2015.11.23更新
印が主な更新個所です。)

■三要文とカテキズム

0.三要文とカテキズム

0.1 三要文

2015.11.23全面的に更新

使徒信条、十戒、主の祈りを三要文(さんようもん)と言う。

海老沢有道、「三要文」(『日本キリスト教歴史大事典』、教文館、1988)。
事典項目としてはこれのみ。その他のキリスト教辞典には三要文の項はない。『キリスト教大事典』(教文館、1963、1968改訂新版)にも『岩波キリスト教辞典』(2002)にもない。
加藤常昭、「改めて問う、三要文の位置と意味」(『季刊教会』No.50、2003春)。
三要文の日本における歴史と教会における三要文の意義について述べられていて、重要。礼拝の中での主の祈りの位置についても述べられている。「三要文によって、私たちの教会は、その公同性を確保する。それによって洗礼入会の手続きを整えることによって、教会員は、世界の教会の一員となる。」ネット上にテキストファイルあり。
秋山憲兄、『本のはなし――明治期のキリスト教書』、新教出版社、2006。
p.61で、ヘボン・奥野昌綱訳(1891、2年頃)の『三要文』のトラクトが紹介されており、主の祈りと使徒信条が読みやすく引用されている。

「三要文」という言葉が日本ではじめて見られる史料としては、以上三つの文献いずれも、1871〜2年頃のヘボン・奥野昌綱訳の『三要文』のトラクトを挙げている。これは、佐波亘編『植村正久と其の時代』第4巻(教文館、1938、復刻1966)のpp.59-62で取り上げられており、全文が活字で記されている。主の祈りの訳文は現代のものとかなり近いので、このヘボン・奥野訳が後の訳文に影響を与えてきたのではないかと考えられる。海老沢有道は、文献として『植村正久と其の時代』の他、村田百可「ヘボン訳三要文に就いて」(『基督教史研究』第2巻、1939)を挙げている。

三要文についての関心は、(1)礼拝の中でそれぞれがどう用いられてきたか、(2)カテキズム教育の中でそれぞれがどう位置づけられてきたか、そして、(3)教会の言葉・信仰の言葉・いのちの言葉としての意義(この面は加藤常昭の文章で特に語られている)。

使徒信条は「何を信じているか」、主の祈りは「何を祈るべきか」、そして十戒は「いかに生きるべきか」である。西堀俊和によるリュティ『十戒 教会のための講解説教』(新教出版社、2011)の書評、『本のひろば』2012.5、p.5。

0.2 カテキズムとは何か

2015.11.23全面的に更新

カテキズムは教理問答とか信仰問答と訳される。しかし、必ずしも問答形式とは限らない。たとえば、ルターの大教理問答書は問答形式ではない。

カテキズムは、信仰の初歩を教えるためのものであるのみならず、聖書の教理をどう要約し、どう順序立てて提示するかという、きわめて神学的な営みの成果である。「これだけ読んでおけば、キリスト者としての知識にほぼ欠けることはないと言えるもの、それがカテキズムです。」加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』教文館、1990、p.6。

「カテキズムというのは、一種の聖書の注解書、講解の書物のようなものだ・・・。カテキズムを学ぶことは、<聖書の心>を学ぶことになる。」加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』教文館、1990、p.5。

カテキズムは必ずしも分かりやすいとは言えない。それは、「圧縮した表現の文章」で書かれているからである。加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』教文館、1990、p.9。

総論的なもの

加藤常昭「信仰問答とは何か」、『雪ノ下カテキズム――鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答』(教文館、1990)の巻末付録。
新約聖書からそれ以降のカテキズムの歴史を概観し、いくつかのカテキズムの始め方の特徴を分析しつつ、カテキズムが問答形式である構造の意義を明らかにしている。付録2「参考文献」では、日本語で読める信仰問答(問答形式に限らず教理入門書)を19挙げて紹介している。カトリックのものも含まれている。

ルターの信仰教育とカテキズム

ルター「ドイツミサと礼拝の順序」1526年(青山四郎訳『ルター著作集第一集第6巻』、聖文舎、1963)のルターによる序言を見る。

ルターの大・小教理問答書の巻末などにある解説を見る。

金子晴勇『ルターとその時代』(教育の再発見双書)(玉川大学出版部、1985)の第7章「宗教教育の方法」で、大小教理問答書によるルターの信仰教育方法について論じられている。この本は、後に『教育改革者ルター』(教文館、2006)となったようだ。

改革教会におけるカテキズム

『宗教改革著作集14』(教文館、1994)の「解題」。
ルター「小教理問答」、カルヴァン「信仰の手引きと告白」、ウルシヌス「ハイデルベルク教理問答」の解題あり。
カルヴァン(渡辺信夫訳)『信仰の手引き』(新教新書1)の「解題」。
(吉田隆訳)『ハイデルベルク信仰問答』(新教新書252)の「解説」。
渡辺信夫、『カルヴァンの教会論』(改革社、1976)の「第17章 教育する共同体」の中の「2 信仰問答教育」。
アメリカ合衆国長老教会『みんなのカテキズム』(一麦出版社、2002)の序、ヘイスティングス「現代のプロテスタント教会におけるキリスト教信仰継承の可能性――教理問答書への再検討」。
カテキズムの目標は、1.洗礼信仰を理解し告白する手助け、2.教会での役割を果たすのに必要な理解、3.この世での職業にあたっての規範を与えるものである。そして、この『みんなのカテキズム』は、(1)子供に対する聖礼典教育と親による教育、(2)大人のための洗礼準備や信徒教育、役員教育で用いられることを意図している。
カール・バルト「キリスト教の教理――ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』)の「1 課題」と「2 ハイデルベルク信仰問答」。
春名純人『「ハイデルベルク信仰問答」講義』(聖恵・神学シリーズ36、聖恵授産所出版部、2003、662頁、4500円)の中の「カテキズムの三効用」(pp.635-660)。

その他、永井春子『青少年のためのキリスト教教理』の「あとがき」、。

T.J. Hastings によれば、教会の信仰育成教育には、三つの領域がある。1.福音の概括(信仰告白)を教える(使徒信条の学び)、2.礼拝の意義を学ぶ(主の祈りと聖礼典の学び)、3.主イエス・キリストご自身を手本にして現代社会におけるキリスト者として生きるための実践的ガイダンスを提供する(十戒の学び)。(2003.6.10日本伝道協議会での講演。そのうち文章になってどこかに出るかな)

形式と順序

カテキズムは基本的に三要文に聖礼典を合わせた内容であるが、カテキズムそれぞれで順序は様々であるので、興味深い。

ルターの大小教理問答書十  戒使徒信条主の祈り聖礼典
ジュネーブ教会信仰問答使徒信条十  戒主の祈り聖礼典
ハイデルベルク信仰問答使徒信条聖礼典十  戒主の祈り
ウェストミンスター大小教理問答使徒信条十  戒聖礼典主の祈り
雪ノ下カテキズム使徒信条主の祈り十  戒

0.3 カテキズムの意義の変遷

初代教会

古代の教会は、洗礼準備として教理の基礎条項を教えることを「カテケーシス」と呼んだ。教会は、一定の基準に従って教えるために、「カテキスモス」と呼ぶ教程を定めた。これが、「通常カテキズムと呼ばれ、信仰問答と訳されるものの原型である」。「ただし、古代におけるカテケーシスはキリスト者の実践に重点を置き、宗教改革におけるそれはもっぱら教理を教える」。渡辺信夫訳『信仰の手引き』第2版、1987、pp.133-134。

中 世

「最も古い記録では836年の教会会議で子供たちに主の祈り、使徒信条、および義務(十戒を意味している)を教えるべしという宣言がなされている。」金子晴勇『ルターとその時代』、1985、p.258。

「人々の間に宗教に対する熱心が高まった中世末期においては、それに応えるようにして多くのカテキズムが作られた」。吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、1997、p.123。

宗教改革期

改革者たちにとって、聖書は個々人によって勝手に解釈されるべきものではない。聖書は、教会によって、正しく伝えられその基本的理解が示されなければならない。こうして、教会における神の言葉の説教が重んじられ、それとともに、教会の信仰の告白として、また聖書の基本教理を理解するためのガイドブックとして、カテキズムが作られた。吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、1997、p.124。

宗教改革期に「教理の初歩を教える教材の必要が認識され、多くの改革者がカテキズムを書くようになり、20年代の後半には、その内容と構成がほぼ確定した。すなわち、十戒、使徒信条、主の祈り、この三つが最重要要素である。これにさらに聖礼典が加えられるのは、これが信仰告白と陪餐の準備教育だったからである」渡辺信夫『カルヴァンの「キリスト教綱要」について』、1991、p.13。

ルター

ルターによると、カテキズムの必要性は自国語での礼拝の必要と同じであって、どちらも、信徒の福音理解のためであり、また、異教徒、子供、召使いらを洗礼へと導く教育と伝道のためであったようだ。そして、この教育のためには、キリスト教の初期から続いている十戒、使徒信条、主の祈りがもっとも簡潔でよく備えられているものであり、ここにキリスト者が知るべき事柄がほとんどが含まれている。ルター「ドイツミサと礼拝の順序」。

「宗教改革者ルターは、『小教理問答』を書いて、カテキズムの新しい歴史を切り開いた。」加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』教文館、1990、p.3。

「宗教改革は信仰の改革、教会の改革であった。・・・『キリストの聖餐について』には、第三部に自らの「信仰告白」を付した。これは・・・『マールブルク条項』にも反映され、・・・『アウグスブルク信仰告白』に結実する。・・・これに対して、民衆の信仰告白に当たるのが「教理問答」である。ルターは・・・毎年のように「十戒」、「主の祈り」、「使徒信条」の解説の説教を繰り返し、また、これらを毎年のように出版した。ひとえに民衆の信仰の教育を願ってのことである。これは、1529年の民衆教育用の『小教理問答書』と、いわば教師用の『大教理問答書』に結実した。」徳善義和「大学教授と教会形成」 in 金子晴勇、江口再起編、『ルターを学ぶ人のために』、世界思想社、2008、pp.49-50。

カルヴァン

カルヴァンは、ローマ・カトリックのサクラメントとしての堅信礼に反対して、信仰問答教育(カテケーシス)を強く訴えたようだ。そして、我々の信仰のほとんど全容を含み、教会の全体が異論なく一致できる一つの信条の定式がふさわしいとした。カルヴァン『綱要』、W,19,13。

改革教会

「信仰問答は、本来、信仰告白以前の若年者を導くための教材であるが、プロテスタント教会では教理規準として、信条と同様に扱われている」ニーゼル、渡辺信夫訳『教会の改革と形成』の訳注4、p.140。

