝の転会を体系的に論述することに比重を置いているように思えるが、これと対峙するのがブラッドショーで、彼は統一性よりも多様性を重んじるとのこと。
小友聡によれば、「新約の礼拝について聖書学的に基本的な考え方を教えてくれる・・・。旧約やユダヤ教との関連や、使徒教父文書についても丁寧に説明してくれる」とのこと(『キリスト新聞』、2009.2.14)。

中 世

J.ハーパー(佐々木勉、那須輝彦訳)、『中世キリスト教の典礼と音楽』、教文館、2000、339+61頁、3800円。
原著は John Harper, "The Forms and Order of Western Liturgy," 1991. 中世と言いつつも、10世紀からトリエント公会議まで(したがって第二バチカン前まで)の礼拝式(典礼)の紹介と解説。「典礼と音楽」とタイトルにあるが、とりわけ音楽に焦点が当てられているというわけではない。及び、英国国教会の礼拝式までを含む。なぜ英国国教会がここに含まれているかというと、プロテスタントの中で英国国教会のみがカトリック教会の典礼に匹敵する成分典礼を確立したから。原著ではさらに「中世の典礼の再構成を試みる際の手引きとして、中世の典礼書の現代校訂版やファクシミリ版の内容と構成を詳説した実践編がある」(「訳者あとがき」、p.333)が、専門的すぎるため邦訳では割愛された。巻末には訳語対照表、用語集、文献など豊富。付録に「教会歴上の主要な典礼季節と祝日」、「詩編唱集」、「頻出する聖歌の歌詞対訳」。
第一部西方教会における典礼
序 章典礼とは何か
第一章キリスト教会の典礼の形成――歴史的概要
第二章中世の教会と典礼
第二部中世の典礼
第三章典礼暦年と教会歴
第四章典礼のための諸書
第五章詩編と詩編唱集
第六章聖務日課
第七章ミ サ
第八章行列とそのほかの付加的な儀式
第九章聖週間と復活祭
第三部宗教改革以降
第十章トリエント改革
第十一章英国国教会の典礼(1549-1662年)

プロテスタント

V.ヴァイタ(岸千年訳)、『ルターの礼拝の神学』、聖文舎、1969。
H.G.ヘイゲマン(矢崎邦彦、高橋隆教訳)、『礼拝を新たに』、日本基督教団出版局、1995(1962)、242頁、2800円。
原題は、"Pulpit and Table"。改革派の礼拝史をたどることを通して、現代の改革派教会の礼拝をどう整えていくかを探る。「第1章 二つの源流」でツヴィングリとカルヴァンの礼拝式を概観。「第2章 闇の時代へ」でその後のウェストミンスター神学者会議からシュライエルマッハーまでの時代は、経験主義と合理主義によるリタージ不毛の時代であったことを指摘。

1.2 礼拝論

レイモンド・アバ(滝沢陽一訳)、『礼拝――その本質と実際』、日本基督教団出版局、19611,19966(1957)、242頁、1650円。
1992年の第4版から新装版。イギリスの非国教会の立場からの礼拝論。しかし随所で国教会祈祷書を引用している。第1章「礼拝の原理」がなかなかしっかりした礼拝本質論、第2章「起源と発展」が簡潔な礼拝史。それ以降、御言葉、祈り、賛美、聖礼典について。礼拝順序とその意味を学ぶ上でも重要。
J.G.デーヴィス(岸本羊一訳)、『現代における宣教と礼拝』、日本基督教団出版局、1968(1967)、276頁。
第3章「不適当な宣教概念」で語る著者の見解ははたして適当か?
ウィリアム・デルバート・マックスウェル(勝田英嗣訳)、『改革派教会の礼拝』、一麦出版社、2002(1948)、254頁、2400円。
原題は、"Concerning Worship"。スコットランド教会の礼拝論、礼拝の構造、指針など。補遺A「祈りの様式」は、公祷、集祷、招祷、連祷などの形式が実例豊富で詳しい。補遺Bは「牧師の衣装」。

J.E.バークハート『礼拝とは何か』(越川弘英訳、日本基督教団出版局、2003、208頁、3800円)は、礼拝は実生活のリハーサルであり、キリスト者の生活のモデルであると説いているらしい。

『礼拝と音楽』No.121(日本基督教団出版局、2004春)は、改革教会の礼拝の特集。この中に藤崎三牧によるブックガイドあり。

近藤勝彦、『礼拝と教会形成の神学』、ヨルダン社、1988。この第一章が「礼拝の神学」として「最高の行為としての礼拝」、「バイオフィラスな神」、「礼拝の神学」、「感謝について」、「犠牲について」を収録。

G. D. レーマン「現代の礼拝はなお一つ欠く――プロテスタント礼拝の起源と展開に学ぶ」 (『神学』59号、1997)は、罪の告白の祈りが宗教改革における礼拝改革から欠かせなかったのに対し、日本の礼拝にこれを書いている問題を指摘。

1.3 最近の邦訳

ウィリアム・ウィリモン(William H. Willimon)

ウィリアム・ウィリモン(越川弘英、岩見育子訳)、『礼拝論入門――説教と司式者への実践的助言』、新教出版社、1998(1984)、165頁、1800円。
原題は"Preaching and Leading Worship"(説教と礼拝指導)。礼拝について論じたというよりも、牧師が牧師であるがゆえに果たさなければならない説教と礼拝指導についての実践ガイド。礼拝順序を変更する場合の注意、会衆の礼拝参加、礼拝の中の祈りについて、洗礼と聖餐について。そして説教について。聖書日課と教会暦を重視する。びっくりしたのは、「教会はパンの製法を記したレシピを会衆の家庭に示すべきであろう。そうして教会員の家庭で焼かれたパンが日曜日の朝に礼拝堂に置かれるならば、誰でも聖餐式の意味を理解できるようになる」だって。
越川弘英訳、『言葉と水とワインとパン――キリスト教礼拝史入門』、新教出版社、1999、228頁、2600円。
越川弘英訳、『牧会としての礼拝――祭司職への召命』、新教出版社、2002、307頁、3300円。
洗礼・聖餐・葬式・結婚式など礼拝をめぐる様々な場面での牧会的配慮について。

ウィリモンの礼拝学以外の著作には、『現代聖書注解』の使徒言行録(中村博武訳、1990)、R.リシャーと共編『世界説教・説教学事典』(加藤常昭責任監訳、日本基督教団出版局、1999)、S.ハワーワスと共著『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』(東方敬信、伊藤悟訳、教文館、1999)、S.M.ハワーワスと共著『神の真理――キリスト教的生における十戒』(東方敬信、伊藤悟訳、新教出版社、2001)、S. ハワーワスと共著『主の祈り――今を生きるあなたに』(平野克己訳、、日本基督教団出版局、2003)、『洗礼――新しいいのちへ』(平野克己訳、日本基督教団出版局、2006)がある。

J. F. ホワイト(James Floyd white) 1932-2004.10.31

J. F. ホワイト(越川弘英訳)、『キリスト教の礼拝』、日本基督教団出版局、2000(19902)、464頁、6500円。
エキュメニカルな礼拝の歴史と神学。「第1章 キリスト教礼拝とは何か」、「第2章 礼拝と時間」、「第3章 礼拝と空間」、「第4章 聖務日課」、「第5章 み言葉の礼拝」、「第6章 サクラメント――目に見える神の愛」、「第7章 入信儀礼」、「第8章 ユーカリスト」、「第9章 通過儀礼――人生の旅路と通過点」。
「現象学的視点を踏まえつつ礼拝の基本的な構造(時間と空間)と諸式を組織的体系的に論じている。」(越川訳『キリスト教礼拝の歴史』の「訳者あとがき」、p.296。)
越川弘英訳、『キリスト教礼拝の歴史』、教団出版局、2002、306頁、5200円。
ページ数の割に値が高い。
J. F. ホワイト(越川弘英監訳、プロテスタント礼拝史研究会訳)、『プロテスタント教会の礼拝――その伝統と展開』、日本基督教団出版局、2005(1989)、458頁、6090円。

その他

フランクリン・M・セグラー、C・ランドル・ブラッドリー(鳥山美恵、大谷レニー、松見 俊訳)、『キリスト者の礼拝――神学と実際』、キリスト新聞社、2009、370頁、4620円。
原著初版1967年。翻訳は2006年の第3版から。主にアメリカのバプテスト系の神学校で礼拝学の標準的な参考書として用いられてきた書であるとのこと。「第T部 礼拝の意味」として、礼拝とは何か、聖書的基盤、歴史的背景、礼拝の神学、礼拝の心理学、礼拝・再生・世界、共同体(コミュニティー)と礼拝、ポストモダニズムと礼拝。「第U部 礼拝を表現する」として、音楽、祈り、言葉によるコミュニケーション、学習スタイルと礼拝、こどもと礼拝、バプテスマと主の晩餐、その他の行為、シンボルの用い方、建築と音響効果、教会暦、芸術、通過儀礼。「第V部 礼拝の計画と実践」として礼拝式順の計画、礼拝を導く、礼拝の変化への取り組み。その他、聖書朗読の仕方や自由祈祷の公同の祈りをどう祈るかとかも。リーダーシップに関する記述もなされているらしい。

1.4 どちらかというと信徒向けの礼拝の解説

竹森満佐一、『礼拝――その意味と守り方』(東神大パンフレット4)、東京神学大学出版委員会、1972、74頁。
まず読むべき、そして最も手っ取り早く読める小著。信徒向けでもあるが重要。礼拝とはそもそも何かから始まって、具体的礼拝式順や礼拝者、礼拝当番の心得まで。冒頭に書かれている、礼拝前のゴルヴィッツァーの祈りの姿勢は有名。
越川弘英、『今、礼拝を考える――ドラマ・リタジー・共同体』、キリスト新聞社、2004、238頁、1600円。
第一部は礼拝の意味、第三部で礼拝の流れに沿って解説。
山下萬里、『豊かな礼拝を願って 主の栄光へ向かう群れ』、ヨベル、2004、253頁、1800円。
山下萬里(1924.6.12-2004.1.18)。
小栗献、『よくわかるキリスト教の礼拝』、キリスト新聞社、2004、167頁、1400円。

その他、感心できるかどうかわからないが、最近の日本人の著作として、岸本羊一『礼拝の神学』(日本基督教団出版局、1991、298頁)は、主に雑誌『礼拝と音楽』に寄せた論文集。森野善右衛門『礼拝への招き』(新教出版社、1997、249頁、2500円)。今橋朗『礼拝を豊かに――対話と参与』(日本基督教団出版局、1995、224頁、1400円)。

賀川純基『礼拝って何?――聖書・歌・そして祈り』(キリスト新聞社、1998、242頁、1450円)は礼拝の中の音楽に関することが中心。記述に重複が多い。「礼拝って何?」は読む必要なし、「音楽って何?」も必要なし、「会衆のさんびと聖歌隊」は聖歌隊の務めについてまあ参考になった。「詩編」は読む必要なし。「礼拝の歌」ではアーメンがいつからW-T進行なのかについての記事(pp.169-174)だけ興味深い。「信仰生活」も寄せ集めという感じ。「愛餐のすすめ」も読む必要なし。多く聖書が引用されているので、賛美に関する聖書箇所を知るには参考になるだろう。歌うことが持っている性質として、礼拝、伝道(著者は「宣教」と表現しているが)、信仰継承の三つを挙げている。私は交わりや信仰の養いも挙げたいところだが。

その他、J.マッコリー(大隅啓三訳)『礼拝と祈りの本質』(ヨルダン社、1976(1972)、227頁)は、タイトルに惹かれて読んだが、名前負けしている。自然主義的汎神論的神秘主義的霊性論からの聖餐論。まあ、おもしろく読みやすい。霊性は個人的ではなく共同体的であり、その中心は、聖餐における神の現臨のリアリティである。神学と霊性の関係、礼拝刷新運動の問題にも触れる。

1.5 諸教派の礼拝の特徴

ポール・バスデン(越川弘英、坂下道朗訳)、『現代の礼拝スタイル――その多様性と選択を考える』、キリスト新聞社、2008、220頁、2625円。
原著は"The worship maze: finding a style to fit your church," 1999. 第1部は「問題の所在」として、「礼拝とは何か」、「礼拝と教会成長の関係」、「礼拝のスタイルとは何か」。第2部は「礼拝のスタイル」として、現在の北米の礼拝スタイルをリタージカル、トラディショナル、リヴァイヴァリスト、プレイズ・アンド・ワーシップ、シーカー・サービスの5つに分類して考察。第3部は「これからの課題」として「礼拝スタイルの選択」、「礼拝の諸要素について」、「礼拝に備えるために」。
J. F. ホワイト(越川弘英監訳、プロテスタント礼拝史研究会訳)、『プロテスタント教会の礼拝――その伝統と展開』、日本基督教団出版局、2005(1989)、458頁、6090円。
訳者は、荒井仁、後藤正敏、鈴木脩平、高橋恵一郎、棟方信彦、坂下道朗。ローマ・カトリックの礼拝を踏まえ、プロテスタントの9つの教派の礼拝を解説。最後に、プロテスタントの礼拝の未来を語る。
『シンポジウム 礼拝論』(東神大パンフレット20)、東京神学大学出版委員会、1981、147頁。
1980年の東京神学大学教職セミナーでの講演集。竹森満佐一の主題講演の後、カトリック:土屋吉正、正教会:高橋保行、ルター派:徳善義和、改革派:吉岡繁。
なかなかおもしろい。土屋は、第二バチカン以降のカトリックの教会論の傾向を紹介。高橋は、正教会は生活の中での体験を重視しており、また西方のようなスコラ哲学、ルネサンスの影響、宗教改革などを経験していないため、アカデミックに体系化された教会論は無いとしつつ、個人的な見解として正教会の教会観を披露。八代は、聖公会綱憲の四項目から聖公会の教会観を解説。徳善はアウグスブルク信仰告白の第7条を教会の機能規定と捉えて、「教会は目に見えないものであって、同時に目に見える」とする。榊原は改革派・長老派の特徴のみならず、改革派と長老派の違いを語る。泉は無教会には教会がないので歴史がない問題を提起。

1.6 カトリック

土屋吉正、『礼拝の刷新』、オリエンス宗教研究所、1968。
国井健宏、『ミサ――イエスを忘れないために』、ドン・ボスコ社、2005、88頁、683円。
「エウカリスチア」の三つの意味をたどりながらミサの真の目的を示す。
ヨセフ・ラッツィンガー(濱田了訳)、『典礼の精神』(現代カトリック思想叢書21)、サンパウロ、2005、264頁、2310円。
著者は教皇ベネディクト16世。典礼の本質、典礼における時間と空間、聖画像と音楽など。
国井健宏、『ミサを祝う――最後の晩餐から現在まで』、オリエンス宗教研究所、2009、241頁、2310円。
第一部は最後の晩餐を起点に初代教会が成長し、感謝の祭儀がいかに形成され、変遷を経て刷新に向かうまでの過程を追う。第二部では現在のミサの構成とその意味を掘り下げる。とのこと。

1.7 礼拝式文と順序の実際

もちろん、由木康『礼拝学概論』やナーゲル『キリスト教礼拝史』も見る。

ルター

ルターの礼拝順序に関わる著述については、前田貞一「ルター派の礼拝」(『キリスト教礼拝辞典』pp.369-373)にまとめられている。ナーゲル『キリスト教礼拝史』のpp.158-169も。石原謙「ルターの『ドイツ・ミサ』」(『石原謙著作集 第6巻 宗教改革U』、岩波書店、1979のpp.196-216)もある(元は、日本神学校神学会編『神学と教会』第3巻T、1936.10、pp.1-22)。

1."Von ordenung gottis diensts ynn der gemeine," 1523の聖霊降臨日。
WA, 12, 35ff. Cl, 2, 424ff. 何かの本で、"Von der Ordnung des Gottesdienstes in der Gemeinde"という現代のドイツ語で表記を見た。訳すと「教会における礼拝の順序(秩序)について」。邦訳は、青山四郎訳「会衆の礼拝式について」(『ルター著作集第一集第五巻』p.269-)。日本語訳で本文わずか5頁の「短いパンフレット」。
礼拝における神の言葉の回復を訴えている。「神の言が説教されなければ歌いも朗読も集まることもしないほうがましである」(p.276)。
2."Formula missae et communionis pro ecclesia Vittebergensi," 1523末.
WA, 12, 205ff. Cl, 2, 427ff. タイトルを訳すと「ヴィッテンベルク教会のためのミサと聖餐の定式」。一般に「フォーミュラ・ミサ」と言われている。邦訳は、青山四郎訳「ミサと聖餐の原則」(『ルター著作集第一集第五巻』p.281-)。その中とびらでは単に"Formula Missae et Communionis"とある。ラテン語で1523年11月に書かれ、12月に出版された。
自国語の讃美歌の必要などを述べているようだが、基本的にラテン語による式文である。それは、それに代わるドイツ語のものがまだないためである。この点は「ドイツミサと礼拝の順序」の中でも言及している。アバ『礼拝』や由木康『礼拝学概論』によれば、「在来のミサを簡素化しただけの代わりばえのしないもの」らしい。W.D.Maxwellが最初にそう評価したようだ。
しかし、後の「ドイツ・ミサ」と共に、ルター派の礼拝を方向付けた。「フォーミュラ・ミサ」は「ドイツ・ミサ」によって廃止されることなく、週日のミサとして残された。それは、人々を当時の世界語であるラテン語に精通させたいと考えていたからである。(由木康p.142、ナーゲルp.165fなど)
3."Eine christliche Vermahnung von äußerlichem Gottesdienst und Eintracht an die in Livland," 1525.
このタイトルは、K先生に教えていただいた。前田貞一は、"A Christian Exhortation to the Livonians Concerning Public Worship and Concord"という英語タイトルを記している。ナーゲル『キリスト教礼拝史』では全く触れられていない。『ルター著作集』(聖文舎)にないので、たぶん邦訳なし。ということは、あまり重要ではないのか。
4."Deutsche Messe und ordnung Gottis dienst," 1526元旦.
WA, 19, 72ff. Cl, 3, 294ff. いわゆる「ドイツ・ミサ」。表紙の写真がナーゲル『キリスト教礼拝史』p.167にあり。邦訳は、青山四郎訳「ドイツミサと礼拝の順序」(『ルター著作集 第一集第六巻』、聖文舎、1963)、または、小島潤訳「ドイツ語のミサ」(『ルター篇』、新教出版社、1956)。石原謙の上記論文にも序文と「礼拝について」と最後の結びの部分の訳あり。「プロテスタント教会最初の自国語による礼拝式として貴重なもの」(青山四郎の解説)。自国語の礼拝の必要を説きつつ、カールシュタットの急進的な礼拝改革をいさめている。しかも、礼拝の形式も言語もそれ自体がまったく絶対化されてはならず、福音の自由を妨げてはならないことを強調する。また、「グレゴリアン・チャントとともにドイツコラールが礼拝の中で重要の位置を占めるようになった最初のもの」。
礼拝順序は、人を縛り付けるのではなく、キリスト教的自由によって状況に適合させよ。祭服、祭壇、燈明は、それらがすべて廃れるか、あるいは廃止したいと思うようになるまで残しておこう。特に祭壇は残しておくべきではないが、今はその時が来るのを待とう。ドイツ語の讃美歌を十分に持つようになるまでは、これまでどおりラテン語で礼拝すべきである。すべての礼拝順序は、そこから弊害が生じれば直ちに廃止して、別のものを作らなければならない。どんなによい礼拝順序でも、それが濫用されることはあり得るからだ。礼拝順序の生命は、その正しい使用にある。
ちなみにルターは、礼拝で使用するにふさわしい、福音的で自国語の讃美歌がないとなると、自分で讃美歌を作り、賛美歌集を編纂した。