1.プロテスタントの伝統的カテキズムの和訳

改革教会系のカテキズムの和訳の歴史については、石丸新『改革派カテキズム日本語訳研究』(新教出版社、1996、164頁、1500円)にまとめられている。

加藤常昭『雪ノ下カテキズム――鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答』(教文館、1990)の巻末に、参考文献として、日本語で読める19の信仰問答(問答形式に限らず教理入門書)が紹介されている。カトリックのものも含まれている。1980年代初めまでに日本で作られたカテキズムも含められている。

1.1 ルター「小教理問答書」(1529)

副 題

「一般の牧師、説教者のためのマルティン・ルター博士の手引き」 (『一致信条書』も、徳善訳『宗教改革著作集14』でも)。

誰が問い、誰が答えるのか

(1) 「農民の家長が、その家族や下僕をあつめて、本書を、一語一語暗記するまで、教えるようにと、意図したのであった。」(『ルター著作集第1集8』p.525の内海季秋の解説)

(2) 「四世紀以上にわたって、これは主として、信仰の知的な教育の場において、教師の問いと生徒の答えとして、本文の暗記を伴って用いられてきたであろう」。(『宗教改革著作集14』p.621の徳善義和の解題)

(3) 「『一般の牧師、説教者のための手引き』とある。問われて、答えるための手引きであり、問われた場合の、答えとして、ルターが一例を示して見せているのである」(つまり、子が問い、親が答えている。『宗教改革著作集14』所収の徳善訳は、この形式で、かなりくだけた言葉遣いで訳されている) (『宗教改革著作集14』p.622の徳善義和の解題)。

(4) 「こういう副題のために、問答の問いは子どものものであり、それに対して父が答える文章であるという理解が生まれたのであるかもしれない。しかし、実際には、父親(牧師)が問いを出し、それに対する答えをも口移しに教え、暗記させ、体得させるという仕方で教えた・・・」。 (加藤常昭「マルティン・ルター『小教理問答』・私訳と略解」、『季刊教会』21、1995.11、p.11)

構 成

内容は、まず序文。そして、第一部が十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼、告解、聖餐。第二部が「一家の主人が教えなければならない」朝夕の祈り、祝福(食前の祈り)、感謝(食後の祈り)。第三部が、さまざまな職務、身分の務めのための教えを聖書から抜粋したもの。ただし、第一部の告解の部分は、いくつかの変遷の後、1531年以降にこの位置に定着した。 (徳善の解説、『宗教改革著作集14』p.564)

(もすこし見直す)

今となってはやや古めの訳

岸千年訳、「小教理問答書」 (『信條集 前篇』、新教出版社、1955)
第一部のみ。
内海季秋訳、「手引き書 小教理問答書――一般の牧師、説教者のために」 (『ルター著作集』第1集第8巻、聖文舎、19711、19832)。
内海季秋(うつみ・すえあき)は1905-2002。内海季秋による講解に『神を信じる――ルターの小教理問答書を学ぶ』(聖文舎、1968、145頁)がある。

現在広く用いられている訳

内海季秋、宮坂亀雄訳、『小教理問答書』、日本福音ルーテル教会、19511、1980改訂新版、19944
第一部から第三部まで訳出されているが、第一部の告解の部分は入っていない。
初版は、内海季秋、宮坂亀雄訳で1951年。1980年に徳善義和の協力を得て改訂新版。1987年の改訂第二版には「改訂新版について」が付いているが、1994年の改訂第4版には、それがなく代わりに内海望の「あとがき」が付されている。発行所は、1990改訂第三版まで聖文舎、1994年の版から日本福音ルーテル教会。
信条集専門委員会訳、「小教理問答書」 (『ルーテル教会信条集《一致信条書》』、聖文舎、1982)。
訳稿の第一稿は内海季秋。

最近の試み

徳善義和訳、「小教理問答」 (『宗教改革著作集14』、教文館、1994)。
序文と第一部のみ。子が問い親が答えているのだという観点から、かなりくだけた言葉遣いで訳されている。「これなあに」と問い、「・・・なのだよ」とか「・・・と祈るのさ」と答えている。
なお、徳善義和他『現代を信仰に生きる――信徒のための『小教理問答』解説」(日本福音ル−テル九州教区、発売:聖文舎、1984)というのがあるらしい。
加藤常昭訳、「M.ルタ−『小教理問答』私訳と略解」 (『季刊 教会』21号(1995冬号)、1995.11)。
加藤常昭による小教理問答の講解として、『加藤常昭説教全集28 十戒・ルターの小教理問答書』(教文館、2006、550頁、4200円)がある。小教理問答の部分は、祈祷会で語られた16編で、以前のヨルダン社版にはなく初収録。

1.2 ルター「大教理問答書」(1529)

岸千年訳、「大教理問答書」 (『信條集 前篇』、新教出版社、1955)
序文と十戒、使徒信条の部分のみ。
福山四郎訳、「大教理問答書」 (『ルター著作集』第1集第8巻、聖文舎、19711、19832
信条集専門委員会訳、「大教理問答書」 (『ルーテル教会信条集《一致信条書》』、聖文舎、1982)。
訳稿の第一稿は福山四郎。

1.3 カルヴァン「信仰の手引き」(1537.2)

前年に出版された『キリスト教綱要』初版(1536.3)を要約した形になっている。『キリスト教綱要』初版の構成が、十戒、使徒信条、主の祈り、聖礼典の順であった。「信仰の手引き」の第8章が十戒の解説、第20章が使徒信条の解説、第24章が主の祈りの解説。

カルヴァン(渡辺信夫訳)、『信仰の手引き』(新教新書1)、新教出版社、19561,1986、152頁。
1986年に“徹底的に改訳”された改訂版が出ている(1000円)。ジュネーヴの教会のために書いた「信仰の手引き」と「信仰の告白」。
カルヴァン(森井真訳)、「信仰の手引きと告白」(『宗教改革著作集14』、教文館、1994)。

1.4 カルヴァン「ジュネーブ教会信仰問答」(1542年)

1.信仰について(問1〜130)、2.律法について(問131-232)、3.祈りについて(問233-295)、4.聖礼典について(問296-373)の四部構成。1,2,3のそれぞれで使徒信条、十戒、主の祈りが解説されている。いくつかの祈りが、付録に付いている。

カルヴァン(外山八郎訳)、『ジュネーヴ教会信仰問答』(新教新書69)、新教出版社、1963、154頁。
フランス語からの訳。
カール・バルト(久米博訳)、「教会の信仰告白――ジュネーヴ教会信仰問答による使徒信条講解」、1938(『カール・バルト著作集9』、新教出版社、1971)。
牧師たちに語ったジュネーヴ教会信仰問答第一部(問1〜110)の講解を速記録からまとめたもの。基本的に使徒信条の講解になっている。
渡辺信夫、『ジュネーヴ教会信仰問答――翻訳・解題・釈義・関連資料』、教文館、1998、356頁、3900円。
ラテン語からの翻訳。かつて1989年に新地書房から出たもの。渡辺信夫による「解題 カルヴァンの信仰問答、その成立と性格」、「ジュネーヴ教会信仰問答の釈義」、付録資料として「カルヴァンによる信仰問答第43聖日の解説」、「信仰の手引き」(ラテン語版序文1538年)、「ジュネーヴ教会信仰問答の要約版」2種類、「1552年版詩篇歌付録」、「シュトラスブルクで用いられていたフランス語信仰問答」がついている。

その他、久米あつみ訳(『カルヴァン』人類の知的遺産28、講談社、1980)は抄訳であるが、「この翻訳はなかなかよい」(加藤常昭『雪の下カテキズム』p.366)。

ジュネーヴ教会信仰問答の講解

カール・バルト(久米博訳)、「教会の信仰告白――ジュネーヴ教会信仰問答による使徒信条講解」、1938(『カール・バルト著作集9』、新教出版社、1971)。
牧師たちに語ったジュネーヴ教会信仰問答第一部(問1〜110)の講解を速記録からまとめたもの。基本的に使徒信条の講解になっている。
渡辺信夫、『ジュネーブ教会信仰問答――翻訳・解題・釈義・関連資料』、教文館、1998、356頁、3900円。
ラテン語からの翻訳。かつて1989年に新地書房から出たもの。渡辺信夫による「解題 カルヴァンの信仰問答、その成立と性格」、「ジュネーヴ教会信仰問答の釈義」、付録資料として「カルヴァンによる信仰問答第43聖日の解説」、「信仰の手引き」(ラテン語版序文1538年)、「ジュネーヴ教会信仰問答の要約版」2種類、「1552年版詩篇歌付録」、「シュトラスブルクで用いられていたフランス語信仰問答」がついている。

1.5 「ハイデルベルク信仰問答」(1563年)

底本として最良と言えるのは、ニーゼル編の信条集第3版(W. Niesel hrsg., "Die Bekenntnisschriften und Kirchenordnungen der nach Gottes Wort reformierten Kirche," 3 Aufl., München, 1938. (後にTheologischen Buchhandlung, Zürich, 1985))に収録されているもの。これは、「プファルツ教会規定」(登家勝也は「プァルツ教会規程」と表記)(1563.11.15)に組み込まれた「ハイデルベルク信仰問答」第4版で、「公認本文」と言われている。

ハイデルベルク信仰問答成立の経緯や歴史的背景、研究文献などについての詳細は、L.D.ビエルマ編(吉田隆訳)『『ハイデルベルク信仰問答』入門――資料・歴史・神学』教文館、2013、320頁、3200円+税。ウルジヌスの小教理問答、大教理問答も掲載(訳者はラテン語原文から翻訳)。執筆者は、編者の他、C.D.ガノーJr.、K.Y.マーグ、P.W.フィールズ。

加藤邦雄訳 (『信條集 前篇』、新教出版社、1955)。
シャフのドイツ語第3版が底本。
竹森満佐一訳、『ハイデルベルク信仰問答』(新教新書49)、新教出版社、1961。
長く用いられてきたが、「のであります」調はもう古いだろう。各問答のあとに聖句の引用が印刷されている。巻末の解説は役に立つ。底本は、ニーゼル編信条集の第2版。
竹森による訳には先に「信條叢書2」(新教出版社、1949)として出版されたものがあった。翻訳の底本は1934年の改革派同盟編のものという。
後藤憲正訳、『キリスト教信仰入門――ハイデルベルク信仰問答による』、一麦出版社、1993、128頁、1800円。
「ハイデルベルク教理問答」(pp.1-49)と「改革派教会の教理」(pp.51-113)。ハイデルベルクは、「Otto Weber, "Der Heidelberger Katechismus," 1978により、E. F. K. Müller, "Bekenntnisschriften der reformierten Kirche, 1903(repr.1987)所収のものを参照し、2冊の英訳も利用しました」とのこと。訳者の教会の礼拝で、詩編交読に代えて一年間、このハイデルベルク教理問答に切り替えた。全問答を52週に分ける配分表つき。横書きで、全ての漢字にルビを振り、短文の連続になっていることが特徴。礼拝で声を揃えて告白できるように、リズムと語彙に注意が払われている。しかし、証拠聖句箇所が文の中に挿入されているのは、読みにくい。
「改革派教会の教理」は、W. Meyer und K. Schenkel, "Reformierte Lehre, Druck und Verlag von Friedlich Reinhardt in Basel," 1939の翻訳で、ハイデルベルク信仰問答を数問ごとにまとめて解説したもの。信徒向けの教理教育の参考書という感じ。
磯部理一郎訳 (『わたくしたちの信条集』、ナザレ企画、1994)。
礼拝において唱和されたもの。だいたい1ページ1問になるように印刷されている。問いは司会者によってなされ、ですます調ではない。巻末に解説あり。引証聖句索引あり。
登家勝也訳 (『宗教改革著作集14』、教文館、1994)。
底本は、Niesel編信条集第3版。巻末の「解題」は、「プァルツ教会規定」についての解説も含めて、かなり気合いを入れて書かれている。文献の情報もしっかりしている。登家勝也は1976年に改革社から旧訳を出している。
春名純人訳、『ハイデルベルク信仰問答』(リフォームド新書1、改革派信条シリーズ1)、神戸改革派神学校(聖恵授産所出版部)、1996、189頁、1262円。
底本は、Niesel編信条集第3版。しかし、証拠聖句は、オランダ改革派教会(NGK)が公的に使用しているものによって増補されている。オットー・ウェーバー編やワルター・ヘンス編のハイデルベルク信仰問答からの注がときどき付されているのが興味深い。礼拝における交読のために訳したというが、読点が多いのはかえって意味がとりにくくなっている。改訂版が、聖恵神学シリーズ36(2004、183頁、1470円)として出たが、相違は、版が大きくなった(新書版→四六版)ことと、誤植の訂正のみ。訳者は信徒だが、講義録である『「ハイデルベルク信仰問答」講義』(聖恵授産所出版部、2003)も出している。
吉田隆訳、『ハイデルベルク信仰問答』(新教新書252)、新教出版社、1997、146頁、900円。
教会での学びのために最も読みやすく、使いやすく、値段も手頃。礼拝における朗読と文章構造の理解を助けるために、改行や字下げなどが適宜なされている。なんと、聖句索引付き! 巻末の解説も役に立つ。底本はNiesel編信条集第3版。脚注の証拠聖句は、底本のものをほとんど含み、さらに"The Heidelberg Catechism" (CRC Publications, Grand Rapids, 1988) の証拠聖句を採用している。付録に、ハイデルベルク信仰問答の初版の序文。
先に出版された吉田隆・山下正雄訳『ハイデルベルク信仰問答 付・ウルジヌス小教理問答』(新教出版社、1993)の訳文を全体的に見直したもの。この旧訳では Philip Schaff, ed., The Creeds of Christendom, 6th ed. (Harper & Row, 1931; Rep. Baker Book House, 1983) の第3巻所収のものを底本としていた。この本に収録されている山下正雄訳の「小教理問答」は他では見られないと思う。ハイデルベルク信仰問答作成のための準備作業として作成されたもの。タイトルは、D. ツァハリアス・ウルジヌス著「キリスト教信仰を明瞭簡潔に概説する小教理問答」1562年である。108の問答。巻末に矢内昭二の解説あり。
証拠聖句をすべて引用した(『新共同訳』)ものが、2005年に出た(A5版、255頁、1700円)。問答の翻訳は変わりなし。出版社から誤表記の正誤表(pdf)が出ている。聖書を開く手間が省けるわけであるが、しかし、証拠聖句は自分で自分の聖書を引いて確かめるべきだと思う。聖句の一部分だけを切り出すのではなく、前後の流れの中で御言葉の恵みを知ることが大切である。一度自分の聖書で確認していれば、その聖句を探すときに、「確か右のページの上の段の真ん中あたりにあった」などと記憶をたどることができる。また、前後の聖句に恵みを見出すことも常である。

ほかに、高崎毅志の訳(すぐ書房)もある。おそらく1990-1991に『神学と牧会』9、10号に収録されたもの。

加藤常昭は、『季刊教会』No.50(2003春)の「改めて問う、三要文の位置と意味」の中で、「竹森訳が今は絶版になっていることは残念である。こういう古典的な意味を持つようになったカテキズムの訳書は簡単に排棄〔原文のまま〕されたり、研究者たちが競うように新しい訳を刊行するものではない」と言う。しかし、そうは思わない。はっきり言って、竹森訳はもう古い。

ハイデルベルク信仰問答の講解

ハイデルベルク信仰問答の講解は、古くは、アンドレ・ペリー(吉川八郎訳)『ハイデルベルク信仰問答講解』(新教新書157、新教出版社、1971?)と竹森満佐一編『ハイデルベルク信仰問答講解説教』(新教出版社、1971)。90年代以降、ハイデルベルク信仰問答の新しい日本語訳が多く出されるようになったことに伴ってか、講解も増えた。

カ-ル・バルト、「キリスト教の教理――ハイデルベルク信仰問答による」、1948(井上良雄訳、『カール・バルト著作集9』、新教出版社、1971)。
井上良雄訳は1954年に出版され、1964年に改訳して新教新書になり、さらに多少改訂されて著作集に加えられた。「1.課題」で教理について、「2.ハイデルベルク信仰問答」でこの信仰問答と宗教改革の福音主義的認識について述べた後、問80までは解説付き、その後はライトザッツ(題詞、指導命題)のみ。
登家勝也、『ハイデルベルク教理問答講解』(全2巻)、教文館、1997、T:334頁、2800円、U:344頁、2900円。
春名純人、『「ハイデルベルク信仰問答」講義』(聖恵・神学シリーズ36)、聖恵授産所出版部、2003、662頁、4500円。
教会における信徒向けの講義をもとにしたハードカバーの分厚い本。一問ずつ講解されている。第二部は「論文」2本。一つは、成立の背景などをまとめた論文で、リフォームド新書(改革派信条シリーズ1)の巻末と同一。ただし、関連年表が新しく付加されている。もう一つは、「カテキズムの三効用」。訳者は信徒。
フレッド・クルースター(小峯明訳)、『力強い慰め――ハイデルベルク信仰問答講解』、新教出版社、2005(1990)、238+22頁、2300円。
Fred H. Klooster。ハイデルベルク信仰問答の区分に沿って9つの章からなる。各問答一つひとつの講解ではない。9ページからなる「ハイデルベルク信仰問答小史」付き。本文中に付記されている問答の関連図など16の付録が巻末にある。問答の訳は吉田隆訳を使用。
ところどころで、ハイデルベルク信仰問答が「改革派」の信仰を言い表していることを擁護するための議論をしている。たとえば、問答1に関して、B.B.ウォーフィールドの批判に反対する(pp.22-24)。問答28からの関連では、ハイデルベルク信仰問答全体が「改革派」の信仰であることと、選帝侯フリードリッヒ3世への非難をめぐる経緯について語っている(pp.65-73)。わざわざこういった議論に立ち入るところが「改革派」的だと思うのだが、しかし著者はこう言っている。「ハイデルベルク信仰問答がカルヴァン主義的であるかどうかに注意を向けるよりも、もっと重要な問いを考えるべきです。すなわち、それが聖書的であるかどうかという問いです。多分、ハイデルベルク信仰問答はカルヴァン主義的ですが、他のどのようなものよりも、プロテスタント宗教改革の中で真実に公同的な信仰問答です。もしそうなら、それは真実に聖書的であるからです。」(p.72)。
クルースターの著作の翻訳は、これ以外には『カルヴァンの予定論』(金田幸男訳、聖恵授産所出版部、1982)のみとのこと。
A. ラウハウス(菊地純子訳)、『信じるということ――ハイデルベルク信仰問答を手がかりに』(上、下)、教文館、上:2009、288頁、2520円。下:2011、252頁、2520円。
ドイツにおける1997年改訂のハイデルベルク信仰問答を使用。問64までが上巻、残りは下巻。

信徒向けに語られたものに次のものがある。加藤常昭『ハイデルベルク信仰問答講話』(上下全2巻、教文館、1992)はFEBCでやさしく語られたもの。棟居勇『ただ一つの慰め――「ハイデルベルク信仰問答」小説教』(キリスト新聞社、2002、90頁、952円)は薄い本。

1.6 「ウェストミンスター大教理問答」、「小教理問答」

日本基督改革派教会大会出版委員会訳、『ウエストミンスター信仰基準』(新教新書240)、新教出版社、1994。
これまで別々だったウエストミンスターの信仰告白、大教理問答、小教理問答を一冊に収録。
松谷好明訳、『改訂版 ウェストミンスター信仰規準』、一麦出版社、2004、345頁、2200円。
2002年初版の改訂版。信仰告白、大教理問答、小教理問答を収める。この訳では「基準」ではなく「規準」である。訳者はウェストミンスター神学者会議研究の第一人者。本文批評を踏まえ、より原文に即しかつ読みやすく分かりやすく訳された。証拠聖句も従来の誤りができる限り訂正された。ウェストミンスター信仰告白の和訳としては、これが現在のところ最良。ただし、活字が明朝体ではないため読みにくいのは残念。『ウェストンミンスター小教理問答――聖句付き』(一麦出版社、2008、142頁、1050円)は、証拠聖句を掲載し、交読向けの大活字版。
ポール・G. セトル(宇田進編訳)、『ウェストミンスター小教理Q&A107――キリスト教信仰の道筋』(21世紀ブックレット31)、いのちのことば社、2006、111頁、850円。
小教理問答と、一問答ごとの短い解説。

講解

春名寿章、『ウエストミンスター小教理問答講解』(上・下)(聖恵・神学シリーズ6,7)、聖恵授産所出版部、1977。

ヨハネス・G.ヴォス(玉木鎮編訳)、『ウェストミンスター大教理問答書講解』全3冊(聖恵・神学シリーズ26〜28)、聖恵授産所出版部、1987-1989。

鄭永澤(チョン・ヨンテク)(朴寿吉(パク・スキル)訳)、『信仰の豊かな水脈――「ウエストミンスター小教理問答」に学ぶ』、日本基督教団出版局、2007、266頁、2940円。