カルヴァン

礼拝式文(1542、1545、1559)
1542ジュネーヴ版のタイトルは、『初代教会の慣習に従った、祈りと教会的詠唱のための様式:礼典の執行と結婚の聖別の方式』(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』2006のp.488の出村彰執筆の項目より)(これは1545ストラスブール版とも同じ)。
渡辺信夫訳で『カルヴァン篇』(キリスト教古典叢書8、新教出版社、1959)所収。欄外の記号や注によって、1542年ジュネーヴ版、1545年ストラスブール版も分かるようだ。1559年ジュネーヴ版は若干の部分にわずかの改訂がなされたのみ。J.H.リース『改革派教会の伝統』(吉田信夫訳、新教出版社、1989)のp.222以降にも解説あり。後藤憲正『改革派教会の礼拝』(大森講座2、1987)にもあり。渡辺信夫『カルヴァンの教会論』(改革社、1976、pp.136-142)にもあり。
1545年ストラスブール版は、「カルヴァンの礼拝に対する意図が最も完全に述べられていると考えてよいだろう」(リース『改革派教会の伝統』p.224)。1545年ストラスブール版の1542ジュネーヴ版との違いは、「罪の赦しの保証と十戒が含まれ、執り成しの祈りと聖餐の祈りが分離され、食卓を囲むことが強調されている」ことである。(リース『改革派教会の伝統』、p.224)
「ここでは聖餐は、礼拝行為の不可欠な部分であると考えられており、その必要性は、それが執行されない時ですら、礼拝の構造を決定しなければならないほどなのである。・・・カルヴァンは、伝統的な要素や儀式をほとんどすべて破棄したが、彼は注意深く、礼拝様式の伝統的な形を保存したのであった。」(ヘイゲマン『礼拝を新たに』、p.39,55)
マンシュレック編(平井清訳)『改革者の祈り』(新教新書)の中に、参考になるカルヴァンの祈りがいくつか収められている。説教前の祈り(p.7,9,57)、感謝と献身(p.12)、罪の告白・悔い改め・赦しの求めの祈り(p.30,34,35,40-43,46,53,61,63,80-88など)、聖餐感謝(p.159)、洗礼(p.163)など。特にp.46の祈りは礼拝式文の中の罪の告白の祈りと同一である。

改革派系

後藤憲正、『改革派教会の礼拝――第1部・礼拝式の構造』(大森講座2)、新教出版社、1987、142頁。
歴史的な礼拝の構成にしたがって、第1章「み言葉のリタージ」(聖書朗読と説教を中心とする)と第2章「信仰者のリタージ」(聖餐を中心とする)に分けて解説。第1章は、ブッツァー(1539)、カルヴァン(1545)、ノックス(1556)、ロードのリタージ(1637)、ウェストミンスター礼拝指針(1645)、スコットランド教会(1940、1979)、アングリカン教会(1549、1552)、サヴォイ・リタージ(1661)、アメリカ長老教会(1970,77)の礼拝式順。
それにしても、「御言葉のリタージ」と「信仰者のリタージ」とをあっち見たりこっち見たりしなければならないのがめんどくさい。これは、「カルヴァンの意図に反するだけではなく、改革教会の伝統にもふさわしくない。叙述上の便宜という理由では正当化できないと思う。」(加藤常昭「礼拝史の視点」、『季刊教会』No.1、1990.11、p.8)
ウェストミンスター礼拝指針(1645)
松谷好明『ウェストミンスター神学者会議の成立』(自費出版1992、1997年以降一麦出版社、469頁)の第五章二に全文の和訳あり。この本の「はじめに」では『キリスト教大事典』の「ウェストミンスター会議」の項や『信條集 後篇』の解説、『新キリスト教辞典』の「ウェストミンスター信仰規準」の項の不正確さを指摘していて興味深い。
アメリカ改革派教会礼拝局編著(全国連合長老会式文委員会訳)、『主の日の礼拝と礼拝指針――アメリカ改革派教会における礼拝理解のために』、キリスト新聞社、2003(1988)、120頁、1200円。
RCAの1987年の式文に、礼拝指針(Directory for Worship)を加えたもの。巻末に、磯部理一郎による解説あり。その中に、宗教改革者たちの礼拝順序(『キリスト教礼拝事典』に基づく)、スコットランド教会(SBCP1637、ウェストミンスター1645、BCP1940、BCP1979、"The Order of Public Worship"1994)、PCUSA(1993)、RCA(1906、1968)がある。
"Directory for Worship" の原文
1987年の式文 "Order of Worship for Lord's Day" の原文(PDF)
RCAの式文のページ
RCAの式文は、20世紀になって、1906、1968、1987と改訂されてきた。
W. ジャンセン「アメリカ改革派教会における礼拝の祝い」(『季刊教会』、51号、2003.6)に解説がある。この論文は、リタジーとは何かについて示唆深い。「礼拝順序はリタジーの一部分にしか過ぎない。・・・礼拝順序が書かれていなくても、又、順序が突然に変わったりする事があっても、それも確かにリタジーである」。また、リタジーと教会の将来についてこう語る。「独自の伝統を第一にする教会には将来がない」。

その他、この「礼拝学」の項で取り上げている各書。G.D.レーマン「現代の礼拝はなお一つ欠く――プロテスタント礼拝の起源と展開に学ぶ」(『神学』59、1997)は重要。特に、罪の告白と赦しについて。

英国国教会、聖公会

祈祷書(The Book of Common Prayer)
第一祈祷書、1549年。
第二祈祷書、1552年。
第三祈祷書、1559年。
第四祈祷書、1604年。
第五祈祷書、1662年。
日本聖公会の祈祷書(主要なもの)
「『聖公会祈祷書』の淵源をたどると、1878年(明治11)頃刊の、C.M. ウィリアムズ編訳『朝晩祷文』に達する。これは、日本の聖公会の祈祷書が英国系と米国系の混乱を防ぐために、ウィリアムズが両国の母教会の祈祷書から編纂・翻訳したもので、朝祷文・晩祷文・リタニーを含んでいる。
 次いで1879年(明治12)の『聖公会祷文』は、・・・朝晩祷文に聖餐式、洗礼式、公会問答、堅信式が加わった。さらに、1883年(明治16)に増補版が刊行され、これが1887年日本聖公会第一回総会で公認された。」秋山憲兄『本のはなし』新教出版社、2006、p.211。
『日本聖公会祈祷書』、1896年(M29)。
『改訂増補日本聖公会祈祷書』、1938年(S13)。
『日本聖公会祈祷書』、1959年。(これまでは英米の祈祷書の翻訳だったが、これは日本独自に作成。「文語祈祷書」と呼ばれている。)
『日本聖公会祈祷書』、1988年。(1990年の総会で確定され、1990年祈祷書と呼ばれている。内表紙にも1990年と記されているが、奥付の書誌データとしては1991年。)

私が持っているのは『改正 祈祷書』(日本聖公会、1987)。これは試用段階のものらしく、1988年の日本聖公会総会で承認されて「改正」がとれて『日本聖公会祈祷書』となった模様。

日本の現代の礼拝式文

日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(口語)』、日本基督教団出版局、198820、324頁、3800円。
1949第1版(文語)、1952第2版(文語)、1957第3版(文語)、そして1959口語初版。1970第9版から修正と追加が別刷りで挟み込まれるようになった。1988第20版の序で結婚式式文中の用語と聖書の引用についての注意が記された。口語版の初版からの改訂の経緯は、『新しい式文――試案と解説』の序文にまとめられている。
日本基督教団信仰職制委員会編、『新しい式文 試案と解説』、日本基督教団出版局、1990、256頁、1600円。
タイトルの通り、第一部が「式文試案」、第二部がその解説。1970年から始まった式文改訂作業の一つの成果。特徴は、「現行の式文に手を加えるという方法をとらずに、まず基礎的な研究をしてから新しい式文作成をめざす」ということと、「試案として広く諸教会に意見を問うた上で『新しい式文』が作られることを願った」こと。それゆえ、各式文に対する短い解説が付されている。解説の執筆者は、岸本羊一、山本尚忠、北村宗次。
日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団式文(試用版)』、日本基督教団出版局、2006、168頁、1785円。
主日礼拝、結婚式、葬儀諸式のみ。特に会衆の礼拝参加を念頭において構成された式文で、「祈祷文」例も豊富に収録ということらしい。主日礼拝式Aの会衆用分冊も出た。聖餐を御言葉への応答と捉えているが、そうではないだろう。聖礼典も「御言葉」である。

連合長老会は独自の式文を出している。連合長老会編『式文(口語)』(全国連合長老会出版委員会、1972初版、1985改訂版)。この式文は、日本基督教会諸式文(昭和4年版)を原本としている。「序」によると、結婚式式文において「結婚成立を公告する合法性を明確にし」、幼児祝福式、納棺式、前夜式、出棺式、火葬前式などは省かれている。

日本基督改革派教会は、『日本基督改革派教会式文』(日本基督改革派教会大会出版局、1984、171頁、2500円)を出している。

日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団監修、『ルーテル教会式文(礼拝と諸式)』、日本福音ルーテル教会(発売:東京聖文舎)、20012、307頁、5500円。
初版の年が記されていないが、たぶん1996ではないか。これを解説したものに、前田貞一『聖卓に集う――日本福音ルーテル教会礼拝式書解説』(教文館、2004、157頁、1000円)がある。日本福音ルーテル教会の『百年記念小論集 第1巻』に日本福音ルーテル教会の礼拝式文史があるらしい。1980年代に『礼拝と音楽』にルーテル教会の礼拝関係の小論がいくつかあるらしい。
カンバーランド長老キリスト教会日本中会礼拝書特別委員会編、『神の民の礼拝――カンバーランド長老キリスト教会礼拝書』礼拝書』、一麦出版社、2007、288頁、2520円。
主日礼拝の構造を、招集、御言葉、聖餐、派遣の4部としている。

日本の各教会での礼拝順序の例

竹森満佐一、『礼拝――その意味と守り方』(東神大パンフレット4)、東京神学大学出版委員会、199518、74頁、2002年第21版は500円。
「六 礼拝の内容」で、当時の吉祥寺教会の礼拝順序とその解説。不可解な点として、47頁の礼拝式順で「礼拝招致」が、最近の版では「礼拝招詞」になっている。(確認したところでは、1995年第18版までは「礼拝招致」、2002年第21版では「礼拝招詞」。著者は1990年に亡くなっているのに・・・。)
加藤常昭、『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』、教文館、1994(初版)1998(再版)、426頁、1800円。
「第2部 礼拝する教会」の「第1章 礼拝」の中で、鎌倉雪ノ下教会の礼拝順序について解説している。かつての礼拝順序については、加藤常昭『教会生活の手引き3 礼拝・諸集会』(日本基督教団出版局、1979)の「第3章 礼拝」の「第2節 礼拝順序」で解説されている。
関川泰寛、『聖霊と教会――実践的教会形成論』、教文館、2001、270頁、2500円。
「第6章 聖霊と礼拝」で、十貫坂基督教会での礼拝順序の変更前後を比較。
日本キリスト教会札幌北一条教会礼拝・祈祷委員会、『礼拝式の意味』、一麦出版社、2002、31頁、280円。
礼拝式の構成要素を順に全てを取り上げて、信徒向けに短く解説。
鈴木崇巨、『牧師の仕事』、教文館、2002、400+17頁、3000円。
実例ではないが、「第8章 礼拝の指導」で礼拝の順序に沿って、各項目を説明。使用が考えられる聖句箇所例は豊富。背景はアメリカの非主流教会的。

1.8 教会暦

日本における教会暦に関する基本的な著作は、古くは、由木康『教会暦の研究』(日本基督教団宣教研究所、1956)、同じく由木康の『礼拝学概論』(新教出版社、1961)の第4章に始まるだろう。

その後、山内六郎『教会暦のはなし』(聖文舎、1966)。

日本基督教団の研究としては、由木康『教会暦の研究』の後、深津文雄『教会暦における聖書日課の解説』(日本基督教団宣教研究所、1962)、日本基督教団聖書日課研究委員会編『新しい教会暦』(日本基督教団出版局、1975)。

日本基督教団出版局聖書日課編集委員会編、『新しい教会暦と聖書日課――4年サイクル主日聖書日課を用いるために』、日本基督教団出版局、1999、190頁、1800円。
「T 教会暦の成立と展開」(今橋朗)、「U 聖書日課の歴史」(山下萬里)、「V 現代の礼拝刷新と聖書日課」(勝田英嗣)、「W 日本基督教団の聖書日課」(北村宗次)、「X 聖書日課を用いるために」(四竃揚)。付録の中の「4年サイクル主日聖書日課 使用聖書一覧」は、聖書箇所からそれがどの主日に用いられるかを引ける便利な“逆引き”。日本語文献表あり。
今橋朗、『よくわかるキリスト教の暦』、キリスト新聞社、2003、123頁、1200円。
日本語文献表あり。付録に、灰の水曜日と復活日の1900年から2100年までの一覧表あり。
K.H.ビーリッツ(松山與志雄訳)、『教会暦――祝祭日の歴史と現在』、教文館、2003、334+30頁、3675円。
原著1998新版からの翻訳。教会暦の歴史を起源から今日まで詳しくたどる。教会暦の標準的教科書とのこと。「第一部 祝祭暦と祝祭日」で時間体験、日と週、暦、日曜日、その後、「第二部 復活祭圏」、「第三部 降誕祭圏」と続き、第四部で成人の祝日を扱う。巻末に「日本の教会暦対照表」あり。訳者によるあとがき。2004年に第二版?

加藤常昭『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』(教文館、1994初版,1998再版)の問266-278に雪ノ下での教会暦の扱いについて書かれている。

土戸清『人間性の崩壊を救うもの――現代の教育と宗教の役割』(教文館、2005)の中に、教会暦について説明した一章がある。

O. クルマン(土岐健治、湯川郁子訳)、『クリスマスの起源』、教文館、1996、122頁、1500円。
2006年新装版。原著は初版1947、改訂新版1990。クリスマスの起源とクリスマスツリーの起源。キリスト教会は、特定の日を祝っていたのではなく、「キリストの地上への顕現」という事実を祝っていた。12月25日は太陽崇拝という異教の祝祭日に由来するが、その日が救い主イエス・キリストの誕生日となったことは、キリストこそ闇の中に輝く光であり、義の太陽であるゆえに、「自然の中に示される神の啓示はすべて、キリストの愛の行為における神の啓示に従属させられていることを、私たちに思い起こさせる」(p.66-67)。
H. マイアー(野村美紀子訳)、『西暦はどのようにして生まれたのか』、教文館、1999(1991)、183+10頁、1800円。
74ページまでが本文「西暦の歴史」で、それ以降は資料として関連する人物の紹介とフランス革命暦など。邦訳タイトルは『西暦はどのようにして生まれたか』であるが、西暦の成立だけでなく、週、月、年の決定との関連も分かる。
「ニカイア公会議(325年)は復活節にかんして二つの重要な決定を下した。一つは、復活祭を日曜日に祝うというローマの慣例を承認したこと、次にその期日を春の満月後最初の日曜日と定めたことである。こうして教会暦の基礎が固まった。まずユダヤ教起源の週・・・次に、太陽暦に基づくローマ流の年・・・最後に――ユダヤ教の過越祭という回り道を経て――月の影響を受ける復活日。そしてこの日を基準に・・・移動祝日が決まる。」(pp.32-33)
「歴史の直線の真ん中に起点が、つまりキリストの生年があって・・・、そこから「それ以後」と「それ以前」の両方へ向かって時間を数えるのは西暦だけだという著者の指摘は意味深い。」(「訳者のあとがき」p.181)

1.9 聖餐の守り方と現代の諸問題

組織神学の教義学の中の聖餐論の文献も見る。

日本基督教団宣教研究所編(木下芳次、芳賀真俊執筆)、『礼拝における聖餐式の諸問題』、日本基督教団出版部、1960。
7つの章からなる。中心は第4章「聖餐式の形式とその意義」で、20の問いをたてて聖餐式における具体的問題への教派ごとの理解を紹介する。そして第6章「現代日本プロテスタント教会の聖餐式」で日本の教会における聖餐の形式の傾向をまとめる。
加藤常昭、「聖餐式をめぐる問い」(『福音主義教会形成の課題』、1973)。
制定語は、説教として、直説法によって宣言されるべき。/ 聖餐式がなぜ神の恵みを証しするものなのか、どうして他の道が取られないのか、それは恵みの秘義に属する。/ 我々が聖餐式を行うときに主が共におられるかどうかは、神の全く自由な行為による。ただ我々は約束の言葉を聞いている。その約束に相応する我々の行為は信じるということである。その限り、信仰のないところに聖餐式の正しい執行はあり得ない。/ 説教は具体的に聖餐式を指し示すべきであるし、あるいはまた聖餐式のための小さい説教をしてもよい。
G. D. レーマン、「聖餐の守り方――日本の教会のルーツを探る」 (『季刊 教会』12号、1993.8)
近藤勝彦、『聖餐の意味とその守り方』(鳥居坂教会文庫8)、日本基督教団鳥居坂教会、1994。
「聖餐とは何か」と「正しい聖餐式の守り方」の二講演。後者の中で、現行式文の問題(pp.69-75)や受洗者陪餐の理由(pp.76-83)、聖餐執行者の問題(pp.90-95)、陪餐者の生活と献身について(pp.95-100)などに触れている。

2.説教学

2.0 いろいろ

『説教の課題と現実』(日本基督教団出版局、1987)は、季刊雑誌『説教者のための聖書講解」の巻頭小論をまとめたもの。澤正彦「韓国教会の説教」は澤正彦『韓国と日本の間で』(新教出版社、1993)に収録されている。

聖書講座5の「釈義と説教」(1968)は何であるか?