春名純人、『「ウェストミンスター小教理問答」講義』(上・下)(聖恵・神学シリーズ43-1,2)、聖恵授産所出版部、2009、上:399頁、1890円、下:。

村上浩一、『わたしのウェストミンスター大教理ノート』、いのちのことば社、2011、1008頁、2940円。

水垣渉・袴田康裕、『ウェストミンスター小教理問答講解』、一麦出版社、2012、200頁、2520円。数問ずつまとめて英文と共に示され、字句の説明と教理の主要点が語られる。袴田康裕による解説あり。

G.I.ウィリアムソン(遠藤潔、黒川雄三、古川和男訳)、『ウェストミンスター小教理問答に学ぶ――よくわかる教理と信仰生活』、いのちのことば社、2012、432頁、3150円。

2.近年のカテキズム

カテキズムという言葉としては問答形式に限らないが、ここでは、問答形式で信仰の中心部分あるいはほぼ全体像を学ぼうとしている近年の試みのうち、主要なものを挙げる。日本での出版の新しい順。

受洗準備教育向けに10回程度で信仰と信仰生活の基本線を学ぶようなものは、ほとんどない。受洗準備教育の内容や範囲は受洗志願者それぞれによってまちまちであるが、しかし、一応の基本というような本は色々あって良さそうなのに。明確にこの目的のために書かれたものは、増田志郎『キリスト教入門』(キリスト教入門パンフレット1、全国連合長老会出版委員会、1999、29頁、300円)ぐらい。。13の項目が各見開き2ページに収められている。最初の「神を求める心」や「まことの宗教と偽りの宗教」を省いて、代わりに最後に「神の国と伝道」とか「永遠の命と希望」などと言った項目が加わると最高だが。全国連合長老会日曜学校委員会編(関川泰寛解説)『子どもと共に学ぶ明解カテキズム』(キリスト新聞社、2005)の、「神を知る」の問1から「救い」の問24までの筋道が参考になる。

岩城聰、『聖公会の教会問答――信仰の手引き』、聖公会出版、2013、164頁、1800円+税。
日本キリスト改革派教会大会教育委員会、『子どもと親のカテキズム――神さまと共に歩む道』、教文館、2014、64頁、500円+税。
第1部 信じて歩む道、第2部 教会と共に歩む道、第3部 感謝しつつ歩む道。「問1 私たちにとって一番大切なことは何ですか。答 神さまの子どもとして、神さまと共に歩むことです。」
日本基督教団宣教研究所編、『信仰の手引き――日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』、日本基督教団出版局、2010、199頁、1575円。
日本基督教団信仰告白143問(問1〜98が前文、99〜143が使徒信条)、十戒30問、主の祈り29問。しばしば教団信仰告白の作成段階での意向まで振り返りつつ、あるいは、各種の神学的見解との関連を検討しつつ、プロテスタント教会の中での教団の信仰の位置と内容を明らかにする55の解説がある。
加藤常昭、『改訂新版 雪ノ下カテキズム――鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答』、教文館、2010。
1990年初版に、第6部「聖餐に生きる恵みへ」を追加。関連聖句が全文引用されている「聖句付き」は、付録の解説等も加筆訂正されていてA5版、352頁、3465円。それとは別に、聖句なし、解説や参考文献紹介もなしの四六判、247+7頁、1575円のものもある。
「祈りから生活へという筋道」を大切にするため、十戒の前に主の祈りが先に取り上げられているのが特徴。聖句索引あり。語句索引あるいは事項索引はないので、教団信仰告白の学びや使徒信条の学びの際に参考にするのにやや扱いづらい。巻末付録の「信仰問答とは何か――誰が答えるのか」と信仰問答の文献を詳しく紹介した「参考文献」は共に重要。この姉妹編で『鎌倉雪ノ下教会 教会生活の手引き』(教文館、1994、426頁、1800円)は、信仰生活を問答形式で学ぶ。
久野牧、『キリスト教信仰Q&A』、一麦出版社、2009、142頁、1890円。
160の問答。
ドナルド・K.マッキム(原田浩司訳)、『長老教会の問い、長老教会の答え――キリスト教信仰の探求』、一麦出版社、2006(2003)、187頁、2100円。『長老教会の問い、長老教会の答え2――キリスト教信仰のさらなる探求』、一麦出版社、2013(2003)、174頁、2100円。
1は、「長老教会はどこから来たのか?」から「教会規律とは、またなぜ教会規律は重要なのか?」までの92項目。その問いは、聖書、神、イエス・キリスト、人間、聖霊、救い、教会、礼拝、サクラメント、キリスト者の生、神の支配の順。
2は、「長老教会について」などから「キリスト者の生活」、「礼拝とサクラメント(聖礼典)」、「社会的・倫理的諸問題」そして「将来」までの91問答。
全国連合長老会日曜学校委員会編(関川泰寛解説)、『子どもと共に学ぶ明解カテキズム』、キリスト新聞社、2005、296頁、2400円。
全国連合長老会日曜学校委員会編(関川泰寛解説)、『続・子どもと共に学ぶ明解カテキズム――説教・聖礼典・十戒・主の祈り』、キリスト新聞社、2009、356頁、2730円。
「神を知る」から始まる43の問答とその解説、そして関連聖句引用。解説は全体として、教理の解説というよりも、私たちに与えられた信仰の言葉の豊かさを味わう文章である。解説者は、「カテキズムを味わえるような小さな説教黙想」(p.286)と言っている。「あとがきに代えて」でカテキズムの本質から用い方までが簡潔に述べられている。聖句索引あり。「子どもと共に学ぶ」とあるように、大人が読んでも有用だ。
問1は「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか。」答「神さまを知ることです」。ここから、問2では、なぜ神を知ることが最も大切なのか、問3では、どうしたら神を知ることができるかを問う。そして、問5まででイエス・キリスト→聖書→礼拝と続く点は、簡潔にして的を射ていて、見事な出だしである。しかし、その後、礼拝については問17〜18に飛ばねばならず、またそれによって信仰の表明(問19-20)と使徒信条(問15-16)が切り離されてしまっているのは残念なところである。問18は神を正しくあがめる仕方についての問答であって、ジュネーヴ教会信仰問答の問7を思わせるが、ジュネーヴ教会信仰問答ではこの問答が信仰問答の全体構造を規定していることを考えると、まだ工夫の余地があるのかもしれない。
問答23は律法についてだが、この問答自体は、律法を罪認識のためとしか理解していない(解説では感謝の生活を導くことも語られているが)。後半の問答25-43は使徒信条。
各問答に、理解の急所となるポイントが二〜三掲げられているのも、特徴的で興味深い。例えば、父なる神の全能についての問答26では、「『全能』とはスーパーマンのような方という意味ですか。わたしたちも、神さまのように『全能』になれますか。」とある。ただ、このような鋭さが全ての問答について一貫しているわけではないのは、惜しいところである。
問答形式のカテキズムは通常、教師が問い、生徒が答える。この『明解カテキズム』は、「いわゆる一方通行の『教育的』目的が全体を支配するのではなく、教会の信仰を伝達する者も、それを受け取る者も、共に神の救いの秘義と啓示の恵みに聴くという敬虔なる姿勢が貫かれることが大切」(「あとがきに代えて」p.283)という考え方をしている。
「キリスト教教理についていい加減なまま、無知なまま、子どもたち、青年たちが放置されている・・・教会が信仰の継承を必須条項として掲げながらも、肝心な継承すべき信仰の言葉、教理を失っているのである。・・・教会がその歴史の中で絶えず生き生かされてきた信仰に共に生かされること、その喜びを子どもたちと共に分かち合うことができたなら、それに勝る喜びはない。」(川島直道による「序」、p.4-5)
全国連合長老会日曜学校委員会編(関川泰寛解説)、『続・子どもと共に学ぶ明解カテキズム――説教・聖礼典・十戒・主の祈り』、キリスト新聞社、2009、356頁、2730円。
使徒信条の後にすぐに十戒、主の祈りと続くのではなく、説教と聖礼典についての理解を整えてから十戒、主の祈りに入る点が特徴的。「宗教改革のカテキズム以上に詳細に説教と洗礼、聖餐についての問答を掲載して、日曜学校生とが礼拝生活からやがて洗礼に導かれ、そこから聖餐にあずかる生活を送ることを想定して作成されて」いるとのこと。解説者の関川による「まえがき」で、「カテキズムの本質」や「伝道と教会形成の要としてのカテキズム」について記されている。
シャーリー・C. ガスリー(桑原昭訳)、『一冊でわかる教理』、一麦出版社、2003、5670円。
問答形式ではないが、神学の方法と課題から始まって、一般啓示と特殊啓示、三位一体論、神の属性論、予定論、創造論・・・と、キリスト教信仰の全体を一冊で網羅。
アメリカ合衆国長老教会編(トマス・ジョン・ヘイスティングス監訳、田中かおる・神代真砂実訳)、『みんなのカテキズム』、一麦出版社、2002、171頁、1800円。
アメリカ合衆国長老教会(PCUSA)1998年6月の年次総会で認定された、子供向けの「はじめてのカテキズム」(60問答)と大人向けの「学習用カテキズム」(使徒信条、主の祈り、十戒の三部、134問答)の合本。
「学習用カテキズム」では、使徒信条の「聖徒の交はり」からの流れの中で聖礼典が取り上げられているのが、構造として特徴的。また、「はじめてのカテキズム」は、「あなたは誰ですか」「わたしは神さまの子どもです」という自己認識から始まっている。創造と罪を取り上げ、そこから選びと契約を扱う。その中で十戒が取り上げられる。
このカテキズムは、「複雑な現代の諸問題に対して聖書は何を語っているのか」(「あとがき」、p.170)を確認している点に、大きな特徴がある。たとえば、「学習用カテキズム」では、神は男性か、創造者なる神と近代科学の関係の問題、他宗教との関わりについて、近代の聖書批評研究について、人種差別などの問題などが取り上げられている。
「はじめてのカテキズム」のみがイラスト付きで2002、65頁、500円。B6サイズでハンディだが字も小さすぎ。また、「わたしたちは神さまのもの はじめてのカテキズム カード方式・ぬりえタイプ・カラフルなオリジナルしおり&ケース付き」は2002、880円。「ゲーム感覚で教理が楽しく学べる」というワークブック。これは楽しそうだ。
K.シェンケル他(蓮見和男、蓮見幸恵訳)、『私たちの信仰告白――どこから・どこへ・何のために』(つのぶえ文庫24)、新教出版社、1983、120頁、945円。
スイス改革派教会が若い世代のために編んだものとのこと。第一部はハイデルベルク信仰問答を骨格としたもの。第二部は信仰と生活を考えるとのこと。
佐藤敏夫、『キリスト教信仰概説』、福音と現代社、1976。
後に改訂版がヨルダン社から。「神は不在か」という章から始まる弁証的で、その時代を反映している。
永井春子、『青少年のためのキリスト教教理』、日本基督教会教育委員会、1973、266頁。
問1「キリスト教とは何ですか。」、答「キリスト教とはキリストです。」という衝撃的な問答で始まる。教理として、聖書→神→人間→救い→イエス・キリスト→聖霊→三位一体→教会→終末→キリスト者の生活という順序で組み立てられている。最後の「キリスト者の生活」の中で十戒と主の祈りを扱う。小学校上級から中高生向けであるが、大人にとっても、教える牧師にとっても有用。問答に付けられている解説がとてもよい。この本は、「日本基督教会日曜学校定本」のシリーズの第一冊とのこと。永井春子は、ニーゼル、O.ウェーバー、バルトのもとで学んだ。
ボンヘッファー(森野善右衛門訳)、『現代信仰問答』(新教新書53)、新教出版社、1961、110頁、1050円。
1974第5版の後、1997年に名著復刊第2集「教会に生きる」の10冊の内の一つとして復刊、800円。その後は不明だが、2012年に久々の重版、1050円。1931年の「第一信仰問答」と1936年の「第二信仰問答」。ルター派の堅信礼志願者教育のために書かれたもの。また、現代的な問いに対する答えでもある。第一は、福音について、まことの神と信仰について、父なる神についてと神義論、御子について、聖霊について。第二は、十戒、使徒信条、主の祈り、サクラメントと告解について。主の祈りについては、訳者が『キリストに従う』の中からふさわしい部分を訳して組み入れている(森平太訳で『ボンヘッファー選集3』)。
日本基督教団信仰職制委員会編、『日本基督教団信仰問答』復刻版、日本キリスト教団出版局、2004、52頁、300円。
1946初版、その後、1949、1953、1959の大きな改訂を経てきた。しかし、全然用いられていない。2004年の復刻で脚光を浴びるのか? 54問答。引照聖書箇所と、中心聖句の引用付き。
これを解説したものに、近藤勝彦他『日本基督教団信仰問答解説』(教会教育文庫@、日本基督教団福音主義教会連合教育委員会、1982、38頁)がある。執筆は、近藤勝彦、鷲山林蔵、倉松功、山口隆康、市川恭二、西村一之、上田光正、平野保、加藤常昭、原登。市川恭二(いちかわ・やすじ)は1909.4.11-2008.5.3。