同志社大の深田未来生は、『アレテイア』第1号(1993)の「説教者の書斎から」という連載企画で、「説教者の任務を見直すために」として次の5冊を紹介している。古典的名著C.H.ドッド『使徒的宣教とその展開』、「語り」を考え直すのに興味深い関山和夫『説教の歴史――仏教と話芸』(白水社、1992)、関田の人格がにじみ出ている関田寛雄『聖書解釈と説教』、「説教者のための聖書講解」の巻頭小論をまとめた『説教の課題と現実』、石丸新『パブリックスピーキングとしての説教』(聖恵授産所出版部、1990)。

『神学』62号(東京神学大学神学会、教文館、2000)は「今日における福音宣教――説教を中心にして」。

「資料集」として、リチャード・リシャー編(加藤常昭監訳)、『説教をめぐる知恵の言葉 古代から現代まで』(上下巻)、キリスト新聞社、上:2010、450頁、6825円。原題:"The Company of Preachers: Wisdom on Preaching, Augustine to the Present," 2002. アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、フォーサイス、ブルトマン、バルト、ウィリモン、クラドックなど、55人の説教や論文からのアンソロジー。「説教とは何か」、「説教者」、「神の言葉を語ること」、「聖書解釈」、「レトリック」、「聞き手」、「説教と教会」の7つのテーマに分類。上巻は「聖書解釈」まで。

カルヴァンの説教について

『カルヴィン説教集』の竹森満佐一の「解説」は、「現在説教に苦労している説教者たちのために、これだけを改めて出版してもよいと思うほど、すぐれた興味深いもの」。「今日の説教者のなかに、竹森牧師の感化を受けている人がかなりおります。・・・しかし、そのうちの何人が、この説教論を読んでおられるであろうか・・・読んでいたら、もう少し違った説教をするはずだ」(加藤常昭「伝道者・竹森満佐一」より)

「彼〔カルヴァン〕は神の御言と之を聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も怖れた。」 この言葉は、初版の「訳者序」にあったが、戦後の1952年の再版にはなくなったらしい。(巻末の解説に取って代わられたのか?)(これについて触れているのが、竹森満佐一編『講解説教 イエス伝――マルコ福音書によって』(新教出版社、1990)の松永希久夫による「追記」。)

ふたつのことが必要である。すなわち信者の救いに必要になることについての正しい健全な知識を与えること、さらに、それと同時に、その教えが人々の心にいきいきと触れるように勢いを付け加えねばならない。/ 

「カルヴァンの説教についての一つの難点は、聖書の講解説教であるのだが聖書研究とほとんど区別がつかなくなるということにある。」(松永希久夫「神学教育者としての竹森満佐一牧師」、p.139)

「ルターは、日曜日には福音書の説教しかしませんでした。・・・ジュネーヴのカルヴァンもまた同じでありまして、日曜日の礼拝と言えば、福音書を説き明かしました。」(加藤常昭『加藤常昭説教全集16 ヨハネによる福音書5』教文館、p.190)

説教塾編『説教3』(説教塾紀要、2001.6、264頁、2100円)に久米あつみ「カルヴァンの説教」が収められている。

アジア・カルヴァン学会日本支部編(久米あつみ監修)、『新たな一歩を――カルヴァン生誕500年記念論集』(2009、キリスト新聞社、228頁、2625円)の中に、野村信「聖書解釈と説教――カルヴァンの聖書解釈論の考察」あり。

2.1 バルトとその周辺

P.T.フォーサイス(大宮溥監修、楠本史郎訳)、『フォーサイスの説教論』、ヨルダン社、1997(19071,19647)、372頁、3700円。
マコナッキーに「バルト以前のバルティアン」と呼ばれたフォーサイスの説教論。「時代の変化の中において果たさるべき説教の使命について、説教者としての戦いの労苦をにじませるようにして書いたこの書物は、・・・説教者必読」。(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』p.188)
W.リュティ、E.トゥルナイゼン(赤木善光訳)、『説教・告解・聖餐』(新教新書38)、新教出版社、1960(1957)、161頁、1,000円。
第一部説教(リュティ)、第二部告解(トゥルナイゼン)、第三部聖餐(リュティ)。
K.バルト、E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『神の言葉の神学の説教学』、日本基督教団出版局、1988、252頁。
バルトの大学での説教学演習の記録を元にした説教論と、トゥルナイゼンの小論3編。バルトのはこれより先に、翻訳権を得ずに(つまり海賊版ね)『説教の本質と実際』(新教出版社、1977)として出た。加藤常昭は、『説教者カール・バルト――バルトと私』(日本基督教団出版局、1995)という小さな本を出している。

トゥルナイゼンには、『この世に生きるキリスト者』(加藤常昭訳、新教新書33、新教出版社、1960、140頁)に「説教」というわずか6頁の文章がある。加藤常昭によれば、「きわめて短文であるが、すぐれたものと思う」(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』p.185)。また、『トゥルナイゼン著作集 第4巻』(新教出版社)に「説教の課題」、「説教の開始、進め方、終結について――ひとつの説教学研究」という論文がある。

ディートリヒ・リッチュル(関田寛雄訳)、『説教の神学』、日本基督教団出版局、1986(1960)、256頁。
一読の価値ありとのこと。「第1章 教会への神の言と教会からの神の言」、「第2章 礼拝と説教の職務」、「第3章 説教」と「付論」。翻訳者は分かってないで訳しているので、解説が全く的を射ていないらしいが、「バルトの『教会教義学』の"神の言葉の教理"に大きく依存して出発している」(訳者あとがき)。
ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『説教と牧会』、新教出版社、1975、238頁、1800円。
R.ボーレン(加藤常昭訳)、『説教学T、U』、日本基督教団出版局、T:1977、648頁、U:1978、526頁(1971)。
原著は一巻本。気づいたところでは、邦訳のTは1979に再版、Uは1982再版、1990第3版が出ている。中身は変わっていないだろう。Tには、「第一部 序論的行程」、「第二部 説教の根拠」、「第三部 言葉の時間形態――想起・約束・現在」。Uには、「第四部 説教者」、「第五部 聞き手」が収められている。Uには、「インタビュー――著者に聞く」も収められている。Uの巻末に、TとU全体の聖句索引、簡単な解説付きの人名索引、そして事項索引がある。
『説教学U』に収められている第四部「説教者」は、加藤常昭によれば「おそらく私が知る限り、現代説教学においては最も詳細な説教者論」とのこと(加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.120)
ルードルフ・ボーレン(Rudolph Bohren)は1920-2010.2.1。
ハンス・ヨアヒム・イーヴァント(加藤常昭訳)、『イーヴァント著作選1 説教学講義』、新教出版社、2009、253頁、2730円。
1937年夏に告白教会牧師研修所で語られた説教学講義。付論に、アルブレヒト・グレツィンガー「その精神史的コンテキストにおける説教学者としてのハンス・ヨアヒム・イーヴァント、そして更にそれを越えて」。
イーヴァント(1899.6.11-1960.5.2)の著作の邦訳に、出村彰訳、『清き心をつくり給え――H.J.イーヴァント説教集』(現代世界説教選)、日本基督教団出版局、1980。これは遺稿集第三巻に納められている36編の説教から23編を選んで訳出。竹原創一訳、『ルターの信仰論』、日本基督教団出版局、1982。鈴木和男訳、『約束の陽は昇る――ゲッティンゲン説教黙想』、日本基督教団出版局、2001。鈴木和男訳、『キリスト論序説――人間の人間性への転換』、日本基督教団出版局、2008。これは遺稿集第二巻の訳。加藤常昭編訳『説教黙想集成』(全三巻)、教文館、2008。この中に、イーヴァントの黙想論や25編の説教黙想が含まれている。

ブルンナー(大木英夫訳)『我は生ける神を信ず』(新教出版社、1962)の訳者による「あとがきに代えて――宣教者としてのブルンナー」に、ブルンナーの説教論が端的に紹介されている。

2.2 いわゆる福音派系の説教論

C.H.スポルジョン(ティーリケ編、加藤常昭訳)、『説教学入門』、ヨルダン社、1975、402頁。
スポルジョンは1834-92。イギリスのバプテストの説教者。彼の説教学の講義が"Lectures to My Students"と題して刊行され(1875)、説教学の古典となっている(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』、p.183)
『説教学入門』と『牧会入門』は、邦訳タイトルは違うが同一の本らしい。この二つの訳書が出たのも同年らしい。との情報をいただきました。
C. ヴィスロフ(鍋谷堯爾、宮本威訳)、『説教の本質』、聖文舎、1970、464頁。
D.M.ロイドジョンズ(小杉克己 訳)、『説教と説教者』、いのちのことば社、1992(1971)、475頁、4800円。
ロイドジョンズの説教は、近藤勝彦も「彼のスタンスは、特に「日本基督教団」の牧師・説教者が学ぶのにきわめて適切」と評価している(近藤勝彦『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』、p.89)。「ロイドジョンズは、・・・なかなかすぐれた神学的見識を持っている・・・。この書物は、説教塾の学びのためのテキストとして読むことを勧めたいほどのものです。何よりも重要なのは、ピーターソンと同じように召命を重視していることです」(加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.23)

他に、H.W. ロビンソン(島田福安、島田礼子訳)『講解説教入門』(聖書図書刊行会、1987)(現在、いのちのことば社リパブックス、316頁、3780円)。日本人によるものに、藤原導夫『キリスト教説教入門――その本質と実際』(いのちのことば社、1998、165頁)。

2.3 その他の翻訳もの

ヘルムート・ティーリケ(佐伯晴郎訳)、『教会の苦悩――説教に関する私の発言』、ヨルダン社、1967(1965)、275頁。
H.H.ファーマー(山内六郎訳)、『断絶の現代と説教』、聖文舎、1969、162頁。
マンフレッド・ヨズッティス(加藤常昭訳)、『現代説教批判――その律法主義を衝く』、日本基督教団出版局、1971、226頁。
H.J.クラウス(佐々木勝彦訳)、『力ある説教とは何か』(現代世界説教選)、日本基督教団出版局、1982(1966)、144頁。
「クラウスのこの小さな書物は、・・・全権に生きる説教がどのように生まれるかをひたすら問い続ける情熱の書物です(加藤常昭『説教者を問う』、p.57)
A.W.ブラックウッド(福士卓司訳)、『講解説教の技法』、聖恵授産所出版部、1996、270頁。
トム・ウィルキンソン(松谷好明訳)、『キリスト中心の講解説教』、一麦出版社、2007、480頁、4725円。
一麦出版社の目次あり。第一部が説教論、第二部が説教の要約16編。
「友人たちと私は、無鉄砲にも、町の公園に集まっている大勢の人々に野外説教を試みさえしました。いつも聴衆はほとんど若い人たちで、私たちの語ることによく耳を傾けてくれました。すぐさま私は、福音のメッセージをより効果的に伝えるには知識と技術がもっと必要だと感じました。」(「はじめに」より)
キャシー・ブラック(川越敏司、飯野由里子、森壮也訳)、『癒しの説教学――障害者と相互依存の神学』、教文館、2008、272頁、2625円。
目が見えないこと、耳が聞こえないこと、麻痺、「重い皮膚病」(ツァアラト)、精神障害といった具体的な障害に関する聖書箇所の解釈の問題と実際の障害や障害者の理解への影響。
ウィリアム H.ウィリモン(平野克己、笠原信一訳)、『教会を必要としない人への福音』、日本基督教団出版局、2008、208頁、2310円。
教会形成論でもあるようだが、見ていないので、どういう範疇に入れるか不明。少なくとも、ウィリモンが説教について語っている書物ではあるようだ。

2.4 ボーレン以降

佐藤司郎、「R. ボーレン以後の説教学の動向――聞き手の問題を中心として」(説教塾『紀要・説教』(説教塾創立20周年記念号)、第9号、2007.11)。

クリスチャン・メラー(加藤常昭訳)、『慰めの共同体・教会――説教・牧会・教会形成』、教文館、2000(19831、19902)、432頁、3500円。
T.H.トロウガー(越川弘英訳)、『豊かな説教へ 想像力の働き』、日本基督教団出版局、2001(1990)、239頁、2500円。
フレッド・B・クラドック(吉村和雄訳)、『説教――いかに備え、どう語るか』、教文館、2000(1985)、390頁、4500円。
フレッド・B・クラドック(平野克己訳)、『権威なき者のごとく――会衆と共に歩む説教』、教文館、2002(19711,19742,19793)、293頁。
R.リシャー(平野克己、宇野元訳)、『説教の神学――キリストのいのちを伝える』、教文館、2004、250頁、2800円。
クリスティアン・メラー(説教塾編、加藤常昭訳)、『説教の喜び』(説教塾ブックレット5)、キリスト新聞社、2006、152頁、1470円。
この中に、メラーが2000年秋に来日した時の講演「説教の喜び」が収められている。これの初出は、説教塾編『説教3』(説教塾紀要、2001.6、264頁、2100円)。ちなみにこの紀要には、他に、徳善義和「ルターの説教」、久米あつみ「カルヴァンの説教」、加藤常昭「竹森満佐一の説教」などが収められている。
クリスティアン・メラー(加藤常昭訳)、『慰めのほとりの教会』、教文館、2006、334頁、2940円。

2.5 加藤常昭以前の日本の説教学

加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』(1964)のp.185以下で紹介されているものは次の三つ。まず、後藤光三『説教学』(1960)は、当時の代表的な説教学のスタイルによる保守的な傾向の大著。レイモンド・アバ『礼拝』(滝沢陽一訳、1961)の第3章「み言への奉仕」は「独立した説教論としても適用する立派なもの」。藤井孝夫『説教学入門』(教師の友文庫、日本基督教団出版部、1962)は、CS教師向けと言いつつ、原理論的な説教論を中心とした「地味で堅実なよい説教論」。

また、説教学とは言えないが、日本の代表的説教者の説教論として、加藤常昭は次の三つを挙げる。『植村正久とその時代』第4巻(佐波亘編、1938)には、「牧会と講壇」という表題のもとに、説教に関する洞察力のある文章がいくつもある。山室軍平「伝道者論」(『山室軍平選集』第五巻所収)の中に説教および説教者論が含まれており、一読の価値がある。竹森満佐一訳『カルヴィン説教集』1938の巻末にある解説は、カルヴァンの説教についてのすぐれた解説であるとともに、説教そのものについての示唆に富んだ文章となっており、推賞に値する。

渡辺善太、『聖書的説教とは?』、日本基督教団出版局、19681,19692、307頁。
「渡辺善太の秘密を垣間見せる好著であった。復刊が望まれる。・・・渡辺先生の説教を聴いていると、聖書の言葉が起ち上がってくる。立体化してくる。聴き手に向かって迫ってくる。この秘密を私たちも盗まなければならない」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.43)

2.6 加藤常昭

加藤常昭、『説教――牧師と信徒のために』(現代と教会新書)、日本基督教団出版部、1964、205頁。
この本に先立って刊行された藤井孝夫『説教学入門』(教師の友文庫、日本基督教団出版部、1962)と併読されることを期待して書かれている。取り扱う問題が重複するのは当然だが、「叙述、つまり問題の扱い方を意識して相違させている」とのこと。
「第一部 説教論」には、「わたくしたちの課題」(今日における説教の問題、説教学とは何か、説教と信徒)、「説教の課題」(礼拝における説教、神学的な説教、慰めとしての説教、教会の言葉としての説教)、「説教の方法」(聖書の用い方、説教の対話的構成、原稿作成に現れる説教の問題)。第二部では、神学者たちのルカ5:1-2に関する説教を並べて解説(ハインリヒ・フォーゲル、ヴォルフガング・トゥリルハウス、アルトハウス、ギュンター・ヤーコブ、ブルトマン、バルト)。
「むしろ愛の奉仕を人にゆずってでも祈りと言葉の奉仕に専心することが自分たちの務めだ」(p.14)。「説教者のために切に祈ることこそ、信徒に求められる、しかも誰にでもできる、説教のための奉仕と言える」(p.30-31)。
加藤常昭、『福音主義教会形成の課題』(今日のキリスト教双書15)、新教出版社、1973、394頁。
18の講演・論文集。説教学関連のものは、「説教作成過程に関するひとつの方法論的考察――いわゆる説教黙想について」(未発表の講義草稿)、「「聖書的説教」の方法論的考察」(渡辺善太米寿記念論文集『渡辺善太――その人と神学』所収)、「説教の喪失と回復」(『福音と世界』1962.10)、「現代における説教の課題」(『福音と世界』1968.9)、「日本における説教の諸問題」(1971年関東教区教師会での講演)。
加藤常昭、『説教論』、日本基督教団出版局、1993、520頁、6699円。
第1章「説教の神学的基礎」は『神学』(36+37、39、41、44、47号)に発表した5論文。第二章「ハイデルベルクにて」は随想2本と付論。第三章「説教の課題」は、説教とは何か、いかなる説教をめざすのか。第四章「説教の方法」は、説教の方法と説教分析に関する4編。
加藤常昭、『愛の手紙・説教――今改めて説教を問う』、教文館、2000、328頁、3000円。
加藤常昭、『自伝的説教論』、キリスト新聞社、2003、380頁、2000円。
「キリスト新聞」の連載にさらに加筆・修正した38歳までの自伝であるが、説教者としての自伝は、説教論となり説教者論となる。さらに、説教が教会と切り離すことができず、また、説教者は伝道者でもあるゆえに、自伝的教会論でもあり自伝的伝道論でもある。
「『外からの先行する言葉』というシュマルカルデン条項における表現こころを捕らえられた」(p.45)。「なぜ大切なところで、権威あると思われている神学者の引用に逃れて、説教者自身の言葉でメッセージを語ろうとしないのか」(p.156)。「説教の題は、町を歩く人びとに語りかけるものでなければならない。ここでも教会内だけで通じるような言葉を使うわけにはいかない」(p.194)。「説教で牧師の政治的見解を述べ、聴く者が意見を異にしても、反論できずに黙って聴かされるということは正しくない。・・・説教が語るべきは、神に作られ、救われた人間としてのあるべき基本の道だけである」(p.224f)。「説教をやさしく語るということは、単に言葉をやさしくすることではなく、生活の中で捉え得る言葉で語るということである」(p.241)。
加藤常昭(説教塾編)、『説教者を問う』(説教塾ブックレット1)、キリスト新聞社、2004、199頁、1200円。
説教者とは「神の言葉に仕える者」である。しかしこのことがいったい何を意味するのかをさらに問う。説教することは、説教者が説教者として生きる生き方、その存在に関わる。それゆえ説教者論が必要である(第1章)。説教者は、教会によって説教者として立てられているがゆえに、(たとえ経験がなかろうと年が若かろうと)重んじられなければならない。しかし、説教者自身も説教者であることを軽んじてはならない。自分が説教者であるということがどういうことかを会得することが急所である(第2章)。神は説教を通じなくても人を救い得る。しかし、その神が説教という外的手段を自ら必要とされ、求められた。その務めに召された説教者もまた、外的な神の言葉の手段に属する。それゆえ、神の言葉の説教にもサクラメンタルな契機がある(第3章)。聖霊の内的照明とは、説教者の内面が基準になることではなく、霊において臨在される方がそこで発言されることである。ここからこそ、説教者の大切さと説教者の内面の情熱が語られ得る(第4章)。
加藤常昭編訳、『説教黙想集成T 序論・旧約聖書』、教文館、2008、826頁、6510円。
この中に、加藤常昭、アイヒホルツ、イーヴァントの説教黙想論がある。
加藤常昭、『文学としての説教』、日本基督教団出版局、2008、274頁、2940円。
この中に、芳賀力との対話、イーヴァントと竹森満佐一の説教との対話がある。

「自分が説教者として、とにかく説教ができるようになったと内心確かさを覚えて安堵したのは、五十歳半ばになってからである・・・」(『自伝的説教論』、p.378)

「私どもが説教において触れてはならないと決めつけている、牧師の交代とという重大な出来事から教会の中で起きた小さな出来事に至るまで、しかし、加藤牧師は説教の中でこそ採り上げ、御言葉の光の中でそれらの出来事を牧会的に、魂への配慮をしつつ丁寧に解き明かされる」 井ノ川勝「牧会する説教」、加藤常昭『ヨハネによる福音書1〜5』(加藤常昭説教全集12-16巻、教文館)への書評、『本のひろば』2005.8、p.9

なお、『子どものための説教入門(信徒のための神学講座)』(日本キリスト改革派教会西部中会教育委員会(聖恵授産所出版部発売)、2001、202頁、1429円)という本もある。講演と質疑応答、付論として「教会学校説教の課題と方法」。全体として、教会学校の使命から説教論、そして説教準備から語り方まで具体的な指針。

加藤常昭の説教論を論じたものに、藤原導夫「加藤常昭先生の説教論」(『説教塾紀要 説教』6号、教文館、2004)がある。

2.7 日本人の著作

関田寛雄、『聖書解釈と説教』、日本基督教団出版局、1980。
論文や釈義、小論集。第一部の「聖書解釈と説教」に9論文を収録。現在オンデマンドで5355円。これからの後の論文集は、『「断片」の神学――実践神学の諸問題』(日本基督教団出版局、2005、458頁、5775円)。
日本基督教団出版局編、『説教の課題と現実』、1987、332頁、4600円。
『説教者のための聖書講解』1〜51号の巻頭論文をまとめたもの。説教黙想について、説教論、説教者、葬儀説教・結婚式説教・学校での説教、アウグスティヌス・ルター・カルヴァン・ウェスレー・バルトの説教について、諸教派・各地域の説教など。。
松田真二、『改革主義信仰告白と説教』(大森講座5)、日本キリスト教会大森教会(発売:新教出版社)、1990、96頁、1000円。
教会の公の決定である信仰告白の文書に見られる説教についての告白に着目し、中でも説教について興味深い告白をしている「第二スイス信仰告白」、「ハイデルベルク信仰問答」、「ドルトレヒト規定」(ドルト信条)を取り上げて、説教の定義、内容、効力について考察する。
石丸新、『パブリック・スピーキングとしての説教』、聖恵授産所出版部、1990、216頁。
日本基督教団出版局編、『聖書から説教へ』、日本基督教団出版局、1992、206頁。
『聖書と教会』1989.10〜1990.12連載がもと。大宮溥、城崎進、笠原義久、熊澤義宣、小林恵一、関田寛雄。
岩崎謙、『宣教する教会の説教』(大森講座18)、日本キリスト教会大森教会(発売:新教出版社)、2003、87頁、900円。
第1章「宣教を促す説教の立脚点」と第2章「宣教する教会の説教」、結語は「宣教現場を支える神学」。異教社会、宗教多元主義的社会において、説教の使命とは何か。

論 文

芳賀力、「伝承としての啓示――説教の教義学的基礎づけを巡って」(『神学』62号、2000)。

佐藤司郎、「なぜバルトは説教黙想を書かなかったのか――説教黙想の課題」(『東北学院大学論集 教会と神学』第48号、2009.3)。

佐藤司郎、「R. ボーレン以後の説教学の動向――聞き手の問題を中心として」(説教塾『紀要・説教』(説教塾創立20周年記念号)、第9号、2007.11)。

2.8 説教者論

加藤常昭(説教塾編)、『説教者を問う』(説教塾ブックレット1)、キリスト新聞社、2004、199頁、1200円。
説教者とは「神の言葉に仕える者」である。しかしこのことがいったい何を意味するのかをさらに問う。説教者論は「説教する」という実践的課題のみならず、「説教者として生きる」という存在に関わり生き方に関わる課題を負っている(p.16)。説教者は、どれほど若かろうが説教者として重んじられなければならない。それは、教会が正しい手続きを経て説教者を説教の職務に就かせているからである。

加藤常昭『自伝的説教論』は説教者論でもある。「自分の召命の出来事に、改めて畏れを抱く」(p.56)。「私たち伝道者として召された者は神の言葉と祈りに専心するのであり、その集中を妨げるならば、愛の実践も禁欲しなければならないことがあるのではないか」(p.209)。

G. D. レーマン、「説教者の確信」 (東京神学大学神学会編、『神学』62号、2000、東京神学大学神学会)。
説教者は説教に対し「自信がなくても結構だ。大事なのは確信だ」。では、その確信の根拠は何か。神、聖書、御言葉の担い手である教会、牧会の務めの付与、説教においてテキストが語ることへの確信を説く。教会に関する確信では、教会を通して説教の務めが委ねられ、説教者として立てられていることも明確に語ってくれればよかったと思う。John R. W. stott, "Between Two Worlds" から多くの示唆を受けて書かれたとのこと。

『吉祥寺教会の歩み』(日本基督教団吉祥寺教会、1999)の中の、加藤常昭「伝道者・竹森満佐一」、松永希久夫「神学教育者としての竹森満佐一牧師」、山内眞「聖書神学者としての竹森満佐一先生」の三つは、説教者としての竹森満佐一の姿として、興味深い。竹森の説教論や説教者論を垣間見ることが出来るものは、竹森満佐一訳『カルヴィン説教集』(1938)の解説、『神学』41号(1979)の中の「教会と神学――最終講義」など。

伝道者は、著述によってではなく、その言葉に耳を傾けた者の心に神の言葉を刻むことによって、その使命に生きる。/ この説教者の一言一句も聞き漏らすまいと耳を傾け、心燃やした。/ 教会員をよく知ることなくして説教はできない。/ 教理的説教とは、聴く者をして神を礼拝する行為、キリストに従う行為へと呼び立てる言葉である。それゆえ実践的であり信仰告白的とも言い換えられる。・・・教理的であるということは、いきいきと迫る言葉であることを意味する。聴く者を引きずり込む。/ これから説教を学ぶ者は、『カルヴィン説教集』の解説を学ぶと共に、竹森満佐一の説教集『わが主よ、わが神よ』の説教を声に出してくり返し読むとよい。
牧師として何よりも大切なことは、聖書から神の言葉を聴き、これを信仰者と非信仰者とを問わず取り次ぐこと。/ 聖書諸文書自体の内包する神学構造により、その内容を解明し、これに聴従する。/ 真に礼拝が成立していれば、それだけで教会は教会として成立している。それとは別個に交わりがあったりするのは間違っている。/ 誰が語るかでなはく、何が語られるかによって、礼拝は成立する。/ 〔礼拝における恵みに対し〕週日の家庭や職場や学校における応答こそ重要な教会生活であり教会活動である。信徒がマイノリティである社会では、教会の中に閉鎖的に籠もる傾向が強い。しかしそれでは証しにならない。
講解説教とは、神の言である聖書が礼拝の中心であるということを厳格に重んじ、聖書をそのまま生かし、聖書をそのまま語ろうとするひとつの努力なのであり、これが古代から教会が絶えることなく継承してきた説教の最も基本的な形態である。

加藤常昭『説教者を問う』pp.19-28の文献案内で紹介されているもの

D.M.ロイドジョンズ(小杉克己訳)、『説教と説教者』、いのちのことば社、1992(1971)、475頁、4800円。
「ロイドジョンズは、・・・なかなかすぐれた神学的見識を持っている・・・。この書物は、説教塾の学びのためのテキストとして読むことを勧めたいほどのものです。何よりも重要なのは、ピーターソンと同じように召命を重視していることです」(加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.23)
C.H.スポルジョン(ティーリケ編、加藤常昭訳)、『説教学入門』、ヨルダン社、1975、402頁。
書名を『説教者入門』とすることもできたと思われる書物。
カール・バルト(加藤常昭訳)、『福音主義神学入門』、新教出版社、1962(1962)、266頁。
「神学とは何か」を神学的に考察したかなり濃密な論述。誤訳を訂正して『カール・バルト著作集10』に所収。内容は相当深く、読み応えあるのでじっくり読む。2003年に新教セミナーブック18として再版された。
「バルトの『福音主義神学入門』は、そのまま『説教者入門』とすることができる。」(加藤常昭『愛の手紙・説教』、p.112)
K.バルト、E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『神の言葉の神学の説教学』、日本基督教団出版局、1988、252頁。
この中のバルトの「説教学」。
H.J.クラウス(佐々木勝彦訳)、『力ある説教とは何か』(現代世界説教選)、日本基督教団出版局、1982(1966)、144頁。
これもすぐれた説教者論の一つ。著者は執筆当時、旧約学の専門でありつつ、すぐれた説教者として知られていた。改革派の神学者だが、ルターに深く傾倒していることがよく分かる叙述が続く。関心は説教者そのものではなく説教者が説教を作る営みに集中するが、説教がどのような説教者の内面的な戦いから生まれるかを情熱的に語っている。
山内晴海、『カトリック司祭』、サンパウロ、2003。
加藤常昭が『説教者を問う』(キリスト新聞社、2004)の中で紹介している。第二バチカン公会議での新しい司祭職理解を、豊かに聖書を引用しながら語っているらしい。教会における正しい手続きによって教会的な客観的な事柄として召命が確認される。だからこそ、主イエス・キリストにあやかって、聖なる生活と聖なる業とによって、日々キリストの代理者としてよりふさわしくなれるように努力しなければならない。加藤常昭『説教者を問う』、説教塾ブックレット1、キリスト新聞社、2004、p.24。

おまけ

「説教者は学徒たることを決してやめてはならない。書斎こそは牧師館で一番重要な部屋なのである。牧師はすべからく毎朝四時間は書斎で過ごすべしという昔の規則は、もし彼が新旧の宝を伝えようとするならば、今日も真理である。心を常に新鮮に、また養わずに、どうして力ある講壇を守り続けることができようか。広くしかも深く、そして規則正しい体系的な読書なしにはできないのである。その外に何の方法もない。」レイモンド・アバ『礼拝――その本質と実際』、日本基督教団出版局、p.91。

「私の学生時代の恩師平賀徳造教授が、私の説教を批評して、なぜ最も大切なメッセージを自分の言葉で告げず、権威あるひとの引用ですますのかと厳しくたしなめてくださった」。(加藤常昭、『本のひろば』2002.2号の日本基督教団東京教区墓所管理委員会編『ヤコブの階段の前で』キリスト新聞社の書評)

「竹森満佐一が自分で言っているように、竹森満佐一の説教はカルヴァンの説教よりも「講解的」である。」加藤常昭『愛の手紙・説教』、p.116。

3.牧会学

3.0 牧会と「魂への配慮」

牧会

牧 会: 教会という集団を牧する牧師の職務のわざ

魂への配慮(ドイツ語でゼールゾルゲ)

ひとりの魂に集中し、牧師の職務に限定されるものではなく、教会に生きるキリスト者であるならば、誰にでも与えられている務め。

魂への配慮のための対話は、カトリック教会の告解(今日では<ゆるしの秘跡>)と呼ばれる、ひそかに行われる罪の告白と、それに対して与えられる対話として深められてきた。キリスト教会の実践のひとつの根幹である。

日本のプロテスタント教会はこれまで、これにあまり関心を持たず、それだけに実践されることも少なかった。

(「説教とカウンセリング」、『講座 現代キリスト教カウンセリング 第1巻キリスト教カウンセリングとは何か』、日本基督教団出版局、2002、p.116-118による)

3.1 牧会学

トゥルナイゼンの『牧会学』

原著名は、"Die Lehre von der Seelsorge"。直訳は「魂への配慮についての教え」。加藤常昭は「訳者として、釈然としないまま、周囲の勧告もあって、通例に従って『牧会学』と訳したが、誤解を招いたままであるように思う」と言っている。(「説教とカウンセリング」、『講座 現代キリスト教カウンセリング 第1巻キリスト教カウンセリングとは何か』、日本基督教団出版局、2002、p.116)

加藤常昭は最近(いつ頃からだろうか?)「トゥルンアイゼン」と表記している。

トゥルナイゼンは「日本語版のための序文」で、「カール・バルトの神学的労作への、ささやかな手引きと考えてくださってもよいでしょう」と語っている。

訳者加藤常昭は、牧師としての務めに思い詰めていた時にこの本と出会い、「キャンセルできることはすべて断り、読み耽った。・・・そして、私は救われたと思った。伝道し、説教し、魂への配慮に生き抜く私自身を生かす神の言葉をもう一度新しく聴いた」(加藤常昭『自伝的説教論』,p.202)

「この書物が問題としていたのは、一人の魂に集中する配慮です。・・・罪を犯した者が悔い改めて主の赦しにあずかることができるように力を注ぐのです。」(『日本の教会と「魂への配慮」』、p.12)

Tは牧会の基礎づけについて、Uは牧会の実践を扱う。教科書としてスタンダードで、神学全般の学びに役立つ。必携。

E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『牧会学T 慰めの対話』、日本基督教団出版局、初版1961(1946)、478頁、6600円。
「第一部 牧会の基礎づけ」、「第二部 牧会の本質と形態」、「第三部 牧会の完成」。
E.トゥルナイゼン(加藤常昭訳)、『牧会学U 世俗化時代の人間との対話』、日本基督教団出版局、1970(1968)、364頁。
第一部は、「牧会的実践の諸原則」。第二部は「牧会の実際」として結婚問題、病者の牧会、死なんとする者、悲しむ者への慰めを扱う。

その他

ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『説教と牧会』、新教出版社、1975、238頁、1800円。
C.H.スポルジョン(松代孝太郎訳)、『牧会入門』、いのちのことば社、1975、454頁、4600円。
スポルジョンの綴りはSpurgeonである。より原語の発音に近いとして「スパージョン」とも表記されるのは、いつからだろうか。『キリスト教大事典』1963で「スパージョン」の見出しになっている。
クリスチャン・メラー(加藤常昭訳)、『慰めの共同体・教会』、教文館、2000、432頁、3500円。
原著名を直訳すれば、「牧会的に説教する」となるらしい。

他に、牧会学と礼拝学にまたがる著作に、ウィリアム・ウィリモン(越川弘英訳)『牧会としての礼拝――祭司職への召命』(新教出版社、2002、307頁、3300円)。

R.ボーレン(加藤常昭訳)、『天水桶の深みにて――こころ病む者と共に生きて』、日本基督教団出版局、1998、262頁、3900円。
「少々難解ですが、この神学者の存在、信仰、神学がすべて現れた、あまり類書のない本です。妻に自殺された神学者の再生の物語です。十五年の思索が込められています。」(加藤常昭、松居直との対談『本を読もう』、p.112)。
牧田吉和監修、『福音主義神学における牧会』、いのちのことば社、2003、241頁、1400円。
2002.11の福音主義神学会の全国研究会議の「結実」。共著者は加藤常昭、河野勇一、堀肇、宮村武夫、窪寺俊之。カトツネのは「福音主義神学における牧会」(pp.22-135)。加藤常昭の「パースペクティブ思考法」を中心とするテーゼへの応答として、4人の福音派の先生が講演した。加藤によれば議論がかみ合っていないものもあるという。
越川弘英編著、『牧会ってなんだ?――現場からの提言』(現代の教会を考えるブックレット2)、キリスト新聞社、2008、157頁、1470円。
第一部は越川弘英の今橋朗へのインタビューというか対談というか。第二部は、今橋朗、禿準一、古賀博、平野克己、増田琴の5名の牧師の対話。「祷告の集い」(「祷」は旧字)(p.35)、「牧会権」(p.60)、教会の「ファミリー・サイズ、パストラル・サイズ、プログラム・サイズ」(p.97)、「ポイメニクス」(p.156)。「牧会というのは、その人が神の前に立つために安心して孤独になれるようにしてあげること」(p.95)。「一人になれない者は注意しなさい」という言葉がボンヘッファー『共に生きる生活』にあるらしい。「牧師として一つ心がけているのは、いつでも教会を辞められるようにということ」(p.134)。