3.使徒信条の講解

3.1 古典的なもの

ルター

「使徒信条の要解」(『ルター著作集』第1集第2巻所収)、「大教理問答」の第二部と「小教理問答」第二部。

カルヴァン

『信仰の手引き』20章、ジュネーブ教会信仰問答の問15-130。

その他のカテキズムなど

ハイデルベルク信仰問答の問22あたり以降。講解書も見てみる。日本基督教団信仰告白の各解説書をも見てみる。

3.2 バルト

バルトの使徒信条講解は、全部で三つある。

カール・バルト、『われ信ず』 (1935)
古くは桑田秀延訳(基督教思想叢書刊行会1936、角川書店1949)。その後、安積鋭二訳(カール・バルト著作集8、新教出版社1983)。これは現在、安積鋭二訳『われ信ず』(新教セミナーブック11)、2003、180頁、2200円。オランダのユトレヒト大学で行われた使徒信条講解の講義。第1講「われは信ず」で教義学の主要問題を使徒信条と関連させて語る。16講の後、付録として「質問と答え」。『桑田秀延全集3 神学論文集T』に「カール・バルト『我れ信ず』の梗概」あり。
カール・バルト、『教会の信仰告白――ジュネーヴ教会信仰問答による使徒信条講解』 (1946)
古くは小平尚道訳(新教出版社1953)。その後、久米博訳(カール・バルト著作集9、新教出版社1971)。現在は、久米博訳『教会の信仰告白』(新教セミナーブック13)、2003、140頁、2000円。牧師たちに語ったジュネーヴ教会信仰問答第一部(問1〜110)の講解を速記録からまとめたもの。
カール・バルト、『教義学要綱』 (1947)
古くは井上良雄訳(新教出版社、1951)。後に『カール・バルト著作集』第10巻。現在、井上良雄訳『教義学要綱』(新教セミナーブック1)、1993、208頁、2100円。1946年にボン大学の夏学期に行われた講義。「信仰とは信頼を意味する」「信仰とは認識を意味する」「信仰とは告白を意味する」と使徒信条の講義。全24回。

他に、「キリスト教の教理――ハイデルベルク信仰問答による」(井上良雄訳、『カール・バルト著作集9』、新教出版社、1971)。

3.3 まとも(そう)なもの(翻訳)

神学的吟味に耐えうる使徒信条のまともな解説書は以下の通り。受洗準備教育や信徒の学びの準備のために使いやすいのは、クランフィールドとファン・リューラー。

ブルンナー(大木英夫訳)、『我は生ける神を信ず――使徒信条講解説教』(新教新書、58)、新教出版社、1962初版1963再版(1945)、206頁。
2012年重版1260円。第二次大戦中にフラウミンスター教会でなされた説教12編。
パネンベルク他(喜田川信訳)、『現代に生きる使徒信条』(新教新書151)、新教出版社、1970(1967)。
1967年に南ドイツ放送でなされた15講演集。ゲルハルト・ライン編。最初にレーヴェニヒが「使徒信条の発生と意味」を書いている。その後、カール・ラーナー、モルトマン、ボルンカム、コンツェルマン、エーベリンクなどによる講解。
エーベリンクの主の祈りの講解には、『現代キリスト教思想叢書11 ブルトマン、エーベリンク』(白水社、1980)に、エーベリンク(柏原啓一訳)「祈りについて――主の祈りに関する説教」がある(訳者による解説あり)。ちなみに、ブルトマンの方は、ブルトマン(西谷裕作、中山善樹訳)「マールブルク説教集」(解説は中山善樹)。
エーベリンクの邦訳には、エーベリング(飯峯明(いい・みねはる)訳)『キリスト教信仰の本質』(現代神学双書49)、新教出版社、1963がある。Gerhard Ebeling, 1912.7.6-2001.9.30。エーベリンクを簡潔に紹介した記事に、雨貝行麿「G.エーベリンクの神学」(『基督教学』No.15、日本基督教学会北海道支部/北海道基督学会、1980)がある。
マクグラス(柳田洋夫訳)『歴史のイエスと信仰のキリスト――近・現代ドイツにおけるキリスト論の形成』(キリスト新聞社、2011)の第8章は「歴史への回帰 エーベリンクからパネンベルクまで」。
ウィリアム・バークレー(斎藤正彦訳)、『使徒信条新解』、日本基督教団出版局、1970(1967)、500頁。
かなりしっかり書かれた大著。訳者のあとがきによれば、「使徒信条の各条項がふくんでいる教義上、歴史上の極めて困難な問題をけっして回避することなく、最新の聖書学の諸成果を用い、教父の文書やギリシア、ラテンの古典から現代の著作にまで及ぶ広い引照を駆使して、この信条のふくむ真理を現代人に論証する」。
C.E.B.クランフィールド(関川泰寛 訳)、『使徒信条講解』(新教新書244)、新教出版社、1995(1993)、133頁、1000円。
ICCのロマ書のすぐれた注解書で有名な、英国の新約聖書学者による。洗礼準備教育のために執筆されたものだが、牧師の説明なしで読むにはちょっと難しいかも。訳注は親切。使徒信条のラテン語も載っている。「使徒信条の起源と重要性」のあと、12の章に分けて解説。
J.M.ロッホマン(古屋安雄、小林真知子訳)、『講解・使徒信条――キリスト教教理概説』、ヨルダン社、1996(1982)、363頁、3400円。

ロッホマン (Jan Milíč Lochman, 1922-2004.1.21) の邦訳全リスト

ロッホマンの著作の邦訳は現在4冊。主要著作である三要文の講解はすべて邦訳されている。説教集は、翻訳者の西谷幸介の発案で編纂されたもので巻末に自伝的文章「プロテスタント神学者としての私の道程」を収録している。

(日本での出版順)

畠山保男訳、『自由への道しるべ――十戒による現代キリスト教倫理』(現代キリスト教倫理双書)、新教出版社、1985(1979)。
古屋安雄、小林真知子訳、『講解・使徒信条――キリスト教教理概説』、ヨルダン社、1996(1982)、363頁、3400円。
西谷幸介訳、『駆けよってくださる神――バーゼル説教集』、新教出版社、2000。
南吉衛、南含訳、『われらの父よ――主の祈り講解』、キリスト新聞社、2001(1988)。
A.ファン・リューラー(近藤勝彦、相賀昇訳)、『キリスト者は何を信じているか――昨日・今日・明日の使徒信条』、教文館、2000(ドイツ語1972)、322頁、2500円。
オランダ改革派のファン・リューラーが、朝のラジオ放送で語った連続説教をもとにした使徒信条の講解。ドイツ語版からの翻訳。原著はオランダ語だが、ドイツ語訳には原著からさらに拡大された部分があり、分量が二割近く増えているとのこと。項目が「われ」「信ず」「を」「神」「父」「全能者」「創造者」「天の」「地の」「そして」「を」・・・と続くのが特徴的。訳者の近藤勝彦は、数多くある使徒信条の講解の中で、「本書を第一にあげたい」と言っている(317頁の相賀昇「翻訳の経緯と感謝の辞」)。

ファン・リューラー (Arnold A. van Ruler, 1908.12.10-1970.12.15) の邦訳全リスト

ファン・リューラーの邦訳は今のところ次の三つのみ。

(日本での出版順)

近藤勝彦、相賀昇訳、『キリスト者は何を信じているか――昨日・今日・明日の使徒信条』、教文館、2000(ドイツ語1972)、322頁、2500円。
長山道訳、『伝道と文化の神学』、教文館、2003、184頁、1890円。
矢澤励太訳、『キリスト教会と旧約聖書』、教文館、2007、185頁、1890円。

その他、たまたま目についた論文で、牧田吉和訳「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」(『季刊教会』、No.72-74、2008年秋号、冬号)。

「リューラー」の表記について、近藤勝彦は、ドイツ語訳者の序にオランダ語のRulerはドイツ語ではRülerと発音されるとあるのに従ったとのこと(『キリスト者は何を信じているか』、p.316)。しかし、「ルーラー」とすべきという意見もある。その他の情報については「ファン・ルーラー研究会」を参照。ちなみに、オランダのジャズ・ギタリストに Jesse van Ruller という人がいる。日本では「ジェシ・ヴァン・ルーラー」の表記で紹介されている。