告解については、マクニール『キリスト教牧会の歴史』(日本基督教団出版局、1987)、リュティ、トゥルナイゼン『説教・告解・聖餐』(新教出版社)、トゥルナイゼン『牧会学』(日本基督教団出版局)。

「よい羊飼いの羊に対する配慮は四つから成る。食べさせること(栄養を与えるため)、導くこと(羊は迷い易いから)、見張りをすること(狼から守るため)、そして癒すこと(傷ついた者の手当)である。この四つの行為はみな御言葉の務めの諸要素を言い表している」(G.D.レーマン「説教者の確信」(『神学』42号)でサムエル・ヴォルベダ『説教の牧会的天才』で語られていると紹介している)

3.2 牧会の歴史

J.T.マクニール(吉田信夫(よしだ・しのぶ)訳)、『キリスト教牧会の歴史』、日本基督教団出版局、1987(1951)、430頁、4,200円。
加藤常昭はいろいろなところで名著だと言っている。「告解、つまりローマ教会でなされている聖職者の前における個人的な罪の告白の問題が、どれだけ教会の歴史の中で重要、切実な問題であったかを知るであろう。日本の教会、われわれのプロテスタント教会が、いかなる意味においても、この告解の提出している真剣な問いと一度も取り組まなかったことは、ひとつの不幸であった」(加藤常昭『説教――牧師と信徒のために』日本基督教団出版部、1964、p.195)
加藤常昭、井ノ川勝、賀来周一、山岡三治、『日本の教会と「魂への配慮」』、日本基督教団出版局、2005、192頁、2600円。
全12巻の『魂への配慮の歴史』(C.メラー編、加藤常昭訳、日本基督教団出版局、2000-2004、全部で31185円)のエッセンスを知ることができる、座談会を元にした、全12巻へのガイドブック。「『魂への配慮の歴史』は、マクニールがやっているような、明確な問題意識を持ちながら全体を概観していくようなことではなくて、二千年の歴史の中で魂への配慮に生きた六〇人を超える人々を選んで、その人たちのポートレイト、つまり、一人一人の人物像やその人の言葉に耳を傾けるという文章も含めた叙述をそれぞれの専門家にさせています」(p.10)。
魂への配慮とは、「より根源的なこと、つまり、息ができるように助けること、神のみ前で嘆き、あるいは賛美することができるように助けてあげることなのである。すなわち、人間が神の息吹のリズムの中に再び入り込み、もはや、自分の人間としての息吹によって自分を引き受けるようなことをしないですむように助けてあげる」ことである。(p.14)
魂が配慮される相手は、罪を犯した一人の魂であり、あるいは、病み、悲惨の中にいる者であり、さらには、キリスト者の共同体全体である。魂に配慮する主体は、牧者であり、長老会であり、なによりも、教会全体、教会員全員である。「自分たちも慰め手となりうるキリスト者の共同体を形成することに心を注ぎたい」(p.13)。魂が慰められる場所は、個人的な告解や交わりの時であるのみならず、礼拝における罪の赦しや聖餐こそがその場である。
「一人一人の罪は、実は自分だけの問題ではなくて・・・共同体全体の問題・・・。」「共同体が本当に癒されるためには、一人一人が癒されなければいけない」(p.189f)。
なお、クリスティアン・メラー(加藤常昭訳)『説教の喜び』(説教塾ブックレット5、キリスト新聞社、2006)に、メラーが2006年に来日したときの講演「『魂への配慮の歴史』の基本線――魂への配慮の変遷」が収められいる。

3.3 牧会者

E.H.ピーターソン(越川弘英訳)、『牧会者の神学――祈り、聖書理解、霊的導き』、日本基督教団出版局、1997(1987)、248頁、3800円。
説教者の自己形成を問い直す説教者論。召された者の霊的生活の手引きとして適切。ぜひ読め(加藤常昭の講演にて)。
H.J.M.ヌーウェン(西垣二一、岸本和世訳)、『傷ついた癒し人――苦悩する現代社会と牧会者』、日本基督教団出版局、1981(1972,1977)、221頁。
「傷ついた癒し人――現代社会におけるミニストリー」と「生きた想起者――イエス・キリストの記念としての奉仕と祈り」。
梅津順一、『ピューリタン牧師バクスター――教会改革と社会形成』、教文館、2005、316頁、2730円。
リチャード・バクスターは、17世紀イギリスの牧師(1615-1691)。第1部「牧会者リチャード・バクスター」は、牧会者としてのバクスターの生涯と、著者が説教塾で行った講演「リチャード・バクスターの牧会と説教」。第2部「バクスターの著作(抄)」は、『自叙伝』から「歴史の証人として」、『改革された牧師』から「牧会者の職務」、告別説教、そして『キリスト教指針』から「職業指針」「取引指針」「自己審査」を紹介する。

ツヴィングリの「牧者論」(1524)は重要と加藤常昭が言っている(『日本の教会と「魂への配慮」』、日本基督教団出版局、2005、p.55)。これは、『宗教改革著作集第5巻 ツヴィングリとその周辺T』(教文館、1984、3500円)にある。

松永希久夫、「説教と神の言とのはざまにて――説教学演習Vへの覚書」 (山口、芳賀編、『説教と言葉――新しい時代の牧会と説教−−加藤常昭先生献呈論文集』、教文館、1999)。

牧師論

ウィリアム・ウィリモン(越川弘英、坂本清音訳)、『牧師――その神学と実践』、新教出版社、2007、520頁、5250円。
任職から始まり、様々な角度から牧師の姿を語る。祭司、聖書解釈者、説教者、カウンセラー、教師、伝道者、預言者、リーダー。とてもじゃないが、こんなに務まらない。

関川泰寛、「古代教会史から見た牧師論」 (『アレテイア』No.32(特集:牧師とは何か)、日本基督教団出版局、2001.3、16-21頁)。

近藤勝彦、『プロテスタント伝道百五十年――ともに記念し、ともに伝道するために』(美竹文庫2)、日本基督教団美竹教会、2007。非売品。第五章「何によって伝道者・牧師になるか」で、「牧師の神学」に根ざした牧師の職務とそれを遂行する「霊的な力量」と神の召しに応える「エネルギーの集中」について語る。

牧会者の姿

石田順朗、『牧会者ルター』、日本基督教団出版局、2007、272頁、2940円。
かつては、聖文舎、1976、248頁。教団出版局からの復刊には、巻末に「岸千年先生のこと」という短い文章が付されている。
「「魂への配慮者」としてのルターについて日本人が書いたものはこの一冊だけであろう。」(『日本の教会と「魂への配慮」』、p.57)
ちなみに、「ルターの魂への配慮は、卓上語録とか書簡、説教によく表れています。その中の、ザクセン選帝侯フリードリヒに宛てた手紙の「労し、重荷を負う人びとのための14の慰め」、これはルターの魂への配慮をよく表す著作として知られています。」(『日本の教会と「魂への配慮」』、p.57) この「・・・14の慰め」の邦訳は、『ルター著作集第一集第三巻』笠利尚訳「労し、重荷を負う人々のための慰めに関する十四章」。
井上良雄、『神の国の証人ブルームハルト父子――待ちつつ急ぎつつ』、新教出版社、1982、470頁、4000円。
ブルームハルトの悪魔払いについての解説に、賀来周一「宗教体験とカウンセリング」(『講座 現代キリスト教カウンセリング第1巻 キリスト教カウンセリングとは何か』(日本基督教団出版局、2002)がある。J. C. ブルームハルトの著作に、『悩める魂への慰め』(手島欣二郎訳、新教出版社、1975年、218頁)がある。
R. ボーレン(加藤常昭訳)、『預言者・牧会者 エードゥアルト・トゥルンアイゼン』、教文館、上:2001、261頁、3150円、下:2003、356+18頁、4410円。
トゥルンアイゼン(1888-1974)の評伝。評伝を書くに当たって、人間が人間をするとはどういうことかを論じる「プレリュード」から始まる。カール・バルトとの交友についても記されている。下巻には、日本語訳のための付論が付いている。

牧会者の霊的養いのために

「牧会者の一日の疲労と倦怠とは、観劇や入浴によって癒されるべきでなく、書斎においてひとり難解な神学書に向かうとき温かい看護を受けるであろう。」(熊野義孝「手紙――新しい伝道者のために」、『熊野義孝全集別巻U信仰編』、p.160)

D.ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『共に生きる生活』、改訳新版、新教出版社、2004(1939)、182+4頁、1500円。
原題は "Gemeinsames Leben"、英訳は "Life Together"。邦訳は最初、岸千年訳『交わりの生活』(聖文舎、1960)だった(ざっと見たところでは森野善右衛門はこのことに触れていない)。後、森野善右衛門訳「共に生きる生活」(『ボンヘッファー選集6 告白教会と世界教会』(新教出版社、1968)所収)、さらに単行本化されて、『共に生きる生活』(教会と宣教双書2、新教出版社、1975)。そして、2004年に改訳新版が出た。
「交わり」、「他者と共なる日」、「ひとりでいる日」、「奉仕」、「罪の告白と聖餐」の5章からなる。交わりとは何か。キリストの体とは何かなどたいへん興味深い。
「最初の訳書が『交わりの生活』と訳されたこともあり、教会員の交わり、共同生活を語っていると思われることがあるが、その内容は、この研修所〔ドイツの牧師補研修所〕における生活を語るものである。」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.310)

牧師の「仕事」

鈴木崇巨、『牧師の仕事』、教文館、2002、400+17頁、3000円。
小島誠志、石井錦一、大川従道、尾山令仁推薦というすごい本。29章からなる。着任時の注意、日々の生活の注意や常識、礼拝式の構成と意味、説教について、洗礼式と聖餐式、カウンセリングの方法や牧師批判への対応の仕方、結婚式や葬式の歴史や意義や方法などなど。なかでも、結婚式、葬式、礼拝に最もページを割いている。必携。しかし、マニュアルとして読むべきではなく、自分の考えをまとめる手掛かりとすべき。著者の教派的背景はメソジスト。ただし、英語圏の保守的な神学者によっている部分が多く、ドイツ語圏の神学者の引用や注はほとんどない(加藤常昭の書評『本のひろば』2003.1による)。
ウィリアム・スティル(松谷好明訳)、『牧師の仕事』、いのちのことば社、1993、204頁、2000円。
というのが出たらしい。著者はスコットランド教会の福音派らしい。

牧師の「仕事」という捉え方に対して問題を提起しているのが、加藤常昭「説教――牧師の仕事?」(『福音と世界』2003.8号、pp.5-9)。

3.4 牧会とカウンセリング

スワード・ヒルトナー(西垣二一(にしがき・つぎかず)訳)、『牧会の神学――ミニストリーとシェパーディングの理論』、聖文舎、1975、328頁、3700円。
原題は"Preface to Pastoral Theology"。加藤常昭は『牧会者の神学序説』と言っている。同じ著者の『牧会カウンセリング』(西垣二一訳、日本基督教団出版局)も名著だが、こちらの方が重要だと加藤常昭談。牧会神学としての牧会学ではなく、牧会者の神学だ。「ヒルトナーが私に教えたのは、パースペクティヴ思考法であった。」(加藤常昭『自伝的説教論』、p.253)
H.クラインベル(佐藤陽二訳)、『牧会カウンセリングの基礎理論と実際』、聖文舎。
H.J.M.ヌーウェン(西垣二一、岸本和世訳)、『傷ついた癒し人――苦悩する現代社会と牧会者』、日本基督教団出版局、224頁、2000円。
D.D.ウィリアムズ(窪寺俊之訳)、『魂への配慮』。
三永恭平、『こころを聴く――牧会カウンセリング読本』、日本基督教団出版局、1986、262頁、1700円。
賀来周一、『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』(キリスト教カウンセリングセンター編「キリスト教カウンセリング講座ブックレット」1)、キリスト新聞社、2009、168頁、1575円。

3.5 老いについて

ポール・トゥルニエ(三浦安子訳)『人生の四季――発展と成熟』、日本基督教団出版局、2007、178頁、1890円。
ヨルダン社、1970、2000再版。
ポール・トゥルニエ(山村嘉己訳)、『老いの意味――美わしい老年のために』、ヨルダン社、1975、416頁、2039円。
宍戸好子、『支えのみ手――「老い」について聖書からきく』、日本基督教団出版局、1978、184頁、1100円。
説教集。宍戸好子は『総説実践神学』(日本基督教団出版局、1989)の「老いの神学」という章を執筆している。
ヘルマン・ホイヴェルス(林幹雄編)、『人生の秋に』、春秋社、1969。
W.J.カール・Jr.編(吉田信夫訳)、『恵みにあふれて――高齢者への説教と牧会』、日本基督教団出版局、2001(1997)、276頁、2800円。

日本基督教団出版局から出ているいろんな人の説教集に、日野原重明、三浦綾子、田中澄江他『夕映えの季節を生きる』(2000、162頁、1600円)、李仁夏、岩村信二、大隅啓三他『希望の旅路――聖書に聴く「老い」』(2001、181頁、1800円)。

日野原重明の著作も参考になるかもしれない。ならないかもしれない。たくさんあるが、キリスト教系書店?からのものとしては、『いのちの終末をどう生きるか』(春秋社、1987、1500円)、『老いに成熟する』(春秋社、1997、1800円)。

死生学(サナトロジー)については、熊澤義宣『キリスト教死生学論集』(教文館、2005、305頁、2500円)の第一部が「キリスト教死生学」。第二部は「福祉の神学」。第一部の中に、東神大パンフレット29の『神学的死生学試論』も収められている。そこに参考文献表もあり。

4.キリスト教教育

4.0 いろいろ

吉岡良昌『キリスト教教育研究――信仰に基づく人間形成』(聖恵授産所出版部、1994)のp.324で日本におけるキリスト教教育の研究についての代表的なものとして、高崎毅『基督教教育』(1957)、小林公一『キリスト教教育』(1957)、小林政吉『宗教改革の教育史的意義』(1960)、山内一郎『神学とキリスト教教育』(1973)、熊谷一綱『キリスト教信仰と教育』(1976)、小林公一、岩村信二『人間の成熟』(1983)、学校伝道研究会編『教育の神学』(1987)、安達寿孝『キリスト教家庭教育の源流』(1989)、奥田和弘『キリスト教教育を考える』(1990)、水野誠『明日を生かすキリスト教教育』が挙げられている。

事典

事典は、高崎毅、山内一郎、今橋朗編、『キリスト教教育辞典』(日本基督教団出版局、1969)。114項目。目次に執筆者が記されていてよい。比較的ページが割かれている項は、「一般の教育とキリスト教教育」(小林公一)、「キリスト教教育史」(高崎毅)、「キリスト教教育理論」(山内一郎)、「神学教育」(熊澤義宣)などの概論。しかし、その他の項目は今やあまり役立ちそうにない。

古いところで

日本のキリスト教教育を神学的に取り扱った草分けは、高崎毅。体系的著作として、『基督教教育』(新教出版社、1957、182頁)がある。その他、小林公一『キリスト教教育』(日本YMCA同盟、1958)、村上寅次『教育的実存とキリスト教』(ヨルダン社、1962)あたり。しかし、訳書だがJ.D.スマート(安村三郎訳)『教会の教育的使命――キリスト教教育の基本的原理の反省』(日本基督教団出版部、1958(1954)、297頁)がまず読むべき名著とのこと。古いところでは他に、R.C.ミラー(安村三郎訳)『聖書神学とキリスト教教育』(日本基督教団出版部、1962(1956)、344頁)は、子供の成長段階に沿っての具体的指針、R.C.ミラー(太田俊雄、中沢三千子訳)『教会とキリスト教教育』(日本基督教団出版部、1966(1961)、369頁)は、キリスト教教育における教会の本質の重要性について、R.ヘンダーライト(山内一郎訳)『教会教育の神学――赦しと希望』(日本基督教団出版局、1968(1961)、223頁)は、キリスト教教育における認識論、人間論、倫理、及び、終末論の視点から諸問題を考察、L.M.ラッセル(今橋朗、岸本羊一、山内一郎訳)『キリスト教教育の革新』(新教出版社、1971(1967)、280頁)はキリスト教教育の場、構造、方法、目的について、など。

最近出版された本、未分類

ルシアン・E.コールマンJr.(鍋倉勲訳)、『なぜ教会は教えるのか――教会の教育的使命』、日本基督教団出版局(出版サービス)、2007、206頁、1890円。
P.J. パーマー(小見のぞみ、原真和訳)、『教育のスピリチュアリティー――知ること・愛すること』、日本基督教団出版局、2008、258頁、2310円。
森一弘、田畑邦治、M・マタタ編、『教会と学校での宗教教育再考――〈新しい教え〉を求めて』、オリエンス宗教研究所、2009、320頁、2310円。

4.1 キリスト教教育史

キリスト教教育の歴史については、高崎毅「キリスト教教育史概観」(高崎毅、太田俊雄監修『キリスト教教育講座第二巻 キリスト教教育の原理』、新教出版社、1958、pp.9-50)を見る。小林公一編著『キリスト教教育の背景』(ヨルダン社、1979、264頁)にも「キリスト教教育史」がある。

日本のキリスト教学校教育の歴史について、キリスト教学校教育同盟編『日本キリスト教教育史 思潮篇』(創文社、1993、680頁、4800円)という詳細な本がある。これの姉妹書に『日本キリスト教教育史 人物篇』(創文社、1977、480頁)がある。