ピーター・L. バーガー(森本あんり、篠原和子訳)、『現代人はキリスト教を信じられるか――懐疑と信仰のはざまで』、教文館、2009、328頁、2625円。
懐疑的な気質とそれなりの知識を持った現代人がいかにしてキリスト教信仰を肯定できるのか。使徒信条に沿った議論の後、祈り、奇跡、道徳について。

3.4 まとも(そう)なもの(日本人によるもの)

近年の各種のカテキズムや日本基督教団信仰告白の解説書をも見てみる。

竹森満佐一、『正しい信仰――使徒信条によって』(東神大パンフレット、9)、東京神学大学出版委員会、1974、104頁。
『信徒の友』に連載されたものをもとにした平易な解説。現在入手可能なもので一番安く、一番薄い。
山下萬里(やましたばんり)、『われ信ず――現代に生きる使徒信条』、ヨベル、2001、287頁。
教会での家庭集会で語られたものに基づく講解。18講。さして重要ではなさそう。
岩永隆至、『信仰告白としての使徒信条』(聖恵・神学シリーズ41)、聖恵授産所出版部、2005、150頁、1590円。
正統的な理解を個性的に解いている。
隅谷三喜男、『私のキリスト教入門――使徒信条による』、日本基督教団出版局、2007、144頁、1470円。
かつて1983年に日本YMCA同盟出版部から出されたものに、平野克己のあとがきを付した。
近藤勝彦、『使徒信条の小さな解説』、日本伝道出版、2007、96頁、840円。
洗礼と聖餐の解説付き。もとは福音主義教会連合の『教会学校教案』誌の連載(2005.5〜8)。

加藤常昭のものは、『使徒信条・十戒・主の祈り(上、下)』(加藤常昭信仰講話6、7)(教文館、2000、上:306頁、2100円、下:320頁、2100円)が合本で1冊にまとめられて、『信仰への道――使徒信条・十戒・主の祈り』(教文館、2013、584頁、3200円+税)。他に、説教全集の第27巻が「使徒信条」(教文館、2006、608頁、4725円)。

2004年に、石田学『日本における宣教的共同体の形成――使徒信条の文脈的注解』(新教出版社、2004、216頁、1900円)が出た。「文脈的注解」には「コンテクスチュアル・コメンタリー」と振り仮名が振ってある。使徒信条に言い表された教理の注解ではなく、使徒信条の文言に沿って、現代社会、とりわけ日本の状況とキリスト教との関わりを語る。たとえば、キリストが神を父と呼ぶように教えられたことを棚上げして、「男性である天皇が神として君臨した近代日本が、強力な軍事国家であったことを反省するなら、日本の教会は特に、神を排他的に「父」とだけ呼ぶことの問題性を理解し、表明する責任があるであろう」と極めて安易に結論づける。

4.十 戒

4.1 宗教改革期のものと信仰問答の中の十戒

ルター

『善行論』が重要。他に、「十戒の要解」(『ルター著作集』第1集第2巻所収)、「大教理問答書」第一部、「小教理問答書」第一部。

カルヴァン

『信仰の手引き』の8章、『ジュネーヴ教会信仰問答』問131-232、『キリスト教綱要』U-8。

その他の信仰問答

『ハイデルベルク信仰問答』問95あたりから問115。『ウェストミンスター大教理問答』の問91-152、『ウェストミンスター小教理問答』の問39-81あたりまで。

その他、現代の信仰問答など。『子どもと共に学ぶ 続・明解カテキズム』(キリスト新聞社、2009)の問21〜33(pp.157-259)。日本基督教団宣教研究所編『信仰の手引き』(教団出版局、2010)の中の十戒は、全30問26頁。

4.2 旧約神学的(釈義的、研究史的、成立史的)なもの

2015.11.23全面的に更新

現代の十戒論に基づくもの

「欧米では、十戒についての議論は1980年代に大きく動きました。」大住雄一、『神のみ前に立って――十戒の心』、教文館、2015、p.226。そこで大住が「その時代の研究で、わたしたちにも読めるもの」として挙げているのは、F.クリュゼマン『自由の擁護』、W.H.シュミット『十戒』、J.シュライナー『十戒とイスラエルの民』の3冊。

J.シュライナー(酒井一郎、酒井宗代訳)、『十戒とイスラエルの民』、日本基督教団出版局、1992、251頁、2500円。
フランク・クリュゼマン(大住雄一訳)、『自由の擁護――社会史の視点から見た十戒の問題』、新教出版社、1998(1993)、158頁、1700円。
「誰に向かって語られたのか」に着目する社会史的釈義によって、十戒は倫理の要約ではないと主張し、これまでの十戒理解をくつがえす。
W.H.シュミット(大住雄一訳)、『十戒――旧訳倫理の枠組の中で』、教文館、2005(1993)、220+32頁、2800円。
十戒研究の歴史を概説することを通して、十戒の意味を読み解く。巻末に詳細な文献表あり。

古いが今でも有用なもの

シュタム、アンドリュウ(左近淑、大野恵正訳)、『十戒』(新教新書155)、新教出版社、1970(1967)、236頁、1200円。
J.J.シュタムのものにM.E.アンドリュウが補筆した英語版からの翻訳。釈義的解説。第一部が「総論」として伝承と原形、年代などの緒論。第二部が釈義。

その他

『旧約新約聖書大事典』の「十戒」の項は、J.J.Stamm+大野恵正。

フォン・ラート(荒井章三訳)『旧約聖書神学T』のpp.260-274。

ツィンマリ(樋口進訳)『旧約聖書神学要綱』のpp.172-174、209-217。

注解書では、B.S.チャイルズ(近藤十郎訳)『出エジプト記――批判的神学的注解』(上、下)、日本基督教団出版局、1993,1994(1974)。T.E.フレットハイム(小友聡訳)『出エジプト記』(現代聖書注解)、日本基督教団出版局、1995(1991)など。

4.3 キリスト教倫理の観点から

古いものでは、浅野順一「旧約聖書の倫理――十戒を中心に」(『現代キリスト教講座』第4巻、修道社、1956年)。

W.バークレー(牧野留美子訳)、『十戒――現代倫理入門』、新教セミナーブック、新教出版社、1980(1973)、300頁、2400円。
新教セミナーブックのシリーズに入る前は、現代キリスト教倫理双書。もともと『ブリティッシュ・ウィークリー』に連載された記事を膨らましたもの。したがって一般向けなため、緒論的な記事はなく、各戒めの解説のみ。第1戒については5ページしかないのに、第7戒には現代の問題を取り上げるために100ページ以上を費やしている。訳者はあとがきで「十戒の再解釈にもとづいた、いわゆる<状況倫理>」だと言うが、フレッチャーの状況倫理とは異なるはず。
J.M.ロッホマン(畠山保男訳)、『自由への道しるべ――十戒による現代キリスト教倫理』(現代キリスト教倫理双書)、新教出版社、1985(1979)、245頁、1700円。
S.ハワーワス、W.H.ウィリモン(東方敬信、伊藤悟訳)、『神の真理――キリスト教的生における十戒』、新教出版社、2001、207頁、2400円。
帯によると、「十戒は倫理の徳目ではない。それは神の国の対抗文化(カウンターカルチャー)的生き方を表現しているのだ。」
「今日の世界のただ中でキリスト者として生きるということは、あえてレジデント・エーリアンズ(在住の他国人)となる課題を引き受けることを意味する。キリスト者とは、社会の住人でありつつも、本当の国籍を天に持つ神の国の市民である。教会は社会におもねり、この世の文化的ニーズを正当化することに仕える友好団体ではない。むしろ神の国の対抗文化的な生き方を通して、世を救う神の継続的な業に参与する神の民である。それ故教会は、自らを世の民ではなく神の民として養育し訓練する聖書固有のナラティブにたえず立ち戻らなければならない。」(芳賀力の書評、『本のひろば』2002.2、p.22)
笠井恵二、『十戒の倫理と現代の世界』、新教出版社、2002、307頁、3000円。
宗教やキリスト教に関心のない人に向けて、十戒を通して、倫理の問題は宗教の回復にあることを説く。十戒をひとつひとつていねいに解説するが、注もちゃんとついている。巻末に日本語参考文献表(発行年順)あり。
大木英夫、『信仰と倫理――十戒の現代的意味』、教文館、2004、172頁、1995円。
「日本の構造改革は、表面的な改装ではだめだ、深くその精神的基礎から耐震構造への改造が必要である」(あとがき、p.171)。十戒は、イスラエル民族だけのものではなく、現代の日本こそ、十戒に学び、神と人間との関係を深く洞察しなければならない。援助交際、拉致問題、宅間死刑囚、酒鬼薔薇、スーパーフリーまで出てくるぞ。「本書は「人格と人権の神学的倫理学」と言ってもよいような性格をもっている。マルティン・ブーバーの思想を継承しながら、「人格」から「人権」へと展開することによって、ブーバーの論理の欠けを補い克服しようとした」(あとがき、p.171)。
ジョイ・デイヴィッドマン(村井洋子訳)、『山上の煙――十戒をめぐる一解釈』、新教出版社、2008、200頁、1995円。
著者はCSルイスの妻。

4.4 信徒向けの学びに役立つ比較的簡便な解説

まず第一に参考にしたいのは、分量が簡潔でなおかつ堅実な内容である、近藤勝彦『十戒、その今日的意味を学ぶ』。これと上のハワーワス、ウィリモンが、まず見るべき参考書としていいかも。

関田寛雄、『十戒・主の祈り』(新装版)、日本基督教団出版局、19721、190頁、1100円。
信徒向けの簡便な解説。もとはアルパ新書38(1972)。今でも版を重ねている。
近藤勝彦、『十戒、その今日的意味を学ぶ』、日本伝道出版、1997。
福音主義教会連合の『教会学校教案』に連載されたもの。2005年度の『教会学校教案』9-11月号に、たぶんほとんどそのまま再掲されている。2007年にケイプリンティングから新装版が出た(105頁、840円)。
加藤常昭、『加藤常昭説教全集28 十戒・ルターの小教理問答書』、教文館、2006、550頁、4200円。
祈祷会で語られた22編。以前はヨルダン社から出ていた。分量的には「簡便」ではない。
村上伸、『十戒に学ぶ』(グループスタディ12章)、日本基督教団出版局、2009、110頁、1050円。
「はじめに――「十戒」とは何か」と「主は我々と契約を結ばれた」の後、十戒をひとつずつ取り上げる。十戒を現代のコンテキストの中で新しく理解するという意識で書かれたもの。
W.リュティ(野崎卓道(のざき・たかみち)訳)、『十戒 教会のための講解説教』、新教出版社、2011、308頁、2100円。
大住雄一、『神のみ前に立って――十戒の心』、教文館、2015、229頁、2500円+税。
FEBCで語られたものを元にした全27回。大住雄一のものは以前、鳥居坂教会文庫10で『十戒』(日本基督教団鳥居坂教会、1999)があったが、今回のものが現時点での大住の十戒講話の決定版か。