NCC教育部歴史編纂委員会編、『教会教育の歩み――日曜学校から始まるキリスト教教育史』、教文館、2007、264頁、2100円。
NCC教育部の100周年記念事業の一つとして刊行された、明治初期からの日本の教会教育の歴史。「第1部 年表」では、全体を6期に分けて、各期ごとに年表の前に見開き2ページで概説されているのがよい。日曜学校・教会教育関係の歴史とキリスト教界・一般歴史とを並べた150ページにわたる詳細な年表(呉寿恵、小見のぞみ、朴憲郁、吉高叶、大嶋果織)。第2部は、13の「テーマをめぐる論考」。戦前、戦時下、戦後のカリキュラムなど。
NCC教育部の70周年記念として発行された片子沢千代松他編、『日本における教会学校の歩み : 1859-1977』(日本キリスト教協議会教育部、1977)は、写真と年表によって構成されたもので、これを参照しつつも、歴史資料を検証して全体を新たに編纂し直したものとのこと。

4.2 教会教育

カテキズムを中心とする教理教育については、三要文とカテキズムのページを参照。

佐藤敏夫、高崎毅、『現代と教会教育』(現代と教会新書)、日本基督教団出版部、1966、186頁。
佐藤敏夫「今日の時点における教会(日本)内外の状況」、高崎毅「現代における教会教育の使命」「教会論における教会教育の位置づけ」の3講演集。

礼拝として教会学校の役割を位置づけ、洗礼に導くこと大切にするために役立つ文献

加藤常昭、『子どものための説教入門(信徒のための神学講座)』、日本キリスト改革派教会西部中会教育委員会(聖恵授産所出版部発売)、2001、202頁、1429円。
講演と質疑応答、付論として「教会学校説教の課題と方法」。全体として、教会学校の使命から説教論、そして説教準備から語り方まで具体的な指針。この中で「私が主張したことは、教会学校を<学校>と捉えるよりも、<子どもの教会>とする理解を明確にしたいということであった」(加藤常昭『自伝的説教論』p.93f)

朴憲郁。たとえば「神学教育におけるキリスト教教育」(NCC教育部歴史編纂委員会編『教会教育の歩み』教文館、2007)。もっといい文献があるかな。

「子供たちが日曜日の朝来てくれなかったならば、子供たちが来てくれる時間と場所を作ったらいいではないか。教会や教会堂に来てくれなかったならば、こっちから訪ねたらいいではないか。」(加藤常昭『これからの日本の教会の伝道』日本基督教団出版局、2003、p.22)

教師向けのハンドブック

CS活性化推進委員会編、『21世紀教会学校ハンドブック』、CS成長センター、2008、255頁、1365円。
執筆者は、矢吹博、杉本玲子、福井誠、後平一。
日本基督教団教育委員会編、『教会学校教師ノート』、日本基督教団出版局、19881,19943、224頁。
執筆者は、斎藤道雄、石川和夫、高寺幸子、佐伯幸雄、西尾操、三井啓示、横野朝彦、島しづ子。
全国連合長老会編、『日曜学校教師の手引き』、全国連合長老会、1979(1993第3刷)、168頁。
執筆者は、永井修、森田武夫、藤原亮、鳥羽徳子、鳥羽和雄、白井正之、菊間俊彦、牧浦昇。

4.3 家庭教育

安達寿孝がかなり専門的な著作を2つ出している。『キリスト教家庭教育の源流』(新教出版社、352頁、2136円)と『キリスト教家庭教育の展開――アメリカ・ピューリタン社会の場合』(新教出版社、1998、280頁、2800円)。

H. ブッシュネル(森田美千代訳)、『キリスト教養育』、教文館、2009、452頁、4410円。
原著1861年初版。1967年のリプリント版第5刷からの翻訳。教育ではなくて「養育」(Nurture)。家庭での長期にわたる信仰養育に焦点を当てる。親の「自然的愛情」のみでは子どもの養育は不可能で、信仰者としての親となるべき。有名な「子どもは、クリスチャンとして成長すべきであり、決してクリスチャン以外の者として自らを知るべきではない。」は、p.13とのこと。

4.4 学校教育

全般に関しては、次のようなところか。古いところでは、青山学院・関西学院編『キリスト教教育の理想と現実』(創文社、1968、289頁)。

キリスト教学校教師養成事業委員会編、『キリスト教学校教育の理念と課題』、キリスト教学校教育同盟、1991、373頁、2800円。
執筆陣は? キリスト教学校教育同盟から出ている本は、他に『キリスト教学校の教育――中・高教師のために』(1987、216頁、1500円)。他に、『日本におけるキリスト教学校教育の現状』?
学校伝道研究会編、『教育の神学』、ヨルダン社、1987、315頁、2800円。
大木英夫、佐藤敏夫、倉松功、近藤勝彦、古屋安雄、斎藤正彦、西谷幸介らの論文集。
第1章 教育の神学
大木英夫「教育の神学――現代日本におけるキリスト教学校の文化的意義との関連で」
佐藤敏夫「キリスト教文化倫理学の構想――キリスト教学校再興」
倉松 功「キリスト教学校の愁眉の諸問題」
近藤勝彦「プロテスタント大学の理念――「大学の神学」をめざして」
第2章 歴史的考察
古屋安雄「今日のキリスト教学校における伝道の使命」
斎藤正彦「教会と学校の宣教協力の現状と課題――日北米宣教協力会(JNAC)の問題をめぐって」
西谷幸介「日本の神学における<教育>の論議」
第3章 学校礼拝とチャプレン
倉松功、伊藤久男、高橋義文の3論文。
第4章 キリスト教学校教育
土戸清、倉松功、小島一郎、鈴木有郷、東方敬信、清水正、本田栄一各論文。
第5章 教会と学校
斎藤正彦、鷲山林蔵、浜田辰雄、荒井多賀子の各論文。
学校伝道研究会編、『キリスト教学校の再建――教育の神学 第二集』、聖学院大学出版会、1997、286頁、3400円。
学校伝道研究会の紀要『キャンパス・ミニストリー』に掲載された12編と新たに執筆された4編。主な論文は、大木英夫「キリスト教学校の現代的意味――第三ミレニアムとキリスト教学校」、古屋安雄「魅力あるキリスト教授業であるために」、近藤勝彦「競争主義社会における教育の問題」、斎藤正彦「キリスト教学校教育におけるキャンパス・ミニストリーの役割りと位置づけ」など。
学校伝道研究会編、『キリスト教学校の形成とチャレンジ――教育の神学 第三集』、聖学院大学出版会、2006、282+31頁、3990円。
第1部は「学校伝道研究会の理念」として、2005.4に打ち出したミッション・ステートメントじついて。第2部「国家・社会とキリスト教学校の使命」では、倉松功、深谷松男、近藤勝彦、阿久戸光晴の4論文。第3部「学校伝道の展開」はいくつかの各論。

教会と学校教育との関係は重要なテーマだろう。『キリスト教学校の再建』の中の松川成夫「『キリスト教に基づく教育』を考える」のp.102,106あたり、斎藤正彦「キリスト教学校教育におけるキャンパス・ミニストリーの役割と位置づけ」のpp.227-231を見る。

特に、キリスト教大学教育に関しては著作論文が多くあり、一つの分野を形成している。例えば、古屋安雄『大学の神学――明日の大学をめざして』(ヨルダン社、1993)、東京基督教大学共立基督教研究所編『大学とキリスト教教育』(ヨルダン社、1998)、倉松、近藤『キリスト教大学の新しい挑戦』(聖学院大学出版会、1998)、倉松功『私学としてのキリスト教大学――教育の祝福と改革』(聖学院大学出版会、2004、276頁、3150円)など。新しいところで、四国学院キリスト教教育研究所編『大学とキリスト教教育』(四国学院キリスト教研究所叢書、新教出版社、2005、280頁、3675円)は、古屋安雄、中山弘正、小川圭治、山内一郎、土井省吾、土戸清、隅谷三喜男、山崎和明が執筆。

一般の教職課程の教科書として、千葉泰爾編『教育の本質と目的』(福村出版、1991)と、同じシリーズの矢島・神保・荒井・小林編『道徳教育の研究』(福村出版、1991、1800円)はなかなかよく、レポートにも訳だった。『道徳教育の研究』の方は、授業の教科書。教育原理については、小林公一・稲生勁吾編『新教育原理 改訂版』(日本キリスト教教育センター市民セミナー出版部、1981)を図書館で見つけた。キリスト教の立場から書いてある。

最近のものでたまたま目に留まったもの

近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、306頁、4410円。
この第V部が「教育とキリスト教学校」で、「キリスト教学校だからこそできること」、「「人格」教育とは何か」などを収録。
深谷松男、『キリスト教学校と建学の精神』、日本基督教団出版局(出版サービス)、2009、199頁、1785円。

4.5 神学思想と教育

山内一郎、『神学とキリスト教教育』(神学双書6)、日本基督教団出版局、1973、330頁。
「第一部 キリスト教教育研究の動向」で、バルト神学以降の独米英のキリスト教教育理論の動向を概観、「第二部弁証法神学以降の教育思想」で、バルト、ブルンナー、ブルトマン、ティリッヒの神学と教育の問題、「第三部 現代神学とキリスト教教育」で、史的イエスの問題、「経験」教育、解釈学的課題を取り上げる。
バルト神学からのキリスト教教育の可能性を論証した小樋井滋『バルト神学と宗教教育』(ヨルダン社)の中の佐藤敏夫の解説によると、山内一郎のこの本の方が「よくまとまっておりそつがない」。しかし、朴憲郁は、小樋井がKD,W/3の中に「教会と聖書の外の諸思想への相対的肯定の主張を発見し、・・・そこから公教育を基礎づけようと試みた」ことは、「学校教育における諸宗教教育の意義をキリスト教教育の立場で再考する場合にも、極めて有益な示唆を与えてくれる」と評価する(朴憲郁「多宗教社会におけるキリスト教教育学の課題」(倉松功、近藤勝彦編『福音の神学と文化の神学――佐藤敏夫先生献呈論文集』教文館、1997))
宮本武之助先生喜寿記念論集編集委員会編、『キリスト教と教育の接点』、日本YMCA同盟出版部、1982、258頁。
小林政吉、大須賀潔、隅谷三喜男、佐藤敏夫、松川成夫、倉松功、茂泉昭男、一柳やすか、宮本武之助。
小林公一編著、『キリスト教教育の背景』、ヨルダン社、1979、264頁。
『教会教育』、『聖書教育』、『教師の友』などの連載をまとめたもの。「神学と教育――キリスト教教育の背景としての神学」と「キリスト教教育史」の2部立て。「神学と教育」の中で、シュライエルマッハー、リッチュル、トレルチ、ヘルマン等、アルトハウスとニグレン、バルト、ブルンナー、ティリッヒ、ブルトマン、ニーバーを挙げて、彼らの神学と教育との関係を探る。
青山学院大学総合研究所キリスト教文化研究センター編、『ジョン・ウェスレーと教育』、ヨルダン社、1999、256頁、2000円。
6論文。巻末に主要文献解題とウェスレー年表あり。青山学院大学のキリスト教文化研究センターからの教育関係の研究報告には、『現代におけるキリスト教教育の展望』(ヨルダン社、1996、271頁、2136円)が先に出ている。
大曽根良衛「ウェスレーとモラヴィアニズム」
東方敬信「ジョン・ウェスレーのキリスト教倫理」
三浦正「ジョン・ウェスレーにおけるキリスト教教育論の基底」
池田稔「ジョン・ウェスレーとキングスウッド・スクール」
深町正信「ジョン・ウェスレーと日曜学校運動」
大森秀子「アメリカにおけるメソジスト監督教会日曜学校運動」

他に、ジャック・l.シーモア編(奥田和弘、西垣二一訳)『キリスト教の現代的展開』(新教出版社、1987(1982)、254頁)、上山修平『子どもの神学――教会刷新の手がかり』(大森講座V、新教出版社、1988、74頁)など。

4.6 一般の教育との関係や人間形成の視点という感じのものなど

青山学院大学総合研究所 キリスト教文化研究センター編『キリスト教と人間形成――ウェスレー生誕三〇〇年記念』(新教出版社、2004、356頁、2500円)の巻末に、「人間形成」の観点からの文献ガイドがある。簡単な紹介文つきなのがたいへんよい。

小林公一、『一般の教育とキリスト教教育』(教師の友文庫)、日本基督教団出版部、1963、203頁。
小林公一(こばやし・こういち)は1915.11.28-2004.10.15。
吉岡良昌、『キリスト教教育研究――信仰に基づく人間形成』、聖恵授産所出版部、1994、339頁。
大木英夫、『「宇魂和才」の説――21世紀の教育理念』、聖学院大学出版会、1998、300頁。
論文集。
東方敬信、『生きるための教育――教育人間学とキリスト教』、教文館、2009、208頁、1890円。
論文集。「キリスト教教育の再構築をめざして」、「成長と回心について」、「信仰発達論をめぐって」、「生の全的変革と信仰発達論」、「道徳性発達論と聖書」(『キリスト教と人間形成』所収)、「物語の神学と礼拝教育」、「贈与の教育学」。

最近のものでたまたま目に留まったもの

近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、306頁、4410円。
この第V部「教育とキリスト教学校」の中に、「「愛国心」教育の落とし穴」、「回心とアイデンティティの形成――教育における取り組み」、「「人格」教育とは何か」などを収録。

4.7 教会生活への入門書

未信者・求道者向け、あるいは受洗後の教会生活の入門書には、(1)キリスト教の考え方や人生観・世界観などのキリスト教入門、(2)教会生活入門、(3)教理入門(主として三要文)といった傾向があるが、明確に切り分けることはできない。その他に聖書入門、祈りについての本などがある。カテキズムを中心とする教理教育については、三要文のページを参照。

受洗準備教育向けのものは、ほとんどない。受洗準備教育の内容や範囲は受洗志願者それぞれによってまちまちであるが、しかし、一応の基本というような本は色々あって良さそうなのに。明確にこの目的のために書かれたものは、増田志郎『キリスト教入門』(キリスト教入門パンフレット1、全国連合長老会出版委員会、1999)ぐらいしかない。全国連合長老会日曜学校委員会編(関川泰寛解説)『子どもと共に学ぶ明解カテキズム』(キリスト新聞社、2005)の、「神を知る」の問1から「救い」の問24までの筋道が参考になる。

60-70年代

石島三郎『信仰生活入門』(新教新書60、新教出版社、1962)は、対話形式で、かつては禁酒を信徒にも説いていたが後に自分も飲むようになった話あり。佐藤陽二『キリスト教入門』(待晨新書1、待晨堂、1963は、教理的な入門。J.R.W.ストット(有賀寿訳)『信仰入門』(KGK新書4、キリスト者学生会出版局、1964)も教理的な側面からの信仰の入門。村上治『新版 キリスト教への疑問に答える』(アルパ新書9、日本基督教団出版局、1972)は65問答でお酒についての問答もある。佐藤敏夫『キリスト教信仰概説』(福音と現代社1976、後に改訂版がヨルダン社から)は、「神は不在か」という章から始まる弁証的。いずれにしてもその時代を反映している。

C.S.ルイス(柳生直行訳)、『キリスト教の精髄』(C.S.ルイス宗教著作集4)、新教出版社、1977、358頁、2800円。
重要。今でも読まれている。

80年代

芦名直道、『教会生活案内』、キリスト新聞社、1982、166頁。
高柳俊郎、『はじめてのキリスト教』、日本基督教団出版局、1987、158頁、980円。
信徒(理科の先生)による中・高校生向けに書かれた入門。「宗教とは」、「神さまはいるのか?」など素朴な質問と答え31項。この続編に、『もっと知りたいキリスト教』(日本基督教団出版局、1993、182頁)がある。さらに、『これがキリスト教』(日本基督教団出版局、1995、128頁、1262円)というのもあるらしい。

90年代以降

日本基督教団出版局から、『キリスト教入門 改訂新版』(全4巻、1995)あり。また、『教会生活案内』(全4巻、2002)も出た。第1巻の楠本史郎『教会に生きる』(117頁、1200円)は、わりと良かった。

日本基督教団東京教区編、『信徒必携』(新改訂版)、日本基督教団出版局、1998、134頁、460円。
1953初版、1959改訂、1965新版、1980改訂新版、1998新改訂版(通算27版)。受洗後教育向け。
古屋治雄、『教会生活ハンドブック』、日本基督教団出版局、1999、96頁、950円。
受洗後教育向け。
増田志郎、『キリスト教入門』(キリスト教入門パンフレット1)、全国連合長老会出版委員会、1999、29頁、300円。
受洗準備教育向け。13の項目が各見開き2ページに収められているのがよい。最初の「神を求める心」や「まことの宗教と偽りの宗教」を省いて、代わりに最後に「神の国と伝道」とか「永遠の命と希望」などと言った項目が加わると最高だな。
久野牧、『教会生活の道案内』、一麦出版社、2009、193頁、2100円。
信徒教育向け。教会を「出来事としての教会」と「制度としての教会」の二面から捉えて体系化。なかなか意欲的な提言も含められている感じ。「第1章 教会」で、教会、伝道、交わり、奉仕。「第2章 礼拝」で、礼拝、聖書、説教、信仰告白、献金、教会暦など。それとは別に「第3章 聖礼典」を立てて、洗礼と聖餐と並んで、小児洗礼と病床聖餐。第4章は祈り。「第5章 キリスト者の生活」は牧会、証し、死と葬儀、結婚とその式。第6章が「教会の制度」。その最後で「曲がり角にきた活動をどうするか」。この構成の難点は、伝道の位置づけが弱く感じるところと、信仰告白と制度とのつながりが希薄に感じられるところか。

近藤勝彦のものに、『中断される人生――キリスト教入門』(教文館、1989)は説教集。日本伝道出版株式会社から、『礼拝と日々の生活』(1995)、『教会とその生活を学ぶ』(1999)もある。

Q&A形式で書かれた入門書

大野恵正、『神と人間――キリスト教をめぐる対話』、教文館、1995、235頁、2500円。
加藤常昭、『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』、教文館、1994(初版)1998(再版)、426頁、1800円。
後藤正敏、関川泰寛、長谷川宣恵、船本弘毅、『信仰30問30答』、日本基督教団出版局、1997、130頁、1000円。
キリスト教入門的。各項を4頁でそろえた「人間とは何か」、「失われた人間」など30項。「信仰の基本的な事柄を明確に伝え、この時代に生きるキリスト者が直面するさまざまな問題に対して、いかに考え取り組むべきかを具体的に指し示す」(「はじめに」)。それゆえ、性の問題、生命科学、環境問題に関する項もある。全項に80字ほどの要約がついている。
久野牧、『キリスト教信仰Q&A』、一麦出版社、2009、141頁、1890円。
井ノ川勝、小友聡、越川弘英、小林よう子、辻中明子、『イエスと共に歩む生活――はじめの一歩Q&A30』、0円。

いのちのことば社からのもの

尾山令仁、『新版 一問一答』、いのちのことば社、1989、133頁、930円。
83問答を13のカテゴリーに分類。信仰に入る前に抱く疑問に答え、また未信者からぶつけられる質問に答える。保守的な立場のものだが、私ならどう答えるかを考えさせられる点で、どのような問いが立てられているかはとても参考になる。
川端光生、『スッキリわかるキリスト教』、いのちのことば社、1998、222頁、1300円。
これですっきりわかるかどうかはわからないが、上の尾山令仁のよりも理屈っぽく説明された37問答。「神の存在を証明できるか」「神の存在を確信できるか」など。
Hi-B.A.(高校生聖書伝道協会)、『キリスト教なんでもQ&A』、いのちのことば社、1990、95頁、750円。
高校生向けの超素朴な疑問43問答。続編に『キリスト教なんでもQ&A2』(1992、103頁、900円)もある。「なぜエイズなんてあるんですか?」、「イエス様も恋をしたの?」、「ゴキブリも神様が造ったの?」などなど。

相当くだけたもの

そんなんでいいんかい?!という感じで、腰もくだける。

春名康範、『疑問がハレルヤ キリスト教――はるな牧師の「お答えします」』、日本基督教団出版局、2001、189頁、1500円。
『こころの友』連載のQ&A集。各項とも見開き2頁に抑えた81問答。
山北宣久、『おもしろキリスト教Q&A77』、教文館、2001、166頁、1200円。
これで答えになってるのかい?と思わせるチョー軽い問答集。続編に、『おもしろキリスト教質問箱[Q&A77]』(教文館、2006、164頁、1200円)。

5.伝道学・伝道論

5.0 いろいろ

「宣教」という言葉は実に様々な意味で用いられている。以下、荒削り。

A: 教会における御言葉の告知(proclamation)
 A-1:説教と聖礼典、通常の礼拝としては説教と聖餐
 A-2:特に説教(preaching)
 A-3:その内容すなわち福音の使信(ケリュグマ)
B: 神から遣わされて人々を神の民へ導く(mission)
 B-1:教会の使命として(伝道)
 B-2:キリスト者の社会生活の中で(証し)
C: 未信者への福音の宣べ伝え
 C-1:福音をまだ知らない人への福音の伝達(propagating the Gospel)
 C-2:未信者を信仰に導く(evangelization)
 C-3:特に個人的回心を重視するタイプの伝道(outreach)
D: 非キリスト教文化への福音の宣べ伝え
 D-1:非キリスト教地域での福音の定着を目指す(文脈化、contextualization)(なお、土着化indigenizationと言ったら、現地の文化によって変質した形でキリスト教的なものが定着することを指す)
 D-2:特に習慣や価値観や社会のしくみがキリスト教化する(christianizaiton)
 D-3:福音の文化内開花(incultuarization)
E: 教会やキリスト者が信仰に基づいて行う社会的活動や奉仕
 E-1:教育、福祉、医療の分野で
 E-2:人権問題、差別問題、天皇制に関わる運動
 E-3:信仰者個々人の奉仕の業(愛の業)

Aは礼拝学や説教学のパースペクティブ、BとCが伝道、Dは弁証学的?なパースペクティブ。Eは教会の使命としての愛の業あるいは倫理のパースペクティブ。ということで、「宣教」という言葉は、意味が広すぎるので、やめにしません?

東京ミッション研究所の西岡義行が2001.6.30キリスト新聞で勧める宣教学の本ベスト11のうち日本語のものは、

D.ボッシュ、『宣教のパラダイム変換』、新教出版社、1999,2001
H.クレーマー、『信徒の神学』、新教出版社、1960
東京ミッション研究所編、『これからの日本宣教』、いのちのことば社
W.A.ミークス、『古代都市のキリスト教――パウロ伝道圏の社会学的研究』、ヨルダン社
J.H.ヨーダー、『イエスの政治――聖書的リアリズムと現代社会倫理』、新教出版社、1992
S.ハワーワス、W.H.ウィリモン、『旅する神の民――「キリスト教国アメリカ」への挑戦状』、教文館。

5.1 古いところで

古くは、ホーケンダイク(戸村政弘博訳)『明日の社会と明日の教会』(現代神学双書30)、新教出版社、1966(1966)、306頁。巻末に熊澤義宣の「J.C.ホーケンダイク――人と思想」あり。ヘンドリック・クレーマー(小林信雄訳)『信徒の神学』(現代神学双書2、新教出版社、19601,19682(1958)、246頁)、小林信雄訳『宣教の神学――キリスト教信仰のコミュニケーション』現代神学双書3、新教出版社、1960(1956)、204頁など。ジェラルド・H.アンダーソン編(土居真俊訳)『福音宣教の神学』(日本基督教団出版局、1969(1961)、341頁は、レスリー・ニュービギンの序言、ジェラルド・H・アンダーソンクルマン「二十世紀プロテスタント諸教会における宣教の神学」、G.アーネスト・ライト「福音宣教の旧約聖書的根拠」、クルマン「新約聖書における終末論と宣教」、バルト「マタイによる福音書28章16-20節の釈義的研究」、クレーマー「宣教における神学的問題としてのシンクレティズム」、ティリッヒ「宣教と世界史」など。

隅谷三喜男、『現代日本とキリスト教』(新教新書62)、新教出版社、1962、169頁。
日本伝道を妨げている日本社会の体質を分析し、教会の問題点を指摘。他に、隅谷三喜男、山本和編『日本における福音と文化』(現代キリスト教双書。教文館、1967、122頁)遠藤義光「日本文化」、関根文之助「高天原の思想とその神々」、大内三郎「明治日本文化における精神的伝統とキリスト教」、隅谷「現代日本の文化と思想」、山本「日本におけるキリスト教と諸宗教」。隅谷三喜男『アジアの問いかけと日本』(聖学院大学出版会、1994)は何だろうか?隅谷三喜男は2003.2.22没。
J.ハーバート・ケイン(横内澄江訳)、『聖書から見た世界宣教』、いのちのことば社、1982、154頁。

5.2 翻訳もの

B.C.ジョンスン(吉田信夫訳)、『これからの福音宣教像――神学の方法の再考』、日本基督教団出版局、1996(1987)、233頁。
この世に対する「神の派遣」の強調から、神−世界−教会ではなく、神−教会−世界の図式にたって宣教や伝道を理解する。
D.J.ボッシュ(東京ミッション研究所訳)、『宣教のパラダイム転換』(上:「聖書の時代から宗教改革まで」、下:「啓蒙主義から21世紀に向けて」)、東京ミッション研究所(発売:新教出版社)、上:東京ミッション研究所選書シリーズ3、1999、458頁、6700円; 下:東京ミッション研究所選書シリーズ4、2001、540頁、7500円。
レーマン先生、近藤先生もおすすめ。東京ミッション研究所編には、『これからの日本の宣教――発想の大転換』(東京ミッション研究所選書シリーズ2、東京ミッション研究所(いのちのことば社)、1994)もある。
レスリー・ニュービギン(鈴木脩平訳)、『宣教学入門』、日本基督教団出版局、2010、314頁、5460円。

5.3 近藤勝彦の伝道論

近藤の伝道に関する著作にはほかに、『教会と伝道のために』(教文館、1992、316頁)、『伝道する教会、伝道する信徒』(日本伝道出版株式会社、1995、111頁)がある。『教会とその生活を学ぶ』の中に「伝道と教会」あり。

近藤勝彦、『伝道の神学――21世紀キリスト教伝道のために』、教文館、2002、322頁、3600円。
帯のコピーは、「神学は伝道のためであり、伝道はまた、神学を必要としている」。伝道はその中心を「福音の宣べ伝え」に、つまり「キリストと神の国」の「福音」の「宣教」に置いている(「はじめに」より)。第一部「二十一世紀の日本の伝道と神学」では、現代の日本の状況と課題について、伝道する側の問題と伝道される側の国民性、教育、家庭、日本基督教団が抱える問題など。特に、説教の力の回復をフォーサイスやロイド・ジョンズに言及しながら訴える。第二部「組織神学としての伝道の神学」では、マルティン・ケーラー、トレルチ、ブルンナー、バルト、ファン・リューラー、モルトマンを取り上げる。
近藤勝彦、『伝道する教会の形成――なぜ、何を、いかに伝道するか』、教文館、2004、264頁、2000円。
日本の伝道を阻む問題、とりわけ日本基督教団の伝道を阻害している諸問題と戦いながら、伝道の本質を探り、具体的な教会生活と伝道する教会の形成を考える講演集。教会の具体的課題と取り組む伝道論であり、教会論である。
近藤勝彦、『日本の伝道』、教文館、2006、260頁、2100円。
13の講演集。
近藤勝彦、『キリスト教の世界政策――現代文明におけるキリスト教の責任と役割』、教文館、2007、306頁、4410円。
この第W部が「伝道と教会」で、「『伝道の神学』再考」、「日本伝道の現状と展望」、「スピリチュアリティとキリスト教の救い」、「現代のエキュメニズムについての一考察」の講演録・論文を収録。

5.4 その他

加藤常昭

『伝道』(鳥居坂教会文庫3)、日本基督教団鳥居坂教会、1989。
『これからの日本の教会の伝道』、日本基督教団出版局、2003、69頁、950円。
FEBCで放送された美竹教会での講演。「今必要なのは、いわゆる総花的伝道論ではなく、急所を衝くことである」(p.4)。
「改革期に海外布教に献身し、日本にまで福音をもたらしたのはカトリックであって」プロテスタントではなかった(p.37)。新共同訳では「カトリックの方たちが、長い間親しんできた「イエズス」というみ名を捨てた」(p.20)。ではプロテスタントは何を捨てられるか?
「子供たちが日曜日の朝来てくれなかったならば、子供たちが来てくれる時間と場所を作ったらいいではないか。教会や教会堂に来てくれなかったならば、こっちから訪ねたらいいではないか。」(p.22)。
「主日の朝の礼拝を大切にしたが、同時に、礼拝に来ようとせず、来ることもできない人びとへの伝道の道を問わざるを得なかった。週日にもできるだけ教会堂の扉を開き、来客を待った」(p.37)。
山室軍平の『平民の福音』を読め(p.40)。

山室軍平『平民の福音』(救世軍出版供給部)について、『桑田秀延全集 第七巻』(1976)に「日本宣教史上の名著――山室軍平『平民之福音』」という4頁ほどの文章があり、そのp.199に、「第五〇〇版は昭和四四年八月一五日に発行され、その巻頭には桑田秀延の序文がある。なお現在は五一〇版(昭和四八年二月一日発行)に達している。」とある。

山室軍平『平民の福音』は、救世軍出版供給部から1899初版。鈴木範久監修『近代日本キリスト教名著選集 第1期キリスト教思想篇・第四巻』(日本図書センター)に「平民之福音」が収録されているらしい。

松田和憲

松田和憲、『現代日本の「宣教の神学」研究 宣教の神学――パラダイム転換を目指して』、関東学院大学出版会(発売:丸善)、2010、648頁、5775円。
ボッシュの線で日本の宣教を考える。
松田和憲、『福音宣教の使命に生きる教会』、新教出版社、1999、240頁、2310円。

WCC世界宣教・伝道委員会編(松田和憲訳)、『現代の宣教と伝道――エキュメニカルな視点から』(教会と宣教双書16)、新教出版社、1991、178頁、1630円。

その他

熊澤義宣、『明日の神学と教会』、日本基督教団出版局、1974、372頁。
佐伯洋一郎、『今日の教会と伝道』、日本基督教団品川教会出版委員会、1978、260頁。大木英夫が序を書いている。『伝道する教会と信徒』、1978、292頁。こちらの序は市川恭二。
吉岡繁、『実践的伝道論研究』、新教出版社、1996、196頁、1854円。
授業テキスト。内容は、改革派色が強いが、なかなかよい。
岩崎謙、『宣教する教会の説教』(大森講座18)、日本キリスト教会大森教会(発売:新教出版社)、2003、87頁、900円。
古屋安雄、『日本伝道論』、教文館、1995、263頁、2575円。
著者の20年周期説や「量より質」への批判にもとづいた提言。教会は、家族への伝道のために方策を考えるべき。
古屋の著作には他に、『日本の将来とキリスト教』(聖学院大学出版会、2001、346頁、3800円)、『日本のキリスト教』(教文館、2003、1800円)、『神の国とキリスト教』(教文館、2007、256頁、2310円)など。

6.教会形成論

6.0 いろいろ

もちろん、カルヴァン『キリスト教綱要』も見る。

『シンポジウム 教会論』(東神大パンフレット19)、東京神学大学出版委員会、1979、143頁。
「教会論」をテーマにした「教職セミナー」での講演と質疑応答。カトリック:土屋吉正、正教会:高橋保行、聖公会:八代崇、ルター派:徳善義和、改革派:榊原康夫、無教会:泉治典。なかなかおもしろい。土屋は、第二バチカン以降のカトリックの教会論の傾向を紹介。高橋は、正教会は生活の中での体験を重視しており、また西方のようなスコラ哲学、ルネサンスの影響、宗教改革などを経験していないため、アカデミックに体系化された教会論は無いとしつつ、個人的な見解として正教会の教会観を披露。八代は、聖公会綱憲の四項目から聖公会の教会観を解説。徳善はアウグスブルク信仰告白の第7条を教会の機能規定と捉えて、「教会は目に見えないものであって、同時に目に見える」とする。榊原は改革派・長老派の特徴のみならず、改革派と長老派の違いを語る。泉は無教会には教会がないので歴史がない問題を提起。

聖公会の八代崇は、聖公会綱憲について「これら四つの事柄というものは神の民がなお旅する教会であるから必要であり、不可欠である。・・・そのいずれかを救済史の文脈から切り離して、それ自体を絶対化することは誤りである」と述べている。(『シンポジウム 教会論』東神大パンフ19、p.44)つまり、この世の教会の秩序は、いかなる形態も絶対化されてはならない。

教会政治と職制は密接に関わり合っているが、以下では一応区別してまとめてみる。

また、この分野は、長老教会の思索と実践の歴史が大きく、文献も長老制の立場からのものが多いが、教会政治全般を考える上で有用。

6.1 全般にわたる入門的なもの

古屋治雄『教会生活ハンドブック』(日本基督教団出版局、1999)の53〜58頁。
日本基督教団東京教区編『信徒必携 新改訂版』(日本基督教団出版局、1999)の64〜75頁。
楠本史郎『教会に生きる』(教会生活案内1、日本基督教団出版局、2002)の93〜111頁。

ちょっと毒舌?で異色のものだが、信徒向けでよく読まれているもの

辻宣道、『教会生活の処方箋』、日本基督教団出版局、1981。
渡辺信夫、『教会論入門』(新教新書74)、新教出版社、1963。
渡辺信夫、『教会が教会であるために――教会論再考』(新教新書237)、新教出版社、1992。

信徒向けに書かれた、もうちょっと詳しいもの

久野牧『教会生活の道案内』(一麦出版社、2009)の151〜177頁。
楠本史郎『教会役員ハンドブック』(日本基督教団出版局、2007)の11〜44頁、92〜96頁。
この旧版が、日本基督教団伝道委員会編、『新版 教会役員ノート』、日本基督教団出版局、1975年。
関川泰寛『聖霊と教会――実践的教会形成論』(教文館、2001)の「第8章 聖霊と教会制度」。長老の歴史的起源から現代の長老のつとめまで。
加藤常昭『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』(教文館、1994)の48〜103頁。
竹森満佐一、『教会と長老』(東神大パンフレット24)、東京神学大学出版委員会、1986年、50〜56頁、74〜103頁。
全国連合長老会編、『長老教会の手引き』改訂版、1991年。
『改革長老教会Q&A』、日本基督教団改革長老教会協議会。

6.2 教会政治

長老主義、改革派の立場から

「改革派」の教会政治観の特徴については、ジョン・H・リース(吉田信夫訳)『改革派教会の伝統』(新教出版社、1989)。カルヴァンの教会政治についての考え方と長老制について。そのほか、改革派における司教制度や会衆制度についても紹介している。

吉岡繁、『教会の政治』、小峰書店、1972、172頁。
著者は日本キリスト改革派教会の教師。6つの章からなり、Tでは見える教会と見えない教会、U〜Wで教会政治(職制を含む)、Xで戒規、YでWCCについて語る。長老主義神定説に立つ。小会と中会・大会との関係については、各個教会の自治権を強調するベルコフを引用している。キリストの三重の職務に対応した三つの教会の職務を挙げつつも、「教会の職務」遂行の権能がなぜ「役員」たちに限られるのか、説明が十分でない。また、執事職がなぜ教会会議のメンバーとならないのかも説明されない。最後の章ではWCCを色々批判しているが結局は、改革派教会は、リベラリズムとの戦いを通して誕生したものであるゆえに、リベラルな教会が加わっているWCCに加入するわけにはいかないと言っている。
ウォルター・L.リングル(上河原立雄訳)、『長老教会――その歴史と信仰』(聖恵・神学シリーズ10)、聖恵授産所、1979(1971)、186頁。
竹森満佐一、『教会と長老』(東神大パンフレット24)、東京神学大学出版委員会、1986(初版)1994(7版)、162頁、700円。
ジョン・マクルーハン(上河原立雄、荻原登訳)、『長老主義』(聖恵・神学シリーズ31)、聖恵授産所、1992(1949)、259頁。
澤正幸、『長老制とは何か』(大森講座7)、新教出版社、1992、75頁。
藤掛順一、『教会の制度――なぜ牧師、長老、執事か』(教会双書6)、全国連合長老会、2003、153頁、1300円。