南里卓志「十戒」(『手をあわせ 心をあわせて』、リトン、2004、174頁、1800円)は、日本福音ルーテル教会内の牧師が信仰入門のためにそれぞれの時代に書きあらわしてきた三つの文章の合本。「十戒」の他は、内海望「確かな足どりで――キリスト教信仰とは」と内海季秋「『主の祈り』講解――一般信徒求道者のために」。

4.5 その他

『ボンヘッファー選集9 聖書研究』(新教出版社、1965)に第1〜3戒のみの講解あり。これは、ドイツの新しいボンヘッファー全集"Dietrich Bonhoeffer Werke"を底本として改訳されて、生原優訳「十誡の第一の板」として『ボンヘッファー聖書研究 旧約編』(新教出版社、2005)に収録された。この中で戦時中の日本の教会に触れ、日本の教会は天皇礼拝を認めてしまっていることを、「この種の国家の行為への参加の要求は、明らかにほかの神々を拝することに係わっているか。そうである場合には、拒絶するのがキリスト者の明白な義務である」と語る。『ボンヘッファー聖書研究 旧約編』には、『ボンヘッファー選集』にはなかったもので「十戒」、「第一戒」も収められている。

左近淑、『神の民の信仰 旧約篇』、教文館、1996、185頁、1800円の第二講に「十戒――神の民の特質」がある(pp.38-80)。「神の民」を十戒による契約共同体としてとらえる。

W.ニーゼル(渡辺信夫訳)『神の栄光の神学』(新教出版社、1981)の第二部が、「神に栄光を帰すること」と題して十戒に沿って語っている。

5.主の祈り

5.1 名 称

[ラテン語]Oratio Dominica ; [英語]Lord's Prayer ; [ドイツ語]Vaterunser ; [フランス語]Oraison dominicale

[キリシタン時代]パアテルノウステル、[明治初期]天にましますの経、[その後]大主経、大主誦、主祷文など(『日本キリスト教歴史大事典』教文館)

[現代]
正教会: 「天主経」(てんしゅけい)
カトリック: かつては「主祷文」、近年は「主の祈り」
聖公会:かつては「」、近年は「主の祈り」

5.2 日本語訳

本文は、マタイ6:9-13とルカ11:2-4。

明治初頭の和訳は、秋山憲兄、『本のはなし――明治期のキリスト教書』、新教出版社、2006のp.61(ヘボン・奥野訳、1871-2頃)、73(ゴルドン訳、1876)にある。

主要な日本語訳は以下の通り。聖公会以外のプロテスタントにとって、1880年訳に変わり得そうな口語訳はまだない。

1880年訳(旧仮名遣い)
明治元訳新約聖書(1880年)に基づく。日本基督教団での正式な仮名遣いは、『日本基督教団文語式文』、『日本基督教団口語式文』を見る。教派によって微妙に異なる。
1880年訳(現代仮名遣い)
上のを現代仮名遣いに直したもの。いちばんよく活字にされ知られているのはこれだろう。『讃美歌』564、『讃美歌21』93-5A、『新しい式文』32頁にある。教派によって微妙に異なる。
統一訳
1971.11.29 日本キリスト教協議会信仰職制委員会訳。『讃美歌21』93-5B、『新しい式文』31頁にある。神への呼びかけが「天の父よ」となっていて「わたしたちの」が入ってない。
教会音楽祭委員会訳
『讃美歌21』93-5C、『新しい式文』30頁にある。司式者が「天の父」と言ってから一同が「わたしたちの父よ・・・」と声を揃えて祈る。
日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳
「主の祈り」
ローマ・カトリックでは2000.2.15から使用許可。

5.3 教 父

情報は、『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』(平凡社、1999)の中のキュプリアヌス「主の祈りについて」の吉田聖による解説、オリゲネス『祈りについて・殉教の勧め』(創文社、1985)の小高毅の解説。

テルトゥリアヌス、『祈りについて』("De oratione," 198-200頃)
最初の「主の祈り」の註解。
オリゲネス、『祈りについて』("De oratione," 235頃)
テルトゥリアヌスの『祈りについて』の影響のもとに書かれた。祈りとは何か、祈りの態度などを述べている。その第2部で主の祈りを講解している。邦訳は、オリゲネス(小高毅訳)『祈りについて・殉教の勧め』(キリスト教古典叢書12、創文社、1985)。
キプリアヌス、『主の祈りについて』("De dominica oratione," 251-252頃)
『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』(平凡社、1999)に邦訳あり。表記は「キュプリアヌス」。

5.4 宗教改革者、信仰問答

ルター

「主の祈りの要解」(『ルター著作集』第1集第2巻所収)、「小教理問答」第三部、「大教理問答」第三部。

カルヴァン

カルヴァン『信仰の手引き』の24章、『ジュネーヴ教会信仰問答』問233-295、『キリスト教綱要』V-20-34〜49。

その他の信仰問答

『ハイデルベルク信仰問答』問116-129。『ウェストミンスター大教理問答』の問178-196、『ウェストミンスター小教理問答』の問98-107。

5.5 聖書学的、釈義的解説

「わが国のキリスト者は、第二次大戦前にも戦後にも、・・・P.T.フォーサイスの『祈祷の精神』の大きな影響を受けて来た。しかし彼は聖書学者ではなく、本格的な新約聖書学者による祈りの研究としては、A.シュラッター著、紅松保雄訳『我等の父――主の祈りの講解――』(十字架の神学社、一九四一年)が出されていたのだが、その影響は前者に比べればわずかなものと思われる。」クルマン『新約聖書における祈り』の「訳者あとがき」、p.328。

エレミアス(川村輝典訳)、『新約聖書の中心的使信』(新教新書120)、新教出版社、1966(1959-1965)、219頁。
この中に「主の祈り」という小論あり。
平野保、『イエスと神の国――史的イエスの探求』、日本基督教団出版局、1971、276頁。
マルコの主要部分の注解14講に、付論として「主の祈り」の講解(pp.217-238)と「イエスと革命」の二本を追加。「宣教の中心であるイエス・キリストの十字架について探求する」。「彼は神の国のために生き、死んだ」。
O.クルマン(川村輝典訳)、『新約聖書における祈り』(聖書の研究シリーズ54)、教文館、1999(19941, 19972)、346頁、3000円。
第二部第1章の六が主の祈りについて。
マルク・フィロネンコ(加藤隆訳)、『主の祈り――イエスの祈りから弟子たちの祈りへ』、新教出版社、2003、184頁、2200円。

5.6 教理的、信仰養育的解説

カール・バルト(小平尚道訳)、『祈祷――宗教改革者による主の祈の講解』、日本基督教団出版部、1955(1949)、108頁。
バルトがスイスのヌーシャテル(Neuchatel)で1947〜1949におこなった3回の講演録。ルター、カルヴァン、そしてハイデルベルク信仰問答に沿って主の祈りを講解。新書サイズ。
ちなみに、ついに書かれることのなかった『教会教義学W/4』の中で「『主の祈り』に手引きされてキリスト教的生の様々な実際的姿の提示がなされるはずであった。」(『和解論W キリスト教的生<断片>』のはしがきp.4)。『キリスト教的生』(天野有訳、新教出版社)の中にあるのか?
ティーリケ(Helmut Thielicke)(大崎節郎訳)、『主の祈り――世界をつつむ祈り』(新教新書65)、新教出版社、1962初版、1996復刊(原著19609)、233頁、1200円。
1987第11版の後、1996年に名著復刊第1集「祈りと証し」の10冊の内の一つとして復刊。第二次大戦末期からドイツ敗戦直後にかけて語られた11の説教。
鈴木正久、『主よ、御国を――主の祈りと説教』、日本基督教団出版局、1969、238頁、1553円。
『信徒の友』に連載された主の祈りの解説12講と、説教6本(「招き」ルカ14:15-24、「イエスのこと」使徒8:26-39、「新しく生まれる」ヨハネ3:1-10、「福音」1コリ15:1-11、「愛」マルコ14:1-10、「受苦日」マルコ15)。これが著者の遺稿となったらしい。今でも売っているようだ。
ケルヴェン(Alfred de Quervain)(畑祐喜訳)、『祈りの世界』(新教新書153)、新教出版社、1970(1948)、244頁。
第一部が「祈りの本質」、第二部が主の祈りの解説。
関田寛雄、『十戒・主の祈り』(新装版)、日本基督教団出版局、19721、190頁、1100円。
信徒向けの簡便な解説。もとはアルパ新書38(1972)。今でも版を重ねている。
竹森満佐一、『主の祈り』(東神大パンフレット10)、東京神学大学出版委員会、1975、114頁。
K.リーゼンフーバー、『われらの主よ――「主の祈り」を生きるために』、教文館、1996、157頁、1500円。
上智大学教授による、黙想的解説。キュプリアヌスからアウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァンを頻繁に引用している。『福音宣教』誌に連載されたものがもとになっている。イグナチオ教会でのキリスト教入門講座でこの書の考えが展開されているという。
ヤン・ミリチ・ロッホマン(南吉衛、南含訳)、『われらの父よ――主の祈り講解』、キリスト新聞社、2001(1988)、348頁、2800円。
内海季秋「『主の祈り』講解――一般信徒求道者のために」(『手をあわせ 心をあわせて』、リトン、2004、174頁、1800円)。
日本福音ルーテル教会内の牧師が信仰入門のためにそれぞれの時代に書きあらわしてきた三つの文章の合本。「主の祈り」の他は、内海望「確かな足どりで――キリスト教信仰とは」と南里卓志「十戒」。
平野克己、『主の祈り イエスと歩む旅』、日本基督教団出版局、2005、102頁、1300円。
『信徒の友』連載記事を書き改めたもの。12講。信徒向けにとても平易に書かれている。装幀も好感触(四六変形)。
近藤勝彦、『主の祈りの手引き』、日本伝道出版、2007、62頁、630円。
もとは福音主義教会連合の『教会学校教案』誌の連載(2006.1〜3)。
W.リュティ(野崎卓道(のざき・たかみち)訳)、『主の祈り 講解説教』、新教出版社、2013、233頁、2000円+税。
「父」、「御名」、「御国」、「御心」・・・と主の祈りの中身を一つずつ取り上げてゆきながら、「我らの試み」の後、「我らの惨めさ」ときて、そして、「主の御国」、「主の御力」、「主の御栄え」というふうに、後世の付加と言われている頌栄の言葉を一つずつ語る。最後は「アーメン」の、全12の講解説教。巻末に「自伝的エッセイ「避け所」(1983年)」がある。