近藤勝彦の論文

近藤勝彦、『礼拝と教会形成の神学』、ヨルダン社、1988年、183〜197頁の「教会政治の神学」。
近藤勝彦、『教会と伝道のために』、教文館、1992年、138〜152頁、「教会政治の考察」。
近藤勝彦、『教会とその生活を学ぶ』、日本伝道出版、1999年、146〜153頁「教会的に判断するとは」。

その他

北森嘉蔵、『合同教会論』、キリスト新聞社、1993年。
カール・バルト『教会教義学』の「和解論」第67節「聖霊とキリスト教団の建設」の「4.教団の秩序」。

6.3 職制論、教職論

どこが(誰が)教職を立てるか。どのような手続きを行うか。按手とは何か。正と補の違い。祝祷は誰がするか。長老、役員との職務の違い。辞任、解任、隠退、任期の問題。「名誉牧師」って何だ?。

加藤常昭、「礼拝成立のための務め――教会職務制度論序説」(『神学』41号、東京神学大学出版会、発売:教文館、1979)。
日本カトリック教会エキュメニズム委員会、日本キリスト教協議会信仰と職制委員会編訳、『洗礼・聖餐・職務――教会の見える一致をめざして』、日本基督教団出版局、1985。
赤木善光、「なぜ按手礼が必要なのか――キリスト教本質論からの接近」 (赤木善光『聖餐論』(自由が丘教会文庫2)、日本基督教団自由が丘教会出版委員会(発売:教文館)、1991、pp.272-295)。
山口隆康、「「聖餐の乱れと教職論」に関する一考察――日本基督教団兵庫教区における「未按手者の礼典執行」決議の問題」 (土戸清、近藤勝彦編『宗教改革とその世界史的影響――倉松功先生献呈論文集』、教文館、1998、pp.328-351)。
補教師の聖礼典執行を正当化する論理の問題点を暴く。礼拝の形式や職制といった歴史的教会の営みは、聖書に規範が求められるべきものではない。教会が歴史の中で選び取っていった伝統は、現在の制度を根拠づける規範にならず、同時に、その時代の状況に応じた相対的なものであると断定することもできない。地上的歴史的教会の存立基盤は、絶対と相対という単純な二元論ではとらえられないところに定められている。
エルシー・アン・マッキー(井上正之、芳賀繁浩竹訳)、『執事職――改革派の伝統と現代のディアコニア』、一麦出版社、1998、200頁、2000円。

キリストの三職と教会の職務について、 「改革派の伝統において、特に近代ではA. KuyperやH. Bavinckによってキリストの三職に基づいて教会的職務が厳密に規定されました。・・・しかし、今日においては、これについて改革派内部においても批判的見解が存在します。この構造そのものが受肉論の延長線上で教会論を理解する伝統的カトリックの神学的思惟に親近性を示している、という批判です。C. Trimp, "Ministerium een introductie in de reformatorische leer van het ambt," Groningen, 1982, pp.108-115を参照のこと。キリストの三職に規定された教会の職務理解は、図式化された固定的理解をもたらす危険性があり、・・・聖霊論的視点に立った教会職務の再検討が必要とされるでしょう。」 (牧田吉和、「21世紀の日本伝道と改革派伝統の役割」、『宣教セミナー 21世紀の日本伝道の課題』(中央宣教研究所紀要第24号「宣教」)、日本キリスト改革派教会中央宣教研究所、1999)

役員・長老のつとめ

楠本史郎、『教会役員ハンドブック』、日本基督教団出版局、2007、142頁、1050円。
1967年に、日本基督教団伝道委員会編『教会役員ノート』日本基督教団出版局が出た。その後、1975年に大きく改訂されて、『新版 教会役員ノート』が出た。2001年には聖句の表記が新共同訳に改められた(新版第11版、74頁、470円)。ちなみに、古い版では巻末に参考図書が掲載されていたがいつの間にかなくなっている。
『新版〜』が出た1975年から30年以上が経過して、今度は委員会ではなく個人が執筆することになったのがこの『教会役員ハンドブック』。ページ数が倍になった。様々な役員会の位置づけがあるゆえ、この書はすべての役員会のあるべき姿を示した教科書ではないことが、「あとがき」に注意されている。
竹森満佐一、『教会と長老』(東神大パンフレット24)、東京神学大学出版委員会、1986、162頁、700円。

6.4 法制論、教会法

エーリク・ヴォルフ(菊池信光訳)、『教会法――その歴史的展開』、一麦出版社、1994(1961の部分訳)、222頁、4841円。
原著『教会の秩序』部分訳。「第一部 起源から宗教改革まで」で教会の秩序の歴史を40頁ほどで簡単に紹介、「第二部 プロテスタント教会の展開」では主としてドイツ福音主義教会の教会法の歴史をまとめている。以上の本論はやや退屈だが、「付論 神学的実存における教会」が、筋道立ててヴォルフの教会観と法理解が整理されていて面白い。
この本の「序」で渡辺信夫が記しているように、カール・バルトは『教会教義学』の「和解論」第67節「聖霊とキリスト教団の建設」の「4.教団の秩序」で(邦訳『和解論』U/4、p.117)、教会法理念の著作として、W.フィッシャー、E.シュヴァイツァー、ブルンナー、らのものを挙げ、中でも「エーリク・ヴォルフの労作〔注:この『教会法』のことではない〕が、特に輝かしいものとして、賞賛され得るであろう」と述べている。その後、p.122fでも、ゾームやブルンナーの教会とキリスト支配の理解に対して、ヴォルフの理解を評価している。

戒規について、J.カール・レーニー(伊藤淑美訳)『教会戒規』(聖書図書刊行会、いのちのことば社発売、2718円)というのがあるようなので見てみたい。

6.5 教会規則

明治期その1

日本基督公会(横浜海岸教会:1872設立)が設立当初に定めたのが「公会定規」(こうかいじょうき)、この数か月後に採用したのが「公会規則」、これをもとに1874年に作られたのが「日本基督公会条例」。この条例で改革派とアメリカン・ボードと合同しようとしたが一致に至らなかった。日本基督公会は、日本長老会(横浜長老公会、現・横浜指路教会)と合同して、1877年日本基督一致教会を設立。アメリカン・ボード系の教会は1886年日本組合基督教会を設立した。「公会規則」と「日本基督公会条例」、「日本組合教会規則」(1886)は、鵜沼裕子『資料による日本キリスト教史』(聖学院大学出版会、19921,19972)のpp.113-123にある。

明治期その2

日本基督一致教会は1890年、「日本基督教会信仰の告白」を制定、憲法・規則も改正、「日本基督教会」と改称した。

戦前(日本基督教団合同前)

『日本基督教団史資料集』第1巻に、日本基督教会の「教会憲法」と「教会規則」(1937.10現在)、日本メソヂスト教会の「教会条例」(抄)(1936.3現在)などあり。

現在

日本基督教団の教憲・教規は、日本基督教団事務局編『日本基督教団教憲教規および諸規則』(日本基督教団出版局)。
日本キリスト教会の教会憲法は、その1:教会憲法とか、その2:日本キリスト教会のページにある。教会規則はWebには今のところ見あたらない。
「日本基督教会」は、1995.10.11-13の第45回大会において「日本キリスト教会」と標記を変更した。
日本基督教会の「信仰の告白」は、1953.10.14-16第3回大会において制定された。1985.10.9-11の第35回大会において、使徒信条の一部が改訳された。・・・というのはどこをどう変えたのだろうか?
「日本基督教会憲法」は、「信仰の告白」とともに、1953.10.14-16第3回大会において制定された。1986.10.8-10の第36回大会において前文ならびに第1条が一部改正された。1990第40回大会から改正案の逐条審議が開始され、1994.10.12-14第44回大会において逐条審議終了、可決された。さらに、1995.10.11-13第45回大会において標記変更に伴って改正された。
日本キリスト改革派教会の憲法は,信仰規準と教会規程から成る。信仰規準は、独自の前文を付したウェストミンスター信仰告白と同大・小教理問答書から成る。教会規程のほうは、第一部が政治規準、第二部が訓練規定、第三部が礼拝指針である。教会規程は全文が教会規程のページで読める。
カンバーランド長老教会 日本中会は、教会政治制度として、1.信仰告白、2.教会憲法、3.訓練規定、4.礼拝指針、5.会議規定を定めている。すべて、カンバーランド長老教会 日本中会のページで読める。
アメリカ合衆国長老教会(略称はPC(U.S.A.)となる。この括弧は重要)のThe Constitutionは、"The Book of Confessions"と"The Book of Order"とから成る。"The Book of Order"に、"The Form of Government"と"Directory for Worship"と"Rules of Discipline"と"the Formula of Agreement"が含まれている。すべて、Office of the General Assemblyの頁から全文読める。
アメリカ改革派教会(RCA)の"Book of Church Order"(BCO)は、"The Government"と"The Disciplinary and Judicial Procedures"と"The Bylaws and Special Rules of Order"と付録に"The Formularies"を含む。RCAのBCOのページ"The Book of Church Order"で全文読める。
カトリックは、日本カトリック司教協議会教会行政法制委員会訳『カトリック新教会法典 羅和対訳』(有斐閣、1992、1116頁、15750円)。初版は1962年だが、1992年発行のこれは1983年1月25日に発布されたもの。2001年12月から、オンデマンドで18900円。

6.6 日本基督教団論

日本基督教団「教職者懇談会」編、『合同教会としての日本基督教団――その教派的伝統と特質をめぐって』(新教コイノーニア6)、新教出版社、1989。
福田正俊「日本基督教団試論」、改革長老の伝統から加藤常昭、出村彰、高橋治、メソヂスト・ホーリネスから野村誠、大宮溥、山添順二、辻宣道、会衆派及びバプテストから岸本洋一、飯清、小栗善忠。
北森嘉蔵、『合同教会論』、キリスト新聞社、1993年。
近藤勝彦、『教団紛争とその克服――わたしの見方』、日本伝道出版株式会社、1998。
山口隆康、「日本基督教団の法制に関する研究」。
(1)『神学』64、2002。法域論の観点から、宗教団体法下の日本基督教団と、戦後から信仰告白制定まで、「教会規則」(準則)の制定と各個教会の形成。
(2)『紀要』6、2003。明治憲法と宗教団体法下での教憲なき時代、教憲の制定と教団の法制確立の時代、各個教会の教会規則の制定の時代へ。
(3)『神学』65、2003。教団史における教会規則の欠缺期間の問題、教会規則が教憲教規に基づく準則であることについて、教師の招聘、聖約、任期制について。
(4)。
(5)。
(6)。

6.7 その他

教会形成論として

「教会形成とは、新しい終末論的共同体の形成である。」大木英夫「戦後思想としての終末論」 in 『現代人のユダヤ人化』白水社、1976年、p.301。真珠貝が自らにとって異質な小石を核として真珠を形成するように、歴史にとって異質な永遠なる神が歴史に介入することによって、そこに新しい共同体が形成される。

加藤常昭、『礼拝・諸集会』(教会生活の手引き3)、日本基督教団出版局、1979、89頁。
「なぜ集まるのか」というテーゼから出発して、礼拝と諸集会について語る。
D.ブローシュ(久野牧訳)、『教会の改革的形成』(教会と宣教双書3)、新教出版社、1982、318頁。
近藤勝彦、『礼拝と教会形成の神学』、ヨルダン社、。『伝道する教会の形成――なぜ、何を、いかに伝道するか』、教文館、2004、264頁、2000円。
関川泰寛、『聖霊と教会――実践的教会形成論』、教文館、2001、270頁、2500円。
日本の教会成長のためには、教会の中に入り込んでいる"諸霊"を識別し、聖霊を「認識的」のみならず「実体的」に理解しなければならない。そのためには、古代教会からの伝統を重んじ、正典・信条(信仰)・職制の三つの軸の上に教会を形成することが重要である。特に、ニカイア信条に言い表された三位一体なる神への讃美頌栄的な信仰告白に立つことが大切である。随所に見られる教会の現状の指摘と著者の経験は興味深い。

メラー(加藤常昭訳)『慰めの共同体・教会』も見る。

松永希久夫、『新約聖書における教会形成』、教文館、2007。

いわゆる「教会成長」関連

リック・ウォレン(河野勇一訳編)、『健康な教会へのかぎ』、いのちのことば社、1998(1995)、343頁、2400円。
リック・ウォレン(河野勇一訳編)、『魅力的な礼拝へのかぎ』、いのちのことば社、2001(1995)、78頁、500円。

教会生活や教会理解についての信徒向けの啓蒙書

祈りについては、三要文のページの主の祈りのところを見る。

渡辺信夫、『教会論入門』(新教新書74)、新教出版社、1963初版、1997復刊、173頁、1000円。
1982第13版の後、1997年に名著復刊第2集「教会に生きる」の10冊の内の一つとして復刊。著者の言うように、教会論というより「教会病理学入門」。たるんだ教会意識をたたっきる鋭い指摘の連続! 『教会が教会であるために――教会論再考』(新教新書242)もある。
辻宣道、『教会生活の処方箋』、日本基督教団出版局、1981、232頁、1300円。
毒舌にぶっ飛ぶ。今でも賛否両論を受けながらも読まれている。『教会が強くなるために』(日本基督教団出版局、1998、206頁、1800円)もある。
久野牧、『教会生活の道案内』、一麦出版社、2009、193頁、2100円。

近藤勝彦『信徒のための神学入門』(教文館、1994)は講演集。日本伝道出版株式会社から、『礼拝と日々の生活』(1995)、『伝道する教会、 伝道する信徒』(1995)、『教会とその生活を学ぶ』(1999)がある。

7.結婚・葬儀・死

7.1 結婚と結婚式

最近の本

平林孝裕編著、関西学院大学共同研究「愛の研究」プロジェクト編、『愛を考える――キリスト教の視点から』、関西学院大学出版会、2007、237頁、2100円。
第4章が「パウロは性と結婚についてどう考えていたか」、また、第10章が「キリスト教式結婚式の変遷と愛による神聖化」。
浜口吉隆、『結婚の神学と倫理』(南山大学学術叢書)、南窓社、2010、313頁、3500円。
目次

7.2 死と葬儀について

死と葬儀については、日本基督教団信仰職制委員会編『死と葬儀』(日本基督教団出版局、1974)、山本尚忠『死と葬儀』(教会生活の手引き6、日本基督教団出版局、1979)、日本基督教団宣教研究所編『老い・病気・死――教会の現代的課題』(日本基督教団出版局、1993)(古くは『キリスト教式葬儀とその異教地盤』(教団出版部、1959、134頁)で鈴木正久 熊野義孝 竹森満佐一らが執筆していた)、日本ルーテル神学大学教職セミナー編『現代葬儀事情』(キリスト教視聴覚センター、1994)、宮谷宣史編『死の意味――キリスト教の視点から』(新教出版社、1994、302頁、2600円)、加藤常昭『教会生活の手引き』の第三部第二章など。

2005年に刊行されたものに、保科隆『葬儀』(全国連合長老会、2005)、疋田博『キリスト教葬儀』(いのちのことば社、2005、118頁、1050円)、井上彰三『心に残るキリスト教のお葬式とは――葬儀の神学序説』(新教出版社、2005)、山口隆康『キリスト者と葬儀』(玉川平安教会出版部、2005)。

信徒の友編集部編、『慰めと希望の葬儀――キリスト教葬儀の考え方と実際』、日本基督教団出版局、2010、112頁、1890円。

7.3 葬儀説教集

熊野義孝は、『キリスト教倫理辞典』(日本基督教団出版局、1967)の「死」の項で、植村正久「死と死者」(『植村正久全集 第6巻』、婦人之友社内植村全集刊行会、1932に収録されている『信仰の生活』の中の1編)を、「この主題に関してまれな含蓄に富む説教である」と言っている。

浅原進、『葬儀説教集 天国への凱旋(浅原進牧師牧会三十年記念)』、日本基督教団白金教会、1999。
白金教会での30年間の32の葬儀説教。葬儀説教で語るべきことがわかる。生まれて間もなく亡くなった赤ちゃんの葬儀説教など感動する。
E.トゥルナイゼン(宍戸達訳)、『御手に頼りて――葬儀説教』、日本基督教団出版局、1984(1978)、223頁、2300円。
22説教。トゥルナイゼン夫人の母の葬儀、交通事故死した高校生の葬儀、自殺した人の葬儀説教2本などを含む。巻末に、解説と説教分析として、ボーレン「慰めの職にある者への慰め」。ボーレンの序文もよい。
日本基督教団出版局編、『主はわが牧者――葬儀説教集』、日本基督教団出版局、1989。
9人による17説教。福島恒雄、最上光宏、宍戸達、小淵康而、府上征三、船津邦光、東島勇気、田井中純作、金田弘司。内容的にはいまいち。
山口隆康、『キリスト者と葬儀』、玉川平安教会出版部、2005、182頁、1500円。
発売・東京聖文舎。第2章で、実際に行われた葬儀式辞12編(著者は「葬儀説教」とは言わない)。その他、教会がなす葬儀とは何か、葬儀観、死と復活についてなど、総合的に様々なことが記されている。

葬儀説教とは何か、何を語るべきかについては、大宮溥「説教の諸問題(2) 葬儀説教」(『説教者のための聖書講解 釈義から説教へ 説教の課題と現実』、日本基督教団出版局、1987年、159-165頁)。その他、葬儀説教集編集委員会編『葬儀説教集 天国への旅人』(聖恵授産所出版部、1994、174頁、1700円)というのもある。これは、旧日基の伝統にある説教者に限定。松永希久夫による竹森満佐一牧師葬儀説教、加藤常昭の葬儀説教4本など。その他、松田眞二、田中剛二、榊原康夫、石丸新ら。だが、熟練した説教者の説教なので、余り参考にしにくい。

ルターに「死の準備についての説教」というのがある。『ルター著作集第一集第1巻』所収。