ほかに、大木英夫『主の祈り』(聖学院ゼネラル・サービス、1990、185頁、1900円)。塚本虎二『主の祈りの研究』(聖書知識社、140頁、777円)は、1929初版の古典。重要ではないが私が持っているものに、江口武憲『祈り入門――祈り、主の祈り、旧約の祈り』(聖文舎、1985増補改訂版、178頁)。

『礼拝と音楽』No.99(1998秋、日本基督教団出版局)が主の祈りの特集。今橋朗「主の祈りをめぐって」、土屋吉正「キリスト教の礼拝における主の祈り」、中野実「そのとき、主イエスはなにを祈ったのか――イエスにとって主の祈りとは?」、原惠、佐藤邦宏、熊澤義宣「座談会 私たちに祈ることを教えてください――日本語の主の祈りを考える」など。土屋吉正の「土」には点がつくらしい。「吉」も下が長い字らしい。

5.7 祈りについて

三要文のページよりはほかの分類に入れた方がいいかもしれないが、とりあえずここで。

祈り集は、礼拝における祈りを集めたもの、個人的な祈り、古今の有名な祈り集、祈りの日課とに分類できる。

祈りの手引き書

信徒向けの祈りの手引き書を一つあげるとすれば、三浦綾子『天の梯子』(集英社文庫、1991)が最適。三浦綾子は1922.4.25-1999.10.12。

もう一冊、木下宣世『「神さま」と呼ぶ祈り』(日本基督教団出版局、2009、94頁、1575円。森本二太郎の写真付き、オールカラー。最初に「祈りのすすめ」として7〜16ページで祈りについて解説。その後、具体的な祈り。プレゼントに好適。

祈りについての解説書

ある程度の分量があって堅実に説かれている定評あるものは次の三冊。

P.T.フォーサイス(大宮溥訳)、『祈りのこころ』、一麦出版社、2008、178頁、1890円。
莵原八郎(国立国会図書館のデータは「ウバラ」、同志社大學の『贖罪論 : キリストの業績』のデータは「ウハラ」)訳『祈祷の精神』(一粒社、1933)、斎藤剛毅訳『祈りの精神』(ヨルダン社、1969初版、1986改訂)の新訳。祈りについて堅実に説く。
O.ハレスビー(鍋谷堯爾訳)、『祈りの世界』、日本基督教団出版局、1998、216頁、1400円。
東方信吉、岸千年共訳『祈り』(聖文舎、1959)を原著のノルウェー語から翻訳し直したもの。
加藤常昭、『祈りへの道』、教文館、1987、280頁、1890円。
FEBCの番組で語られたもの。2013新装重版。
H.E.フォスディック(斎藤剛毅訳)、『祈りの意味』(改訂版)、新教出版社、2013、354頁、2800円+税。
以前は、『祈りの意義』、ヨルダン社、1990。祈りは生まれながらのものである、祈りは神との親しい交わりである、神の最善に委ねる祈り、祈る時の障害と困難、祈りが答えられない時、戦いの場としての祈り、私心のない祈りなど。

その他、長崎巍(たかし)『祈り――その神学と実際』(新教出版社、1989、314頁)というのもあるが、見たことないので中身は不明。

異なる視点から祈りについて学べるものとして、加藤常昭『黙想と祈りの手引き』(キリスト新聞社、2006、269頁、2400円)は、青年向けに語られた講演を元に書き改めたもの。

礼拝における祈り集

カール・バルト(川名勇訳)、『祈り』(新教新書162)、新教出版社、1963(1963)、160頁、1000円。
加藤常昭、『祈祷集 教会に生きる祈り』、教文館、1986、187頁。
「礼拝の祈り」22編と「ひとりの祈り」21編。
加藤常昭、『み前にそそぐ祈り』、キリスト新聞社、2009、297頁、2520円。
12ヶ月に分けた77編の祈り。河野行秀による「あとがきにかえて」に若干の解説がなされている。

歴史的な祈祷を集めたものに、マンシュレック編(平井清訳)『改革者の祈り』(新教新書、1959初版、1996復刊)。礼拝のための祈りのみに限られないが、ルター、カルヴァン、メランヒトン、ノックスらの祈りが集められている。

カトリック: 日本カトリック典礼委員会編『教会の祈り――新しい聖務日課』(カトリック中央協議会、5460円)。日本カトリック司教協議会常任司教委員会編『日々の祈り 改訂版』(カトリック中央協議会、2005、159頁、840円)。 

その他、聖公会の祈祷書、ルーテル教会の式文など。

個人の祈り

個人の日々の祈りや折々の祈り集はたくさんある。簡潔で長年にわたって親しまれているものを一つ挙げるとすれば、

ジョン・ベイリー(新見宏訳)、『朝の祈り 夜の祈り』、日本基督教団出版局、1958、152頁、798円。
John Baillie, "A Diary of Private Prayer". イギリス版とアメリカ版とがあるが、翻訳の底本はアメリカ版1955年。邦訳は第6版(1960年)で改訂された。今私の手元にあるのは1994年の第56版。聖書からの引用や聖書外の古典からの引用も多いが、聖書箇所や出典は全く記されていない。
礼拝のためではなく、また、個人の祈りに取って代わるものでもなく、「個人の私生活における祈りの助け」である。しかし、「とかく主観に流れがちなわたしたちの祈りを正しい格調あるものにする、いわば祈りの「文法」ともいうべき現代の古典である」(訳者あとがき、p.143)。個人的な祈りだけでなく、公へ関心を向けた祈りも含まれている。ウィリアム・ストーラーによれば、1647年の『家庭礼拝指針』において実際的に表現されたスコットランドの家庭における霊性の「最も雄弁な現代的表現」であるらしい。

古今の有名な祈り集

古今の祈りを集めた本もいろいろある。たとえば、雨宮栄一編訳『祈りを豊かに』(日本基督教団出版局、1976、286頁)は、朝、夕べ、感謝、讃美、求め、懺悔、待望、危急、慰め、病床、死についてに分類して紹介。ジョージ・アプルトン(小塩トシ子訳)『祈りのポシェット』(日本基督教団出版局、1997(1989)、176頁)は小さな本。ヴェロニカ・ズンデル編(中村妙子訳)『祈りの花束――聖書から現代までのキリスト者の祈り』(新教出版社、1987、125頁)は、写真などが多くごちゃごちゃしたカラー大判の本。G.マッキャヴェッリ、D.ビアンコ監修(佐藤三夫訳)『古典の祈り』(中央出版社、1979、152頁)は、カラーの挿し絵がところどころに入った小型の本。見開きごとにひとつの祈りで見やすい。

ほかに、小塩節、小塩トシ子、斎籐和明、田辺保編、『祈りよ 愛の言葉よ』(日本基督教団出版局、1996、96頁、2100円)。古今東西の詩人44人の文学性の高い祈りや素朴な祈りなどを集めたらしい。

祈りの日課

J・H・ジョエット(日野原善輔訳)、『日々の祈り』、日本基督教団出版局、2008、226頁、2520円。
ごく短い毎日の祈り366編。「愛蔵版」は2520円。
C.ブルームハルト(加藤常昭訳)、『ゆうべの祈り』、日本基督教団出版局、2010改訂初版、296頁、2310円。
Christoph Blumhardt, "Abendgebete : für Alle Tage des Jahres," 1920。ブルームハルトの息子の方。邦訳初版は1962、278頁でA6サイズだった。聖書箇所が一つずつ付されている。改訂版は四六判で、あとがきはなく代わりに新たに記された「訳者まえがき」がある。
初版の「あとがき」から: 「祈りには多くの誘惑があります。祈りの中でわたくしたちはまことに多くの過失をおかします。ブルームハルトの祈りは、祈りにおけるわたくしたちの心を正し、何が真実の祈りであるかを教えてくれます。」(「あとがき」、p.275)「カール・バルトは、ブルームハルトの祈りをわれらの模範とすることをすすめています。」(「あとがき」、p.277f)
改訂版「訳者まえがき」から: 「祈りにためらいを覚えたり、自分の祈りに物足りなさを覚えている方に、この祈りを声に出して読んでいただきたい」(「訳者まえがき」、p.5)。
ブルームハルトについて、井上良雄『神の国の証人・ブルームハルト父子――待ちつつ急ぎつつ 』(新教出版社、1982)、ロベール・ルジューン編(井上良雄訳)『子ブルームハルトの生涯と使信』(新教出版社、2001)、クリスティアン・メラー編(加藤常昭訳)『魂への配慮の歴史 第10巻「19世紀の牧会者たちU」』(日本基督教団出版局、2003)の3点が紹介されている(「訳者まえがき」、p.6)。
その他の主な文献として、トゥルナイゼン(永野羊之輔訳)、『ブルームハルト』(新教新書85、新教出版社、1965)、バルトのブルームハルト論はたとえば、『十九世紀のプロテスタント神学 下(第二部 歴史)』(カール・バルト著作集13)(新教出版社、2007)。

ほかには、加藤常昭、『祈り』(日本基督教団出版局、2002、426頁、3360円)。日々の祈り366編とイエスの受難から復活までの祈り28編。

日本基督教団出版局編、『われらの祈り』(日本基督教団出版局、19781、1979再版、481頁。編集委員として山本尚忠と出村彰が「あとがき」を記している。その他の執筆者は、赤城泰、一色義子、大宮溥、山内一郎、柏井忠夫、加藤常昭、新見宏、菅隆志、関田寛雄、高見澤潤子、滝沢陽一、種谷俊一、中森幾之進、藤井孝夫、吉田満穂、渡辺信夫で、全18名。366日のみことばと祈りの他に、「教会暦によって」として公現日、四旬節、受難週、受難日、復活日、聖霊降臨日・・・、教団創立記念日、平和主日、世界聖餐日、神学校日・・・。「教会生活のために」として、自分の教会のために、聖餐式の備えのために、牧師のために、教会役員のために、・・・。「家庭のために」として、夫婦のために、父母のために、子供のために、・・・。「人生のために」として、自分の信仰の前進のために、良き隣人となるために、誘惑の中で、絶望のときに、喜びと感謝のときに・・・。「社会のために」として、政治の局ににある人々のために、世界平和のために、正義と自由のために、職場の祈り、学校教育のためになど。